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休日の一コマ アイリスとお買い物

あの爆発騒ぎから始まった波乱の魔法薬学の実習を終え、その日一日、そして翌日の金曜日の授業も、私は背中の熱をぶり返すことなく無事に乗り切ることができた。

実習での一件以来、気弱なセドリックは私たちに少しだけ心を開いてくれたようで、目が合うと小さく手を振ってくれるようになった。


そして、待ちに待った休日。

雲ひとつない快晴の空の下、私とアイリスは学園の敷地を抜け出し、王都の中心部へと続く『中央商業区』へとやってきていた。


石畳の広い大通りには、色とりどりのテントを張った露店がズラリと並び、活気に満ちた声が飛び交っている。

 このミリス王国の首都は、建国数百年の歴史を持つ重厚な石造りの建築群と、最新の魔法技術が融合した、世界で最も豊かで巨大なメガロポリスだ。石畳の広い大通りには、色とりどりのテントを張った露店がズラリと並び、活気に満ちた声が飛び交っている。


魔法の光で自律して動く精巧なおもちゃ、異国から持ち込まれた珍しい香辛料、バターと砂糖の甘い匂いを漂わせる焼き菓子の屋台。王城と学園を擁するミリス王都は、平民も貴族も入り混じる、国で一番賑やかで豊かな場所だ。


「んーっ! やっぱりお休みの日の街は最高だね! はいアイリス、これ半分あげる!」

「ちょっとマリー、歩きながら食べるのはお行儀が悪いっていつも言っているでしょう。……それに、その串焼き、さっきから何本目よ」


「だって美味しいんだもん! 平日は学園の豪華なご飯もいいけど、やっぱりこういう泥臭くて栄養満点なご飯を食べないと、力が出ないっていうか!」


「……あなたらしいわね。でも、確かに王都の活気は、ここ数年で随分と変わったわ」


 アイリスが街を見渡しながら、ふと真面目なトーンで呟いた。

 彼女の言う通りだ。今の王都のこの爆発的な経済の盛り上がりは、昔からこうだったわけではない。


 すべては十年前――あのエラルドの魔力暴走と『灰の教団』による公爵邸襲撃事件が引き金だった。

 事件を「過激派貴族の反乱」として処理した現国王は、それを口実に不正に塗れた旧態依然とした特権階級の貴族たちを徹底的に粛清し、王家への権力集中(専制政治)を完了させた。

 しかし、現国王の真の恐ろしさと有能さは、ただ権力を独占したことではない。彼が掲げた『実力主義メリトクラシー』の強烈な推進だ。


『国家の繁栄は血筋の古さではなく、実質的な魔力と才能によってのみ測られるべきである』


 国王のこの勅令により、何百年も続いてきた「魔法は貴族だけの特権」という絶対的な前提が崩れ去った。

 魔力さえあれば、あるいは魔法陣や薬学などの知識に秀でていれば、平民であっても重用され、国直轄の魔導機関や事業に参入できるようになったのだ。私のような平民がミリス魔法学園の『特待生』として入学できるようになったのも、この政策の目玉の一つである。



「あ、見てアイリス! あそこの広場、また新しい『魔力指南の辻道場』ができてる!」

「本当ね。『元・王国魔導大隊の老兵が教える、マナの目覚め』……相変わらず、すごい熱気だこと」


 大通りの一角で、退役した老魔導士の周りに平民の親子が群がり、熱心に基礎魔力の手ほどきを受けているのを見て、私たちは顔を見合わせた。

 実力主義の恩恵を最も受けているのは、野心に燃える平民の商人たちと、立身出世を夢見る一般市民だ。「子どもに魔力を目覚めさせれば、貴族と同じ学園に入り、将来は国の中枢で働けるかもしれない」。そんな夢が現実のものとなったことで、王都では今、空前の『魔力教育ブーム』が起きている。身分という天井が取り払われたことで、社会全体がマグマのように熱く、競争的で、ダイナミックに動き始めているのだ。


「でも、その分、経済の回り方は異常なスピードよね。見て、あの取引所の前の人だかり」


 アイリスが視線を向けた先には、王立銀行に隣接する大きな広場があった。

 そこでは、黒板に書かれた数字を前に、商人たちが怒号のような声を上げながら羊皮紙の手形を交換している。彼らが取引しているのは『魔力結晶マナ・ストーン』の先物取引だ。

 平民の事業参入が解禁されたことで、魔法具の動力源となる魔石の需要が爆発的に増加した。最近では、国が管理する中央市場だけでなく、商人のギルド間で独自に価値を保証し合う『非中央集権的な魔石取引ネットワーク』まで誕生しているらしい。私には経済の難しいことはさっぱりだが、エラルドが以前「あれは既存の貨幣価値を根本から変えるかもしれない、興味深いシステムだ」と生徒会室で分厚い資料を読んでいたのを覚えている。


「私には難しいことはわからないけど、街が元気なのはいいことだよ! ほら、アイリス! あそこの仕立屋ブティック、見たことないお洋服がいっぱいある!」

「……ええ、そうね。せっかくの休日だもの、少し見ていきましょうか」


 私はアイリスの手を引いて、王都でも一等地に店を構える高級ブティックの立ち並ぶエリアへと足を踏み入れた。

 ガラス張りのショーウィンドウには、目を見張るような美しいドレスや衣服が飾られている。ここでも、魔法と平民の技術が見事な融合を果たしていた。


「うわぁ……この生地、すっごく不思議! 折り紙みたいに細かいプリーツが入ってるのに、引っ張っても全然シワにならないよ!」

「風の精霊魔法を使って、布の繊維一本一本に『形状記憶』の術式を編み込んであるのね。どんなに動いても美しいシルエットが崩れないなんて……王都の最先端の流行は本当に素晴らしいわ」


 アイリスが感嘆のため息を漏らしながら、鮮やかな色彩のドレスを眺める。

 重くて堅苦しい昔の貴族のドレスとは違う。極限まで軽く、機能的で、それでいて洗練されたデザイン。これもまた、古いしきたりに縛られない新しい時代の商人たちが生み出した傑作なのだろう。


 洋服屋の隣には、大きな家具や美術品を扱う豪奢な工房があった。

「こっちの家具も素敵よ、マリー。見て、このテーブル」

「ほんとだ。木なのに、すっごく滑らかでピカピカしてる……」


 店内に飾られているのは、自然の温もりを感じさせる無垢材と、直線的で洗練された『魔導金属』を組み合わせた家具の数々。豪華絢爛でごちゃごちゃとした成金趣味ではなく、どこか東方の思想を取り入れたような、無駄を削ぎ落とした『静謐』な美しさがあった。

 家具だけではない。店の奥には、大昔の神殿から発掘されたような、古い木彫りの仏像に似た美術品が、最新の魔力照明に照らされて美しく飾られている。古い歴史の静けさと、現代の洗練された魔法技術の融合。


「エラルド様も、こういう落ち着いた設えがお好きだって言ってたわよね」

「うん。あいつ、いっつも図書室でこういう家具工房が出してる『幻影録(立体的に家具の映像が浮かび上がる魔導書)』を眺めてるよ。いつか自分の部屋を和?……えっと、ワビサビのある現代スタイルにしたいんだって」


 そんなふうにウィンドーショッピングを楽しみながら大通りを進むと、今度は色鮮やかな光の粒子が宙を舞い、大歓声が聞こえてくる巨大な広場に出た。

 石造りの野外円形闘技場を改装した、平民の娯楽の殿堂『大幻影劇場』だ。


「あ、今日はお昼から『英雄王の凱旋』の演目をやってるみたい! 今日もすごい人だねー」

「……私はあまり好きじゃないわ。あんな人混みの中で、立ち見をするなんて」

「えーっ、すっごく楽しいのに! 光と音の魔法で作られた大迫力の幻影劇を見ながら、近所の人たちとワイワイ応援して、終わった後に広場のベンチで感想を言い合うあの時間が最高なんだから!」


 魔法技術の民間転用によって生まれたこの幻影劇場は、貴族の嗜みであった観劇を平民にも開かれたものにした。広場に集まって、皆で同じ物語を見て笑い、涙を流す。私にとってそこは、何物にも代えがたい至福の空間なのだ。


 劇場の裏路地を通りかかると、今度は子どもたちの熱狂的な声が聞こえてきた。


「いっけえぇぇ! 俺の赤竜レッドドラゴンゴーレム!」

「甘いぜ! こっちの岩石巨人の方がパワーが上だ!」


 木箱を土俵代わりにして、十歳くらいの少年たちが手のひらサイズの小さな土人形ゴーレムを闘わせて遊んでいる。

 彼らが熱中しているのは、最近王都の子どもたちの間で爆発的に流行している『機巧人形カラクリバトル』だ。安価な魔石の欠片を動力源にして、自分たちで土や木を削って作った小さな魔獣を動かして相撲を取らせる遊び。手先の器用なドワーフの職人が作った強力なパーツや、希少な属性魔石などは、大人たちの間でも信じられないような高値で取引されているらしい。


「この前、大広場での公式戦で優勝した奴が、賞品の『雷鳴の魔石』を家一軒建つくらいの値段で売ったらしいぞ!」

「マジかよ! 俺も絶対強くなって大会で優勝してやる!」


 目を輝かせてゴーレムバトルに熱中する子どもたち。

 美味しいご飯の匂い。最先端の魔法ファッション。競い合うように商売をする大人たち。

 実力主義という過酷な波に揉まれながらも、このミリス王都に生きる人々は、皆それぞれにたくましく、そして自由に自分の人生を楽しんでいる。

 十年前の薄暗い暴動の空気は、もうどこにもない。ここは、魔法という奇跡を使って、人間が人間の力で切り拓いている、最高に活気に満ちた美しい世界なのだ。



「それよりアイリス、あっちのクレープ屋さん、すっごくいい匂いがする! 次はあそこに行こう!」




 私は明るい声を上げて彼女の手を引いた。

 広場の角にあるクレープの屋台では、人の良さそうなおばさんが、小さな火の精霊サラマンダーが宿った魔石コンロを使って、器用に薄い生地を焼き上げていた。


「おばちゃん、イチゴと生クリームたっぷりのやつ、二つお願い!」

「はいよ! お嬢ちゃんたち、学園の生徒さんかい? 可愛らしいからオマケしてあげるね!」


 おばさんがウインクしながら、こぼれ落ちそうなほどフルーツを盛ってくれたクレープを受け取る。

 私たちは広場の端にあるベンチに並んで腰を下ろし、甘い香りに包まれながら女子同士のおしゃべりに花を咲かせた。


「んーっ! 甘くてすっごく美味しい! アイリスも早く食べてみて!」

「もう……口の周りにクリームがついてるわよ、マリー」


 アイリスはハンカチで私の口元を拭いながら、自分も小さくクレープをかじる。そして「……美味しいわね」と、年相応の可愛らしい笑顔を見せた。

 それからはもう、他愛のない話の連続だった。

 新しくできたブティックのドレスの話。魔法薬学のフィリップ先生の髪型が最近少し後退してきたんじゃないかという噂。セドリックが意外と毒舌な一面を持っていることへの驚き。


 気がつけば、王都の空はすっかり茜色に染まり、街のあちこちで魔力照明ストリートランプがポツポツと温かい光を灯し始めていた。


「あーあ、楽しいお休みってどうしてこんなに早く終わっちゃうんだろう」

「あなたが寄り道ばかりして、食べるか喋るかしかしてないからよ」


 帰り道。夕暮れの石畳を歩きながら、アイリスが呆れたように言う。けれど、その足取りはどこか名残惜しそうだった。


「でも、今日は楽しかったわ。……マリー、付き合ってくれてありがとう」

「ううん! 私の方こそ、すっごく楽しかった! このヘアピンも、明日から毎日着けていくね!」

「……ええ。なくしたら承知しないわよ」


2人で街を歩いてたまたま立ち寄った商店で見つけた髪飾り。マリーにきっと似合うからとアイリスがプレゼントしてくれたのだ。

 大通りの交差点で、私たちは立ち止まった。

 アイリスを迎えに来た男爵家の馬車が、すでに通りの向こうで待機している。


「じゃあ、また月曜日に。学校でね」

「うん! また学校でね、アイリス! 気をつけて帰ってねー!」


 馬車に乗り込むアイリスに大きく手を振り、私は彼女の姿が見えなくなるまで見送った。

 一人になった帰り道。楽しかった休日の余韻を噛み締めながら、私は見慣れた筆頭公爵邸へと足取り軽く向かった。


 * * *


「ただいまー!」


 実家の薬局(公爵邸の敷地内)に顔を出し、両親に「お帰りなさい、夕飯はもう少し後よ」と言われたのを確認してから、私は迷うことなく公爵邸の本館へと向かった。

 見慣れたメイドたちに「マリー様、お帰りなさいませ」と微笑みかけられながら、慣れた足取りで二階の奥――エラルドの私室へと向かう。

 図書室ではなく、彼の本当のプライベートルームだ。


「エラルドー、いる? 入るよー」


 ノックを二回して、返事を待たずにガチャリと重い扉を開ける。


「……君は本当に、少しは待つということを覚えないね」


 部屋の奥、重厚なデスクに向かっていたエラルドが、苦笑しながら顔を上げた。

 彼の部屋は、今日アイリスと見た家具工房のディスプレイのように、無駄な装飾を省いた落ち着いたウッド調の家具で統一されている。

 休日の彼は、学園での息が詰まるような完璧な制服姿ではなく、襟元の開いたゆったりとした白いシャツを着ていた。手には羽ペン、そして珍しく、書類仕事用の銀縁の伊達眼鏡をかけている。


「うわ、眼鏡! エラルド、なんか急にガイル先輩みたいなインテリに見える!」

「……褒め言葉として受け取っておくよ。生徒会の仕事の残りを片付けていたんだ。……マリーは、アイリスとの買い物は楽しかったかい?」


 エラルドはペンを置き、眼鏡を外してデスクの端に置いた。

 その顔には、外の世界で被っている『氷の貴公子』は微塵もない。ただの気の置けない、穏やかな顔だった。


「すっごく楽しかった! クレープも美味しかったし、幻影劇場の前もすごい熱気だったよ。あ、そうだ! 見て見て、これ!」


 私は彼に見せびらかすように、前髪に留めた瑠璃色の石のヘアピンを指差した。


「アイリスが買ってくれたの! 私の瞳の色に似てるからって。どう? 似合う?」

「……へえ」


 エラルドのサファイアの瞳が、少しだけ細められた。

 彼は立ち上がり、私のすぐ目の前まで歩み寄ると、その長い指先で、ヘアピンの瑠璃色の石にそっと触れた。


「……うん。とてもよく似合っているよ。君の瞳と同じで、すごく綺麗だ」


 まっすぐに見下ろしてくる彼の声が、少しだけ低く、なんらかの響きを帯びる。 

 耳の奥がくすぐったくなって、私は「えへへ、でしょ!」と誤魔化すように笑って一歩距離を取った。


「あのね、アイリスってば学園だとすっごく厳しいけど、お買い物してるときはすっごく乙女なんだよ。可愛いリボンとか見つけると目がキラキラしててさ……」

「そう。それは楽しかったね」


 私はそのまま、彼の部屋の大きなソファにドサリと遠慮なく身を投げ出した。

 エラルドはそんな私の行儀の悪さを咎めることもなく、「紅茶を淹れようか」と部屋の隅の魔導コンロでお湯を沸かし始めてくれる。


「うん、お願い! あ、あと今日はお土産もあるよ! お父さんが焼いてくれたジンジャークッキー、二人で食べようと思って持ってきたの!」

「それは嬉しいな。この書類が終わったら、一緒に食べよう」


 エラルドは私の言葉に柔らかく微笑むと、部屋の隅の魔導コンロでお湯を沸かし始めた。

 私は「ふいーっ」と息を吐きながら、靴を脱ぎ捨てて彼の部屋の大きな革張りソファにドサリと遠慮なく身を投げ出す。

 歩き回って少し暑かったので、ブラウスの第一ボタンを外し、クッションを抱き抱えるようにしてゴロンと仰向けに寝転がった。フレアスカートの裾がめくれ上がり、足が投げ出された無防備な姿勢になるが、ここはエラルドの部屋だ。私の実家と何も変わらない。


「はい、マリー。君の好きなハチミツを多めに入れておいたよ」

「わぁ、ありがと……って、ん?」


 湯気を立てるティーカップをローテーブルに置いたエラルドが、私の姿を見るなり「はぁ……」と深く、とても深いため息をついた。

 彼はソファの横にあった薄手の毛布を手に取ると、私のめくれ上がったスカートの上からバサリと容赦なくそれを被せてきた。


「ちょっとマリー、いくら俺の部屋だからって無防備すぎる。はしたないから隠しなさい。お腹が冷えるよ」

「えー、別にエラルドしかいないからいいじゃん。それに今日暑いし」

「だめだ。君は病み上がりなんだから」


 エラルドは呆れたような、口うるさい保護者のような顔で私をたしなめる。弟みたいだったくせに。ぶーと私は膨れた。


「はーい、わかりましたー。ほら、クッキー食べよ!」


 私は毛布にくるまりながら起き上がり、お父さん特製のクッキーの包みを開けた。

 エラルドもデスクから離れ、私の隣に腰を下ろす。

この部屋では、お互いの肩が触れ合う距離に座るのが当たり前だった。


 私は自分の分のクッキーを囓りながら、エラルドの手元を見た。彼がちょうど手に取った、星の形をした一番美味しそうなクッキー。


「あ、それ美味しそう! ちょーだい!」

「えっ? あ、こらマリー」


 パクッ。

 私は彼が口に運ぼうとしていたクッキーを、横から身を乗り出して直接パクリと横取りした。

 ジンジャーのピリッとした甘さが口に広がる。私が「んーっ、美味しい!」と満面の笑みを向けると、エラルドは少しだけ目を丸くしたあと、仕方ないなとでも言うようにクスクスと笑い出した。


「君は昔から本当に変わらないね。人のものの方が美味しく見えるのかい?」

「だってエラルドがいっつも一番美味しいところ取ってる気がするから!」


 エラルドの家の食卓でも、実家での夕食でも、私は平気で彼のお皿から美味しそうなおかずを横取りする。エラルドはそれを咎めるどころか、「これも食べるかい?」と自分の分の肉を綺麗に切り分けて私の皿に乗せてくれるのが常だった。昔からずっと、私たちの間には「自分のもの」という境界線すら曖昧なのだ。


「……マリー。口の端、クッキーの欠片がついてるよ」


 不意に、エラルドが私の方へと身を乗り出してきた。

 彼の綺麗な顔がスッと近づき、ほんの十センチほどの至近距離で、長い指先が私の唇の端を優しく拭う。

 学園の令嬢なら、この完璧な美貌がここまで接近してきただけで、顔を真っ赤にして気絶してしまうだろうのだろうか。私は内心おかしく思いながら、その綺麗な顔をジッと見つめ返した。


「ん? なに?……ねえエラルド、目の下に少しクマできてるよ?」

「……え?」

「やっぱり生徒会の仕事で寝てないんでしょ。一昨日、私が温室で倒れた時もずっと看病してくれてたし……無理しすぎだよ」


 私が至近距離で彼の目の下を指差すと、エラルドの動きがピタリと止まった。

 彼はほんの数秒、微かに目を瞬かせた後、ふっと毒気を抜かれたように息を吐き、私の額を軽く指で弾いた。


「痛っ」

「……誰のせいだと思ってるんだか。君の顔色を見るまでは、俺が安心して眠れるわけないだろう?」

「うぅ、ごめんなさい……」


 エラルドは苦笑しながら身を引き、再び紅茶に口をつける。

 その横顔を見ていると、一日中歩き回った疲れと、お腹がいっぱいになった安心感からか、急激な睡魔が私を襲い始めた。


「ふわぁ……。なんか、急に眠くなってきた」

「もう? 仕方ないな……ソファで寝ると体が痛くなるよ。夜ごはんはどこで食べるの?家に送ろうか?」

「ううん、帰るのめんどくさい。……ちょっとだけ、エラルドのベッド借りるねー」


 私は立ち上がると、フラフラと部屋の奥にある巨大な天蓋付きのベッドへと歩いて行き、そのまま躊躇うことなくダイブした。

 ふかふかの高級なマットレスに身体が沈み込む。私はエラルドのシーツにぐるぐると包まり、彼の枕に顔を埋めた。


「んー……微かに、エラルドの匂いがする。……落ち着く……」

「……っ。マリー、君ねぇ……」


 背後から、エラルドのひどく疲れたような、頭を抱えるような声が聞こえた気がしたが、私の意識はすでに心地よい泥の中へと沈みかけていた。

 私が彼のベッドを占領して爆睡するのは、これが初めてではない。いつだって彼は、文句を言いながらも決して私を追い出したりせず、自分がソファで寝るか、私が起きるまで隣で静かに本を読んで待っていてくれるのだ。


 微睡みの中。

 ベッドの縁が静かに沈む気配がした。

 そっと、私の頭を撫でる大きな手のひらの感触。


「……おやすみ、マリー」


 耳元で囁かれたその声は、いつもの親しみを帯びていて、お昼の疲れもあってか私はすっかり安心してスッと完全に眠りに落ちていた。


 カリカリという羽ペンの音。紅茶の香り。

 優しくて、温かくて、微塵の疑いもない絶対的な安心感。

 この落ち着いた穏やかな日常が私は大好きなのだ。


 

 

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