マリーのいつもの暴走 アイク、アイリスとの出会いを思い出す
コロシアムの外周を十周してから3日後。
ミリス魔法学園の第3実験室には、平和で、お気楽で、そして限りなくアホらしい日常の空気が充満していた。
「――本日の課題は『精神を鎮める安らぎのポーション』の調合だ。完成品は無色透明、かつ無臭になるのが正解である。間違っても爆発させるなよ!」
薬草学のモリス教授の厳しい声が響き渡る。
教室内にはいくつもの大鍋が並べられ、生徒たちが班ごとに分かれて真面目に薬草を刻んだり、魔力を込めたりしている。
四人で一つの大鍋を囲むマリー、アイリス、アイク、セドリックの「あぶれ者同盟(+α)」も、一応はその作業に取り組んでいた。
――しかし。大鍋から立ち上る湯気を見つめるマリーの目は、完全に虚無だった。
(ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……)
教室中に響き渡る、雷鳴のような腹の虫。
朝ごはんを寝坊で抜き、いつもならエラルドが呆れ顔で渡してくれるクッキーの差し入れもまだ貰っていないマリーは、極限の空腹状態にあった。
「……ねえセドリック。このベースの薬草、ちょっと煮込んだ牛肉の匂いがしない……?」
「しませんよ! ただの土と青臭い草の匂いです! マリーさん、しっかりしてください!」
セドリックの必死のツッコミも虚しく、完全に幻覚(と幻嗅覚)を見始めたマリーの目には、目の前でコトコトと煮立つ大鍋が『極上のスープ鍋』にしか見えなくなっていた。
(お肉の匂いはするけど、これじゃあコクが足りない。もっとこう、旨味成分を足さないと……!)
ここは魔法薬学の実験室であり、今作っているのはポーションである――という常識は、飢餓状態の彼女の脳内から完全に消え去っていた。
マリーは、アイリスとアイクが火加減の魔力調整に集中している一瞬の隙を突き、ふらふらと教室の後方にある『共用素材の戸棚』へと向かった。
そこには、高度なポーション作りに使われる何百種類もの薬草や乾燥素材が、ガラス瓶に詰められてズラリと並んでいる。本来なら教授の許可なく勝手に持ち出してはいけないものだが、今はどの班も自分の鍋にかかりきりで、モリス教授も前方の教卓で別の生徒の質問に答えており、マリーの不審な動きに気づく者はいなかった。
マリーの野生の勘(食欲)は、何百という危険な魔法素材の中から、的確に『料理のダシに使えそうなもの』だけをロックオンした。
「おっ、これお肉に合う岩塩ぽい! こっちは乾燥キノコ……あ、干し肉みたいなのもあるじゃん! 最高!」
マリーがウキウキと両手に抱え込んだのは、実際には『火竜の岩塩(強い発火作用あり)』であり、『マンドラゴラの乾燥スライス(劇薬)』であり、『干しバジリスクの尻尾(猛毒)』であった。しかし、限界まで腹を空かせたマリーにとっては、ただの美味しそうなスパイスでしかない。
ホクホク顔で大鍋に戻ってきたマリーは、他の三人が止める間もなく、それらの危険物をよだれを垂らしながらバサバサと大鍋に放り込み始めた。
「ちょっと隠し味! これで絶対美味しくなるから!」
「マ、マリーさん!? 何入れてるんですか!? それ指定外の素材です! しかも教科書に載ってないドロドロの茶色になってますよぉぉっ!?」
気弱なセドリックが、分厚い魔導書を涙目でパラパラとめくりながら大パニックに陥る。
彼の言う通り、鍋からは『無臭の安らぎポーション』どころか、食欲をそそる濃厚なコンソメスープの匂いと、ブクブクと不気味な茶色い泡が立ち込め始めていた。
「おい見ろよ、また3組の特待生がなんかやってるぜ!」
「うわっ、すっげえいい匂い! 薬学の時間なのに厨房の匂いがする!」
「マリー! お前それ絶対ポーションじゃなくてスープ作ってんだろ!」
周囲の生徒たちから「またかよー!」という野次馬の声と爆笑が沸き起こる。
この問題児のドタバタ劇は、もはやクラスメイトたちにとって最高に面白い見世物(日常)なのだ。
「ちょっとマリー! 何バカなことしてるのよ! 鍋が沸騰しすぎてるわ!」
野次馬たちの笑い声の中、アイリスは激怒しながらも咄嗟に杖を構え、暴走し始めた大鍋の周囲に『氷の結界』を張り巡らせて冷却を試みた。
その凛とした横顔を、隣で幻影魔法(物理バリア)を展開してサポートしているアイクが、燃え盛る熱気に当てられながらも、どこか眩しそうに見つめていた。
(……ほんと、すげえよな、こいつは)
アイクは、由緒正しき侯爵家の嫡男だ。物心ついた時から、周囲には彼の金や家柄、あるいは整った容姿目当てで媚びへつらう連中ばかりだった。「侯爵家のアイク様」という肩書きしか見ない薄っぺらい人間関係に心底ウンザリしていた彼は、いつしか適当にヘラヘラと笑い、誰にも本性を見せずにやり過ごす『軽薄な男』の仮面を被るようになっていた。
だが、アイリス・フォン・クラインは違った。
『成金の男爵家』というレッテルを貼られ、一部の歴史ある貴族たちから露骨な陰口を叩かれても、彼女は決して誰にも媚びなかった。愛想笑い一つ浮かべず、常に一人で背筋をピンと伸ばし、ツンとした冷たい優等生の仮面を崩さない。最初はただの「プライドの高い嫌な女」だとすら思っていた。
――あの日、放課後の旧演習場で、彼女の『裏側』を見るまでは。
それは、吐く息が白くなり始めた晩秋の夕暮れ時のことだった。
取り巻きの令嬢たちから逃れ、人気のない旧演習場の裏手でサボろうとしていたアイクの耳に、パリンッ、と鋭く氷が砕ける音が届いた。
柱の陰からそっと覗き込んだ彼の目に飛び込んできたのは、夕日に照らされた石畳の上で、たった一人、過酷な魔法の特訓を続けるアイリスの姿だった。
「……っ、まだよ。こんな出力じゃ、エラルド様たち上位陣には到底追いつけない……!」
普段の一寸の隙もない完璧な令嬢の姿からは想像もつかないほど、彼女の呼吸は荒く、額にはびっしりと汗が滲んでいた。
度重なる氷魔法の反動で、彼女の華奢な両手は凍傷寸前のように赤黒く腫れ上がっている。痛いはずだ。辛いはずだ。それなのに彼女は、震える両手をギュッと握り直し、唇を噛み破らんばかりの強い力で己を奮い立たせていた。
「誰にも、成金なんて笑わせない。私がクライン家の……私の価値を、証明するんだから……っ!!」
悲痛なまでの叫びと共に放たれた極寒の魔力が、夕暮れの空気を一気に凍てつかせた。
バァァァァンッ!!と凄まじい音を立てて空中に巨大な氷柱が生まれ、それが限界を迎えて粉々に砕け散る。
夕日を反射してキラキラと舞い散るダイヤモンドダストの中で、痛みを堪えて肩で息をする彼女の横顔は――アイクがこれまで見てきたどんな宝石よりも、泥臭く、気高く、そして圧倒的に美しかった。
(……なんだよ、それ。全然、冷たいお嬢様なんかじゃないじゃんか)
息を呑んで立ち尽くすアイクの胸の奥で、何かが激しく音を立てて弾けた。
家柄を守るため、誰にも馬鹿にされないため、たった一人で血の滲むような努力を重ねていた不器用な少女。その痛々しいほどのひたむきさと、飾らない本当の強さを知ってしまった瞬間、アイクの大事にしていた、何か柔らかいものが彼の琴線に触れたのだ。
その日からずっと、アイクの目はどうしようもなく彼女を追っている。
そして今も、アホな理由で暴走する大鍋を前に、誰よりも必死に皆を守ろうと結界を張る彼女が、たまらなく愛おしく思えた。
「アイク! ぼーっとしてないで魔力を込めて! 結界が保たないわ!」
「お、おう! わりぃ! ――任せとけ、お前は絶対に俺が守る!」
アイリスの氷魔法とアイクのバリアで何とか鍋の暴走を抑え込もうとするが、極限状態のマリーの『執念の食欲パワー(と謎キノコの化学反応)』は、二人の魔力を軽々と凌駕した。
「いっけー! 究極のコンソメスープ、完成ーっ!!」
「アイク! ぼーっとしてないで魔力を込めて! 結界が保たないわ!」
「お、おう! わりぃ!」
アイリスの氷魔法とアイクのバリアで何とか鍋の暴走を抑え込もうとするが、極限状態のマリーの『執念の食欲パワー(と謎キノコの化学反応)』は、二人の魔力を軽々と凌駕した。
「いっけー! 究極のコンソメスープ、完成ーっ!!」
マリーが「仕上げの隠し味!」とばかりに謎のスパイスを勢いよく投入した、その瞬間。
ドッッッッカァァァァァァンッ!!!!
実験室を揺るがす大爆発と共に、濃厚なコンソメ味のスライム状ポーションが、天井まで派手に吹き飛んだ。
「「「ぎゃあああああっ!?」」」
周囲で囃し立てていた野次馬生徒たちも巻き込み、教室中が茶色いドロドロのスープまみれになる。
「マリー・トマァァァァス!! 貴様ら、またやったな!!」
モリス教授の顔面にも見事にスライムが直撃し、鼓膜が破れそうなほどの怒号が響き渡った。
「ああっ……私服のブラウスが……」
「ぼ、僕の魔導書がコンソメ臭に……っ」
アイリスは頭を抱えて絶望し、セドリックは真っ白に燃え尽きて膝から崩れ落ちている。
だが、当の張本人であるマリーだけは、自分の頬に飛んできた茶色いスライムを指で掬ってペロッと舐め、キラキラと目を輝かせていた。
「……あ! これ、お肉にかけたら絶対に美味しい特製ソースだ! 教授、これ瓶に詰めて持って帰ってもいいですか!?」
「いいわけあるか大馬鹿者ォォォ!! 放課後、実験室の大掃除だ!!」
「ぶははははっ!! お前、ほんっと最高だなマリー!!」
腹を抱えて大爆笑するアイクと、激怒する教授、そして「もう嫌ぁぁ……」と泣き崩れるアイリス。
どこまでも平和で、騒がしくて、愛すべき学園の日常が、そこにはあった。




