舞踏会の夜
学園祭の昼の部が終わりを告げる鐘が鳴り響くと、学園の空気は「お祭り騒ぎ」から、夜の『大舞踏会』に向けた艶やかな熱気へと一変した。
「あとは俺たち男子でやっておくから、お前らはさっさと着替えてこい!」
「アイク、幻影魔法の魔石はちゃんと所定の箱に返すのよ。セドリック、マリーのつまみ食いを見張っててちょうだいね!」
「わ、わかった! アイリスさんたちも、後でね」
カフェの片付けをフェリクス委員長や男子生徒たちに任せ、私とアイリスは女子生徒の波に乗って、東棟に用意された『大化粧室』へと向かった。
大化粧室の扉を開けると、むせ返るような白粉と、色とりどりの香水の匂いが押し寄せてきた。
元々は広大な講義室だった場所が、今日ばかりは魔法の鏡がずらりと並ぶ、令嬢たちのための巨大なメイクルームへと変貌している。宙には光の精霊たちが飛び交い、令嬢たちの肌や髪を最も美しく見せるための柔らかな照明の役割を果たしていた。
「うわぁ……すごい熱気」
「ふふっ、これでもずいぶん空いている方なのよ」
圧倒されて立ち尽くす私に、アイリスが持参したドレスの箱を開けながら得意げに言った。
「ミーシア様をはじめとする上位貴族の令嬢や、特別にお洒落に気合を入れている子たちは、昼の部が終わると早々に馬車で自分のお屋敷に帰るのよ。お抱えの美容師やプロの侍女たちを総動員して、何時間もかけて完璧な身支度を整えてから、夜に再び学園へ乗り込んでくるのが彼女たちのステータスなの。だから、今ここに残っているのは、私たちみたいな下位貴族や、実家が遠い生徒たちだけよ」
「へえー! 舞踏会にかける情熱、すっごいなぁ」
「さあ、感心していないであなたも着替えるわよ! ほら、腕を上げて!」
アイリスに急かされ、私は制服を脱いで、彼女が用意してくれたドレスに袖を通した。
布が擦れる心地よい絹の音がして、背中のリボンがキュッと締め上げられる。
「……よし。サイズはピッタリね」
「うわあ……!」
全身鏡の前に立った私は、思わず小さく歓声を上げた。
アイリスが私のために仕立て直してくれたのは、淡いアプリコット・オレンジのドレスだった。上質なシフォン生地が何層にも重ねられており、動くたびにふわりと柔らかな波を打つ。胸元は上品に隠れつつも、健康的な腕や鎖骨のラインが綺麗に見えるデザインで、裾の長さも私が自分の靴の裾を踏んづけないように、絶妙な長さに調整されていた。
「すっごく可愛い! アイリス、本当にありがとう!」
「喜ぶのはまだ早いわ、マリー。さあ、次は顔よ。そこに座りなさい」
アイリスは私を鏡の前の椅子に座らせると、手際よく化粧道具を広げた。
「あのね、マリー。あなたは決して、誰もが振り返るような絶世の美女や、庇護欲をそそるような儚いタイプじゃないわ」
「うぐっ、はっきり言うね……」
「事実でしょう? でもね、あなたには誰にも負けない健康的な肌のツヤと、人を元気にする明るい魅力がある。だから、変に流行りの白粉を塗りたくって大人の女を気取るより、その持ち前の素材を最大限に活かすのよ」
アイリスの冷たい指先が、私の頬に薄くチークを乗せ、唇にはほんのりと色づく程度の艶やかなリップグロスを引いていく。髪は無理に結い上げず、アイリスが持っていた琥珀色のシンプルな髪飾りでハーフアップにまとめられた。
しばらくして。鏡の中にいたのは、いつもの「お肉大好きな野生児」ではなく、アプリコットのドレスによく似合う、少しだけ背伸びをした元気な令嬢の姿だった。
「どう? これならセドリックの胃痛も少しは和らぐんじゃないかしら」
「すごい……! アイリス、魔法使いみたい!」
「私は元々魔法使いよ。じゃあ、私も準備を終わらせるわね」
私が椅子を譲ると、今度はアイリスの身支度が始まった。
彼女が選んだのは、自身の得意な氷魔法を体現したような、深く冷たいアイスブルーのドレスだった。銀糸で雪の結晶の刺繍が施された細身のドレスは、彼女の透き通るような白い肌と、亜麻色の髪をこれ以上ないほどに美しく引き立てている。
彼女は自分自身に薄く完璧な化粧を施し、最後に、昼間にアイクが買ってくれた『青いガラスの髪飾り』を、愛おしそうにそっと髪に差した。
「……どうかしら」
「すっごく綺麗! アイクが見たら、絶対鼻血出して倒れるよ!」
「も、もう! 鼻血なんて下品なこと言わないで! せっかくの舞踏会の夜なのだから、いつもよりお淑やかに振る舞うのよ」
耳まで真っ赤にして抗議するアイリスと一緒に、私たちはクスクスと笑い合いながら、夜の冷気が満ち始めた学園の廊下へと足を踏み出した。
* * *
大化粧室を一歩出た私たちを待っていたのは、普段見慣れた「学び舎」とは全く違う、魔法のような別世界だった。
夜の帳が下りた学園は、大舞踏会に合わせて特別な装飾が施されている。この時間に学園が解放されるのは、学園祭の舞踏会の日のみである。
いつもは厳格な石造りの回廊には、暖かなオレンジ色の魔力ランプが等間隔に灯され、柱には夜咲きの白薔薇や、淡く光る幻影のツタが美しく這わせられていた。
遠くの大広間からは、オーケストラが奏でる優雅なワルツの調べが、夜風に乗って微かに、けれど確かに響いてきている。
行き交う生徒たちの姿も、昼間とはまるで違っていた。
いつもの見慣れた制服姿は、この時間、学園のどこにもない。そこにあるのは、上質なシルクのドレスや、仕立ての良い夜会服に身を包んだ、立派な淑女と紳士たちの姿だけだ。
ここは元々、国中から集められた貴族の子女たちが通うエリート学園である。
そんな彼らが本気で着飾り、夜の艶やかな光の下に立つと、たった十代の学生であっても、息を呑むほど大人びて見える。
甘く重い香水の匂い、絹のドレスが擦れる音。仮面の下から向けられる熱を帯びた視線と、吐息のような囁き声。
昼間の「お祭り騒ぎ」から一転、学園全体が、ひどく甘く、ムーディーな大人の夜会へと、完全に姿を変えていた。
「すごい……なんだか、学園じゃないみたい。みんな別の世界の、本物の貴族様に見えるよ」
「何言ってるの、元から本物の貴族よ。でも……そうね。夜という時間帯と、この特別な装飾が、みんなをいつもより大胆にさせているのよ」
これが、学園祭の夜だけにかかる特別な魔法――『学園祭マジック』だ。
まだホールの中にすら入っていないというのに、誰もがこの艶やかな空気に酔いしれ、まるで他国の王宮の秘密の庭園にでも迷い込んだかのような錯覚に陥ってしまう。
少し前まで空き教室で魔石の調整をしていた同級生たちが、今はすっかり大人の男性と女性の顔になって、互いをエスコートしながら大広間へと歩いていくのだ。
私たちが男子たちと待ち合わせをしているのは、舞踏会の会場となる『大広間』のすぐ手前にある、広大な噴水広場だった。
夜の広場は、まさに夢の舞台だった。
等間隔に並んだアンティーク調の魔力街灯(ガス灯)が、暖かみのあるオレンジ色の光を放ち、中央にある巨大な白亜の噴水をキラキラと照らし出している。
広くて見通しが良く、それでいてロマンチックなこの場所は、舞踏会に向かう男女の『待ち合わせのメッカ』となっていた。
すでに広場には、着飾った令嬢たちと、正装に身を包んで少し緊張した面持ちの男子生徒たちが、あちこちで合流しては照れくさそうに微笑み合っている。
「あっ、アイリス! いたよ、あそこ!」
噴水のすぐ傍、一番明るい街灯の下に、見慣れた二つの影を見つけた。
「おーい! アイクー! セドリックー!」
私がドレスの裾を軽く持ち上げ、ヒールに慣れない足取りで小走りに近づいていくと、声に気づいた二人が一斉にこちらを振り向いた。
アイクは、侯爵家の嫡男にふさわしい、仕立ての良い漆黒の夜会服を完璧に着こなしていた。普段のルーズな制服姿からは想像もつかないほどスタイリッシュで、赤い髪も今日は少しだけ大人っぽく撫で付けられている。
そしてセドリックは、男爵家の少し地味な紺色のスーツを着ていたが、清潔感があり、背筋をピッと伸ばして待っている姿は、立派な一人の紳士だった。彼らもまた、学園祭マジックによって、普段の何倍も大人びて見えた。
「お待たせ! どう? 似合ってる?」
私がセドリックの前でくるりとその場で一回転して見せると、セドリックは目をパチクリと瞬かせた後、ボンッ! と音が鳴りそうなほど顔を真っ赤にして固まってしまった。
「ま、ま、マリーさん……!? 凄く、その、綺麗というか、可愛らしいというか……っ! まるで別人みたいで、僕、心臓が止まりそうです……!」
「あはは! 大げさだなぁ。でもありがとう! セドリックも、すっごく立派でカッコいいよ!」
私が笑って肩を叩くと、彼は「か、カッコいい……!」と呟いて、そのまま地面に崩れ落ちそうになっていた。
一方、アイクとアイリスのペアはといえば。
アイクは、アイスブルーの完璧なドレス姿で歩み寄ってきたアイリスを前にして、先ほどまでの余裕ぶった態度を完全に失い、口をぽかーんと開けたまま完全に硬直していた。
「な、何よ。変かしら……」
「…………」
「ちょっと、アイク。何か言いなさいよ。マリーのドレスと釣り合わなくて変だとか、色が地味だとか――」
「……いや。すっげぇ、綺麗だ。……見惚れて、言葉が出なかった」
アイクが、金色の瞳を揺らしながら、絞り出すようにそう言った。
一切の茶化しもない、心からの直球の賛辞。
その言葉に、アイリスは一瞬ハッと息を呑み、次の瞬間、彼女の白い頬が、街灯のオレンジ色の光に負けないくらい真っ赤に染まった。
「……ば、馬鹿じゃないの。お世辞なんて言わなくていいわよ」
「お世辞じゃねえよ。……俺には勿体ないくらいだ。その、髪飾りも……つけてくれて、ありがとな」
アイクが照れくさそうに右手を差し出すと、アイリスは少しだけ躊躇った後、そっとその大きな手の上に自分の手を重ねた。
「……足を踏んだら、凍らせるって約束、忘れないでね」
「おう。死ぬ気でリードするぜ」
二人が見つめ合い、優しく微笑み合う。
噴水の水音が心地よく響き、街灯の光が四人を温かく包み込んでいる。
(あーあ、本当に青春だなぁ)
私はセドリックと並んで立ちながら、目の前の完璧なカップルをニコニコと眺めていた。
いよいよ、魔法祭のフィナーレである大舞踏会が始まる。
この最高にロマンチックで艶やかな夜の裏側で、教団の罠が静かに牙を剥き始めていることなど、誰も気づかないまま。大広間へと続く巨大な扉が、重々しい音を立ててゆっくりと開かれようとしていた。




