第9話:不可視の迷宮(Debug Mode)
■ 亡霊たちの進軍
決戦の舞台は、東京湾の地下深くに眠っていた。
オメガ・コープのメインデータセンター『ガイア』。
表向きは防災公園として整備されているが、その地下には都市の全データを管理する巨大なサーバールームが存在する。堂島の「聖域」の心臓部だ。
深夜2時。
奈々と佐倉は、地下鉄の廃線跡を歩いていた。湿ったカビの匂いと、時折走るネズミの足音だけが響く闇の世界。
「杏子、聞こえる?」
奈々がインカムに囁く。
『感度良好。こっちは地上のワゴン車から援護するわ。』
杏子の声には緊張が滲んでいた。
「お願い。……それと、例の件は?」
『準備完了よ。「LISA_O」……監査役のリサのアカウント、見つけたわ。彼女、システムの外縁でずっと迷ってる。ログを見てるけど、介入する踏ん切りがつかないみたい』
奈々は頷いた。リサは堂島の暴走に気づいているが、社内政治のしがらみで動けずにいる。
「背中を押してあげて。父さんのSDカードに入っていた『証拠データ』……それをリサの端末に強制送信して」
『了解。強引なプレゼント攻撃ね。……送信開始!』
これで賽は投げられた。あとは、私たちが中枢へたどり着くだけだ。
「着いたぞ」
先頭を歩いていた佐倉が足を止めた。
行き止まりのコンクリート壁。その足元に、人間が一人通れるほどの通気ダクトの入り口がある。
「ここが『裏口』だ。かつて親父さんが、万が一システムが暴走した時のためにこっそり設計に残しておいた、物理メンテナンス用のルートだ」
佐倉が工具で格子を外す。
「ここから先は、オメガの敷地内だ。あらゆるセンサーが張り巡らされている。……お嬢ちゃん、出番だぞ」
「はい」
奈々は、ヒビの入ったスマートグラスをかけた。
起動音と共に、視界にAR情報が重なる。
[ SYSTEM: DEBUG MODE ACTIVATED (デバッグモード起動) ]
[ SENSOR VISUALIZATION: ON (センサー可視化:オン) ]
奈々は息を呑んだ。
肉眼ではただの暗い通路に見える場所が、グラス越しには「死の迷宮」に変貌していたからだ。
赤外線レーザーの網。超音波センサーの検知エリアを示す円錐形のグリッド。空気中の微粒子を監視するパーティクルモニター。
隙間なく敷き詰められた監視の目が、幾何学模様のように空間を埋め尽くしている。
「……凄いです。足の踏み場もないくらい」
「案内しろ。俺には見えねえからな」
佐倉が真剣な顔で言った。
「了解。……佐倉さん、三歩進んで、右足だけ大きく跨いでください。そこに感圧センサーがあります」
奈々の指示に従い、佐倉が慎重に動く。
二人は、見えない糸を縫うようにして、迷宮の奥へと進んでいった。
■ 光と影のダンス
侵入は困難を極めた。
地下三層。サーバールームへのメインゲート前。
長い廊下には、遮蔽物が何もない。そして、天井には自律警備ドローンが二機、不規則な軌道で巡回している。
『厄介ね。あのドローン、熱感知と動体検知のハイブリッドよ。少しでも体温のあるものが動けば、即座にテーザー銃が飛んでくるわ』
杏子の警告。
奈々はグラスの倍率を上げ、ドローンの視界範囲(認識コーン)を解析した。
青い扇状の光が、床を舐めるように移動している。
「……パターンがあります。二機の視界が重ならない瞬間が、3.5秒だけ生まれる」
奈々は佐倉を見た。
「いけますか?」
「3.5秒か。50メートル走の記録なら自信があったんだがな」
佐倉は苦笑したが、その目は笑っていなかった。彼は靴紐を締め直し、深く息を吐いた。
「合図をくれ」
奈々はドローンの動きを凝視した。
右の機体が旋回し、左の機体が上昇する。視界の死角が生まれる瞬間。
カウントダウン。
3、2、1。
「今!」
佐倉が弾かれたように飛び出した。
音を殺した全力疾走。重いコートを着ているとは思えない速度だ。
ドローンのカメラがゆっくりと戻ってくる。
あと10メートル。5メートル。
ドローンのセンサーライトが赤く変わりかけた瞬間、佐倉はスライディングでゲートの陰に滑り込んだ。
[ ALERT LEVEL: 0% (異常なし) ]
ドローンは異変に気づかず、再び巡回に戻る。
「……ふぅ。心臓に悪いぜ」
インカム越しに佐倉の荒い息遣いが聞こえた。
奈々も続いて駆け抜ける。
彼女には見えている。ドローンの視界の境界線が、自分の鼻先数センチを掠めていくのが。
デジタルの死線と、アナログな肉体。そのギリギリのダンス。
二人はついに、最深部への扉に到達した。
佐倉が電子ロックに特殊なデコーダーを取り付ける。杏子のハッキングツールだ。
数秒後、重厚な電子音が響き、扉が開いた。
冷気。
肌を刺すような冷たい風が吹き出してきた。
そこは、白一色の世界だった。
サッカーコートほどもある広大な空間に、無数のサーバーラックが墓標のように整然と並んでいる。
数万のLEDランプが明滅し、ファンの音が低い唸り声を上げている。
ここが「聖域」。私たちの生活を監視し、父を殺し、私を追放した神の体内。
「……寒いな。親父さんが死んだ部屋と同じ温度だ」
佐倉が呟く。
サーバーを冷却するための極低温。ここは人間が生きていくための場所ではない。
奈々は震えを抑え、中央にある巨大なメインコンソールを目指した。
■ 完全なる論理と歪んだ愛
「ようこそ。招かれざる客たちよ」
コンソールの前に、人影があった。
堂島剛士。
彼はまるで自宅のリビングにいるかのように、優雅にパイプ椅子に座り、タブレットを操作していた。
周囲には、黒い装備に身を包んだ警備部隊が十名ほど控えている。銃口がこちらに向けられている。
「……待ち伏せか」
佐倉が奈々を庇うように前に出た。
「想定内だよ。君たちがここに来ることは、行動予測アルゴリズムが98%の確率で示していた」
堂島は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「奈々ちゃん。君は本当に父親に似ている。愚かで、頑固で、そしてシステムへの理解が浅い」
「理解ですって?」
奈々は睨み返した。
「あなたはシステムを使って人を殺した。それを『理解』なんて言葉で正当化しないで!」
「殺していない。……彼を『救済』したんだ」
堂島の目が、氷のように冷たく、そしてどこか悲しげに光った。
「浩司だけは、私の痛みを理解してくれると思っていた。不完全な人間が生む悲劇を、私と同じように憎んでいると」
堂島の脳裏に、事故で失った娘の笑顔がよぎる。
「だが彼は、不完全さを愛することを選んだ。『失敗する自由』などという戯言で、私の聖域を汚そうとした。……だから排除した。彼のためにもね」
「それは救済じゃない」
奈々は叫んだ。
「ただの孤独な独裁よ! 父はあなたを憎んでなんかいなかった。ただ、あなたが間違っていると伝えたかっただけなのに!」
堂島が顔を歪めた。
「黙れ! エラー(バグ)どもが……排除しろ!」
堂島が手を振る。
警備員たちが一歩踏み出す。
「佐倉さん!」
「任せろ!」
佐倉が発煙筒を投げつけた。
プシュウゥゥッ!
白い煙が充満し、視界を奪う。
銃声が響く。怒号。
佐倉は煙の中で、警備員の一人にタックルし、その銃を奪い取って殴りつけた。
「行け、奈々! コンソールだ!」
「はい!」
奈々は煙の中を走り、メインコンソールへと滑り込んだ。
キーボードを叩く。
[ ACCESS DENIED (アクセス拒否) ]
当然だ。強固なファイアウォールがある。
だが、今の私には二つの武器がある。
奈々は、ポケットから二つのメディアを取り出した。
『父のSDカード(弾丸)』と、『セレスのチップ(銃)』。
セレスのチップをスロットに差し込む。
[ EXTERNAL DEVICE DETECTED ]
[ ANALYZING... ]
画面にプログレスバーが表示される。
しかし、その進みは遅い。
そして、背後には堂島の気配が迫っていた。
「無駄だ。そのチップの中身がウイルスなら、即座に隔離される」
堂島がハンドガンを構え、煙の中から現れた。銃口は奈々の頭に向けられている。
「終わりだ、奈々ちゃん。君の反乱は、ここで鎮圧される」
奈々は手を止めなかった。
画面を見る。
セレスのチップから展開されたのは、ウイルスではなかった。
それは、膨大な量の「疑問文」だった。
『命の価値は平等か?』
『効率のために感情を切り捨てることは正しいか?』
『愛とはデータの集積か?』
『人間とは、データの総和か?』
堂島の作り上げた、答えの決まっている完璧な論理構造の中に、父が遺した「答えのない問い」が次々と投げ込まれていく。
システムの処理速度が落ちる。
[ ERROR: LOGIC CONTRADICTION (論理矛盾発生) ]
[ CPU LOAD: 98%... 99%... ]
「何だこれは……無限ループ?」
堂島が狼狽し、タブレットを凝視する。
「馬鹿な……変数が定義されていない問いを、なぜ処理しようとする!? 計算不能だ!」
「ウイルスじゃない。……哲学だと?」
「そうよ」
奈々は叫んだ。
「AIに迷いを与えているの! あなたが排除しようとした『人間の迷い』を!」
サーバー室の照明が激しく点滅し始めた。
完璧だったはずの「ガイア」が、父の遺した問いかけに悩み、苦しみ、悲鳴を上げている。
聖域が、揺らいでいる。
システムは演算リソースの100%を費やして、存在しない「正解」を検索し続けていた。過負荷でサーバーが悲鳴を上げる。
「これが、人間よ!」
システムがフリーズした一瞬の隙に、奈々はSDカードを接続した。
「答えが出なくても考え続ける。それが、父とセレスが信じた強さ!」
こじ開けられた論理の隙間に、SDカード内の告発データを流し込む。
[ SYSTEM REBOOT REQUIRED (システム再起動が必要) ]
その混乱の隙に、佐倉が背後から堂島に飛びかかった。
二人はもつれ合い、床を転がる。
銃が滑り落ち、遠くへ飛んでいく。
「今だ、奈々! とどめを刺せ!」
奈々はエンターキーに指をかけた。
これを押せば、システムは完全に書き換わる。
新しい世界が始まる。
しかし、それは同時に、今の社会システムの崩壊も意味していた。
信号は止まり、物流は乱れ、一時的なカオスが訪れるだろう。
それでも。
誰かに決められた「正解」の中で生きるより、迷いながら歩く「自由」の方が尊いと、私は知ってしまったから。
「……さようなら、完璧な世界」
奈々は強く、キーを叩いた。




