過ぎゆく日々と伝説の美食
華やかな狂騒に包まれた『魔法祭』から数週間。
ミリス魔法学園は、すっかりいつもの平和な、そして少しばかり騒がしい日常を取り戻していた。
秋も深まり、王都を覆う大結界が澄み渡った青空の下で淡い虹色の光を放っている。木々の葉が赤や黄色に色づき始め、冷たさを増した風が冬の足音を感じさせる季節。
昼休みの『ホール大食堂』は、今日も今日とて育ち盛りの生徒たちの熱気で溢れかえっていた。
高いアーチ状の天井に映し出された秋晴れの空の下、見事な装飾が施されたオーク材の長いテーブルには、厨房の妖精たちが魔法で転送してきた豪勢な料理がズラリと並んでいる。
「んーっ! やっぱり秋はこれだね! この『木の実と仔牛のシチュー』、お肉がトロトロで最高! パン、おかわり!!」
食堂の隅、特待生や下位貴族が集まるテーブルで、誰よりも幸せそうな声を上げているのは、もちろんマリー・トマスである。
彼女の前の皿はすでに三枚が空になっており、今は四杯目のシチューに山盛りのフランスパンを浸して、リスのように両頬をパンパンに膨らませている。
「……マリー。あなた、少しは食べるペースを考えなさい。ドレスのウエストがキツくなるわよ」
向かいの席で、白身魚の香草焼きを優雅に切り分けながら小言を言うのは、親友のアイリス・フォン・レインだ。
今日も一寸の狂いもなくハーフアップにまとめられた亜麻色の髪には、魔法祭の日にアイクから贈られた瑠璃色のヘアピンがキラリと光っている。彼女は呆れたようにため息をつきつつも、自分の皿に乗っていた付け合わせの温野菜を、そっとマリーの皿に移してやった。
「えへへ、大丈夫だよ! 走ればすぐ消化するし! アイリスの分のお野菜もありがと!」
「……野菜もちゃんと食べなさいって言ってるのよ、このお肉馬鹿」
「よっ! 相変わらずすっげえ食いっぷりだな、マリー。見てるこっちまで腹が減ってくるぜ」
バンッ、と無遠慮にテーブルの上にトレイを置き、アイリスの隣にドカッと腰を下ろした男。燃えるような赤毛をラフに掻き上げた侯爵家の嫡男、アイクである。
彼はマリーの豪快な食べっぷりを見て快活に笑い飛ばすと、アイリスの方を向いてニシシと悪戯っぽく笑った。
「なんだアイリス、お前少食だな。そんなんじゃ氷魔法の出力が上がんねーぞ。ほら、俺の肉、少し分けてやるよ」
「っ、結構よ! あなたみたいにガサツに食べたら、胃がもたれるわ」
「なんだよ、せっかくの好意を。あ、そうだ。この前の実技の時、お前の氷の結界、少しだけ魔力の立ち上がりが遅かっただろ。俺の幻影魔法のバリアと重ねるタイミングがズレて――」
「それはあなたが、無駄に前に出過ぎるからでしょう! もっと後方に引いてから展開しないと、私の魔力と干渉するのよ!」
アイクとアイリスは、顔を合わせればいつもこうだ。魔法の理論や連携について、口を開けば文句の言い合いが始まる。
しかし、その声色には以前のような棘はなく、どこか楽しげで、互いを信頼し切っているのが傍目にも明らかだった。魔法祭の夜、二人が共にフロアで踊ってからというもの、この「口喧嘩」はもはや一種のコミュニケーション、いや、痴話喧嘩の領域に達しつつある。
(あーあ、またイチャイチャしてる。青春だねぇ)
マリーはシチューを頬張りながら、二人のやり取りを「美味しいおかず」の一つとしてニヤニヤと眺めていた。恋愛感情というものが一ミリも理解できないマリーにとって、二人のこの甘酸っぱい空気は「仲の良い兄妹のケンカ」くらいにしか見えていないのだが、それでもこの賑やかな時間が彼女は大好きだった。
「あ、あの……アイク君も、アイリスさんも、あまり大声を出すと……他のテーブルの方々の迷惑に……」
そんな二人の間で、オドオドと縮こまりながら申し訳なさそうに声を上げたのは、このテーブルのもう一人の住人、セドリック・フォスターだった。
分厚い丸眼鏡の奥の気弱そうな目は、周囲の上位貴族たちの冷ややかな視線を気にして泳ぎまくっている。手元には、食事そっちのけで開かれた分厚い『古代薬草学』の魔導書が置かれていた。
「おお、わりぃセドリック! つい熱くなっちまった」
「まったく、アイクがすぐ大きな声を出すから……。令嬢たるもの慎まなくては。 ごめんなさいね、セドリック。本を読んでいる邪魔をして」
「い、いえ! 邪魔だなんてとんでもないです! 僕こそ、その……ご一緒させてもらって、すみません」
ペコペコと頭を下げるセドリックを見て、マリーは不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるのセドリック。私たちは『あぶれ者同盟』でしょ? 一緒にご飯食べるの、当たり前じゃん!」
「あ、あぶれ者……ふふっ、そうだったね。ありがとう、マリーさん」
セドリックは少しだけ照れくさそうに笑い、ずり落ちた眼鏡を中指で押し上げた。
セドリック・フォスター。
ミリス王国において、最も下位に位置する男爵家の、さらにその三男坊。
歴史と血統、そして魔力の強さが全てのこの階級社会において、彼の立場は「空気」に等しかった。
(……僕がここにいていいなんて、数週間前までは思いもしなかったな)
セドリックは、目の前で豪快にパンを齧るマリーや、気さくに肩を叩いてくるアイク、そして知的で凛としたアイリスを見つめながら、内心で深く感慨にふけっていた。
フォスター男爵家は、かつては王国の宮廷薬師を務めたこともある歴史ある家系だった。しかし、時代の流れと共にその地位は没落し、今では領地の端で細々と薬草園を営むだけの貧乏貴族に成り下がっていた。
そんなフォスター家に、希望の光として生まれたのが、セドリックの二人の兄だった。
長男は幼い頃から火の魔法に優れた才能を示し、王国騎士団の若きエリートとして頭角を現した。次男もまた、風の魔法を操る商才に長け、すでに有力な商会と太いパイプを築きつつあった。
『お前たちは、我がフォスター家の誇りだ。いずれは男爵家を立て直し、再び王宮へと返り咲いてくれるだろう』
厳格な父は、常に二人の兄を褒め称え、期待のすべてを彼らに注いだ。
一方、三男として生まれたセドリックは、どうだったか。
『……お前には、兄たちのような派手な魔力も、才能もないようだな。まあいい、三男のお前には初めから何も期待していない。大人しく書庫の整理でもして、家の邪魔にならないように生きていきなさい』
物心ついた時から、父の彼を見る目は「落胆」ですらなかった。ただの「無関心」だ。
セドリックの魔力は、微弱な土属性。生活の中で少しばかり土を柔らかくしたり、植物の成長を促したりする程度の、戦いにも商売にも到底役に立たない、地味で小さな力だった。
兄たちの輝かしい活躍の陰で、セドリックは広くて薄暗い実家の書庫に引きこもるようになった。
現実の世界には、彼の居場所はどこにもなかったからだ。
埃っぽい古い本を開けば、そこには古代の英雄の冒険譚や、忘れ去られた魔法の理論、そして広大な薬草学の知識が広がっていた。本の中の世界だけが、彼を「役立たずの三男坊」という呪縛から解放し、無限の想像の海へと連れ出してくれる唯一の逃げ場だったのだ。
ミリス魔法学園に入学してからも、彼のその「日陰者」としての生き方は変わらなかった。
貴族たちが派閥を作り、互いの魔力と家柄を誇示し合う華やかな教室。そこはセドリックにとって、実家の書庫よりもさらに息苦しく、恐ろしい場所だった。
彼は常に教室の隅で気配を殺し、誰とも関わらず、ひたすらに本の中に逃げ込んでいた。誰かの目に留まれば、自分の惨めな魔力と家柄を嘲笑われるだけだと思っていたからだ。
――そう、あの日、放課後の図書室前で、彼女に声をかけられるまでは。
『そっかー。実は、私も全く同じこと考えてたんだよね!』
『一人ぼっち同士、一緒に厨房の裏に避難して美味しいお肉でも食べようよ!』
絶望して舞踏会を休もうとしていた彼に、太陽のように明るい笑顔で、一切の卑屈さもなく『あぶれ者同盟』を持ちかけてきた少女。
平民でありながら、この階級社会の荒波を一切気にする様子もなく、ただ「美味しいご飯が食べたい」という本能のままに生きているマリー・トマス。
彼女の存在は、セドリックの灰色だった世界に、突然強烈な光を差し込ませた。
魔法祭での『仮面カフェ』の準備。
彼が長年本の中で培ってきた、誰にも認められることのなかった「薬草学の知識」が、初めてクラスの役に立った。フェリクス委員長に褒められ、アイクに肩を叩かれ、アイリスに頼りにされた。
そして何より、あの煌びやかで恐ろしい大舞踏会のフロアで。
マリーは、彼の手を引き、不格好な「カニ歩きダンス」で、彼を絶望の淵から救い出してくれたのだ。
『すごいよセドリック! 私たち、一回も足踏まなかった!!』
あの時、彼と共にハイタッチをして笑い合ってくれた彼女の笑顔を、セドリックは一生忘れないだろう。
大舞踏会で教団の魔獣が襲撃してきた時も、彼女は逃げることなく、震える彼を真っ先に背後に庇ってくれた。
(マリーさんは、本当にすごい人だ。魔法があんまり使えなくたって、誰よりも強くて、優しくて……真っ直ぐだ)
セドリックは、残りのシチューを綺麗に平らげたマリーの横顔を、眩しいものを見るように見つめた。
恋、というのとは少し違うかもしれない。彼にとってマリーは、憧れの英雄であり、自分を暗闇から引っ張り出してくれた恩人なのだ。
だからこそ、セドリックは思った。今度は自分が、彼女の役に立ちたい。少しでも彼女の力になれるよう、得意な薬学の知識を極め、いつか困っている人を助けられるくらい立派な男になりたいと。
「……ねえセドリック。さっきから本ばっかり見てるけど、何読んでるの?」
不意にマリーが顔を覗き込んできて、セドリックはビクッと肩を震わせた。
「えっ!? あ、いや、これはその……古い薬草の文献で……」
「ふーん。薬草かぁ」
マリーは興味なさそうに視線を外そうとしたが、その時、彼女の目が本の一部の挿絵にピタリと釘付けになった。
「……ちょっと待って。このページに描いてあるの、何?」
「え? ああ、これは古代に生息していたとされる『幻の魔獣、ベヒモス・ピッグ』の想像図だよ。伝説によれば、その肉はどんな高級な霜降り肉よりも柔らかく、一口食べれば魔力が全身に満ち溢れるほどの絶品だったとか……」
「……絶品!!!」
マリーの目が、カッと見開かれた。
その瞬間、嫌な予感を察知したアイリスとアイクが、同時に「あっ」と声を上げた。
「セドリック! 馬鹿、その子に食べ物の話は――」
「ねえセドリック! その本、どこで見つけたの!? もっと詳しい情報載ってないの!? そのお肉、今でもどこかで捕まえられる!?」
マリーはテーブルから身を乗り出し、セドリックの両肩をガシッと掴んで前後に激しく揺さぶった。
「わわわっ! マ、マリーさん、目が怖いです! これはただのおとぎ話というか、古代の伝説で……っ」
「伝説ってことは、昔はいたんでしょ! だったら今でも森の奥深くとかにひっそり生き残ってるかもしれないじゃん! 私、その幻の魔獣のお肉が食べたい! 絶対食べたい!!」
完全に「食欲」のスイッチが入ってしまったマリーは、もはや誰の言葉も耳に入らない。
「ねえ! 図書室の禁書庫とか、古い書庫に行けば、もっと詳しい生息地が書いてある本があるかもしれないよね!? よーし、午後の授業が終わったら、四人で大捜索だーっ!!」
「はあ!? なんで俺たちまで巻き込まれるんだよ!」
「絶対に嫌よ! 私は放課後、氷魔法の復習を……」
「アイクの幻影魔法でこっそり書庫に忍び込んで、アイリスの氷魔法で鍵を壊して、セドリックの知識で本を探す! 完璧な作戦だね! よし、決まり!!」
「「聞いてない!!」」
アイクとアイリスの悲鳴も虚しく、マリーはすでに意気揚々と立ち上がり、拳を高く突き上げていた。
セドリックはガックリと肩を落としつつも、どこか諦めたような、それでいて少しだけ嬉しそうな顔で、分厚い魔導書をパタンと閉じた。
(……やっぱり、マリーさんには敵わないや)
こうして、「あぶれ者同盟(+α)」の放課後のドタバタ大捜索が、半ば強制的に決定したのだった。
* * *
放課後。
西日が差し込む学園の廊下を、四つの影がこそこそと進んでいた。
「なんで俺がこんなこと……」
「ぶつぶつ言わないのアイク。ほら、しっかり幻影魔法で私たちの姿を隠して!」
アイクが展開する微弱な「認識阻害の幻影魔法」に包まれながら、四人が目指すのは、中央図書館棟の地下深くにある『第三閉架書庫』だった。
そこは、通常の生徒は立ち入り禁止となっているエリアであり、歴史的価値のある古い文献や、危険な呪術に関する本が収められている場所だ。
「マリーさん……本当に大丈夫なんでしょうか。もし見つかったら、ただの停学じゃ済まないかも……」
「大丈夫大丈夫! バレなきゃ犯罪じゃないって、うちのお父さんも言ってたし!」
「トマスのおじさん、どんな教育してんのよ……」
アイリスが頭を抱えながら、一行は重厚な地下への階段を降りていく。
カビの匂いと、古い紙の饐えたような匂いが鼻を突く。
地下の最奥、頑丈な鉄格子の扉の前に辿り着いた。
「よしアイリス、出番だよ! あの鍵穴を氷魔法でパキッとやっちゃって!」
「……本当にやるのね。はぁ、見つかっても私は知らないからね。――『氷結破砕』!」
アイリスが指先から鋭い冷気を放つと、鉄格子の古い南京錠がカチンと凍りつき、そのまま音を立てて粉々に砕け散った。
ギィィィ……と重い扉を押し開き、四人は暗い書庫の中へと足を踏み入れた。
書庫の中は、地上の図書館とは比べ物にならないほど不気味で、静まり返っていた。
天井まで届く巨大な本棚が迷路のように入り組み、魔法の明かりも届かない奥の方は完全な暗闇に沈んでいる。
「うわぁ……すっごい本の量。これじゃあ、幻の魔獣の本を探すのに何年かかるか……」
アイクが呆れたように呟く。
しかし、ここで頼りになるのが、本の虫であるセドリックだった。
「ええと、古代生物の分布と食肉文化に関する文献なら、おそらく分類記号の『第八甲種』……あっちの東側の棚にあるはずです」
「おお! さすがセドリック、頼りになるー!」
「そんな、大したことじゃないよ」
マリーに褒められ、セドリックは少しだけ胸を張り、一行を先導して暗い書庫の奥へと進んでいく。
棚の隙間を縫うように歩きながら、マリーは目を皿のようにして「お肉……お肉の美味しい情報……」と本棚を物色している。
アイクとアイリスは、マリーが変な呪いの本に触らないよう、少し後ろから警戒しながらついてきていた。
「……ねえアイク。あなた、最近少し魔力の制御が甘くなっているんじゃない? さっきの幻影魔法も、少しノイズが混じっていたわよ」
「あ? ば、馬鹿言え。俺の完璧な魔法にノイズなんてあるわけねーだろ。お前こそ、最近妙に俺に突っかかってくるよな」
薄暗い通路で、またしても二人の痴話喧嘩が始まる。
「突っかかっているわけじゃないわ。ただ、あなたがたるんでいると、私のペースまで狂うから言っているだけよ」
「へえ? 俺のペースに巻き込まれてるってことは、俺のこと気になってるって証拠だろ?」
「なっ……! 自意識過剰も甚だしいわ! あなたみたいなガサツな男、誰が気にするっていうのよ!」
「なんだと! お前だって、いっつもツンツンして可愛げがねえくせに!」
顔を真っ赤にして言い合う二人。
しかし、暗がりの中で、アイクの大きな手が、アイリスの華奢な手に、ほんの少しだけ……本当に偶然のように、触れた。
ビクッ、とアイリスの肩が跳ねる。しかし、彼女はその手を振り払うことはせず、ただ唇を噛み締めて、プイッとそっぽを向いた。アイクもまた、耳の先を赤く染めながら、無言で彼女の手をそっと握りしめた。
(……青春ですね)
少し離れた場所からその光景を横目で見ていたセドリックは、一人心の中で温かい笑みを浮かべていた。
彼らがこうして、身分の壁など忘れて互いに惹かれ合い、等身大の学生として笑い合えるのも、すべてはこの賑やかで平和な日常があってこそだ。
「あーっ! なかなか見つからないなぁ! ベヒモス・ピッグのお肉、どこに書いてあるのー!」
マリーの不満げな声が、静かな書庫に響き渡る。
「もう少し静かにしてくださいマリーさん! あっ、その辺りの棚に、古代の――」
セドリックが急いでマリーの方へ歩み寄ろうとした、その時だった。
――チリッ。
セドリックの鼻先を、ひどく不快な、何かが焦げるような匂いが掠めた。
ただのカビや古い紙の匂いではない。
もっと、泥のように淀んでいて、生命を腐らせるような……饐えた匂い。
(……なんだ、この匂い?)
セドリックは足を止め、匂いのする方――書庫のさらに奥、厳重に鎖で封鎖された『禁書区画』の方へと視線を向けた。
そこは、完全に光の届かない漆黒の闇。
しかし、セドリックの微弱な土属性の魔力が、大地の底から這い上がってくるような『異質な気配』を微かに感知していた。
よく見れば、禁書区画の前の床に落ちている古い羊皮紙の切れ端が、不自然に……まるで『灰』のようにボロボロと崩れ落ちている。
(灰……? まさか、魔法祭の時に広間を襲撃したっていう、あのテロリストの……?)
セドリックの背筋に、冷たい汗が伝う。
生徒たちの間では、「大広間で魔獣の暴走事故があったが、エラルド様がすぐに鎮圧した」という程度の噂しか流れていない。しかし、本を読み漁り、知識の豊富なセドリックは、あの日の襲撃が単なる事故ではなく、意図的なテロであったことを薄々勘付いていた。
もし、あのテロリストの残党が、この地下深くに潜んでいるとしたら。
「……ッ、マリーさん、アイリスさん! ここは、少し危険かも――」
セドリックが青ざめた顔で叫ぼうとした、まさにその瞬間だった。
「あったああぁぁぁぁぁっ!!!」
鼓膜を破らんばかりの、マリーの歓喜の絶叫が書庫中に響き渡った。
「見てセドリック! 『古代魔獣の調理法〜究極の霜降りを求めて〜』って本、見つけたよ!! これだーっ!!」
「えっ、あ、ちょ、マリーさん、声がデカっ……!?」
マリーの大声に驚き、セドリックの感じていた微かな異変の気配は、完全に掻き消されてしまった。
「おいバカ! こんな地下で大声出したら見回りに見つかるだろ!」
「早くその本持って逃げるわよ! ほら、走って!」
アイクとアイリスが血相を変えてマリーの首根っこを掴み、出口へと向かって走り出す。
「わーっ、引っ張らないで! まだお肉のページ読んでないのにー!」
「後でゆっくり読め! セドリック、お前も早く来い!」
「は、はいっ!」
セドリックは最後に一度だけ、不気味に静まり返る禁書区画の闇を振り返った。
何も動くものはなく、ただの埃っぽい暗闇が広がっているだけだ。
(気のせい……だったのかな)
彼は首を振り、騒がしい三人の後を追って、慌てて地下書庫の階段を駆け上がっていった。
* * *
「はぁ、はぁ……っ、死ぬかと思ったわ」
「まったく、お前のその食い意地のおかげで、停学になるところだったぜ」
夕暮れの学園の裏庭に逃げ延びた四人は、芝生の上にへたり込んで肩で息をしていた。
マリーだけは、胸にしっかりと古い魔導書を抱きしめ、ホクホク顔でページをめくっている。
「えーっと、なになに……『ベヒモス・ピッグの肉は、百日百夜、ドラゴンの炎でじっくりと炙り、エルフの秘薬でマリネすることで初めて毒素が抜け、食すことが可能となる』……」
マリーの朗読が、ピタリと止まった。
「……………………」
「……………………ぷっ」
「あははははっ!! ほら見ろ、そんな幻の肉、お前には絶対食えねーっての!!」
アイクが腹を抱えて大爆笑し、アイリスも呆れ果てて深い深いため息をついた。
「うわああぁぁん! せっかく見つけたのにぃ! ドラゴンの炎なんてどこにあるのよーっ!」
「……マ、マリーさん、元気出してください。あの、お肉なら……」
セドリックがオドオドしながら、慰めるようにマリーの肩をポンポンと叩いた。
「そうだ! この怒りと悲しみは、現実のお肉で満たすしかない! みんな、今日のお夕飯は私の実家の『トマス薬局』にご招待する! お父さん特製の、山盛りスタミナ串焼きをご馳走するから!」
「おっ、マジか! あそこの串焼き、魔法祭の時に食い損ねたんだよな。行く行く!」
「……はぁ。まったく、仕方ないわね。お腹も空いたし、付き合ってあげるわ」
「ぼ、僕も……お言葉に甘えて」
夕焼け空の下、マリーの号令と共に、四人はワイワイと騒ぎながら公爵邸の敷地へと向かって歩き出した。
「アイク、あんまり食べすぎないでよ! 私の分がなくなるから!」
「へっ、早い者勝ちだろ! 俺は十本は食うぜ!」
「ちょっと二人とも、道端で走らないでってば……」
セドリックは、彼らの少し後ろを歩きながら、夕日に染まる三人の背中を静かに見つめていた。
地下書庫で感じた、あの微かな不穏な匂い。
それが何を意味するのか、今の彼にはまだ分からない。
けれど、今はただ、この愛おしくて騒がしい「自分の居場所」を、一日でも長く守りたいと。
彼は眼鏡の奥で、優しく、そして少しだけ力強く微笑んだのだった。




