絶体絶命 最高幹部からの逃走劇
『――精巧な幻影魔法だが。この濃密な死の瘴気の中で、そこだけ「完全に清浄な空気」が漂っていれば、ひどく不自然だとは思わないかな?』
立っているだけで周囲の空間から生命力が失われ、パサパサと灰になって崩れ落ちていくような、濃密で圧倒的な『死』のプレッシャー。
眼下の大空洞では、何百という教団員たちが魔力炉の轟音の中で作業を続けている。彼らはまだ私たちの存在に気づいていない。いや、目の前のこの仮面の男が、周囲の音を遮断する『闇の結界』を即座に張り巡らせ、下っ端たちを意図的に遠ざけたのだ。
『下で蠢く有象無象の駒に報せるまでもない。ただの迷い込んだ子供の遠足かと思ったが……ほう?』
仮面の奥の、蛇のように冷酷な目が、すっと私を捉えて細められた。
『……なるほど。どこかで見覚えがあると思えば。舞踏会の夜、あの氷の貴公子が王族よりも優先して守り抜いた……平凡な平民の小娘ではないか』
「……あんたが、エラルドの顔から笑いを奪った一人ね」
男の言葉に、私の背中の傷跡が狂ったように熱を放ち始める。
間違いない。舞踏会の夜に『灰の種』を仕掛けたのも、エラルドを真夜中まで苦しめているのも、元凶は目の前にいるこの男だ。
『くくっ……エラルド・フォン・アルバーンの唯一の【弱点】が、自ら私への手土産として現れてくれるとはな。お前をここで灰の欠片に変えて送りつければ、あの分厚い仮面がどう歪むか……見物だ』
男が、三日月のように口角を吊り上げ、面倒くさそうに指先を軽く振るった。
ただそれだけで、男の足元から『漆黒の津波』のような濃密な瘴気が爆発的に膨れ上がり、私たちに向かって襲いかかってきた。
「アイリス、セドリック! 逃げろ!!」
アイクが血を吐くような悲鳴を上げ、咄嗟に何重もの幻影の防壁を展開した。
アイリスも悲鳴を上げて『氷絶の城壁』を隆起させる。だが、遅い。
圧倒的な、理不尽なまでの暴力の差。アイクの防壁は一秒も保たずに霧散し、アイリスの分厚い氷も、瘴気に触れた端から黒く変色し、ドロドロの泥水となって崩れ落ちていく。
セドリックが投げつけた中和剤の小瓶すら、津波に飲み込まれてシュゥゥッと蒸発してしまった。
(……あ、死ぬ)
本能が、完全に警鐘を鳴らしきって白く飛んだ。
逃げ場はない。漆黒の津波が、後ろで震える三人を飲み込もうと牙を剥く。
(――でも、ここで終わるわけにはいかない!!)
私がエラルドの「弱点」? 足を引っ張る「鎖」?
ふざけるな。私は、あいつの背中を守る最強の盾だ。
「マリー!?」
「さがって!!」
私は三人の前に立ち塞がり、迫り来る巨大な瘴気の津波の中心に向かって、右拳を限界まで引き絞った。
真っ赤に焼けた鉄の杭を背骨に打ち込まれたような激痛が走る。
「砕けろぉぉぉぉぉッ!!」
絶叫と共に、私は漆黒の津波に渾身のストレートを叩き込んだ。
ギギギギギギギィィィィッ!!!!
いつもなら「パァンッ」と小気味よく割れるはずの敵の魔法が、今度ばかりは違った。
まるで、分厚い鋼鉄の壁を素手で殴りつけているような、硬く、重い抵抗。瘴気が私の拳を削り、腕の皮膚がジリジリと焼け焦げていく。
骨が軋み、私の両足が石畳の床を削りながら、後方へとズルズルと押し込まれていく。
『……なに?』
仮面の男が、初めて明確な驚きを見せて目を見開いた。
ただの平民の娘が、自らの必殺の灰に触れても崩れ落ちず、あろうことかその呪詛の進行を物理的に食い止めているのだから。
『ただの無力な鎖ではなかったか。……私の灰を素手で散らすなど。まさか貴様、十年前のあの時の【イレギュラー】か!』
男の驚愕の声が響く。破れない。この男の魔法は、今の私の物理粉砕のキャパシティを遥かに超えている。
でも、私がここで拳を引けば、後ろにいる三人は一瞬で死ぬ。
歯を食いしばり、口の中に血の味が広がる。限界を超えた背中の呪いが、私の意識を白く刈り取ろうとする。
「いま、だッ……!! セドリック!! アイク!!」
私が血を吐くような声で叫んだ、その時だった。
「――うおおおおぉぉぉっ!!」
私の背後から、セドリックが半狂乱の叫び声を上げながら、震える手で『あの小箱』からガラス玉を取り出し、私と男の間に広がる瘴気の海に向かって力一杯投げつけた。
同時に、アイクとアイリスが、残されたすべての魔力をそのガラス玉に向けて一斉に放射する。
「食らいやがれ!! 『極夜の閃光玉』!!」
ピシャァァァァァァンッ!!!!
地下の暗闇が、網膜を完全に焼き切るほどの『絶対的な白』に塗り潰された。
同時に、セドリックの調合した爆薬がアイリスの冷気を半径十メートルの空間に超圧縮して撒き散らし、私を押し潰そうとしていた漆黒の津波ごと、周囲の空気を一瞬にして『絶対零度の氷塊』へと変えたのだ。
『なっ……!? 目眩ましかッ!!』
不意を突かれた仮面の男が、咄嗟に腕で顔を覆い、その動きが完全に硬直する。
セドリックの言っていた通りだ。敵の足止めができるのは、長くて十秒。
「走れぇぇぇッ!!」
私は焼け焦げた右腕を抱え込み、視力を奪われてフラつくアイリスの腕を引っ掴んだ。アイクがセドリックの背中を押し、私たちは完全に凍りついた坑道の十字路を蹴り上げ、来た道を猛烈な勢いで逆走し始めた。
背後から、パキパキと不気味な音を立てて、男が氷の束縛を力任せに破壊する音が聞こえてくる。
『……小賢しいネズミどもめ。このまま逃げおおせると思うな』
地獄の底から這い上がってくるような、男の静かな怒りの声。
心臓が破裂しそうだった。息をするたびに肺が凍りつき、背中の傷跡が熱を出してズキズキと痛む。
それでも私たちは、一度も振り返ることなく、ただひたすらに命を繋ぐためだけに、暗く冷たい廃坑の斜面を死に物狂いで駆け上がり続けたのだった。
***
凍てついた石畳を蹴り上げ、私たちは心臓が破裂しそうなほどの勢いで、暗い坑道の斜面を駆け上がっていた。
「はぁっ、はぁっ……!」
「マリー、右腕しっかり押さえて! 止まっちゃ駄目よ!」
視力を奪われたアイリスの手を私が引き、セドリックの背中をアイクが押す。
私の右腕は、先ほどの男の瘴気を殴り飛ばした代償で、服の袖ごと焼け焦げ、激しい痛みを訴えていた。背中の呪いの傷跡も、限界を知らせるようにズキズキと熱く脈打っている。もう一度あんな馬鹿げた魔法が飛んできたら、二度目は絶対に防ぎきれない。
ゴゴゴゴゴゴォォォッ……!!
背後から、地鳴りのような恐ろしい音が這い上がってきた。
先ほどの閃光玉の爆発で、仮面の男が張っていた『防音の結界』が完全に吹き飛んだのだ。大空洞にいた数百人の狂信者たちと、鎖を解かれた何十体もの灰の魔獣が、侵入者である私たちを八つ裂きにするために、血走った目で一斉に坑道を駆け上がってくる音だった。
(……ああ、駄目だ。追いつかれる)
絶望が、冷たい泥水のように足元から這い上がってくる。
圧倒的な、理不尽なまでの『数の暴力』と『死の津波』。
さらに最悪なことに、パキィィンッ! と後方で氷が砕ける鋭い音が響いた。仮面の男が、セドリックの閃光玉の拘束から完全に抜け出したのだ。
『……下等なネズミどもめ。楽に死ねると思うなよ』
地獄の底から響くような、静かでドス黒い怒りの声。
直後、私たちの背後の空間が異常に歪み、大気を腐らせるような高密度の『灰燼の槍』が形成される気配がした。魔獣の群れが追いつくよりも早く、あの男の魔法が私たちの背中を正確に貫こうとしている。
「う、後ろから来ます!!」
「くそっ、万事休すか……っ!」
アイクが絶望の声を上げる。
私がもう一度振り返って、残った左腕で無理やりにでも弾き飛ばすしかない。私がここで足を止めて盾になれば、数秒は稼げるはずだ。そう覚悟を決めて振り返ろうとした、その時だった。
「……マリーさん、駄目です! 前を見て!」
走りながら、セドリックが狂ったように叫んだ。
彼の分厚い眼鏡の奥の瞳は、恐怖ではなく、手元の古地図と坑道の『岩肌』の構造を猛スピードで分析する、学者じみた光を放っていた。
「この坑道の地盤……月長石と硝石のせいで、極端に脆くなっているんです! 昔、崩落事故が起きたのもここだ! アイク君!! 僕たちがさっき入ってきた『旧換気口』の縦穴、もうすぐそこですよね!?」
「えっ? ああ、右の壁の隙間だ! あと十メートル!」
「アイク君の幻影で、僕たちが『そのまま真っ直ぐ坑道を逃げている』ように見せかけてください! 全魔力を注いで、あの男の魔法の狙いを、幻影の奥の『岩盤の柱』に誘導するんです!!」
セドリックの意図を、アイクは一瞬で理解した。
魔法で打ち勝つんじゃない。この古い廃坑の『天井そのもの』を落として、追っ手との間に絶対的な物理障壁(瓦礫の山)を作る気だ!
「……っ、上等だ! 一生で一番の最高傑作を見せてやる!!」
アイクは走りながら、残されたすべての魔力を両手に収束させた。
背後から、死神の鎌のような『灰燼の槍』が、空気を切り裂いて迫ってくる。
「今だッ、右に飛べェェッ!!」
アイクの絶叫と共に、私たち四人は右側の岩壁にぽっかりと開いた、人一人がやっと通れるほどの狭い亀裂(旧換気口)へと、団子になって勢いよく飛び込んだ。
同時に、アイクが坑道のど真ん中に、私たち四人が「そのまま真っ直ぐ逃げ惑う精巧な幻影」を投影する。音も、熱源も、完璧に模倣した囮のデコイだ。
『……遅い』
視力を僅かに回復させた仮面の男が、アイクの作り出した幻影を私たちだと誤認し、容赦なく致死の魔法を射出した。
真っ黒な槍が、幻影の私たちを貫き――そのまま、坑道の天井を支えていた最も脆い『硝石の岩盤柱』へと直撃した。
ドッッッッガァァァァァァァァァンッ!!!!
狭い換気口に飛び込んでいた私たちの鼓膜が、破れそうなほどの爆音と衝撃波に襲われた。
男の圧倒的な魔法の威力と、硝石の粉塵爆発が連鎖反応を起こし、旧時代の脆い岩盤が完全に悲鳴を上げたのだ。
何万トンという途方もない質量の岩と土砂が、滝のように崩れ落ちていく。
『ッ!? 貴様ら……地形を……っ!』
仮面の男の驚愕の声と、群がってきていた魔獣たちの咆哮が、ガラガラと崩れ落ちる瓦礫の轟音の向こう側へと完全に掻き消されていく。
凄まじい土煙が換気口の中まで吹き込み、私たちは咽せながらも、真っ暗な縦穴を必死によじ登り続けた。
「止まるな! いつ地盤沈下がこっちまで来るか分からねえぞ!」
「マリー、手を貸して! 右腕は使わないで!」
アイリスが上から私を引き上げ、セドリックが下からアイクを押し上げる。
恐怖で足はガクガクに震え、肺は冷たい空気と土埃で張り裂けそうだった。それでも、誰一人手を離さず、ただ生きて日の光を見るためだけに、私たちは泥だらけになって這い上がった。
* * *
「……はぁっ、はあっ……!!」
「げほっ、ごほっ……っ」
どれくらい無我夢中で登っただろうか。
山肌の亀裂から、冷たい冬の雪の上に転がり出た私たちは、そのまま仰向けに倒れ込み、星のない真っ暗な冬空を見上げて荒い呼吸を繰り返していた。
下からはもう、何の音も聞こえない。
あの凄まじい崩落によって、坑道は完全に土砂で埋め尽くされ、教団の軍隊と私たちとの間には、数十メートルの分厚い岩の壁が立ち塞がったはずだ。少なくとも、すぐには追ってこれない。
「……生きてる。私たち、生きてるわ……」
アイリスが、泥だらけになったドレスの袖を握りしめながら、ポロポロと涙をこぼした。
アイクも大の字になって天を仰ぎ、セドリックは丸眼鏡を外して顔を覆い、しゃくり上げている。
私も、焼け焦げた右腕の痛みに顔をしかめながら、夜空に向かって深く、重い息を吐き出した。
(……これが、教団。これが、本物の悪意)
思い出すだけで、全身の毛穴が粟立つ。
あの何百という魔獣。巨大な魔力炉。そして、立っているだけで命を削られるような、あの仮面の男の圧倒的な力。
あんなものと、私の幼馴染は、誰にも真実を告げずにたった一人で戦っていたのだ。王都と、学園と、そして何よりも『私の安全な日常』を守るために。
「マリーさん……。アイク君の記録の水晶、無事です。……教団の全貌と、あの軍隊の証拠。持ち帰れました……」
セドリックが、震える手で懐から青く光る水晶を取り出して見せた。
「……うん。みんな、本当にありがとう」
私は体を起こし、泥だらけになった三人の顔を見渡した。
恐怖で泣きそうになりながらも、決して逃げ出さず、自分の役割を完璧に全うしてくれた最高の仲間たち。彼らがいなければ、私はあの地下の底で、怒りに任せて無駄死にしていただけだっただろう。
「……マリー。次はどうするの」
アイリスが、涙を拭って私を見る。
「エラルドを……生徒会を、助けに行く」
私は、痛む右手を強く握りしめ、王都の中心で大結界の光を放つ、ミリス魔法学園の方角をキッと睨み据えた。
私たちは無力な学生だ。でも、この『教団の心臓部のデータ』があれば、王宮の騎士団の主力部隊を動かすための、最高の手札になる。
もう、エラルドに「関係ない」なんて言わせない。
彼が一人で背負っている泥沼の底に、この光を叩きつけて、あの意地っ張りの幼馴染の首根っこを地上まで引っ張り上げてやるのだ。
吹き荒れる冬の吹雪の中で。
泥と傷だらけになった四人のあぶれ者たちは、互いに肩を貸し合いながら、確かな決意を胸に王都への帰路を急いだのだった。
王都への帰路。吹き荒れる冬の猛吹雪は、まるで無数のガラス片となって私たちの頬を容赦なく切り裂いていた。
廃坑を脱出した直後の、あの火が点いたような高揚感と生存本能は、安全な王都の結界内に入った途端、雪のように急速に溶け落ちていった。
同時に、極限状態によって麻痺していた『ツケ』が、私の身体に一気に牙を剥き始めたのだ。
「……っ、ぁ……」
「マリー? どうした、足元おぼついてねえぞ」
隣を歩いていたアイクが、私の異変に気づいて顔を覗き込む。
答えようと口を開いたが、声にならない。視界が、ぐにゃりと独楽こまのように回転し始めていた。
(……やばい。これ、ただの怪我じゃない……)
仮面の男の『瘴気』を直接殴り飛ばした右腕は、服の袖ごと焼け焦げ、皮膚がドクドクと不気味な熱を発している。しかし、それ以上に深刻だったのは、背中の『呪いの傷跡』だった。
あの男の放った致死の闇魔力。それを無理やり相殺した反動で、背中に刻まれた傷跡が、真っ赤に焼けた鉄板を直接押し当てられているかのように暴れ狂っていた。
全身の血液が沸騰するような高熱。呼吸をするたびに肺が焼け焦げそうで、足の感覚が完全に消失していく。
「あ、れ……? おかしいな、地面が、傾いて……」
「マリー!!」
私が雪の積もる石畳に向かって真っ逆さまに倒れ込もうとした瞬間、アイクが咄嗟に腕を伸ばし、私の身体をガシッと抱き留めた。
「おい、マリー! しっかりしろ! 嘘だろ、すっげえ熱だぞ!?」
「マリー!? 右腕も酷い火傷じゃない! セドリック、早くお薬を!」
アイリスが血相を変えて駆け寄り、私の焼け焦げた腕を震える手で支える。
セドリックが慌てて鞄から傷薬と解熱のポーションを取り出し、私の口に流し込もうとするが、私の歯の根がガチガチと合わなくて上手く飲めない。
「だ、駄目です! ただの怪我や疲労じゃない! この熱は……彼女の背中の傷から来る、呪いの魔力反発だ! 僕のポーションじゃ、根本的な治療にはなりません……っ!」
セドリックの悲痛な声が、吹雪の中に虚しく響く。
私はアイクの腕の中で、薄れゆく意識の底から「ごめん」と口を動かそうとしたが、熱い吐息が漏れるだけだった。
(情けない。せっかく証拠を手に入れたのに。……ここで倒れたら、またあいつに『お前には関係ない』って言われちゃうじゃないか)
強がって前を歩いていたのに、結局私は、普通の平民の女の子でしかなかったのだ。圧倒的な力の前に、私の特異体質はあまりにも脆く、代償が大きすぎる。
「……アイク、アイリス。このままじゃマリーさんが死んじゃいます! 寮や屋敷には帰れません、こんな泥だらけの姿じゃ憲兵に捕まるし、何よりマリーさんの治療ができない!」
「分かってる! 行くあてなんて、一つしかねえだろ!」
アイクは迷うことなく、私の膝の裏と背中に腕を回し、ヒョイッと背中におぶった。
「マリーの実家だ! トマスのおじさんなら、こいつの傷の治し方を知ってるはずだ! 行くぞ!!」
「ええ! 私が風除けの結界を張るわ、走って!」
アイクの広い背中に揺られながら、私は遠のく意識の中で、三人の必死の足音を聞いていた。
彼らだって、自分の屋敷や寮を抜け出してきた身だ。夜明けまでに戻らなければ大目玉を食らうどころの騒ぎではないのに。彼らは自分の保身など一切考えず、ただ私を生かすためだけに、なりふり構わず雪道を疾走してくれていた。
* * *
「お父さん! 開けて! マリーが!!」
公爵邸の敷地の片隅。
深夜のトマス薬局の裏口のドアを、アイクたちが文字通り蹴り破るようにして叩いた。
数秒後、寝巻き姿にランプを持った父さんが、血相を変えてドアを開けた。
「アイク君!? アイリスお嬢様も……一体こんな夜更けに何が……って、マリーッ!?」
ランプの光に照らされた私の惨状――焼け焦げた右腕と、高熱で意識を失いかけている姿を見て、父さんの顔からサァッと血の気が引いた。
「早く中へ! マーサ! 薬湯と氷だ! それから地下の金庫から『双葉草』の特効薬を持ってきてくれ!」
「あなた、マリーが……っ! はい、すぐに!」
父さんの怒号に近い指示で、アイクが私をリビングのソファにそっと寝かせる。
母さんが泣きそうな顔で私の額に氷水を当て、父さんが私の背中の服をハサミで切り裂いて、脈打つ呪いの傷跡に直接、ひんやりとした軟膏を塗り込んでいく。
「……っ、ぁ……!」
薬が浸透する激痛と冷たさに、私が小さく身悶えする。
その傍らで、泥だらけになったあぶれ者同盟の三人は、ただ祈るように両手を握り合わせ、私の治療を見守ることしかできなかった。
「……ごめんなさい、おじ様。私たちがついていながら、マリーにこんな無茶をさせてしまって……っ」
アイリスが、泥で汚れたドレスの裾を握りしめ、ポロポロと涙をこぼして頭を下げた。アイクとセドリックも、唇を噛み締めて深く俯いている。
「謝らないでくれ、お嬢様方。……マリーのこの無鉄砲は、今に始まったことじゃない。それに、この呪いの熱は……お前さんたちがどうにかできるもんじゃないんだ」
父さんは、私の口に苦い特効薬を流し込みながら、静かに、けれどひどく重い声でそう言った。
「……トマスさん。マリーさんのその背中の傷、やはりただの火傷じゃありませんね。旧廃坑で僕たちを襲った教団の幹部……彼が放った『瘴気』と、完全に同じ波長で共鳴していました」
セドリックの鋭い指摘に、父さんの手がピタリと止まる。
「……旧廃坑だと? お前さんたち、まさか、あんな所にまで……?」
「ええ。そこで教団の全貌と、動かかぬ証拠を手に入れました。……これを、エラルド様に渡すために」
アイクが、懐から青く光る『記録の水晶』を取り出し、テーブルの上にゴトッと置いた。
その光を見た父さんは、大きく目を見開き、やがて深く、深いため息を吐き出して、額に手を当てた。
「……本当に、この子は。……自分の命をなんだと思っているんだ」
呆れと、深い親の愛情。
私は、薬が効いて徐々に熱が引いていく泥のような微睡みの中で、父さんのその言葉をぼんやりと聞いていた。
(……ごめんね、お父さん。心配かけて)
でも、後悔はしていない。
私の右腕が焼けた代償で、アイクが残してくれたこの小さな水晶には、教団を壊滅させるための決定的な証拠が詰まっている。
これがあれば、王宮の騎士団が動く。エラルドがこれ以上、一人で泥水を啜って、死人のような顔で私を抱きしめる必要はなくなるのだ。
(待ってて、エラルド。私が、あんたを暗闇から引きずり出してやるから……)
私は、アイリスがそっと握ってくれた手の温かさを感じながら。
今度こそ、完全に安心しきった深い眠りの底へと、ゆっくりと沈んでいったのだった。




