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聖域のアルゴリズム  作者: アルテミス


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第6話:アナログの隠れ家(Offline)

■ 透明な檻


 地下鉄のメンテナンス用トンネルを抜け、地上に出た頃には、空は白み始めていた。

 場所は、荒川区の古い住宅街。都心のスマートシティ化計画から取り残された、昭和の面影が残るエリアだ。

 朝の冷気が、汗ばんだ肌に張り付く。

 奈々は膝に手を突き、荒い呼吸を整えた。裸足の足裏は泥と傷でボロボロだったが、不思議と痛みは麻痺していた。

「……ここは?」

「防犯カメラの空白地帯ブラインド・スポットだ」

 佐倉がマンホールの蓋を戻しながら言った。

「再開発の利権争いで揉めててな。オメガ・コープのインフラ整備が後回しにされてる場所だ。ここなら、AIの『神の目』も届かねえ」

 奈々は顔を上げた。

 電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされた空。古びた木造アパート。錆びた看板。

 昨日まで私が暮らしていた、ガラスとLEDで構成された洗練された都市とは、まるで別世界だった。


「喉、渇いただろ」

 佐倉が顎で指した先に、薄汚れた自動販売機があった。電子マネー対応ではない、小銭しか使えない旧式だ。

 奈々は無意識にポケットを探り、そして手を止めた。

 スマホは、もうない。

 位置情報を追跡されるのを防ぐため、地下道で叩き壊して捨ててきた。

 財布に入っていたクレジットカードも、ICカードも、全て凍結されている。今の私は、一文無しだ。

「……買えません。私、IDがないから」

「ここではIDなんて必要ねえよ。必要なのはこれだ」

 佐倉はポケットから百円玉を数枚取り出し、自販機に投入した。

 ガコン、と重い音を立てて、温かい缶コーヒーが出てくる。

「ほらよ」

 押し付けられた缶の温かさに、奈々は泣きそうになった。

 QRコードをかざさなくても、認証を通さなくても、物は手に入る。そんな当たり前のことが、今の私には奇跡のように思えた。


 二人は路地裏を歩いた。

 早朝の街は静かだが、どこか落ち着かない。

 遠くの大通りからは、パトカーのサイレンが微かに聞こえる。街頭ビジョンは見えないが、きっとそこでは私の顔写真と共に『凶悪犯』というテロップが流れているはずだ。

 コンビニの前を通る。

 お腹が空いた。おにぎり一つ買いたい。

 でも、入店するには顔認証が必要だ。ドアのセンサーが私を検知した瞬間、警報が鳴り響くだろう。

 ガラス越しに見える棚には、水も食料も溢れているのに。

 透明な壁。

 便利すぎるシステムは、一度敵に回ると、頑丈な「檻」に変わる。

 私はこの巨大な都市の中で、水一滴すら恵んでもらえない異物になってしまったのだ。


「下を向くな。挙動不審で通報されるぞ」

 佐倉が低く囁き、奈々の肩を抱き寄せた。

 恋人同士を装い、足早に通り過ぎる。

 佐倉のコートからは、微かにタバコの匂いがした。それは、デジタルな消毒臭とは違う、生々しい生活の匂いだった。


■ 検索できない不安


 佐倉の「隠れ家」は、川沿いに建つ築五十年の木造アパート『千鳥荘』の二階だった。

 鍵穴に物理キーを差し込み、ギギーッと音を立ててドアを開ける。

「狭いが、我慢しろ」

 六畳一間。畳の部屋。

 家具はちゃぶ台と、ブラウン管のテレビ、そして壁一面の本棚だけ。エアコンはない。扇風機が一台、部屋の隅に鎮座している。

「……タイムスリップしたみたい」

 奈々は呆然と呟いた。

 スマートスピーカーも、壁面ディスプレイも、ロボット掃除機もない。

 ここには「ログ」が存在しない。

「電気と水道は生きてるが、ガスはプロパンだ。ネット回線は引いてねえ。携帯の電波も入りにくい」

 佐倉はコートを脱ぎ、鴨居に掛けた。

「とりあえず、足を洗え。救急箱はそこだ」

 言われるがままに洗面所で足を洗い、消毒液を塗る。染みる痛みに、顔をしかめる。

 一息つくと、猛烈な不安が襲ってきた。

 無音。

 情報がない。

 今、外で何が起きている? 警察の包囲網は? SNSでの反応は?

 知りたい。検索したい。

 奈々の手は、無意識に何もない空間をタップしようとしていた。

「……天気」

 独り言が漏れる。

「明日の天気は? 気温は?」

 リコメンドが欲しい。誰かに「大丈夫だ」と確率で示してほしい。

 手が震える。典型的なデジタル依存の禁断症状だ。情報の遮断が、酸素を奪われたような窒息感をもたらす。


「天気なら、窓を開けりゃわかる」

 佐倉が窓をガラリと開けた。

 湿った風が吹き込んでくる。

「雨の匂いがする。夕方には降るだろうな」

「……匂いだけで、わかるんですか?」

「AI予報よりは当たる。お前の親父さんも、そう言ってたぜ」

 佐倉はちゃぶ台に座り、タバコに火をつけた。

 紫煙がゆっくりと天井へ昇っていく。時間は、ひどく緩やかに流れていた。

 何もしない時間。

 効率などない時間。

 それが奈々には怖かった。空白を埋めるための通知音が欲しくてたまらなかった。


「落ち着かねえか?」

 佐倉がテレビのリモコンを放り投げた。

「ニュースくらいは見れるぞ。ただし、地上波の偏向報道だけだがな」

 スイッチを入れる。砂嵐の後、ワイドショーの画面が映し出された。

 案の定、話題は私たちのことだった。

『凶悪なサイバーテロリスト、遠藤奈々容疑者。彼女はAIに依存する若者の象徴でありながら、その裏でシステムを破壊する計画を……』

 コメンテーターが得意げに分析している。

『父親を殺害した動機も、遺産目当てでしょう。AIのログが証拠です』

「……消して!」

 奈々は耳を塞いだ。

「嘘ばっかり。誰も本当のことなんて見てない」

「見たいものしか見ないのが人間だ。AIのリコメンドと変わらねえよ」

 佐倉はテレビを消した。

 プツン。

 再び静寂が戻る。

 でも、さっきよりは居心地が悪くなかった。

 この部屋には、嘘の情報を垂れ流すスピーカーはない。あるのは、畳の匂いと、雨の予感と、目の前の男の実在感だけだ。


■ 手料理の温度


 お腹が鳴った。

 緊張が解けたせいか、空腹感が一気に押し寄せてきた。

「……腹減ったな」

 佐倉は立ち上がり、台所へ向かった。

 冷蔵庫を開ける。中身は寂しいものだったが、彼は手際よく卵と冷やご飯を取り出した。

 カチッ、ボッ。

 コンロの火がつく音。

 フライパンの上で油が跳ねる音。

 ジュワッという音と共に、香ばしい匂いが部屋に広がる。

 奈々はその背中を見つめていた。

 宅配サービスも、調理ロボットも使わない。自分の手で、火加減を調整し、鍋を振る。

 それは、とても非効率で、手間のかかる作業に見えた。

 でも、なぜだろう。

 その光景が、ひどく美しく見えるのは。


「食え」

 目の前に置かれたのは、具材の少ないシンプルなチャーハンだった。

 湯気が立ち上っている。

 スプーンですくい、口に運ぶ。

 熱い。ハフハフと息を吐きながら噛みしめる。

 塩加減が少し強い。卵が少し焦げている。

 でも。

「……美味しい」

 涙が出そうなくらい、美味しかった。

 コンビニの弁当とも、有名シェフ監修の冷凍食品とも違う。

 ここには「作った人の温度」がある。

「ただの残り物だ」

 佐倉は缶ビールを開け、自分もチャーハンを掻き込み始めた。

「お前の親父さんも、よくここに来てたよ。こうやって二人で、安酒を飲んで愚痴り合ったもんだ」

「父が……?」

「ああ。あいつは凄いヤツだったが、悩みも多かった。『娘のために完璧な世界を作りたいが、それが本当に娘のためになるのか』ってな」

 佐倉は遠くを見る目をした。

「あいつは恐れてたんだ。AIが便利になりすぎて、人間から『考える力』や『痛みを感じる力』を奪っちまうんじゃないかって。……だから俺みたいなアナログ人間に、お前のことを託したのかもしれん」

 奈々はスプーンを止めた。

 父の想い。

 リコメンド通りの人生を歩ませることが愛情だと思っていたけれど、父は迷っていたのだ。

 そして最期に遺したのが、システムを破壊するウイルスではなく、私に「真実」を見せるためのグラスと、この不器用な刑事への信頼だった。


「佐倉さん」

 奈々は真っ直ぐに彼を見た。

「私、変わりたいです。父さんが心配していたような、指示待ちのAI人間じゃなく……自分の足で立つ人間に」

「なれるさ」

 佐倉はニッと笑い、ビールの空き缶を握り潰した。

「現に今、お前はスマホがなくてもメシを美味いと感じてる。……オフラインも悪くねえだろ?」

「……はい。悪くないです」

 奈々は残りのチャーハンを口に運んだ。

 窓の外では、佐倉の予言通り、雨が降り始めていた。

 雨音だけが響く部屋。

 検索できない未来。正解のない明日。

 でも、怖くはなかった。隣には、温かい血の通ったバディがいるのだから。


 その夜、奈々は泥のように眠った。

 スマートウォッチが睡眠の質を計測することもなく、ただ深く、人間らしい眠りに落ちていった。


 そして翌朝。

 反撃の準備は整った。

 アナログのアジトから、最強のデジタル要塞への挑戦が始まる。


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