マリーの家でのひととき 禁書庫探検後
夕暮れの茜空が、王都を包み込む巨大な大結界に反射して淡く輝く頃。
「ただいまーっ! お父さん、お母さん! 今日はお客さん連れてきたよー!」
筆頭公爵邸の広大な敷地の片隅にちょこんと建つ、少し古びたレンガ造りの建物――『トマス薬局』のドアを、マリーが勢いよく開け放った。
「おうマリー、おかえり! 今日は随分と帰りが遅かったじゃねえ……って、ぶふぉっ!?」
一階の店舗の奥から、エプロン姿で顔を出した父・トマスは、娘の後ろにぞろぞろと続く三人の姿を見て、盛大にむせた。
「トマスおじ様、マーサおば様。ご無沙汰しております」
まず優雅にカーテシー(淑女の礼)をして見せたのは、アイリスだ。彼女はこれまでも何度か遊びに来たことがあり、両親もよく知っている仲である。
問題は、その後ろに立つ見慣れない二人の男子生徒だった。
「おっ! はじめまして、おじさん、おばさん! 俺はマリーのダチのアイク・フォン・ランバート! マリーのやつが、ここの串焼きが世界一美味いって自慢するから、腹空かせて来ちまったぜ!」
「ひゃ、ひゃいっ! ふぁ、フォスター男爵家三男、セドリックと申します! ほ、本日は突然の訪問にも関わらず、お招きいただき誠に恐悦至極に存じます……っ!!」
アイクの制服の襟元に輝く『侯爵家』の紋章ピン。そして、ガチガチに緊張して九十度のお辞儀を繰り返すセドリックの『男爵家』の紋章。
トマスと、奥から出てきた母・マーサは、顔を見合わせてサァァッと青ざめた。
「こ、こ、侯爵家のご嫡男様に、男爵家のご令息様ぁぁっ!?」
「ひぃぃっ! マリー、あんたなんて恐れ多い方々をウチみたいなむさ苦しい平民の家に連れてきたのよ! 掃除もロクにしてないのに!」
両親が慌てふためき、土下座でもしかねない勢いで平身低頭する。
無理もない。トマスはかつて王宮からスカウトされたほどの天才薬師であり、今はアルバーン公爵家の専属薬師という異例の厚遇を受けているとはいえ、身分はあくまで平民なのだ。上位貴族の嫡男が、ふらりと遊びに来ていいような場所ではない。
「ちょ、おじさんたち、やめてくれよ! 硬い挨拶は抜きだ! 学園の外に出りゃ、ただの腹を空かせたガキの集まりなんだからさ!」
アイクが豪快に笑いながらトマスの肩をバンバンと叩き、マリーも「そうそう! アイクもセドリックも、私と同じ『あぶれ者同盟』の仲間なんだから!」と無邪気に笑う。
「あぶれ者って……はぁ、本当にマリーは誰が相手でも物怖じしないんだから」
アイリスが呆れたようにため息をつきつつ、「おば様、手伝いますわ」とマーサからエプロンを受け取ろうとする。
「い、いいのよアイリスお嬢様! 今日はうちの人が、特大の『スタミナ串焼き』を山ほど仕込んであるから! さあさあ、二階のテーブルへどうぞ!」
* * *
トマス薬局の二階、生活感と薬草の匂いが染み付いた雑多なリビング。
使い込まれた大きなオーク材のテーブルには、ジュージューと音を立てる鉄板に乗った特製スタミナ串焼きの山と、マーサお手製の温かいポトフ、そして山盛りのパンが並べられていた。
「うおおおっ! すっげえ匂い! 魔法祭の時に食い損ねたヤツだ! いただきまーす!」
アイクは貴族の作法など完全に無視して、大きな串焼きにガブリと食らいついた。
「んんんまっ!! なんだこのタレ!? ニンニクとスパイスがガツンと来て、肉汁がすっげえ……っ!」
「でしょー! お父さんの特製ダレは世界一なんだから!」
「ちょっと二人とも、はしたないわよ! 少しはセドリックを見習って……って、セドリックも!?」
アイリスが小言を言おうと振り向くと、普段は少食で大人しいセドリックまでもが、無言で、しかし物凄い勢いで二本目の串焼きを平らげているところだった。
「……美味しい。こんなに温かくて、美味しいお肉……僕、初めて食べました」
セドリックは、感動で丸眼鏡の奥の瞳を潤ませていた。
彼の生家であるフォスター男爵家では、食事の時間は常に『優秀な二人の兄』を父が褒め称えるための場であり、「無能な三男」であるセドリックは、いつも食卓の端で息を潜めるようにして冷めた料理を飲み込んでいるだけだった。
こんな風に、大声で笑い合い、美味しいねと顔を見合わせながら、湯気の立つ温かい料理を囲むことなど、彼のこれまでの人生には一度もなかったのだ。
「おお! 嬉しいこと言ってくれるねぇ、セドリック坊ちゃん! ほら、まだまだあるから遠慮せずに食ってくれ!」
トマスが嬉しそうに新しい串焼きの山をテーブルに追加する。マーサも「お野菜もちゃんと食べるのよ」と、セドリックの皿にポトフをたっぷりとよそってくれた。
「あ、ありがとうございます、マーサさん……」
その何気ない「母親」の温もりに触れ、セドリックの胸の奥がじんわりと温かくなる。
「あーっ! アイク、私の分のお肉取ったでしょ!」
「早い者勝ちだっつーの! ほらアイリス、お前ももっと食え!」
「いらないわよ! お肉の脂が跳ねるからあっちに行きなさい!」
私の家なのにーとキーっと肉を頬張るマリーと、取り合うように大きな串焼きにかぶりつくアイク、そしてそれを注意するアイリス。騒がしくて、遠慮がなくて、心から安心できる食卓。
セドリックは、自分がこの「家族」の中に迎え入れられているという事実が、ただひたすらに嬉しかった。
* * *
食後のハーブティーが振る舞われ、アイクとアイリスが「幻影魔法の効率的な展開方法」についてまた口喧嘩のような議論を始めている頃。
セドリックはふと、リビングの隅にある作業机――トマスが仕事で使っているらしい、乳鉢やフラスコが乱雑に置かれたスペース――から漂ってくる、微かな匂いに気がついた。
「あの……トマスさん」
セドリックは、おずおずとトマスに声をかけた。
「ん? どうしたんだい、セドリック君。お茶のおかわりか?」
「いえ……その、あそこのフラスコで煮詰めている薬液なんですが。この甘くて少しツンとする匂い……もしかして、『月長石の粉末』と『竜胆草』を掛け合わせていますか?」
その言葉に、トマスはハッとして目を見開いた。
「おや……? 君、ただ匂いを嗅いだだけで、調合のベースが分かったのかい?」
「あ、はい……少しだけ、本で読んだことがあって。でも、不思議だなと思って。竜胆草は鎮静作用が強すぎます。中和剤に一般的な『青星の粉末』を使うと、魔力素が反発して分離してしまうはずです。それなのに、あの薬液はすごく綺麗に安定している……」
セドリックは立ち上がり、作業机の上のフラスコを眼鏡越しにジッと覗き込んだ。
「もしかして……中和剤の代わりに、『双葉草の根』を、低温で抽出して混ぜていませんか?」
ガタンッ!
トマスが、勢いよく椅子から立ち上がった。
「君……凄いな! 驚いた! その通りだ!」
トマスは興奮した面持ちでセドリックの肩をガシッと掴んだ。
「実は今、エラルド坊っちゃんの『魔力安定剤』の改良版を試作していてな。坊っちゃんの魔力は規格外だから、普通の薬じゃすぐに効き目が薄れちまう。そこで双葉草の根に行き着いたんだが、温度管理が恐ろしくシビアでね……」
「わかります! 双葉草は六十度を超えると急速に酸化しますからね。もしよければ、抽出の際に『水晶の欠片』を一つ沈めておくと、熱伝導が均一になって分離を防げるかもしれません。古代の文献に、そんな記述があった気がします」
「水晶の欠片だと……!? なるほど、盲点だった! 魔力親和性の高い水晶を触媒にするのか……!! 君、なんという膨大な知識量だ!!」
そこからはもう、二人の独壇場だった。
「いやぁ、男爵家の三男坊と聞いていたが、君は本物の薬学の天才じゃないか!」
「そ、そんなことないです! ただ本を読むのが好きなだけで……」
「ぜひ一度、君が読んだというその古代の文献の話を詳しく聞かせてくれないか? 一階の店舗に、私が独自に集めた珍しい素材がたくさんあるんだ!」
「本当ですか!? ぜひ見せてください!」
キラキラと目を輝かせて専門用語の応酬を始める二人を、マリーたちはポカーンと見つめていた。
「……なんか、お父さんに薬草オタクの仲間ができちゃったみたいだね」
「完全に二人の世界ね。でも……セドリック、あんなに嬉しそうな顔をして」
アイリスが、微笑ましそうに目を細める。
普段は自信がなくてオドオドしている彼が、今はトマスと対等に、いや、それ以上に堂々と、自分の知識を誇らしげに語っているのだ。
「なあセドリック君!」
一階の店舗に降りようとする階段の途中で、トマスが急に振り返って提案した。
「君さえよければ、休みの日にでもうちに遊びに来ないか? いや、なんなら一階の店で、薬の調合の助手をやってくれないか! 私一人じゃ手が回らない時が多くて、君ほどの知識がある人間なら、喉から手が出るほど欲しいんだ!」
「えっ……! ぼ、僕が、ですか……?」
セドリックは、雷に打たれたように立ち尽くした。
『お前には初めから何も期待していない。家の邪魔にならないように生きていきなさい』
実家の父の冷たい言葉が、ずっと彼を呪縛していた。
自分は無価値だ。何の役にも立たない。そう思って、暗い書庫に引きこもっていた彼に。
『君ほどの知識がある人間なら、喉から手が出るほど欲しいんだ!』
初めて、大人から自分の「価値」を認められ、必要とされた瞬間だった。
「……はいっ!! 僕なんかの知識で役に立つなら……ぜひ、手伝わせてください!!」
セドリックは、顔をくしゃくしゃにして、深く、深く頭を下げた。
「やったね、セドリック! これでいつでもうちの串焼き食べ放題だよ!」
マリーが無邪気に笑い、アイクが「お前、結局飯目当てじゃねーか!」とツッコミを入れる。
温かい笑い声が、夜の薬局にいつまでも響き渡っていた。
* * *
王都の中心、生徒会室。
「……今日も、セドリック君が来ているんだったかな」
ぽつりとこぼしたエラルドの声には、窓ガラスに映る自身の顔と同じ、ひどく柔らかくて優しい響きがあった。
エラルドにとって、トマス薬局は単なる「幼馴染の実家」ではない。
両親を失い、冷酷な貴族社会と教団の暗躍という息の詰まる世界で生きる彼にとって、マリーとその両親が織りなすあの温かい空間は、絶対に誰にも侵させてはならない『温かい陽だまり』のような場所だった。
最近、自分が生徒会の仕事や教団の調査に追われてなかなか顔を出せない間に、セドリックはトマスと意気投合し、マリーの家族とすっかり打ち解けていると聞く。
マリーも学園で、「最近セドリックがね!」と嬉しそうに報告してくれるようになった。
(本当によかった。彼も、自分の居場所を見つけることができて)
エラルドは、ふっと目を細めて微笑んだ。
学園内の生徒達の情報には生徒会という立場上、あらかた目を通してある。学園で孤立していた男爵家の三男坊を、マリーが持ち前の明るさで引っ張り上げ、彼が本来持っていた薬草学の才能がトマスに見出された。マリーに良い友達ができたことも、心優しいセドリックが笑顔を取り戻したことも、エラルドにとっては自分のことのように嬉しかった。
マリーが毎日楽しそうに笑っていてくれること。それが、エラルドの何よりの幸せであり、彼が戦う理由そのものなのだから。
――けれど。
窓辺の冷たいガラスに額をこつんと預けると、エラルドの胸の奥が、ほんの少しだけ……チクリと、小さな音を立てて痛んだ。
(……舞踏会で、彼らは一緒に踊ったんだよな)
大舞踏会の夜。自分が公爵としての責務に縛られ、遠くから見つめることしかできなかった彼女の手を取って、不格好ながらも楽しそうに踊っていたセドリックの姿が脳裏をよぎる。
そして今も、自分がこうして冷たい生徒会室で書類に向かっている間に、あの温かい薬局のテーブルで、セドリックはマリーのすぐ隣で笑い合っているのだろう。
「……少しだけ、羨ましいな」
誰もいない部屋で、エラルドは小さく自嘲気味に息を吐いた。
それは、決してセドリックを憎むようなドロドロとした黒い感情ではない。
ただ、大好きな幼馴染の隣で、何のしがらみもなく無邪気に笑い合える「普通の学生」としての彼が羨ましくて。
マリーの幸せを心から喜んでいるはずなのに、自分がその輪の中にいられないことが、どうしようもなく寂しい。そんな、ささやかで純粋なヤキモチだった。
(僕が、もっと早くこの裏社会の掃除を終わらせて……彼女が本当に安全に笑える世界を作らなきゃ)
エラルドは窓から視線を外し、再び次期生徒会長としての凛とした顔つきに戻ると、机の上の書類の山へと向かい合った。
彼が抱えている愛情は、あまりにも純粋で、深く、そして自己犠牲に満ちている。
マリーの笑顔を守るためなら、自分が少しの寂しさを我慢することなど、どうってことはないのだと。彼は自分の胸の痛みに蓋をして、ひたすらに完璧な貴公子を演じ続けていた。
――しかし。
彼がひた隠しにして、一人で抱え込み続けていたその「深い純粋な愛」こそが。
後に教団の放つ呪いによって、本人の意志とは裏腹に何倍にも捻じ曲げられ、増幅され……あの暴走を引き起こす引き金になってしまうことなど。
心優しき青年は、まだ知る由もなかった。




