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怪しげな夜会と毒花

学園での舞踏会襲撃事件から1週間後の、週末の夜。

 王都の中心部――表向きは芸術を愛する貴族たちの社交場とされながら、その実、特権階級の底なしの欲望と密会が渦巻く高級サロンでは、今宵も退廃的で豪奢な夜会が開かれていた。


 フロアには甘く重い香水の匂いと、極上の紫ワインの香りがねっとりと立ち込めている。

 魔力で仄暗く調整されたシャンデリアの下では、露出の多いドレスを着飾った夫人たちが熱を帯びた溜息を吐き、権力と野心に飢えた貴族の男たちが、品の良い笑顔の裏でドロドロとした探り合いを繰り広げていた。ここは、理性を金と権力で脱ぎ捨てる大人たちのための、甘い毒の沼だ。


 そんな華やかな喧騒から分厚い扉で隔てられた、さらに奥。莫大な富と権力を持つ選ばれた人間しか足を踏み入れることのできない、静寂に包まれた仄暗いVIPルーム。

 最高級の真紅のベルベットソファに深く腰を沈め、退屈そうにグラスの赤ワインを揺らしているのは――エラルド・フォン・アルバーンだった。


 彼が纏うミッドナイトブルーの夜会服は、学園で見せる一寸の隙もない完璧な着こなしとは全く違っていた。

 首元のタイは無造作に引き抜かれ、乱暴に開けられたシャツの胸元からは、白く滑らかな鎖骨と、男らしい喉仏が惜しげもなく覗いている。いつもは完璧に撫で付けられているプラチナブロンドの髪も、今は気怠げに乱れ、長い前髪の隙間から覗くサファイアの瞳は、獲物を値踏みするような冷たく妖しい光を帯びていた。


 ――それは、あまりにも危険で、暴力的なまでの色香だった。


 学園の生徒たちが見る彼は、常に涼やかな微笑みを絶やさない、高潔で触れがたい『氷の貴公子』だ。

 そして、幼馴染であるマリーの隣にいる時の彼は、彼女の底なしの食欲に呆れてため息をつきながらも、指先で口元の汚れを拭ってやるような、過保護で少しだけ手のかかる『ただの青年』に過ぎない。


 しかし、今この暗がりに座る彼は、そのどちらでもなかった。

 教団に繋がる手がかりを引きずり出すためならば、自らのその圧倒的な美貌すら最強の武器ハニートラップとして使いこなす。冷酷で、ひどく甘く、触れれば確実にその身を滅ぼされるとわかっていても、なお引き寄せられてしまう猛毒の華。

 長い指先でグラスの縁をなぞりながら、ふっと口角を吊り上げたその退廃的な笑みは、酸いも甘いも噛み分けた裏社会の大人たちすら容易く傅かせる、絶対的な『支配者』のそれだった。


「――お待たせいたしましたわ、エラルド様」


 甘ったるい香水の匂いと共に、豪奢なドレスを着た一人の女性が部屋に入ってきた。

 新興貴族であるバルドー男爵の妻、エレナ夫人。夫よりも一回りも若く、派手好きで愛人を作っているという噂の絶えない、見栄っ張りな女性だ。


「来てくれて嬉しいよ、エレナ夫人。さあ、こちらへ」


 エラルドが甘く低い声で囁き、隣の席をポンと叩く。

 夫人は男を虜にするつもりでこの部屋に入ってきたはずだった。しかし、ソファに座るエラルドの、あまりにも妖艶で完成された大人の男の姿を見た瞬間、完全に立場が逆転したことを悟り、頬を朱に染めてうっとりとしたため息を吐いた。

 そして吸い寄せられるように、エラルドのすぐ隣――互いの吐息がかかるほどの距離に腰を下ろしたのだった。





(……見事な手際だな。あの氷の貴公子が、ここまで見事に『毒花』を演じ切るとは)


 部屋の死角で、認識阻害の魔法をかけて控えていたアーサーとガイルは、息を潜めながらその光景を監視していた。





* * *


エラルドのすぐ隣――互いの吐息が混ざり合うほどの距離に腰を下ろしたエレナ夫人は、心臓が早鐘のように打つのを止められなかった。


(ああ……なんて、なんて恐ろしいほどに美しい男……っ)


 間近で見る『氷の貴公子』の美貌は、彼女がこれまで相手にしてきた金と権力だけを持った醜悪な貴族の男たちとは、完全に次元が違っていた。

 乱れたシャツの胸元から覗く白い肌。少しだけ気怠げに伏せられた長い睫毛。

 彼がグラスを傾けるたびに香る、冷たくてひどく甘い、上質な夜の匂い。

 エレナはこの部屋に入る前、若き次期公爵を手玉に取り、自分のパトロンにしてやろうとすら目論んでいた。しかし今、彼女は自分があまりにも無力で、目の前の完璧な捕食者に抗う術を持たない哀れな獲物であることに気づかされていた。


「エラルド様と、こうして二人きりでお会いできるなんて……まるで夢のようですわ」

「僕の方こそ。今夜の貴女は、このサロンのどの花よりも美しく咲き誇っている。……ずっと、貴女とゆっくりお話ししたいと思っていたんだ」


 エラルドはグラスをテーブルに置くと、長い指先で、エレナの頬にかかった髪をそっと耳の後ろへと流した。

 ビクン、と彼女の肩が跳ねる。彼の手が触れた肌から、火傷しそうなほどの熱と、微弱な『魅了』の魔力が甘い毒となって全身の血を駆け巡っていく。


「エラルド、様……っ」

「エレナ。……君のような美しい人が、あの退屈で冷酷な男爵の傍で飼い殺しにされているなんて、僕には耐えられない」


 彼が低く、囁くように落とした言葉は、エレナが最も欲していた劇薬だった。

 自分を顧みない年の離れた夫への不満。もっと特別扱いされたいという渇望。

 エラルドは、彼女の心の隙間を正確に見抜き、そこに極上の甘い言葉を注ぎ込んでいく。


「僕は、君を縛り付けるすべてのものから君を解放したい。……でも、男爵は君という美しい鳥を手放そうとはしないだろう。彼を完全に失脚させるための『何か』があれば、僕の力で君を必ず自由にできるのだけれど」


 エラルドの顔が近づき、その薄く形の良い唇が、エレナの耳元を掠める。


「教えておくれ、エレナ。君だけが知っている、あの男の秘密を」


 サファイアの瞳に射抜かれ、エレナの理性は完全に白く溶け落ちた。

 この神のごとく美しい青年に愛されるのなら、夫の破滅など安い代償だ。彼女はすがりつくようにエラルドの腕を強く握りしめ、誰にも聞かれないようなかすれた小声で、一気にまくし立てた。


「主人は最近、怪しげな黒いローブの男たちと頻繁に取引をしているのです……! その取引の記録はすべて、本邸の地下にあるワインセラーの、一番奥の隠し金庫に……」

「……隠し金庫の暗証番号は?」

「『永遠の灰』……ですわ。エラルド様、これがあれば、あの人を追い落として、私を……っ!」


 エレナが熱に浮かされたような目でエラルドを見つめ直し、彼の胸に身を委ねようとした、その瞬間。


「――ああ。十分すぎるほどの証拠だ」


 エラルドの声から、先ほどまでの甘い熱が、一瞬にして消え去った。

 それは、エレナの背筋が凍りつくほどの変化だった。耳元で愛を囁いていた極上の声が、突然、絶対零度の吹雪のように冷酷で、虫けらを見下ろすような、ひどく無機質な響きに変わったのだ。


「え……?」


 エレナが戸惑ったように瞬きをし、見上げたエラルドの顔には――つい数秒前まで浮かんでいた妖艶な笑みの欠片もなく、ただただ、汚物を見るかのような冷ややかな軽蔑だけが張り付いていた。


「エラルドさ――」


 彼女がその名を呼ぶよりも早く。

 背後の暗がりから音もなく現れたアーサーの冷たい手刀が、エレナの首筋に正確に振り下ろされた。

 短い悲鳴すら上げる間もなく、夫人は白目を剥いて、そのまま真紅のソファの上に崩れ落ちて気絶した。


「……見事な手腕ですね、エラルド。まさか、五分もかからずに聞き出すとは」

「これ以上の長居は、僕の鼻が曲がりそうだったからね。あの男爵も、妻の管理が甘すぎだ」


 エラルドは、夫人に触れていた自らの指先を、ひどく嫌悪感を滲ませた顔で、懐から取り出した真っ白なハンカチでゴシゴシと拭い去った。まるで、汚れが移ってしまったというように、容赦のない潔癖症的な吹き方だ。


「ガイル先輩。暗証番号と隠し場所は今聞いた通りです。今夜中に、クリフォード家の暗部を使って証拠を押さえてください。男爵の身柄は、アーサー先輩の近衛騎士団にお任せします」

「承知しました。証拠が上がり次第、国家反逆罪で男爵家を取り潰します」

「ええ。教団に繋がる資金源は、一つ残らず、徹底的に『灰』にしてやりましょう」


 汚れたハンカチを、気絶した夫人の顔の上にバサリと投げ捨て、エラルドは冷たい目で立ち上がった。乱れていた首元のタイを締め直し、ボタンを留めると、そこにいるのは再び、一寸の隙もない完璧な『氷の貴公子』だ。


 その横顔は、両親の仇である教団を根絶やしにするためなら、自らの美貌も、他人の人生も、一切の躊躇なく駒として使い潰す――美しくも恐ろしい、本物の『冷血な支配者』の顔だった。


「……終わったなら、僕は帰ります。明日は朝から、マリーの補習に付き合わなければいけないので」

「これだけ血生臭い暗躍をしておきながら、明日は平民の娘の面倒ですか。……貴方のその切り替えの早さには、背筋が凍りますよ」


 呆れたように肩をすくめるガイルを背に、エラルドは夜会の喧騒の中へと、何事もなかったかのように静かに消えていった。

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