午後の微睡と罰則
エラルドと初めて会ったのは、私が四歳、彼も四歳(私が数ヶ月だけお姉さん)の時のことだ。 当時のエラルドは、今の完璧な貴公子ぶりからは想像もつかないほど、青白くて、細くて、今にも壊れてしまいそうなガラス細工のような男の子だった。
彼は生まれながらにして、ミリス王国の歴史上でも類を見ないほど『膨大な光の魔力』を持って生まれた。しかし、幼い子どもの小さな身体は、その強大すぎる魔力を器として収めきれなかったのだ。
魔力が暴走するたびに高熱を出し、ベッドから起き上がることすらできない日々。
次期公爵であり最愛の息子を救うため、エラルドの両親は王宮の筆頭医師を呼び寄せ、国内最高峰の魔法研究所にも莫大な資金を投じて治療法を探らせた。しかし、誰も彼の魔力を安定させることはできなかった。 『――長くて、十歳の誕生日を迎えられるかどうか』 王宮医師からの残酷な宣告に、公爵夫妻は絶望の淵に立たされたという。
そんな藁にもすがる思いの公爵が、最後の頼みの綱として行き着いたのが、王都の外れで小さな『魔法薬局』を営んでいた私の父、トマスだった。
父は若い頃、王宮から直々にスカウトされたこともあるほどの薬草と魔法陣の天才だったが、「窮屈な場所は性に合わない」と野に下った変わり者だ。 公爵から涙ながらに泣きつかれた父は、エラルドを診察し、こう言ったらしい。
『魔力を薬で抑え込むのには限界があります。器(身体)が小さいなら、器の方を大きくしてやればいい。泥まみれになって走って、笑って、泣いて、たくさんご飯を食べる。普通の子供と同じように身体を鍛えれば、魔力と肉体の均衡は必ず取れるようになります』
そして父は、特製の魔法薬の調合と日々の健康管理を引き受ける条件として、「薬局ごと、公爵邸のすぐ隣に引っ越してくること」を提示されたのだ。
かくして、平民である我が家は、王都の一等地にそびえ立つ筆頭公爵邸の真隣(というか、ほぼ敷地内)に強引に移り住むことになった。
私が初めてエラルドを見たのは、父が公爵家専属の薬師として雇われ、私たちが邸宅の敷地内に引っ越してきたその日のことだった。
* * *
近所の平民の子供たちと、毎日泥だらけになって野山を駆け回るのが日常だった私にとって、筆頭公爵邸はどこもかしこもピカピカで、息が詰まりそうなくらい広かった。 父に手を引かれて案内された、分厚いカーテンの引かれた薄暗い部屋。 その中央にある、ふかふかの天蓋付きベッドの上に『彼』はいた。
透き通るような真っ白な肌に、色素の薄いプラチナブロンドの細い髪。 そして、怯えたようにこちらを見つめる、宝石みたいに大きくて、キラキラと輝くサファイアの瞳。
(うわぁ……っ)
当時の私は、着飾ることやおままごと、男の子の顔の良し悪しなんて全く興味がない、絵に描いたような野生児だった。4歳だしね。
けれど、そんな私でも思わず口を開けて見惚れてしまうほど、彼は人間離れして綺麗だったのだ。触れたらパリンと割れてしまいそうな、精巧な硝子のお人形みたいだった。
「はじめまして! 私、マリー! 君、お人形さんみたいだね!」
私が満面の笑みで、思いっきりタメ口でそう叫んだ瞬間。 後ろにいたお父さんとお母さんは「ひぃぃっ!?」と短い悲鳴を上げて青ざめた。
「こ、こらマリー! 相手は公爵家の御嫡男だぞ、もっと敬語を使って恐れ多く接しなさい!」
お父さんが慌てて私の頭を押さえつけようとしたけれど、それをふわりと優しい声で制止したのは、他でもないエラルドのご両親――公爵夫妻だった。
「よいのです、トマス殿。マーサ殿も、どうか頭を上げてください。そしてマリーちゃん……どうかそのまま、普通の言葉で話しかけてやってちょうだい。この子に、同年代の『お友達』ができるのは初めてなのですから」
公爵夫人は、美しい顔を涙で濡らしながらそう言って微笑んでくれた。 魔力の暴走に苦しみ、ずっと部屋に閉じこもっていたエラルドにとって、外の世界を知る泥だらけの私は、ひどく新鮮な存在だったのだろう。
その日を境に、マリーはエラルドの邸宅に毎日のように出入りし、自分の新しい庭を手に入れたのであった。 最初は、エラルドを外に連れ出すのは大変だった。
「ほら、エラルド! そんな暗い部屋にいないで、お外で遊ぼう!」 「……だめだよぅ、マリー。僕、お熱が出るかもしれないし……お外は、怖い……っ」
広大で豪華な公爵邸の一室。分厚いカーテンが引かれた薄暗い部屋の隅で、小さなエラルドは膝を抱えてシクシクと泣いていた。 当時の私は、毎日父の薬を届けに行くついでに、彼を強引に外へ連れ出すという『荒療治』の担当に任命されていた。
「大丈夫だって! お父さんの苦ーいお薬飲んだんだから、もうお熱なんか出ないよ!」
「でも、今日はお空がゴロゴロ言ってるし……雷、こわい……っ」
「雷なんて、ただの雲のオナラだよ! 私が大声で怒鳴って、追い払ってあげるから!」
「くもの、おなら……?」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、エラルドがきょとんと目を丸くする。 私はその隙を見逃さず、彼の白くて細い、氷みたいに冷たい小さな手をガシッと掴んだ。
「そう! だから泣かないの。私がエラルドよりお姉ちゃんなんだから、怖いものは全部、私がドカーンってやっつけてあげる! さあ、お庭で泥団子作るよ!」
「わぁっ、マリー、引っ張らないでぇ……っ」
嫌がる彼を無理やり庭に引きずり出し、高価なシルクの服が泥だらけになるのもお構いなしに遊ばせた。
最初はオロオロして泣いてばかりいた彼も、私が作った不格好な泥団子を見て「……それ、全然丸くないよ」と小さな声で笑ってくれたのを覚えている。
見回りに来たメイド長が泥まみれの彼を見て悲鳴を上げて卒倒しそうになっていたけれど、遠くから見ていた公爵夫妻は、エラルドの小さな笑顔を見て、泣き崩れるように喜んでいたらしい。
私たちは、本当にどこへ行くにも一緒だった。 最初は走ることも怖がっていたエラルドの手を引いて、だだっ広い廊下で思いっきり鬼ごっこをした。厳しいメイド長に見つかって怒られそうになると、二人で手を繋いで厨房に忍び込み、ふくよかで優しい料理長から内緒の甘いおやつ(つまみ食い用のクッキー)をもらって、テーブルの下でクスクス笑い合った。私が木に登って落ちそうになれば、下でエラルドが「危ないよぉ!」と泣き叫び、大きな犬に吠えられて彼がすくみ上がれば、私が木の枝を振り回して追い払った。
彼が魔力の熱で苦しむ夜は、私がベッドに潜り込んで「私がついてるから大丈夫!」と朝まで手を握り続けた。
そうして公認の「お友達」になった私たちは、文字通り公爵邸を駆け回って育った。 最初はすぐに熱を出して泣いていた彼も、泥だらけになって、転んで、笑って。 そうやって私と一緒に、子どもらしい『元気な遊び』を少しずつ覚えていったのだ。
私にとってエラルドは、放っておけない、泣き虫で可愛い『弟分』だったのだ
「――そこ! 最後列のマリー・トマス!」
ビクッ!! 突然、教室中に響き渡った雷のような怒声に、マリーの肩が大きく跳ねた。
甘い夢の世界から一気に現実の講義室へと引き戻され、机に突っ伏していた上半身を勢いよく跳ね起こす。口元から垂れそうになっていたよだれを、慌ててローブの袖で拭ぐった。
「は、はいっ! 雷はただの雲のオナラです!!」 「……何を寝ぼけておるか、この大馬鹿者が」
静まり返った教室に、老教授の底冷えするような声が響く。周囲の貴族の生徒たちから、クスクスとあからさまな嘲笑が漏れた。
午後の五時限目、『基礎魔術陣構築理論』の授業は、マリーにとって言うなれば「睡魔との壮絶な死闘」であった。
「――したがって、第二階梯の精霊魔法を行使する際、マナの収束点と触媒の相関関係は、このオイラーの魔力定数を用いて導き出される。火の属性においては、基点となるルーンの角度が……」
教壇に立つ痩せぎすな老教授、クイットウィンクの声は、まるで一定の周波数を保った子守唄か、あるいは解読不能な古代の呪文のようなのもよくない。
この授業が行われる第二講義室は、日当たりが異常に良い。高い窓から降り注ぐぽかぽかとした午後の陽光は、昼食のシチューとパンで満たされたマリーの胃袋を優しく温め、脳へと送られる血液を容赦なく奪っていく。
(だめだ……まぶたが、くっつく……。ルーンの角度とか、とりあえず拳に魔力を込めて殴れば砕けるんだから、どうでもいいじゃん……)
気づいたら夢の中に入っていた。
黒板には、幾何学模様と数字が複雑に絡み合った魔術陣が描かれているが、マリーの目にはただのミミズの這いずった跡にしか見えない。
もし隣にアイリスがいれば、机の下でこっそり脇腹をつねって起こしてくれただろう。しかし無情にも、この授業は厳格な座席指定制だった。
はるか前方、最前列の窓際で、アイリスは背筋をピンと伸ばし、美しい筆記体でノートをとっている。マリーの席はそこから遠く離れた最後列の端。つまり、誰も彼女の意識の墜落を止めてはくれない絶対絶命の孤立状態だ。
クイットウィンク教授はチョークを持った手をわななかせながら、黒板の複雑な魔術陣をペン先でカンカンと叩いた。
「授業中にいびきをかくとは、我が学園の歴史において前代未聞の恥知らずだ! そこまで余裕があるのなら、この魔力定数におけるマナの収束点のズレが、術式にどのような影響を及ぼすか、今すぐここで答えてみせよ!」
「えっ……と、マナの、しゅうそく……」
マリーは冷や汗をだらだらと流しながら、必死に黒板のミミズ文字を睨みつけた。
わかるわけがない。
そもそも、起きていた最初の五分ですら理解できていなかったのだ。
(あちゃー……やばい、完全に詰んだ……!)
マリーは藁にもすがる思いで、最前列の窓際に座るアイリスへ視線を飛ばした。 『アイリス、助けて! 口パクで教えて!』と必死に目で訴えかける。
しかし、ゆっくりと振り返ったアイリスの目は、極北の氷河よりも冷たかった。彼女は「自業自得よ、このバカ」とでも言いたげに、ふいっと優雅に顔を背け、再びノートに視線を落としてしまった。
(見捨てられたぁぁぁっ!!)
絶望に打ちひしがれるマリーに、教授の容赦ない宣告が下る。
「……よろしい。答えられぬのなら、明日朝までに、魔術陣の基礎理論について原稿用紙五十枚のレポートを提出するのだ! わかったな!」
「ひぃぃっ……はいぃぃ……」
がっくりと肩を落とし、マリーは机に突っ伏した。 原稿用紙五十枚のレポート。そんなもの、自分の力だけで書けるはずがない。
(こうなったら、またあの『頼れる弟分、いや今は兄貴分か?』に泣きつくしかない……っ)
夢の中で見た、あんなに泣き虫でちっちゃかったエラルドの姿を思い出しながら。 マリーは放課後の鐘が鳴るのと同時に、アイリスを置いて公爵邸へと全力疾走する決意を固めるのだった。




