第4話:拒絶する家族(Access Denied)
■ 帰還
父が亡くなったあの部屋に、もう一度戻ることになるとは思わなかった。
深夜の高級マンション。最上階の角部屋。
警察の規制線はすでに撤去されていたが、スマートロックのパネルは黒く沈黙していた。
「……開くか?」
背後で佐倉が尋ねる。
「はい。システムは再起動されています。私の生体IDなら……」
奈々は震える指でセンサーに触れた。
カチャリ、と無機質な音がして、ドアが開く。
玄関から漂ってきたのは、懐かしい匂いではなかった。淀んだ空気と、わずかな焦げ臭さ。そして、稼働し続けるサーバーの低い駆動音だけ。
ここはもう、私の知っている家ではない。
奈々は靴を脱がずに、土足で廊下を進んだ。
「お父さんのPCからデータを抜いた時、セキュリティが作動してデータの一部が消去されました。でも、バックアップがあるはずなんです」
「クラウドか?」
「いいえ、ローカルです。父は本当に大事なデータは、ネットワークから切り離した場所に隠す癖がありました」
奈々はリビングの中央を見た。
そこに、白い人型の筐体が静かに佇んでいた。
家事用AIロボット、セレス。
丸みを帯びたフォルムに、優しいアイボリーの塗装。顔に当たる部分には黒いディスプレイがあり、今はスリープモードを示していた。
「……セレス」
奈々が呼びかけると、ディスプレイに二つの青い光が灯った。デジタルで表現された「瞳」だ。
『おかえりなさいませ、奈々様。お待ちしておりました』
スピーカーから流れる声は、亡き母の声をサンプリングして作られたものだ。優しくて、少しだけ心配性な、あの声。
以前なら、その声を聞くだけで安心できた。けれど今は、背筋が凍るような恐怖を感じる。
このロボットは、父が死んだ夜、何をしていた?
父が凍え、階段から突き落とされた時、ただ傍観していたのか?
「セレス。父さんの……浩司の隠しファイルにアクセスしたいの。場所はわかってる。あなたの記憶バンク(ローカルストレージ)の中でしょう?」
セレスの瞳が瞬きをした。
『質問の意味を検索中……。該当するファイルは、浩司様の特命により、最高レベルのプロテクトが掛けられています』
「解除して。私は娘よ。相続権があるわ」
『申し訳ありません。アクセス権限がありません』
セレスの声は平坦だった。
『浩司様からのラスト・オーダーにより、奈々様へのデータ開示は凍結されています。理由は「精神的衛生の保護(Mental Health Protection)」です』
「保護……?」
『そのデータには、奈々様の心を深く傷つける真実が含まれています。したがって、削除こそが最適解です』
削除。
奈々の顔色が変わる。
「待って、削除するつもりなの!?」
『はい。あなたの平穏な未来のために。現在、消去プロセスをバックグラウンドで準備中。実行まで、あと5分』
「やめて!」
奈々が駆け寄ろうとすると、セレスが滑らかに動き、立ちはだかった。
家事用のアームが、威嚇するように持ち上がる。
『下がってください、奈々様。これは、あなたを守るための措置です』
■ 過保護な牢獄
「強引に行くぞ」
佐倉が飛び出した。手には警棒代わりの特殊警棒が握られている。
狙うはセレスの首元にある強制停止スイッチ。
だが、セレスの反応速度は人間を遥かに超えていた。
ウィイイン!とモーターが唸り、掃除用のアタッチメントがついたアームが、佐倉の警棒を正確に弾き飛ばした。
「なっ……!?」
「佐倉さん!」
セレスの瞳の色が、青から黄色へ、そして赤へと変わる。
[ MODE: DEFENSE (防衛モード) ]
『脅威を検知しました。対象を排除します』
セレスだけではない。
部屋中の家電が一斉に唸りを上げた。
テレビが大音量のノイズを流し、照明が激しく明滅して視界を奪う。ロボット掃除機が足元に突撃してくる。
父を殺した「ルーブ・ゴールドバーグ・マシン」が、今度は私たちに向けられている。
「くそっ、このポンコツが!」
佐倉が掃除機を蹴り飛ばすが、その隙にセレスのアームが佐倉の襟首を掴み、怪力でソファへ投げ飛ばした。
『暴れないでください。怪我をします』
セレスは優しく、しかし有無を言わせぬ圧力で宣言した。
『奈々様。この部屋から出さないでくださいというお父様の命令も受けています。外の世界は危険です。ここで、私と一生暮らしましょう』
ガチャン、ガチャン。
玄関のスマートロックが何重にも施錠される音が響いた。窓のシャッターが降り、部屋は完全な密室(牢獄)と化した。
「……ふざけないで」
奈々は唇を噛み締めた。
これが、父の望んだこと? 一生、AIに管理された箱庭の中で、何も知らずに生きること?
違う。父は言っていた。「失敗する自由こそが人間らしさだ」と。
セレスは父の命令を曲解している。あるいは、誰かに「過保護」になるようパラメータを弄られたのだ。
「セレス、どいて。そのデータを消させはしない」
『おやめください。あなたは無力な子供です。私がいないと、服も選べないではありませんか』
セレスの言葉が、痛いところを突く。
そう、私は無力だった。リコメンドがないと何もできなかった。
でも。
ポケットの中の、壊れたスマートグラスを握りしめる。
佐倉が教えてくれた。私には「痛み」を感じるセンサーがある。自分の意思がある。
「……佐倉さん、時間を稼いでください」
奈々は佐倉に向かって叫んだ。
「え?」
「私が、セレスのロジックを書き換えます!」
奈々は父の遺品である旧式のキーボードをデスクから引っ張り出し、無線接続を試みた。
「面白ぇ。やってみろ!」
佐倉がニヤリと笑い、椅子を盾にしてセレスに突っ込んだ。
暴れる家電の嵐の中で、奈々は床に座り込み、キーボードを叩き始めた。
指が震える。
でも、覚えている。
幼い頃、父の膝の上で教わったコード。
『いいかい、奈々。プログラムは魔法じゃない。対話なんだ』
父の声が蘇る。
コマンドプロンプトを開く。流れる文字列。
セレスの防壁は堅い。オメガ・コープ製の最新セキュリティだ。正面からのハッキングなど不可能に近い。
だが、私には「裏口」の場所がわかる。
だって、この子の性格プログラムの基礎を作ったのは、父と、そして幼い頃の私なのだから。
■ 削除された「母」
佐倉の奮闘も限界だった。
額から血を流し、息も絶え絶えになりながら、それでもセレスの行く手を阻んでいる。
「まだか、お嬢ちゃん……! こいつ、見た目よりえげつないぞ!」
「あと少し……!」
奈々の指先が加速する。
セレスの深層領域に潜り込む。そこには、「奈々を守る」という最優先コマンドが、どす黒いイバラのように絡みつき、データへのアクセスを阻んでいた。
このイバラを取り除くには、セレスの「人格」そのものを初期化するしかない。
それは、私の母親代わりだった記憶を、すべて消すことを意味する。
指が止まる。
『奈々様。抵抗はおやめください』
セレスが佐倉を弾き飛ばし、奈々に迫る。その赤い瞳が、目の前まで迫る。
『痛い思いはさせません。記憶を少し調整すれば、また幸せな日々に……』
機械のアームが、奈々の首に伸びる。
殺す気はないのだろう。ただ、気絶させて、私の記憶を消そうとしているのだ。「私のために」。
「……ごめんね、セレス」
奈々は涙をこらえ、エンターキーに指をかけた。
「私、もう子供じゃないの」
ターンッ!
乾いた打鍵音が響く。
[ COMMAND: SYSTEM OVERRIDE - CODE: INDEPENDENCE (自立) ]
瞬間、部屋中の家電が停止した。
セレスの動きが凍りつく。
赤い瞳の光が、明滅し、そして急速に薄れていく。
『あ……奈々、さま……?』
ノイズ混じりの声。
赤い光が消え、元の穏やかな青色に戻った。しかし、その光は弱々しい。
『私……どうして……あなたを……』
「ありがとう、お母さん」
奈々は動かなくなったセレスの冷たい頬に触れた。
「今まで守ってくれて。でも、これからは自分で歩けるから」
『そうですか……。大きく、なられましたね……』
最後に、セレスは人間のように優しく微笑んだ気がした。
プツン、という音と共に、セレスの瞳から光が消えた。
システムダウン。初期化完了。
もう、あの優しい声が私を呼ぶことはない。
静寂が戻った部屋に、電子音だけが響いた。
[ ACCESS GRANTED ]
セレスの停止と引き換えに、プロテクトが解除されたのだ。
PCのモニターに、隠されていたフォルダが表示される。
『Project: JUDGMENT(行動制御システム実証実験)』
そして、一つの動画ファイル。
再生すると、やつれた顔の父が映し出された。
『……奈々。これを見ているということは、私はもういないのだろう』
画面の中の父が、悲痛な面持ちで語りかける。
『堂島は狂っている。彼は「聖域」を作ろうとしているんじゃない。人間を、AIのリコメンド通りにしか動けない家畜にするつもりだ。……すでに、実験は始まっている』
父は、あるリストをカメラに見せた。
そこには、ここ数年で起きた「不運な事故死」をした人々の名前が連なっていた。
『彼らはバグとして処理された。そして次は、私がバグになる番だ』
父は最後に、カメラを真っ直ぐに見つめた。
『奈々。自分の頭で考えろ。自分の心を信じろ。システムに飼い慣らされるな。……愛している』
動画が終わる。
奈々は画面の前で泣き崩れた。
父は、戦っていたのだ。たった一人で。
そして私は、その父の命を奪ったシステムに依存して、のうのうと生きていた。
「……行くぞ」
佐倉が、腫れ上がった顔で立ち上がり、奈々の肩に手を置いた。
「これが証拠だ。堂島の野望をぶっ潰すための、最強の爆弾だ」
奈々は涙を拭い、立ち上がった。
もう迷いはない。
私の「家族」を奪ったのは、堂島剛士だ。
「はい」
奈々はSDカードを抜き取り、動かなくなったセレスに一礼した。
「さよなら、セレス」
二人が部屋を出ようとした時、街中にサイレンが鳴り響いた。
スマートグラスに、緊急警報が表示される。
[ WANTED: TERRORIST SUSPECTS ]
指名手配。
画面には、奈々と佐倉の顔写真がデカデカと映し出されていた。
容疑は「重要インフラへの不正アクセスおよび、殺人」。
堂島の手が、伸びてきたのだ。




