閑話休題 クロエ・ロード
ミリス魔法学園の二年生が在籍する教室棟。
その一角にある『2年2組』の教室は、特待生であるクロエ・ロードにとって、入学当初からずっと「息の詰まる鳥籠」のような場所だった。
「――まったく、魔法祭では少し体調が優れず、不覚にも無様な姿を晒してしまったが! この私の真の実力はあんなものではない。次期魔法騎士団長となるこのジュリアン・フォン・バルディアの剣技と魔法、次の実技演習で存分に目に焼き付けるがいい!」
教室の中心で、夜空色の髪を完璧に撫でつけた侯爵家嫡男・ジュリアンが、取り巻きの令息たちを前に声高に演説をぶっている。
彼の周囲には、香水のきつい上位貴族の令嬢三人組――カトリーヌやエレノアたちが、「まあ、ジュリアン様! 当然ですわ!」「あんな平民の屋台で出された不衛生な毒肉(串焼き)のせいで、ジュリアン様のお腹が痛くなってしまっただけですものね!」と、媚びるような黄色い声を上げていた。
(……あんなに美味しそうに、屋台の串焼きを十五本も爆食いしてたのに……)
教室の最後列、一番窓際の目立たない席で。
クロエは、持っていた羽根ペンでノートの隅に小さなうさぎの落書きをしながら、内心でこっそりとツッコミを入れていた。
ほんの1月ほど前までの彼女なら、上位貴族である彼らの会話が耳に入るだけでビクビクと肩をすくめ、息を殺して下を向いていることしかできなかっただろう。
ジュリアンたちが嘘八百を並べて見栄を張っているのを、こうして少し引いた視点で、心の中でツッコミを入れられる余裕が持てるようになったのは、間違いなく『彼女』のおかげだった。
クロエ・ロード。
王都から遠く離れた片田舎の村で生まれた彼女は、幼い頃から『治癒魔法』において類まれなる才能を持っていた。
擦りむいた膝の傷から、流行り病の熱、果ては農作業中の大怪我に至るまで、クロエが小さな両手で淡い緑色の魔力を流し込めば、大抵の傷は綺麗に塞がった。
建国以来の大きな政策転換により、平民にも学舎への門戸が開かれたという報せが村に届いた時、村長をはじめとする大人たちは狂喜乱舞した。
『クロエ! お前はロード家の、いや、この村の誇りだ!』
『学園で立派な治癒術師になって、王宮で働くんだぞ。そうすれば、村のみんなも鼻が高い!』
村中から集められたなけなしの資金と、両親の涙ぐむような期待を小さな背中に背負って、クロエは王都のミリス魔法学園へとやってきた。
しかし、希望に胸を膨らませてくぐったはずの学園の門の先には、残酷なまでの『身分という絶壁』が立ちはだかっていた。
圧倒的な魔力と、洗練された所作を持つ貴族の子弟たち。
彼らにとって、平民の特待生など「王家の気まぐれで紛れ込んだ、目障りなネズミ」でしかなかった。
特に、治癒魔法という「支援・裏方」の特化能力しか持たず、攻撃魔法も防御魔法もからきしで、おまけに内気で引っ込み思案なクロエは、格好の標的になりやすかった。
わざとぶつかられて教科書を落とされたり、「治癒術師なら、これくらい運べるでしょう?」と大量の備品運びを押し付けられたり。
両親からの期待の重圧と、誰にも助けを求められない孤独感で、クロエの心は入学して数ヶ月で完全にすり減っていた。
そんな、一年生の春の終わりのことだ。
いつものように、上位貴族の令嬢たちから嫌味を言われ、実家から送られてきたばかりの大切な手紙を「汚い字ですこと」と泥水の中に落とされてしまった日の放課後。
クロエは誰もいない旧校舎の裏手に隠れ、泥だらけになった手紙を胸に抱いて、声を殺して泣いていた。
『……お父さん、お母さん、ごめんなさい。私、もう無理かもしれない……』
涙で視界がぐしゃぐしゃになり、過呼吸のように肩を震わせていた、その時だった。
「――こんなところで泣いていたら、綺麗な瞳が台無しになってしまうよ」
ふわりと。
上質な、シダーウッドの香りが鼻をくすぐった。
驚いて顔を上げると、そこには、夕日を背にして立つ、信じられないほど美しい青年の姿があった。
透き通るようなプラチナブロンドの髪に、宝石のように深いサファイアの瞳。
ミリス魔法学園において、誰もが憧れる雲の上の存在。筆頭公爵家嫡男、エラルド・フォン・アルバーンだった。
「あ……え、エラルド、様……っ」
クロエは慌てて立ち上がり、泥だらけの手を隠して深く頭を下げようとした。
しかし、エラルドは嫌な顔一つせず、そっとしゃがみ込むと、クロエの足元に落ちていた手紙の泥を、自身の真っ白で美しいハンカチで丁寧に拭き取ってくれたのだ。
「大切なものだろう? 悲しい思いをさせて、本当にすまない。この学園の風紀を正すのは、次期公爵である僕の責務でもあるのに」
「そ、そんな! エラルド様が謝られるようなことでは……っ!」
「君は、特待生のクロエ・ロード嬢だね。……君の持つ純粋な治癒の力は、いずれ必ず多くの人を救う、この国にとっての宝だ。だから、どうか平民であることを恥じないで、誇りを持って歩いてほしい」
エラルドはそう言って、泥を拭き取った手紙をそっとクロエの両手に握らせ、絵画のように完璧で、底抜けに優しい微笑みを向けた。
その瞬間、クロエの胸の奥で、カチャンと何かが音を立てて弾けた。
呼吸が止まりそうになるほどの、圧倒的な美しさと優しさ。
傷ついてボロボロになっていた彼女の心に、彼の言葉は、最上級の治癒魔法よりも深く、温かく染み渡ったのだ。
(……手が届かない方だって、分かってる。でも……)
それが、クロエの密かな、誰にも言えない初恋の始まりだった。
エラルドの言葉をお守りのように胸に抱き、クロエはなんとか学園での息苦しい日々を耐え忍ぶことができた。
しかし、憧れの君の言葉だけで現実の壁がすべて消え去るわけではない。
二年生に進級し、ジュリアンたちと同じクラスになってからは、平民特待生への風当たりはさらに強くなっていた。
そんな萎縮するクロエの視界に、ある日、一陣の嵐のような少女が飛び込んできた。
同じ平民の特待生である、マリー・トマスだった。
『んーっ! やっぱり学園のご飯は最高だね! パン、おかわり!』
大食堂で、周囲の上位貴族たちが扇子で口元を隠して陰口を叩いているのにも全く気付かず(あるいは気付いていても完全に無視して)、マリーは豪快に山盛りのシチューを平らげていた。
クロエは最初、マリーのその図太さにハラハラして見ていられなかった。
貴族に目をつけられたらどうするのだろう。なぜ、あんなに堂々と笑っていられるのだろう。
『だって、タダで食べ放題なんだよ? 言いたい奴には言わせておけばいいじゃん!』
マリーのその底抜けの明るさと、理不尽を理不尽とも思わない真っ直ぐな強さは、常に人の目を気にしてビクビクしていたクロエにとって、あまりにも衝撃的で、そして眩しかった。
そして、決定打となったのが、先日の『第一実技演習室』での出来事だった。
ジュリアンが自身の魔力を誇示しようとして暴発させた、巨大な『炎槍』。
逃げ場を失い、死の恐怖に顔を覆ってしゃがみ込んだクロエの前に、マリーは文字通り『降って』湧いた。
『頭下げてて!!』
炎の熱風に髪を焦がしながら、マリーは逃げることなく、その小さな右拳を思い切り引き絞り――なんと、高密度の炎の塊を『素手』で粉砕してしまったのだ。
ガラスが砕けるような美しい破砕音と共に、炎が赤い光の粒子となって消えていく光景を、クロエは一生忘れないだろう。
『叩き落とされるような、へっぽこな制御で魔法を撃ったジュリアンが悪いんでしょ! 人に怪我させそうになったんだから、怒る前にまずはクロエに謝るのが先!』
激昂する侯爵家嫡男に向かって、マリーは一歩も引かずにそう言い放った。
身分も、魔力の強さも関係ない。
ただ「間違っていること」に真っ直ぐに立ち向かい、自分のような臆病な人間を身を呈して守ってくれた。
(マリーちゃんは、私のヒーローだ)
クロエの中で、マリーの存在は、雲の上にいるエラルドとはまた違う、地に足の着いた『憧れであり、目標』へと変わっていた。
* * *
「ふう……」
放課後の鐘が鳴り、ジュリアンたちが連れ立って教室を出て行くのを見送ってから、クロエは静かに席を立った。
カバンの中から、大切に包まれた小さな紙袋を取り出す。
中に入っているのは、実家の村から送られてきたばかりの、素朴なハチミツとクルミの焼き菓子だ。
(マリーちゃん、喜んでくれるかな……)
先日の実技演習のお礼に治癒魔法をかけた時、マリーは「わぁ、すっごく身体が軽くなった! クロエの魔法、気持ちいい!」と満面の笑みで喜んでくれた。
今日はそのお礼の続きとして、マリーの好きそうなお菓子のお裾分けを持ってきたのだ。
クロエは足取り軽く、マリーたちがよく集まっているという中庭のベンチへと向かった。
大きな樫の木の下で、予想通り、賑やかな声が聞こえてくる。
「えーっ! アイク、あんたまた補習になったの!?」
「うるせー! 魔法史の年号なんて、実戦じゃクソの役にも立たねえだろ!」
「基礎の歴史を知らずして、どうして高度な術式が組めるっていうのよ。……はぁ、後で私のノートを貸してあげるから、しっかり写しなさい」
「……お、おう。サンキュ、アイリス」
「わーい、一緒に補習がんばろー!」
「お前と一緒だなんて、俺の一生の恥だ……」
マリーを中心に、完璧な令嬢であるアイリス、赤毛のアイク、そして最近すっかり打ち解けた様子のセドリックが、和気藹々と笑い合っている。
身分も派閥もバラバラな彼らが、こうして当たり前のように同じ場所で笑い合えるのは、間違いなく中心にいるマリーの『引力』のおかげだった。
「あ、あの……マリーちゃん!」
クロエが勇気を出して声をかけると、マリーがパッと花が咲いたように顔を輝かせた。
「あっ、クロエだ! やっほー! 今日も治癒魔法の特訓、お疲れ様!」
「う、うん。あのね、これ……実家から送られてきた焼き菓子なんだけど、もしよかったら、みんなで食べて」
「えっ!? いいの!? わーい、ありがとう!!」
マリーは飛び上がって喜び、アイリスたちも「ありがとう、クロエ」「助かるぜ!」と温かく迎え入れてくれた。
クロエは恐縮しながらも、彼らの輪の端っこに少しだけお邪魔して、焼き菓子を齧った。
素朴な甘さが口に広がり、みんなが「美味しい!」と笑ってくれる。
クロエは、自分の居場所が少しずつ、この学園の中にもでき始めていることを感じて、嬉しさで胸がいっぱいになっていた。
みんなの楽しそうな笑い声を聞きながら、クロエはふと、何気なく渡り廊下の方へと視線を向けた。
そして。
夕日に照らされた石造りの柱の陰に、静かに佇む『彼』の姿を見つけて、ハッと息を呑んだ。
エラルド・フォン・アルバーン。
彼は、取り巻きの生徒たちから少し離れた死角に立ち、中庭で笑い合うマリーたちの輪を――いや、正確にはマリーただ一人を、じっと見守っていた。
クロエは、治癒術師だ。
人の微細な生命力の揺らぎや、感情の波を読み取ることに長けている。
おまけに、入学直後からずっと、彼を憧れとして遠くから見つめ続けてきたのだ。
だから、一瞬で分かってしまった。
エラルドのサファイアの瞳は、普段彼が学園の令嬢たちに向けているような、完璧で、優雅で、けれどどこか作ったような微笑みではなかった。
眉尻を少し下げ、ひどく愛おしそうに、そして同時に、自分の手の届かない場所で無防備に笑う彼女を、どうしようもなく見つめてしまう……熱を帯びた、一人の『男』としての眼差しだった。
(……ああ。そうだったんだ)
クロエは、持っていた焼き菓子の欠片を、そっと口に運んだ。
甘いはずのお菓子が、少しだけ、ほろ苦く感じた。
胸の奥がキュッと締め付けられるような、小さな失恋の痛み。
自分が憧れた、雲の上の完璧な王子様。彼が本当に心から愛し、その視線のすべてを注いでいるのは、自分が一番尊敬して、大好きな恩人の女の子だったのだ。
でも、不思議と、嫉妬やドロドロとした嫌な気持ちは湧いてこなかった。
(だって、マリーちゃんは……エラルド様だって、あんなに優しくて温かい顔になっちゃうくらい、素敵な人だもの)
クロエは、隣でアイクの口に無理やり焼き菓子を突っ込んで大笑いしているマリーを見て、ふっと静かに微笑んだ。
マリーは、エラルドのあの視線に気付いているのだろうか。いや、この恋愛に微塵も興味のなさそうなおバカな恩人のことだ、きっと全く気付いていないに違いない。
「……ふふっ」
クロエの口から、自然と小さな笑い声が漏れた。
完璧な王子様が、ただの不器用な恋する男の子になって、一生懸命に幼馴染を見つめている。
そして、当の幼馴染は食い気一直線で全く気付いていない。
なんだか、それがひどく愛おしくて、応援したくなってしまった。
(さようなら、私の初恋)
クロエは、夕日に向かって、心の中で静かに別れを告げた。
エラルドへの憧れは、甘酸っぱい思い出として胸の奥の小箱にしまう。
これからは、違う目標のために頑張ろう。
「マリーちゃん、あのね」
「ん? なあに、クロエ?」
「私……もっともっと、治癒魔法の勉強を頑張るね。いつか、私が最高位の『聖女』みたいな治癒術師になって……もしマリーちゃんが怪我をしたり、大変なことになったら、絶対に私が治してあげるから」
クロエの突然の真剣な言葉に、マリーはキョトンと目を丸くした後。
「えへへ、ありがとう! クロエが一緒なら、私、どんな敵の魔法を殴り飛ばしても絶対平気だね! 最強のパーティーじゃん!」と、親指をグッと立てて笑ってくれた。
「うん! 私、頑張る!」
クロエは大きく頷いた。
いつか、大きな脅威がこの国や彼女たちを襲う日が来るかもしれない。
その時、自分がただ怯えて守られるだけの『内気な平民』ではなく、大好きな恩人と、彼女を愛する人々の背中を支えられるような、立派な治癒術師になるために。
夕闇が迫る中庭で。
少女は一つ大人になり、新たな決意と共に、温かい笑顔の輪の中へとしっかりと足を踏み入れたのだった。
クロエちゃん、最近クラス内にお友達できたんです。 学園祭でもクラスの中で役割を全うし、ようやく学園に馴染めるようになってきましたね。 みんながみんな身分を傘に着るような、傲慢ちきで嫌なやつではありませんから。




