表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
聖域のアルゴリズム  作者: アルテミス


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/10

第3話:誘導される足音(Navigation)

■ 甘い誘導


 父のPCから回収したSDカードの解析には、特殊な環境が必要だった。

 奈々は、大学の研究室にある高性能サーバーを借りるため、一人で街を歩いていた。佐倉は「別ルートで警察内部の動きを探る。下手に二人で動くと目立つ」と言い残し、雑踏へと消えていった。

 一人になると、途端に心細さが押し寄せてくる。

 ポケットの中のSDカードが、やけに重く感じられた。ここには、父が命懸けで守ろうとした真実と、私たちが追われる理由が入っている。

「……大丈夫。ただの移動だもの」

 奈々は自分に言い聞かせ、スマートグラスのナビゲーションを起動した。

 見慣れた街並みが、AR情報で彩られる。

 気温24度、湿度45%。快適指数A。次の交差点までの予測所要時間、3分15秒。

 すべてが数値化され、管理された世界。昨日までは、この数字の羅列に絶対的な安心感を抱いていた。

 けれど今は、その数字の一つ一つが、私を監視する「目」のように思えてならない。


『目的地へのルートを更新します。現在のルート上で、突発的な事故渋滞が発生しました』

 イヤホンから、ナビゲーションAIの滑らかな女性の声が流れる。

 奈々は足を止めた。

「事故?」

 大通りを見渡すが、車の流れはスムーズに見える。

『目視できない範囲での玉突き事故です。回避のため、C-4エリア経由のルートを推奨します。所要時間はプラス4分ですが、安全係数は最も高いルートです』

 AIの声は優しく、親切そのものだ。

 奈々はグラス越しに、指定された迂回ルートを確認した。

 表通りの喧騒から離れた、再開発地区の裏通り。

 

 [ SAFETY LEVEL: A (安全) ]


 グラスには、そのルートがいかに安全であるかを示す緑色のパラメータが輝いている。街灯の密度、防犯カメラの死角ゼロ、犯罪発生予測値0.001%以下。

 論理的に考えれば、従わない理由はない。

「……わかった。推奨ルートへ」

 奈々は路地へと足を踏み入れた。


 そこは、無機質な静寂に包まれたエリアだった。

 左右を高いビルに挟まれ、頭上をモノレールの軌道が走り、巨大な影を落としている。

 人はいない。すれ違うのは、音もなく滑走する清掃ロボットだけ。

 カツ、カツ、カツ。

 自分のヒールの音だけが、コンクリートの谷間に反響する。

 安全なはずなのに。

 防犯カメラのレンズが、私を追尾して動いている気がする。自動販売機のディスプレイの瞳が、私を見つめている気がする。

 背筋を冷たいものが伝う。

(気のせいよ。AIに悪意なんてない。ただのプログラムだもの)

 そう念じながら歩を進める。

 だが、その一歩一歩が、見えない誰かの手によって、用意された結末へと導かれているような感覚――「誘導尋問」に乗せられているような不快感が、拭いきれなかった。


 路地を抜けると、視界が開けた。

 目の前に現れたのは、巨大なスクランブル交差点だった。


■ 透明人間(Phantom Pedestrian)


 それは、再開発の象徴とも言える、最新鋭の交差点だった。

 四方のビルの壁面全体がデジタルサイネージになっており、極彩色の広告映像が滝のように流れている。地面にはスマートLEDが埋め込まれ、信号の色に合わせて横断歩道自体が発光する仕組みだ。

 信号が赤から青に変わる。

 ピポ、ピポ、ピポ、と軽快な誘導音が鳴り響く。 

『青になりました。左右を確認して、渡りましょう』

 歩行者用スピーカーから流れる、合成音声のアナウンス。

 奈々は左右を確認した。

 車は来ていない。遠くに一台、大型の電気バスが見えるだけだ。

 最新の自動運転バス。運転席には監視員が座っているが、ハンドルには触れておらず、タブレットで電子書籍を読んでいるのが見えた。

 バスはゆっくりと近づいてきているが、信号は赤だ。当然、停止線で止まるはずだ。

 奈々は深く息を吸い、横断歩道へと足を踏み出した。

 白と黒の縞模様の上を歩く。

 私一人だけの、広い交差点。


 異変が起きたのは、交差点のど真ん中、逃げ場のない場所まで来た時だった。


 バチッ、という不快な電子音と共に、周囲のサイネージが一斉に切り替わった。

 広告映像ではない。

 黒と白の幾何学模様。まるでダズル迷彩のような複雑なパターンが、高速で点滅を始めたのだ。

「……っ!」

 奈々は思わず目を細めた。目がチカチカして、平衡感覚が狂わされる。

 同時に、耳元のイヤホンから「キーン」という鋭い高周波が流れた。

 周囲の音が消える。

 風の音も、遠くの街の喧騒も、自分の心臓の音さえも。

 逆位相の音波による、完全なノイズキャンセリング(音響遮断)。

 音のない真空の世界で、視界だけが激しく明滅する。めまいがして、その場にうずくまりそうになる。


 その静寂を切り裂くように、視界の隅で巨大な質量が動いた。

 バスだ。

 止まるはずのバスが、減速していない。

 それどころか、モーターの出力を上げ、加速している。

 奈々はとっさにスマートグラスを凝視した。エラーが出ているはずだ。

 しかし、そこに表示されたのは、あまりにも無慈悲な文字列だった。


 [ Bus Status ] OBSTACLE: NONE (障害物:なし)

 [ Signal ] PERMISSION: GRANTED (進行許可)

 [ Prediction ] COLLISION PROBABILITY: 0.00% (衝突確率:0%)


 障害物、なし?

 私がいるのに?

 奈々の全身の血が凍りついた。

 バスのAIカメラにとって、私は「見えていない」のだ。

 背景のサイネージが放つ特殊なパターンと、私の服の色、そして歩行速度。それらすべてが計算され、AIの画像認識アルゴリズムの盲点を突くように設計されている。

 いわゆる「敵対的攻撃アドバーサリアル・アタック」。

 システム上、私はアスファルトのシミや、光の加減によるノイズと同じ扱いになっている。

 私は今、この世界で「透明人間」なのだ。


 逃げなきゃ。

 本能が叫ぶ。足がすくむ。

 グラスの表示は、依然として


 「SAFETY LEVEL: A」

 「COLLISION: 0%」


 を示し続けている。

 目の前のバスが轟音を立てて迫ってくる物理的な「現実リアル」と、グラスに表示される安全な「虚構データ」。

 どちらが正しい?

 今まで私は、一度だってAIの判断を疑ったことはなかった。人間はミスをするが、AIは間違わない。それが私の世界のルールだった。

 だから、動くな。動くのは非合理的だ。これは錯覚だ。0%なんだから、ぶつかるはずがない。

 その一瞬の「思考停止」こそが、犯人の狙いだった。


 バスのフロントガラス越しに、監視員の顔が見えた。彼はまだタブレットを見て笑っていた。

 前なんて見ていない。システムを盲信しているから。

 私と同じだ。

 バスまで、あと十メートル。五メートル。

 巨大な鉄の塊が、死の風圧を伴って迫る。

 間に合わない。

 奈々は目を閉じ、最期の瞬間を待った。


■ アナログの逆襲


 ガシャアンッ!!


 何かが砕ける乾いた音。

 続いて、キキーッ!!という、鼓膜をつんざくような激しいブレーキ音。

 タイヤがアスファルトを削り、焦げ臭い匂いが鼻をつく。

 突風が奈々の体を突き飛ばした。

 尻餅をつく。

 痛みはない。生きている。


 恐る恐る目を開けると、目の前、わずか三十センチの場所に、バスのバンパーが停まっていた。

 そして、バスのフロントガラスは、無惨に染まっていた。

 鮮やかな、蛍光ピンクの塗料で。

 べっとりと張り付いたその粘着質な液体が、バスの上部に設置されたカメラと、LiDARセンサーの目を物理的に塞いでいた。


「腰抜かしてんじゃねえぞ、お嬢ちゃん」


 聞き覚えのある、悪態。

 歩道のガードレールの上に、佐倉が立っていた。

 手には、警察が暴徒鎮圧に使う大口径のペイントガン。肩で息をしながら、ニヤリと笑っている。

 その姿は、スマートなデジタル都市には似合わない、泥臭いヒーローのようだった。

「佐倉、さん……?」

「ったく、最新のAIってやつは、目隠しされるとパニック起こして急停止するんだな。人間より臆病だ」

 佐倉はひらりとガードレールを飛び越え、バスの運転手に怒鳴られながらも、悠々と歩み寄ってきた。

「無事か?」

「……どうして」

 奈々は震える声で尋ねた。「どうして、わかったんですか? AIも、監視員も、誰も私に気づかなかったのに」

「勘だ」

 佐倉は短く答えた。

「お前が一人で歩いてる時、街の信号のタイミングが妙に良すぎた。まるで『こっちへ来い』と手招きしてるみたいにな。……嫌な予感がして、先回りしたんだよ」

 勘。

 データでも、論理でもない、不確かなもの。

 でも、その不確かなものが、最強のアルゴリズムを凌駕し、私を救った。


 バスの運転席から、蒼白になった監視員が降りてきて、喚き散らしている。「何をするんだ! 器物損壊だぞ! システムエラーの原因になったらどうする!」

 佐倉はその監視員を一瞥もしない。ただ、へたり込んでいる奈々に手を差し伸べた。

「立てるか?」

 その手は、ゴツゴツしていて、火薬とタバコの匂いがして、とても温かかった。

 奈々はその手を掴んだ。強く、引き上げられる。

「私は……馬鹿です」

 奈々の目から、堰を切ったように涙が溢れた。

「バスが来てるのに、グラスの『0%』って数字を見て、逃げちゃいけないって思いました。自分の目よりも、データを信じて……死ぬところでした」

「それが今の人間だ。数字を見せられりゃ、目の前のライオンも猫に見えちまう」

 佐倉は乱暴に、しかし優しく奈々の頭をポンと叩いた。

「だが、お前は今、生き残った。システムのエラー(例外)になったんだ」


 佐倉は奈々のポケットから、転倒した拍子にヒビが入ったスマートグラスを取り出し、彼女に持たせた。

「覚えとけ。機械は計算しかできねえ。だが、人間には『痛み』や『恐怖』を感じるセンサーがある。システムが『安全だ』と言っても、胃が痛くなったら止まれ。鳥肌が立ったら逃げろ。それが生き残るための、最強のセキュリティだ」


 最強のセキュリティ。

 それは、ファイアウォールでも、高度な暗号化でもない。

 自分自身の「感覚」を信じること。生物としての生存本能。

 奈々は涙を拭い、佐倉の手をもう一度強く握り返した。

「……はい」

 もう、リコメンドはいらない。

 私は私の足で、私の感覚で、この歪んだ迷路を突破する。

 その決意と共に、奈々は佐倉の隣を歩き出した。

 背後で立ち往生する自動運転バスと、状況を理解できずに混乱するAIの警告音を置き去りにして。

 二人の影が、デジタルサイネージの光に長く伸びていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ