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生徒会室へのカチコミ マリーの決断

すみません、改稿しました。 場面が一つ抜けていました!

漆黒の暗躍を終え、ヴァレリアの一件を片付けて公爵邸の自室へと帰還した深夜。


 エラルドは、冷たいシャワーを浴びた後も、洗面台の鏡の前にただ一人、幽鬼のように立ち尽くしていた。




 プラチナブロンドの髪から、ポタポタと冷たい水滴が滴り落ちる。


 鏡の中に映っているのは、青白い肌に濃い疲労の色を滲ませ、目の下に微かな隈を作った、ひどく虚ろな瞳の青年だった。




「……誰だ、お前は」




 掠れた声が、静寂のバスルームに虚しく響く。


 ヴァレリアに見せた、甘く退廃的な若君の顔。そして、彼女の喉笛を締め上げた時の、あの底なしの殺意と冷酷な支配者の顔。


 自分でも恐ろしいほどに、それらの『裏の顔』を演じることは容易かった。相手が何を求め、何に怯えるか。息をするように弱点を見抜き、甘い言葉で絡め取り、不要になれば躊躇いなく切り捨てる。


 その血に塗れた完璧な演技力を、エラルドは心の底から「汚らわしい」と嫌悪していた。




(……僕は、どんどん化け物になっていく)




 濡れた前髪を乱暴に掻き上げる。


 十年前。灰の組織の狂信者たちによって、両親が殺された。


 自分を庇ってくれた、太陽のように温かい幼馴染の背中に、一生消えない『呪い』が刻まれた。


 あの日、力なき自分を呪い、強くなると誓った。残された大切なものを守るためなら、どんな手でも使うと決めたのだ。


 裏社会で泥を啜り、人を騙し、手を血で染めることに躊躇いはない。




 しかし、心が、悲鳴を上げていた。


 学園で皆から向けられる羨望の眼差しに応え、爽やかで優しい『完璧な貴公子』を演じる自分。


 夜になれば冷酷な『捕食者』として、女の肌を撫で、命を天秤にかける自分。


 本当の自分は、いったいどちらなのだろうか。


 自分でも自分が分からなくなるような、恐ろしいほどのアイデンティティの崩壊。




(マリーが好きなのは、あの温かい薬局で、彼女の隣で笑う『ただの幼馴染』の僕だ。……でも、今の僕があの場所に帰ったら。この泥のような薄汚い血の匂いで、彼女まで汚してしまうんじゃないか?)




 エラルドは、鏡の中の自分を両手で覆い隠すようにして、洗面台に突っ伏した。


 連日の激務と、極限の心理戦による魔力の酷使。睡眠はここ数日、まともに取れていない。


 ギリギリの精神状態で、彼はただ一人、誰にも見せられない孤独な戦いと葛藤に身を削り続けていた。




* * *




 翌日。ミリス魔法学園は、いつものように平和で眩しい冬の朝を迎えていた。




「おはようございます、エラルド様!」


「今日も素晴らしい冷気魔法でしたわね!」




 廊下を歩くエラルドに、すれ違う令嬢たちが熱を帯びた視線と声を投げかける。


「おはよう。君の髪飾りも、冬の空によく似合っているよ」


 エラルドは、完璧な弧を描く微笑みでそれに応えた。


 重い鉛のような疲労を顔の奥底に隠し、誰にも悟らせない。それはすでに、彼の身体に染み付いた防衛本能のようなものだった。




 






* * *






「――以上が、学園長からの悲しいお知らせだ。一年生の新聞委員、ルカ・モレッティが……帰省の途上、乗合馬車の転落事故により亡くなった」




 凍てつくような冬の朝。学園祭から季節は巡り、厳しい冬がやってきた。


 ホームルームの時間、いつもは生真面目で小言の多いフェリクス委員長が、ひどく沈痛な面持ちで読み上げたその報せに、クラス3の教室は水を打ったように静まり返った。




「嘘、だろ……? あいつ、先月から妹さんの看病で実家に帰ってたはずじゃ……」


 アイクが信じられないというように呟き、隣のアイリスもショックで口元を覆っている。セドリックに至っては、顔面を蒼白にして俯いてしまっていた。




 一年生のルカ。


 学園新聞の腕章をつけて、いつも大きなメモ帳を持ち歩いていた、すばしっこくて人懐っこい男の子。


 魔法祭の準備期間中、廊下でアイリスと一緒にいた際、エラルドの素顔についてインタビューをされて以降、彼は厨房担当だった私のところにも「平民特待生としての意気込みを教えてください!」なんて、目をキラキラさせながら遊びに来てくれたことがあった。




『マリー先輩の串焼き、すっごくいい匂いですね! 僕の分も残しておいてくださいよ!』




 あんなに元気だった子が、馬車の事故で。しかも、遺体は火災で炭になってしまっただなんて。


 教室中が悲しみと悼みの空気に包まれる中、私も胸の奥がキュッと締め付けられるような悲しさを感じていた。……けれど。






(……事故? 本当に、ただの事故なの?)






 座学の成績は万年赤点スレスレの私だけど、昔から「直感」と「野生の勘」だけは、そこらの一流魔法使いよりも鋭い自信がある。


 ルカくんの死因が「事故」だと聞いた瞬間、私の背筋を、冬の寒さとは全く違う、ゾワリとした嫌な悪寒が駆け抜けたのだ。


 平和な学園生活の裏側で、何かがおかしい。ひどくきな臭い、ドロドロとした黒いものが渦巻いている。




 その直感の根拠は――他でもない、私の幼馴染にあった。




 思い返せば、この一ヶ月。エラルドの様子は絶対におかしかった。


 最初は「生徒会の仕事が立て込んでてね」と笑っていたけれど、うちの薬局に全く顔を出さなくなったのだ。


 家族同然の幼馴染が急に寄り付かなくなるなんて、私が大人しく「そっかー」と待っていられるわけがない。




 私は学園中を歩き回って彼を探した。でも、休み時間に彼の教室へ行っても「さっきまでいたんだけど」とはぐらかされ、生徒会室の重い扉をノックしても、中はいつも留守だった。


 大食堂で山盛りのご飯を食べていても、なんだか味がしなくて上の空になってしまう。




『……ねえマリー。あなた、最近ずっとため息ばかりついているわよ。またエラルド様に避けられてるの?』


『……あいつがいなくて寂しいなら、俺が代わりに美味い飯屋に連れてってやろうか?』




 アイリスやアイクにまで心配される始末で、私は居ても立っても居られなくなった。


 休日の夜、私はついに公爵邸へ乗り込み、彼が帰ってくるのをエラルドの私室で待ち伏せすることにした。


 けれど、真夜中を過ぎても彼は帰ってこなかった。




『マリーお嬢様……申し訳ありません。エラルド坊ちゃまは最近、夜もほとんどお戻りになりません。たまに帰宅されても、シャワーだけ浴びて、またすぐにどこかへ出かけてしまわれて……』




 公爵家の執事さんが、ひどく心配そうな顔でそう教えてくれた。


 シャワーだけ浴びて、真夜中にどこへ行くっていうの? 生徒会の仕事が、そんな暗闇の中にあるわけがない。




 そして、ついに彼を捕まえたのは、数日前の深夜のことだった。


 吐く息も白く凍るような、底冷えのする冬の真夜中。


 公爵邸の裏庭は、月明かりすら届かない深い闇に沈んでいた。手足の感覚が麻痺し始めるほど待ち続けた頃、勝手口に通じる鉄柵の門が、重々しい音を立てて開いた。




 現れたのは、闇と同化するような漆黒のコートに身を包んだエラルドだった。


 ……違う。私の知っている『完璧な貴公子』の足取りなんかじゃない。まるで目に見えない重い鎖を引きずっているような、酷く不安定で、ふらつくような足取り。




『エラルド! あんた、今までどこで――』




 怒りに任せて足を踏み出し、彼を睨みつけた瞬間。


 薄暗い魔力灯の光の下で彼の顔が露わになり、私は息を呑んで立ち尽くした。




 青白い肌。乱れたプラチナブロンドの髪。そして、一切の光を宿していない、まるで死人のような虚ろなサファイアの瞳。


 彼もまた、私を見た瞬間にピタリと足を止めた。焦点の合っていなかった瞳がパッと見開かれ、まるで暗闇の中で見失っていた光を、あるいは絶対に手の届かない幻を偶然見つけてしまったかのように、激しく揺らいだ。




 次の瞬間。


 凄まじい風圧と共に、私の視界が黒いコートで完全に塞がれた。




 ドンッ! と強い衝撃が走り、私の身体は、エラルドの大きな腕の中にすっぽりと閉じ込められていた。




『え、ちょ、エラルド……!?』




 ギュゥゥッ、と。


 息が止まりそうになるほど、骨が軋むほど、暴力的なまでに強い力。


 普段の彼の、あの羽のように優しくて、私を大切な宝物のように扱うハグじゃない。これは違う。嵐の吹き荒れる冷たい海の中で、沈みゆく身体を必死に支えようと、たった一つの流木に縋りつく遭難者のような……悲痛で、切羽詰まった必死さだった。




『……っ、……』




 彼は一言も発しなかった。ただ、私の首筋に顔を深く埋め、大きな身体を小刻みに震わせている。私の肩口を掴む彼の指先が、服越しでも分かるほど氷のように冷たく、そして白くなるほど強く握り込まれていた。




 鼻腔を突いたのは、いつもの彼が纏っているシダーウッドの香りじゃない。


 むせ返るように甘くて重い、知らない香水の匂い。真冬の夜の凍てつくような匂い。そして……微かに焦げたような、冷たい鉄と泥が混ざったような、私の大嫌いな『血と争い』の匂いがべったりとこびりついていた。




(どうして、こんな匂いをさせてるの……?)




 ここで彼を力一杯突き飛ばして、胸ぐらを掴んで問い詰めるつもりだった。


 でも、できなかった。


 私の肩に顔を埋めたまま、彼がほんの一瞬だけ顔を上げ、私と視線が絡んだからだ。




 私は、言葉を失った。


 そこにあったのは、学園で見せる完璧な貴公子の顔でも、私を甘やかす余裕のある幼馴染の顔でもなかった。


 色濃い隈の落ちた瞳には、痛々しいほど大粒の涙が膜を張り、血の気の引いた唇が微かに震えている。ひどく傷ついて、今にも声を出して泣き出しそうで、自分の中の『恐ろしい何か』に怯えきっているような……。




 10年前。血の海に倒れた私の横で、「いやだ、死なないで」と泣き叫んでいた、あの『ただの泣き虫な男の子』の顔そのものだったのだ。




 だから、私は文句を言うために開けかけた口を、ゆっくりと閉じた。


 痛いくらいの力で抱きしめられ、見知らぬ香水と血の匂いに包まれながら。私はただ、無言で両腕を回し、震える彼の広い背中を、怯える子どもをあやすようにポンポンと静かに叩き続けることしかできなかったのだ。


『……次は、絶対に全部吐かせてやるんだから』と、心の中で固く誓いながら。




 




(ルカくんが「看病のために帰省」したのも、一ヶ月前。エラルドが壊れそうになりながら、真夜中にどこかへ消えていたのも、この一ヶ月……)




 教室の窓から、鉛色の冬空を見上げる。


 点と点が、私の野生の勘の中で一本の黒い線として繋がった。




 政治とか、教団とか、そういう難しいことは私には分からない。


 でも、これだけはハッキリ分かった。


 ルカくんの死は、ただの事故じゃない。そして、私の大切な「幼馴染」は今、誰にも言えない恐ろしい暗闇の中で、一人で必死に戦って、心も身体もボロボロになっているんだ。




(……馬鹿エラルド。私が、「一人で抱え込むな」っていつも言ってるのに)




 膝の上で、ギュッと拳を握りしめる。




 重荷で結構。幼馴染が一人で泣きそうな顔をして震えているのに、ここで大人しく引き下がるなんて、私の辞書にはない。




 私は、教室の重苦しい空気を振り払うようにバシッと両頬を叩き、冬の寒空の下で暗躍する『見えない敵』と、一人で強がるバカな幼馴染の頭を物理で引っ叩くための、私なりの反撃を決意したのだった。



***


 凍てつくような冬の冷風が吹き抜ける、旧校舎の最上階。

 普段は一般生徒が立ち入ることのない、静寂に包まれた分厚い石造りの廊下を、ズシン、ズシンと、まるで重戦車のような足音が地響きを立てて進んでいた。


「ちょ、ちょっとマリー! 正気なの!? 足を止めなさい!」

「おいおいおいマリー! マジで生徒会室にカチ込む気かよ! 相手は王族だぞ、不敬罪で一族郎党首が飛ぶっての!」

「ひぃぃっ! マリーさん止まって! 命が、僕たちの命がなくなりますぅぅっ!」


 私の両腕と腰には、血相を変えたアイリス、アイク、セドリックの三人が、文字通り必死の形相でしがみついていた。

 三人がかりで全体重をかけてブレーキをかけようとしているというのに、私の歩みは一歩たりとも止まらない。ズルズルと引きずられる彼らの靴底が、石畳の床と擦れて虚しい音を立てている。


「うるさーい! あんたたちはそこで見てなさい!」


 私は彼らの制止を全く意に介さず、前だけを見据えて大股で歩き続けた。

 腹の底で煮えたぎるマグマのような怒りが、冬の寒さを完全に焼き尽くしている。

 何が事故だ。何が妹の看病だ。

 数日前の深夜、裏庭の暗闇で私を抱きしめたあいつは、死人のように冷たくて、今にも壊れそうに震えていた。見知らぬ香水と、べっとりとこびりついた血の匂い。あんなにもボロボロになって、泣くことすら忘れたような顔をして。


(私を安全な箱庭に閉じ込めて、自分だけ暗闇で泥水啜って泣くなんて……そんなの、絶対に許さない)


 幼馴染だから。家族だから。

 私が何も気づかないおバカなお荷物だとでも思っているなら、その澄ました冷たい仮面ごと、私の拳で粉々に叩き割ってやる。


 やがて、廊下の最奥。

 絶対的な権力の象徴である、重厚なマホガニーの両開き扉が立ち塞がった。

 扉の周囲には、部外者を寄せ付けないための『認識阻害』と『防音』の高密度の結界が、透明な茨のように何重にも張り巡らされている。普通の生徒なら、この前に立っただけで魔圧に当てられて気を失うだろう。


「……マリー、お願いだから! 扉の前に立つだけでいいから、ノックだけは――」

「ノックなんかで、あの意地っ張りが開けるわけないでしょ!」


 アイリスの悲鳴を背中で聞き流し、私は右足の踵を大きく後ろへ引き絞った。

 魔力なんてない。あるのは、ただの怒りと、野性的なまでの筋力だけ。


(――開けろ、エラルドォォォッ!!)


 ドッッッッガァァァァァァンッ!!!!


 私の全体重を乗せた渾身の右蹴りが、分厚いマホガニーの扉のど真ん中に突き刺さった。

 周囲に張り巡らされていた不可視の結界が、私の背中の『呪いの傷跡』と接触した瞬間に甲高い音を立ててガラスのように砕け散る。

 それと同時に、頑強な真鍮の蝶番が悲鳴を上げて引きちぎれ、右側の扉が枠ごと吹き飛んで、室内の深紅の絨毯の上へと派手な音を立てて叩きつけられた。


「「「ぎゃあああああっ!!」」」


 後ろでアイクたちが絶望の悲鳴を上げる中、私は舞い散る木屑と土埃を払いのけ、堂々と生徒会室の中へと足を踏み入れた。


 暖炉の火が静かに爆ぜる、薄暗く豪奢な室内。

 円卓を囲んでいた三人の上級生――生徒会長のレオンハルト殿下、ガイル先輩、アーサー先輩が、手元の書類から顔を上げ、信じられないものを見るように目を丸くして完全に固まっていた。


 そして。

 窓際で冷めた紅茶のカップを持っていた、ミッドナイトブルーの制服姿の青年。

 エラルドは、ポカンと口を開け、サファイアの瞳を限界まで見開いて私を見つめていた。その顔は、睡眠不足と極度の疲労で、紙のように真っ白だ。


「……マ、リー……? なぜ、君が……ここに」


 掠れた、ひどく間の抜けた声。

 その、あまりにも痛々しく、今にも倒れそうな彼の姿を直視した瞬間。

 私の頭の中で、ブチッ、と最後の理性の糸が切れる音がした。


 私はズンズンと深紅の絨毯を踏み荒らして彼との距離をゼロまで詰めると、彼が持っていたティーカップを奪い取って近くのテーブルにガンッと置き、そのまま両手で、彼の制服の胸ぐらを力一杯掴み上げた。


「エ、エラルド様ぁっ!?」

「マリー、やめろ殺されるぞ!!」


 背後でセドリックとアイクが泣き叫び、レオンハルト殿下が「おい、貴様……っ」と立ち上がりかける。

 だが、そんなものは私の視界に一ミリも入っていなかった。


「……っ、マリー、離しなさい。君がいるべき場所じゃない、ここは――」

「うるさいッ!!」


 私の怒鳴り声が、生徒会室の空気をビリビリと震わせた。

 胸ぐらを掴まれたエラルドが、ビクッと肩を跳ねさせる。


「何が『いるべき場所じゃない』よ! 何が『完璧な次期公爵』よ! こんなに目の下に酷い隈作って、顔色真っ白にして、ボロボロになってるくせに!!」

「…………ッ」

「ルカくんの事故も、あんたが真夜中に変な血の匂いさせて帰ってきたのも、全部全部、あんたが一人で抱え込んで泥水啜ってるからでしょ!!」


 痛いくらいに彼を睨みつける。

 サファイアの瞳が、恐怖と戸惑いで激しく揺れていた。私の言葉が彼の急所を正確に抉っている証拠だ。


「私が何も気づかないバカだと思った!? あんたが一人で傷つけば、私がヘラヘラ笑って安全な場所で喜ぶとでも思ったの!?」


 胸ぐらを握る手に、ギリッとさらに力を込める。

 怒っているはずなのに、彼の虚ろな目を見ていると、視界が滲んで、声が勝手に震えそうになる。


「馬鹿エラルド……っ。一人で泣くくらいなら、私に全部吐き出しなさいよ……っ! 頼りないかもしれないけど、魔法なんて使えないけど……私は、あんたを絶対に一人になんてしないんだから……!!」


 静まり返った室内で、私の荒い息遣いだけが響いた。

 胸ぐらを掴まれたままのエラルドは、私の顔をじっと見つめ……やがて、その張り詰めていた表情が、まるで氷が溶け落ちるように、ふにゃりと、情けなく崩れていったのだった。



 サファイアの瞳の奥で、無数の感情がせめぎ合っているのが分かった。安堵、恐怖、そして、縋りつきたいという痛切な渇望。彼の手が微かに上がり、私を抱きしめ返そうと宙を彷徨う。

 ――しかし。

 彼の視線が、私の背中……服の下にある『呪いの傷跡』のあたりを掠めた、その瞬間だった。


 ふっ、と。

 彼の中に残っていた僅かな熱が、絶対零度の吹雪によって強制的に凍結させられた。

 エラルドは、宙を彷徨っていた自らの手を強く握り込み、私の両手を、ひどく冷たい、けれど拒絶を許さない強い力でゆっくりと引き剥がしたのだ。


「……マリー」


 鼓膜を打ったのは、冬の夜風よりも冷たく、そしてどこまでも無機質な声だった。

 彼が再び被り直した『完璧な次期公爵』の仮面は、先ほどよりもさらに分厚く、一切の感情を排した氷の彫刻のように冷ややかだ。


「……君の言う通り、僕は公爵としての裏の仕事で少し疲弊しているのかもしれない。だが……それは、『ただの平民』である君が、安易に踏み込んでいい領域じゃない」


 息が、止まった。

 彼が口にした身分を隔てる言葉が、見えない鋭い刃となって、私の胸の奥深くに突き刺さる。十年間の付き合いの中で、彼が私に対して明確な『壁』を作ったのは、これが初めてだった。


「ルカの事故は不幸な出来事だ。だが、それ以上でも以下でもない。……これ以上、生徒会の仕事に首を突っ込むな。君には関係のないことだ」

「……エラル、ど」


(嘘だ。あんなに今にも泣きそうな顔をしていたくせに。私が怪我をするのが怖いからって、そうやって私を蚊帳の外に置いて、また一人で抱え込む気なの?)


 反論しようとした私を制するように、円卓の上座から、レオンハルト殿下が重々しい覇気を放って立ち上がった。

「エラルドの言う通りだ、マリー・トマス。扉を壊した不敬は、お前の無知に免じて今回だけは不問にしてやる。だが……王国の暗部に、温室育ちの”子ども”が介入する余地はない。大人しくお前のいるべき『日向』に帰れ」


 王族の圧倒的な威圧感と、エラルドの徹底的な拒絶。

 普通なら、ここで心が折れて、泣きながら逃げ帰る場面なのだろう。突き放された痛みで、胸がギリギリと音を立てて軋んでいるのは確かだ。

 ……けれど。その痛み以上に、私の腹の底で燻っていた火種は、彼らのその『偉そうな大人の態度』によって、さらに大きな業火となって燃え上がっていた。


「……へえ、あっそ」


 私は、砕け散ったマホガニーの木屑をブーツの踵で乱暴に踏み躙り、顔を上げた。

 瞳の奥に涙なんか一滴もない。あるのは、理不尽に抗うための絶対的な反骨心だけだ。


「偉そうなこと言って、私を遠ざけたいなら勝手にすればいいわ。生徒会様にはもう頼らない!」

「マリー、君は……っ」

「言わないなら、自分で勝手に全部調べてやるから! あんたが後で泣いて助けを求めてきても、絶対にうちの特製ローストビーフ奢ってあげないからね!!」


 私はエラルドを力一杯睨みつけると、バンッ! と残っていた片方の扉を蹴り開け、猛然と廊下へと引き返した。



 * * *


「マ、マリー……! 大丈夫だった!? 殺されなかった!?」


 冷たい石造りの廊下で、腰を抜かしてへたり込んでいたセドリック、壁にもたれかかっていたアイク、そしてアイリスが、血相を変えて駆け寄ってくる。

 私は鼻息を荒くして、怒りのあまり肩を怒らせたまま彼らを振り返った。


「全然大丈夫じゃない!! あいつら、完全に私を馬鹿にしてた! 『お前には関係ない』だって!」

「だ、だから言ったじゃない! 相手は王族と筆頭公爵よ、ただの平民が首を突っ込んじゃいけない場所があるの!」


 アイリスが青ざめた顔で説教を始めるが、私の耳にはもうそんな一般常識は届いていない。頭の中ではすでに、次なるカチコミの作戦が猛スピードで組み上がっていた。


「決定した! 私たちで、ルカくんの事故の真相を暴くよ!」

「「「はあぁぁぁっ!?」」」


 あぶれ者同盟の三人の声が見事にハモり、廊下に木霊した。


「生徒会が何か隠してるなら、学園のどこかに絶対に証拠があるはず。……ねえセドリック!」

「ひゃ、ひゃいっ!?」

「この前、魔法祭の前に四人で『幻の魔獣のお肉』を探しに地下の閉架書庫に行った時……あんた、禁書区画の奥から『変な匂いがする』って言ってたよね!?」


 私の言葉に、セドリックの分厚い丸眼鏡の奥の瞳が、ハッと大きく見開かれた。

 あの時、彼は確かに感じ取っていたのだ。地下の底から這い上がってくるような、生命を腐らせる饐えた『灰』の匂いを。


「ルカくんの死と、あの地下の匂い……絶対に関係がある! まずはあの地下書庫の奥を、私たちの手で徹底的に調べるよ!」

「ちょ、ちょっと待ってマリー! 正気なの!? あそこは生徒会の厳重な監視下にあるわ、見つかったら今度こそ放校よ!」

「面白えじゃねえか」


 パニックになるアイリスの横で、アイクがニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、拳をバキバキと鳴らした。

「俺も、あの生徒会のすました連中の態度にはずっとムカついてたところだ。俺の幻影魔法なら、監視の目を誤魔化して地下に潜るくらい造作もねえぜ!」

「アイク! あなたまでマリーの暴走に乗っかる気!?」

「ぼ、僕も……行きます」


 震える声。しかし、どこか確かな芯を持った響きに、私とアイリスはセドリックを振り返った。

 彼は顔面を真っ白にしながらも、両手でしっかりと学園の制服の裾を握りしめていた。


「ルカ君は、僕がカフェの入り口で配った仮面を、『すっごくかっこいいですね!』って褒めてくれたんです。……もし、彼の死に本当に裏があるなら。僕の知識が、少しでも役に立つなら……僕も、あぶれ者同盟として、最後まで付き合います!」


 頼りない三男坊だった彼が、恐怖を押し殺して見せた男としての決意。

 私は「よしっ!」と満面の笑みで彼の背中をバシッと叩き、アイリスの方を向いた。


「そういうわけだから、アイリスの氷の鍵開けも絶対に必要不可欠なの! お願い、私の女神様!」

「…………はぁ」


 三人の熱意(と私の圧倒的なゴリ押し)を前に、アイリスは深く、ひどく深いため息を吐き出し、諦めたように肩を落とした。

「……本当に、あなたたちといると寿命が縮むわ。分かったわよ。ただし、少しでも危険を感じたら、すぐに私の魔法で強制的に撤退するからね」

「やったー! さすがアイリス!」


 冬の冷たい廊下で、私たちは固く拳を突き合わせた。

 エラルドが私を遠ざけようと張った分厚い結界など、この「あぶれ者同盟」の無鉄砲さの前では、なんの足止めにもならない。

 

 迷うことなくその漆黒の渦へと足を踏み出していったのだった。


***

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