灰の教団
王都の地下深く、光の届かないさらに奥底。
カルト組織『灰の教団』の真の本拠地である巨大な地底湖の奥に、その「灰色の祭壇」は存在していた。
玉座に深く腰掛けている男――教団トップであるギデオンは、静かに目を閉じ、大空洞に満ちる淀んだ空気を肺に吸い込んでいた。
彼がただそこに座っているだけで、周囲の岩肌から生命力や微量な魔力がパサパサと音を立てて『灰』となって崩れ落ちていく。彼の纏う濃密で圧倒的な『死』のプレッシャー(瘴気)は、絶対的なカリスマとなって数多の狂信者たちを従わせていた。
「……ギデオン様。申し訳ありません。舞踏会への奇襲は、失敗に終わりました」
玉座の前に、空間が陽炎のように歪み、一人の男が姿を現して片膝をついた。
仕立ての良い漆黒の外套を羽織り、顔の半分を『灰色の仮面』で隠した男。教団の最高幹部であり、ギデオンの右腕として暗躍する男だ。彼の右袖は、不自然に空虚に風に揺れている。
「多数の魔獣と教団員を喪失。目標であった『次世代の要人たちの抹殺』は完遂できず……我々は、撤退を余儀なくされました」
「……理由は、聞くまでもないな。エラルド・フォン・アルバーンか」
ギデオンが、蛇のように冷酷で粘着質な目をゆっくりと開いた。
最高幹部の仮面の男が、ギリッと奥歯を噛み締める。
「はい。あの規格外の化け物が、我々の呪詛をすべて氷でねじ伏せました。第三王子のレオンハルトによる迅速な指揮もあり、正面突破での制圧は不可能と判断した次第です」
「よい。責めはせんよ、我が同胞よ」
ギデオンは、感情の読めない酷薄な声で静かに言った。
彼の見据える先にあるのは、目先の小さな敗北ではない。この狂った世界そのものの『理』だ。
「魔力量が絶対的な身分を決定づける、この腐り切った階級社会。魔力を持たぬ者は虫ケラのように虐げられ、一部の特権階級たる貴族どもが、温かな光を独占している……。そのような不平等な世界など、一度すべてを『灰(虚無)』にして終わらせるべきなのだ」
それこそが、灰の教団の真の狙い。
国家転覆すらも通過点に過ぎない、『平等なる灰の世界の創世』。
ギデオンの思想の根源にあるのは、魔力という不条理な呪縛に対する究極の破壊願望だった。富も、身分も、魔力も。すべてが燃え尽き、同じ灰となって風に舞う時、人は初めて真の『平等』を得るのだと、彼は本気で狂信していた。
「王国を支える三本柱――王族、筆頭公爵家、そして大結界。これらを同時に排除するため、未来の王と高位貴族が一堂に会する舞踏会を狙った君の策は、見事だった。……だが、やはりあの『光の公爵』は、我らにとって最大の壁となるか」
十年前。
ギデオンは、大結界の要であるアルバーン公爵家を襲撃する計画を立てた。
当時、ミリス魔法学園の教師として学園内部に潜伏していたこの最高幹部(仮面の男)からの報告で、幼いエラルドが持つ『規格外の純粋な光の魔力』の存在を知ったからだ。
その光を絶望で染め上げ、『闇の器』として反転させて大結界を内部から破壊する。それが、ギデオンの描いた完璧なシナリオだった。
「……十年前のあの日。私が学園教師という身分を捨て、公爵邸の裏庭でエラルドを絶望の淵に追いやったあの瞬間」
仮面の男が、失われた右腕の付け根を憎々しげに押さえながら呻いた。
「どこからか現れた、魔力すら持たない平民の小娘が……私の放った致死の闇魔法を背中に受け、エラルドを庇ったのです。あのイレギュラーのせいで、エラルドの魔力は大暴走を起こし、私の右腕と、教団の悲願は消し飛びました」
ギデオンは、冷酷な瞳を細めた。
あの時、仮面の男が放った呪いは、間違いなくマリーの背中に一生消えない『呪い喰いの特異体質』を刻み込んだ。だが結果として、彼女という「規格外の盾」を生み出し、エラルドという「絶対的な矛」を覚醒させてしまったのだ。
「真正面からの激突では、もはやあの化け物の牙城は崩せん。作戦を変更する」
ギデオンが玉座から立ち上がると、大空洞の湖面がその圧倒的な魔圧に怯えるように波打った。
「次世代の要人たちを外から殺すのが不可能なら……彼ら自身の魔力を暴走させ、内側から国を食い破らせればいい。……『灰の種』を使う」
「灰の種……! 生体呪具ですか。」
最高幹部の男が、仮面の奥で目を見張る。
「そうだ。王都の地下深く、霊脈の基点に種を仕掛けよ。春の訪れと共に霊脈が活性化した瞬間、種が学園の結界を内側から破壊する。……そして、結界内にいる数千人のエリート生徒たちの魔力を強制暴走させ、自我を持たない『灰の魔獣』へと作り変えるのだ」
それは、あまりにも残酷で狂気に満ちた企みだった。
王国が誇る次世代の宝たちを、自国を蹂躙し滅ぼすための『生物兵器』へと変換する。舞踏会での一網打尽に代わる、最も効率的で絶望的な内部崩壊のシナリオ。
「素晴らしい……。あの光の公爵とて、魔獣と化した学園の級友たち数千人を相手に、無傷でいられるはずがありません」
最高幹部の男が、歓喜に打ち震えながら深く頭を垂れた。
「君には、学園の地下水脈に繋がる『旧廃坑』をはじめとした王都の暗がりで、この種を育てる任を命ずる。……我らが悲願、灰の平等な世界は、すぐそこまで来ているぞ」
「はっ。我が右腕を奪ったエラルドと、あの忌まわしき平民の小娘に、必ずや最悪の絶望を与えてご覧に入れましょう。……すべては、灰の神の御心のままに」
仮面の男が空間を歪めて姿を消した後。
玉座に残されたギデオンは、静かに、ひどく冷たい笑みを唇に浮かべた。
彼の狂信的な野望と、十年前から続くドス黒い因縁。その二つが完全に交差する最悪の時限爆弾が、王都の地下深くで、ひっそりとその鼓動を刻み始めたのだった。
ギデオンは、蛇のように冷酷で粘着質な目をゆっくりと開いた。
その瞳の奥には、怒りはない。ただ、どこまでも冷たく、底なしの泥のように濁った諦観だけが張り付いていた。
(……そうだ。この世界は、理不尽なイレギュラーと、強者の気まぐれだけで回っている。……昔から、何一つ変わってはいない)
ギデオンの脳裏に、カビの生えた古い記憶が蘇る。
それは彼がまだ、この国に『希望』や『正義』があると信じて疑わなかった、愚かで若かりし頃の記憶だ。
* * *
今から十二年前。国王による『特待生制度』が始まる前のこと。
魔力をほとんど持たない貧しい平民の出であったギデオンは、圧倒的な『知能』だけを武器に、ミリス魔法学園の「外部研究員」という末端の地位に食い込んでいた。当時は平民が学園に入ることすら許されない時代。彼は貴族の教授たちの雑用をこなしながら、密かに一つの壮大な研究を続けていた。
それは『魔力増幅回路』――生まれつき魔力を持たない平民でも、術式の工夫次第で高位貴族に匹敵する魔法を扱えるようになるという、階級社会を根底から覆す世紀の発明だ。
『先生! 見てください、第三術式のバイパス構造、ついに解けました!』
『……ああ、見事だ、アンナ。君のその知恵は、必ずこの国の不平等を打ち砕く光になる』
王都の貧民街の片隅。彼が密かに開いていた平民向けの私塾で、太陽のように無邪気な笑顔を向けていたのは、教え子の少女・アンナだった。
魔力は空っぽだが、彼女の術式構築のセンスは天才的だった。彼女の協力によって、ギデオンの研究はついに完成の域に達しようとしていた。
――しかし。その希望は、ある日突然、理不尽な暴力によってあっけなく踏み躙られた。
『……ふむ。平民の分際で、小賢しい術式を考えたものだ。だが、回路の出力に肉体が耐えきれず、自壊してしまったな』
学園の地下深くにある、秘密の特別実験室。
鼻を突くのは、肉が焼け焦げた悍ましい悪臭と、高位貴族の教授が纏う、甘ったるく高価な香水の匂い。
石の寝台の上で、アンナは全身の血管が破裂し、黒焦げの肉塊となって事切れていた。
『……あ、ぁ……アンナ……っ! なぜ、お前がこんなところに……っ!』
『騒ぐな、平民の助手風情が。お前が隠し持っていたあの「増幅術式」の論文は、実に興味深かった。ゆえに、私の新たな研究として発表してやることにしたのだ』
教授は、悪びれる様子もなく冷酷に言い放った。
ギデオンの研究は盗まれたのだ。そして、平民の魔力を強制的に引き上げるその術式が「安全かどうか」を試すためだけに、共同研究者であるアンナが拉致され、生きたまま『使い捨ての魔力電池』として回路を繋がれ、暴走して焼け死んだのである。
『お前たち平民は、我々貴族の繁栄のための薪に過ぎん。彼女の命は、私の偉大なる魔法史の1ページとして消費されたのだ。光栄に思え』
絶望と憎悪に泣き叫び、ギデオンは教授を糾弾しようとした。
だが、学園の幹部たちは冷酷だった。「優秀な高位貴族の教授を、平民の小娘一人の失踪で裁くわけにはいかない」。事件は完全に揉み消された。
怒り狂ったギデオンは、学園を飛び出した。
せめて、彼女の両親と共に王宮へ直訴しよう。どんなに圧力をかけられようと、自分たちの発明と、彼女の命の尊厳だけは絶対に護り抜く。そう固く誓い、土砂降りの雨の中を走り、貧民街にある彼女の実家へと飛び込んだ。
『……アンナのご両親! 娘さんは、貴族の実験の生贄にされたんです、私と共に王宮へ……!』
だが。
狭く薄暗いあばら家に飛び込んだギデオンの目に飛び込んできたのは、涙を流す両親の姿ではなかった。
チャリン。チャリン、チャリン。
粗末な木のテーブルの上に積まれた、眩いほどに輝く『金貨の山』。
アンナの両親は、死んだ娘の遺品には目もくれず、ヨダレを垂らさんばかりの笑顔で、教授から渡された莫大な「口止め料」を数えていたのだ。
『あ、ああ、ギデオン先生。わざわざ雨の中をすみませんねぇ』
『いやぁ、アンナは昔から親孝行な子でしたけど、まさか死んでからこんな大金を残してくれるなんてねぇ! これでようやく、あの雨漏りする家から抜け出して、私たちも店が持てますよ!』
『貴族様はなんてお優しいんでしょう! 名誉ある研究の「手伝い」で事故に遭った慰謝料として、一生遊んで暮らせるお金をくださるなんて!』
ギデオンは、雷に打たれたように立ち尽くした。
鼻腔を突く、雨と泥の匂い。そして、人間の欲望が放つ、ドブ泥よりも腐り切った悪臭。
『……あんたたち、自分の娘が……生きたまま使い捨ての実験台にされて、焼き殺されたんだぞ……? なのに、その金で……笑うのか……?』
『先生、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。……魔力を持たない貧乏人が、まともに生きていける国じゃないことくらい、先生だって分かってるでしょう?』
父親が、ニタニタと笑いながら金貨を一枚、ギデオンの胸ポケットにねじ込んだ。
『先生も、これでおいしいお酒でも飲んでくださいよ。あの子のことは、もう忘れて』
――その瞬間。
ギデオンの心の中で、何かが完全に、そして永遠に砕け散った。
(……ああ。なんだ。そういうことだったのか)
強大な魔力と権力で、知識を奪い、弱者の命を虫ケラのように消費する貴族ども。
その貴族から投げ与えられた金と権力の残飯に群がり、娘の命すら喜んで売り飛ばす、誇りなき平民ども。
(魔力という絶対的な階級。富。身分。……そんなものがあるから、人間は皆、等しく腐り果てるのだ)
貴族も、平民も、関係ない。
この魔力階級社会に生きている限り、人間は強者も弱者も等しく『醜悪な化け物』でしかない。
知識で世界が良くなる? 努力で身分を覆す?
……くだらない。そんな希望は、金貨一枚の重みにも勝てない、ただの幻想だった。
(この世界に、救う価値のある人間など、ただの一人も存在しない。……ならば、すべてを燃やし尽くすしかないではないか)
その日の夜。ギデオンは学園の最下層にある『禁書庫』の結界を破り、歴史の闇に葬られた一冊の魔導書を手に取った。
それは、他者の生命力を強制的に奪い取り、自らの魔力へと変換する外道の術――『生命略奪の闇魔法』。奇しくもそれは、あの貴族の教授がアンナの命を吸い尽くしたやり方を、さらに極悪に昇華させた禁忌の魔法だった。
それからのギデオンは、狂気に満ちた圧倒的なカリスマとなった。
彼は学園内で同じように貴族から理不尽な搾取を受けて絶望している若手研究員や生徒たちを、地下の廃坑へと誘い込んだ。その中の一人が、のちに彼の右腕となる最高幹部――当時、魔法史の熱心な教師であった今の『仮面の男』である。
『見よ。これが、傲慢な貴族どもを、そして腐り切った世界を等しく無に帰すための力だ』
ギデオンは、禁書から得た闇魔法を彼らに分け与えた。
魔力がないなら、持っている者から奪えばいい。奪い、喰らい、燃やし尽くす。
貴族社会の重圧で心を壊した者、魔力至上主義に潰された若者、そして貧民街で泥を啜る者たち。ギデオンは彼らに「すべてを灰に帰し、持たざる者として完全に平等な世界を創る」という狂った福音を与え、洗脳し、巨大なカルト組織『灰の教団』を創り上げたのだ。
そして十年前。
彼は、王国を護る大結界の要である「アルバーン公爵家」を内部から崩壊させるため、規格外の魔力を持って生まれた幼いエラルドを闇に堕とそうとした。
だが、その完璧な計画は、あの「アンナ」と同じ魔力を持たない平民の少女の自己犠牲によって打ち砕かれ、彼らは地下の泥水の中へと撤退を余儀なくされたのである。
* * *
「……ギデオン様」
仮面の男の声で、ギデオンは過去の亡霊から意識を引き戻された。
地底湖の冷たい水音が、大空洞に静かに響いている。
「王都の地下水脈に仕掛けた『灰の種』は、春の雪解けと共に完全に発芽します。学園の結界は崩壊し、あの学び舎は数千の灰の魔獣が共食いをする地獄の坩堝となるでしょう」
「ああ。……待ちわびたぞ。長かった」
ギデオンが玉座から立ち上がると、彼の足元から溢れ出した死の瘴気が、水面をドス黒く凍らせていく。
「エラルド・フォン・アルバーン。お前のその美しすぎる光の魔力も、この国を覆う絶対的な身分制度も、偽りの平和も……すべて等しく、無価値な灰へと変えてやろう」
ギデオンの瞳には、もはや一滴の人間らしさも残っていなかった。
そこにあるのは、世界すべてを道連れにして虚無へと還ろうとする、底なしの絶望と狂信。
ミリス王国を根底から喰い破る最悪の時限爆弾の起動が、もうすぐそこまで迫っていた。




