アジトへの潜入
王都の北西。
王都の北西。荒れ狂う冬の吹雪を抜け、私たちが辿り着いたのは、険しい山肌にぽっかりと開いた漆黒の大穴――地図から完全に消し去られた『旧時代の地下廃坑』だった。
「……ここは数十年前、有毒なガスと魔力異常が原因で大規模な崩落事故が起き、完全封鎖された廃坑です。王国騎士団の巡回ルートからも外された、文字通りの『死の山』なんですよ」
吹き荒れる雪風の中で、セドリックが古地図を握りしめながら震える声で教えてくれた。
正規の入り口は、巨大な岩盤で完全に塞がれている。だからこそ王宮の大人たちは、ここを『誰も出入りできない危険な廃墟』だと思い込み、調査のメスすら入れてこなかったのだ。
しかし、セドリックの持ってきた古い地図だけが、山肌の裏側に隠された細い『旧換気口』の存在を示していた。私たちはその、人一人がやっと通れるほどの亀裂から、底知れない蟻地獄へと足を踏み入れたのである。
一歩、また一歩と崩れかけた石の階段を下るたび、地上の凍てつくような寒さとは全く異質の、ねっとりとした『死の冷気』が足元から這い上がってくる。
「……ストップ。前に門番がいる。絶対に音を立てるなよ」
アイクの極度に張り詰めた囁きに、私たちはピタリと足を止めた。
アイクの展開する『認識阻害の幻影』のヴェールに四人で身を寄せ合いながら、暗がりからそっと前方を除き込む。
思わず、肺の奥で息が凍りついた。
坑道の開けた関所のような場所に立っていたのは、人間の形をした『何か』だった。黒いローブを纏ってはいるが、その足元は周囲の岩肌や泥と不気味に癒着しており、顔のあるべき場所にはのっぺりとした灰色の仮面が張り付いている。
それは門番というより、教団の瘴気によって生きたまま『警報装置』へと作り変えられた、悍ましい肉の彫像だった。仮面の奥から、シュコー、シュコーと、腐った灰を吐き出すような不気味な呼吸音が響いている。
(……こんな化け物を、入り口の壁に埋め込んでるの? どうりで誰も近づけないわけだ)
全身の毛穴が粟立つようなおぞましさ。これに少しでも魔力の波長を悟られれば、奥にいる教団の本隊に即座に伝達されてしまうに違いない。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされる。アイリスが息を呑み、自身の杖を握る指先を白く鬱血させていた。
アイクが額から滝のような冷や汗を流し、幻影の出力を限界まで高める。
私たちは互いの手を強く握り合い、文字通り息の音すらも殺して、壁と一体化したその異形の門番の鼻先を、ジリジリとすり抜けていった。
仮面から漏れる饐えた息が、私の頬を微かに撫でる。悲鳴を上げそうになるのを、奥歯を噛み砕くほどの力で耐え抜いた。
数分が、永遠のように感じられた。
門番の死角を抜け、完全に気配をやり過ごした直後のことだった。
「……っ」
張り詰めていた糸が切れたように、アイリスが微かに短い息を吐き、石壁に手をついて崩れ落ちそうになった。
彼女の細い肩は小刻みに震え、杖を握る指先は白く鬱血している。無理もない。あんな悍ましい死の彫像を間近で目の当たりにして、温室育ちの令嬢が平気でいられるはずがないのだ。理性を保っているだけでも奇跡に近い。
(アイリス……)
心配した私が駆け寄ろうとしたより早く。
最後尾にいたアイクが、音もなくスッと彼女の隣に膝をついた。
「……悪い、アイリス。俺の幻影の出力がギリギリで、息苦しかったよな」
アイクはひどく優しい声でそう囁くと、震えるアイリスの華奢な手を、自分の大きな両手でそっと包み込んだ。
地下の凍てつくような冷気の中で、アイクの掌だけが、驚くほど温かい熱を持っているのがアイリスに伝わってきた。
「……ばか。幻影のせいじゃないわ。ただ……少し、足がすくんだだけよ。みっともないわね……」
「ははっ、奇遇だな。実は俺も、さっきから膝のガクガクが止まんねーんだわ」
アイクはニシシと悪戯っぽく笑い、彼女の手を握ったまま、自分の震える足をチラリと見てみせた。
彼だって、怖いのだ。額には冷や汗がびっしりと浮かんでいる。それでも彼は、決してその手を離そうとはしなかった。
「でもよ、俺がついてる。お前には指一本、灰の欠片一つ触れさせねえ。……だから、大丈夫だ」
暗がりの中で紡がれた、不器用で、ひどく真っ直ぐな言葉。
アイリスは大きく目を見開いた後、ギュッと唇を噛み締め……やがて、包み込まれたアイクの手を、弱々しく、けれど確かに握り返した。
「……ええ。足手まといになったら、承知しないわよ、侯爵様」
「おう、任せとけっての」
アイクがにかっと笑うと、アイリスの強ばっていた表情が、ふわりと柔らかく解けた。
(……もう。こんな恐ろしい死地の真ん中だって言うのに、あんたたちは本当に甘酸っぱいんだから)
私は、二人を包むその初々しくも温かい空気に、胸の奥の恐怖が少しだけ和らいでいくのを感じていた。
どんなに暗くて恐ろしい場所でも、この絶対に切れない絆がある限り、私たちは進んでいける。私はこっそりと目を細め、静かに立ち上がった二人に力強く頷いてみせた。
私たちは互いの存在を確かめ合うように息を合わせると、再び巨大な蟻の巣のような複雑な坑道を、さらに奥へと進んでいく。
道中、壁面にはセドリックが言っていた青白い『月長石』の鉱脈が不気味な光を放ち、その光に照らされた地面には、硝石のツンとした匂いと、泥のような瘴気がべったりと染み付いている。
門番の死角を抜け、完全に気配をやり過ごした後、私たちは巨大な蟻の巣のような複雑な坑道を、さらに奥へと進んでいく。
道中、壁面にはセドリックが言っていた青白い『月長石』の鉱脈が不気味な光を放ち、その光に照らされた地面には、硝石のツンとした匂いと、泥のような瘴気がべったりと染み付いている。
ポチャン……ポチャン……と、どこからか水滴の落ちる音が、静まり返った闇の中に響く。
ここはもう、私たちの知る平和なミリス王国ではない。教団という巨大な毒虫の、黒く蠢く胃袋の中なのだという絶対的な恐怖が、じっとりと肌にへばりついていた。
ポチャン……ポチャン……と、どこからか水滴の落ちる音が、静まり返った闇の中に不気味に響く。まるで、巨大な化け物の胃袋の中を歩かされているような錯覚に陥った。
「……マリーさん。この先の分岐、左です」
先頭を歩くセドリックが、手元の古地図と小さなコンパスを照らし合わせ、蚊の鳴くような声で囁いた。
彼の横顔は、月長石の光に照らされて死人のように青白い。震える手で必死に地図を握りしめているが、その震えは極度の恐怖によるものだ。
背後を歩くアイリスも、杖を握る指先が白く鬱血するほど力んでいる。最後尾で幻影を維持するアイクの額からは、冬の地下だというのに、滝のような冷や汗が流れ落ちていた。
無理もない。
すれ違う空気の端々から、ここに潜む者たちの『尋常ではない殺意と狂気』が肌を刺すように伝わってくるのだ。
一度でも足音を立てれば。一度でもアイクの幻影が綻べば。
その瞬間に、何百という悪意ある魔法が飛んできて、私たちは文字通り骨の髄まで灰にされて殺される。これが「本物の死地」なのだと、理屈ではなく本能が悲鳴を上げていた。
「……ストップ」
不意に、アイクが私の肩を強く掴んで足を止めさせた。
坑道の先の十字路。私たちの数メートル先を、松明の赤黒い光を持った二人の教団員と、犬のような形をした『灰の魔獣』が、見回りのために通り過ぎていく。
『……地上の様子はどうだ』
『計画は最終段階だ。春の雪解けと共に、あの忌々しい学園の結界を内側から食い破る。王都の豚どもをすべて灰の苗床にしてくれるわ』
ドロドロとした怨念の籠もった声が、闇に溶けていく。
魔獣が、ピタッと足を止め、私たちのいる空間(幻影のヴェール)に向かって鼻をヒクつかせた。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされる。アイリスが息を呑み、杖を構えかけた。私が咄嗟に彼女の手を握って制止する。
数秒間の、永遠にも感じられる硬直。
やがて、魔獣は興味を失ったようにグルルと喉を鳴らし、教団員と共に奥の通路へと消えていった。
「……っ、はぁぁ……っ」
「死ぬかと、思った……」
足音が完全に消えた後、私たちはその場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、荒い息を吐き出した。
だが、安堵している暇はない。彼らが歩いてきた方向――つまり、坑道の最深部へと向かう下り坂から、微かに赤い光と、地鳴りのような『低い稼働音』が聞こえてきていた。
「この先が……最深部の、大採掘場です」
セドリックの囁きに頷き、私たちは壁に張り付くようにして、その赤い光の漏れる巨大な空洞の入り口へと身を滑らせた。
岩陰から、そっと眼下の空間を見下ろす。
――そして、私たちは言葉を失った。
恐怖で、声すら出なかった。
「な、なんだよ……これ……」
アイクが、絶望に染まった顔で呻く。
そこに広がっていたのは、私たちの想像を遥かに超える、まさに『地獄の底』そのものだった。
すり鉢状に開けた、巨大な地下の大空洞。
その底には、王城の広場すら丸ごと収まりそうなほどの広大な軍事施設が築き上げられていたのだ。
無数に立ち並ぶ、赤黒い瘴気を噴き上げる巨大な『魔力炉』。その周囲を、アリの群れのように蠢く数百……いや、千人近い黒いローブの教団員たち。
『大いなる灰に栄光あれ!!』
『腐りきった魔力階級社会に、平等の死を!!』
呪詛のような祈りの大合唱が、空洞全体に不気味に木霊している。
だが、私たちが最も絶望したのは、彼らの数でも狂気でもなかった。
魔力炉から伸びた太い管の先。そこにある巨大な檻の中で、彼らが『何を製造しているか』を見たからだ。
「……嘘でしょ。あれ、全部……」
アイリスが、ガタガタと震える手で口元を覆う。
檻の中にひしめき合っていたのは、学園の地下書庫で私たちが死に物狂いで倒したのと同じ――体長数メートルを超える『灰の魔獣』の群れだった。
その数、数十どころではない。何百体という圧倒的な数の魔獣が、爛々と赤く光る目を輝かせながら、出撃の時を待ちわびるように鎖をガシャンガシャンと鳴らして蠢いている。
さらには、魔力炉の横に積み上げられた、無数の『黒い泥の塊』。
ルカくんの命を奪い、学園の霊脈に仕掛けられていたあの『灰の種』が、まるで兵器の弾薬のように、山のように製造され、保管されていたのだ。
(……ただの、狂信者のテロリストなんかじゃない。……これは、『軍隊』だ)
私の背筋を、巨大な氷の刃で背骨ごと真っ二つにされたような、圧倒的なまでの絶望と恐怖が駆け抜けた。
私たちが四人がかりで、ボロボロになってようやく倒した魔獣が、眼下にはゴミのようにひしめいている。私のこの右拳で何体殴り飛ばしたところで、この悪意の底なし沼の前では、水面に石を投げる程度の波紋しか起こせない。
「……これが、教団の、全貌……」
セドリックが、涙目でポツリとこぼした。
彼らは、この圧倒的な暴力のスケールをもって、学園を、そして王都ミリスを文字通り『灰に帰す』つもりなのだ。
その時。
私の脳裏に、強烈なフラッシュバックが走った。
目の下に酷い隈を作って、真夜中の裏庭で、死人のような顔をして私を抱きしめてきたエラルドの姿。
彼が纏っていた、あの冷たい血と泥の匂い。
(……エラルド)
息が、詰まった。
私は今日まで、何も分かっていなかったのだ。
私のあの馬鹿な幼馴染は。あの『完璧な氷の貴公子』は。
たった一人で……こんな、途方もないスケールの化け物の軍隊の影と、誰にも知られることなく、毎晩毎晩、命を削って戦い続けていたというのか。
『君がいるべき場所じゃない』
『これ以上、首を突っ込むな』
私を冷たく突き放した、あの時の彼の手の震え。
それが「私を馬鹿にしている」からではなく、この本当の地獄から、私の日常を、私の命を遠ざけるための……彼なりの、悲鳴にも似た『祈り』だったのだと。
この圧倒的な悪意のるつぼを目の当たりにして、私はようやく、骨の髄まで理解したのだ。
「……マリー、証拠の魔力波長は記録の水晶に焼き付けた。……引き返そう。これ以上は、俺たちだけじゃどうにもならねえ。生徒会と、王宮の騎士団に本隊を動かしてもらうしかない」
アイクが、引き攣った顔で、それでも必死に理性を保って私に囁いた。
私も、コクンと無言で頷いた。
逃げるんじゃない。これは、この地獄を完全に焼き尽くすために、一度態勢を立て直すための戦略的撤退だ。
私たちが、足音を完全に殺し、アイクの幻影のヴェールに包まれたまま、静かに岩陰から後ずさろうとした――その瞬間だった。
『――ほう? この聖なる灰の坩堝に、嗅ぎ慣れない臭いネズミが四匹も迷い込んだか』
背後の闇から。
鼓膜を直接撫で回されるような、ひどく湿った、粘着質な泥のような声が響いた。
十年前。公爵邸の裏庭で、私の背中に一生消えない呪いを刻み込み、エラルドからすべてを奪い去った……あの、絶対的な死の気配。
「っ……!?」
私たちが弾かれたように振り返った先。
アイクの完璧なはずの幻影のヴェールを、まるで薄紙のように容易く引き裂いて、そこに『彼』は立っていた。
仕立ての良い漆黒の外套。顔の半分を覆う、灰色の仮面。
立っているだけで周囲の空間から生命力が失われ、パサパサと灰になって崩れ落ちていくような、濃密で圧倒的な『死』のプレッシャー。
灰の教団、最高幹部。
十年前の因縁の元凶が、蛇のように冷酷な目で、絶望に凍りつく私たちを見下ろしていたのだった。




