第3話:誘導される足音(Navigation)
■ 甘い誘導
父のPCから回収したSDカードの解析には、特殊な環境が必要だった。
奈々は、大学の研究室にある高性能サーバーを借りるため、一人で街を歩いていた。佐倉は「別ルートで警察内部の動きを探る。下手に二人で動くと目立つ」と言い残し、雑踏へと消えていった。
一人になると、途端に心細さが押し寄せてくる。
ポケットの中のSDカードが、やけに重く感じられた。ここには、父が命懸けで守ろうとした真実と、私たちが追われる理由が入っている。
「……大丈夫。ただの移動だもの」
奈々は自分に言い聞かせ、スマートグラスのナビゲーションを起動した。
見慣れた街並みが、AR情報で彩られる。
気温24度、湿度45%。快適指数A。次の交差点までの予測所要時間、3分15秒。
すべてが数値化され、管理された世界。昨日までは、この数字の羅列に絶対的な安心感を抱いていた。
けれど今は、その数字の一つ一つが、私を監視する「目」のように思えてならない。
『目的地へのルートを更新します。現在のルート上で、突発的な事故渋滞が発生しました』
イヤホンから、ナビゲーションAIの滑らかな女性の声が流れる。
奈々は足を止めた。
「事故?」
大通りを見渡すが、車の流れはスムーズに見える。
『目視できない範囲での玉突き事故です。回避のため、C-4エリア経由のルートを推奨します。所要時間はプラス4分ですが、安全係数は最も高いルートです』
AIの声は優しく、親切そのものだ。
奈々はグラス越しに、指定された迂回ルートを確認した。
表通りの喧騒から離れた、再開発地区の裏通り。
[ SAFETY LEVEL: A (安全) ]
グラスには、そのルートがいかに安全であるかを示す緑色のパラメータが輝いている。街灯の密度、防犯カメラの死角ゼロ、犯罪発生予測値0.001%以下。
論理的に考えれば、従わない理由はない。
「……わかった。推奨ルートへ」
奈々は路地へと足を踏み入れた。
そこは、無機質な静寂に包まれたエリアだった。
左右を高いビルに挟まれ、頭上をモノレールの軌道が走り、巨大な影を落としている。
人はいない。すれ違うのは、音もなく滑走する清掃ロボットだけ。
カツ、カツ、カツ。
自分のヒールの音だけが、コンクリートの谷間に反響する。
安全なはずなのに。
防犯カメラのレンズが、私を追尾して動いている気がする。自動販売機のディスプレイの瞳が、私を見つめている気がする。
背筋を冷たいものが伝う。
(気のせいよ。AIに悪意なんてない。ただのプログラムだもの)
そう念じながら歩を進める。
だが、その一歩一歩が、見えない誰かの手によって、用意された結末へと導かれているような感覚――「誘導尋問」に乗せられているような不快感が、拭いきれなかった。
路地を抜けると、視界が開けた。
目の前に現れたのは、巨大なスクランブル交差点だった。
■ 透明人間(Phantom Pedestrian)
それは、再開発の象徴とも言える、最新鋭の交差点だった。
四方のビルの壁面全体がデジタルサイネージになっており、極彩色の広告映像が滝のように流れている。地面にはスマートLEDが埋め込まれ、信号の色に合わせて横断歩道自体が発光する仕組みだ。
信号が赤から青に変わる。
ピポ、ピポ、ピポ、と軽快な誘導音が鳴り響く。
『青になりました。左右を確認して、渡りましょう』
歩行者用スピーカーから流れる、合成音声のアナウンス。
奈々は左右を確認した。
車は来ていない。遠くに一台、大型の電気バスが見えるだけだ。
最新の自動運転バス。運転席には監視員が座っているが、ハンドルには触れておらず、タブレットで電子書籍を読んでいるのが見えた。
バスはゆっくりと近づいてきているが、信号は赤だ。当然、停止線で止まるはずだ。
奈々は深く息を吸い、横断歩道へと足を踏み出した。
白と黒の縞模様の上を歩く。
私一人だけの、広い交差点。
異変が起きたのは、交差点のど真ん中、逃げ場のない場所まで来た時だった。
バチッ、という不快な電子音と共に、周囲のサイネージが一斉に切り替わった。
広告映像ではない。
黒と白の幾何学模様。まるでダズル迷彩のような複雑なパターンが、高速で点滅を始めたのだ。
「……っ!」
奈々は思わず目を細めた。目がチカチカして、平衡感覚が狂わされる。
同時に、耳元のイヤホンから「キーン」という鋭い高周波が流れた。
周囲の音が消える。
風の音も、遠くの街の喧騒も、自分の心臓の音さえも。
逆位相の音波による、完全なノイズキャンセリング(音響遮断)。
音のない真空の世界で、視界だけが激しく明滅する。めまいがして、その場にうずくまりそうになる。
その静寂を切り裂くように、視界の隅で巨大な質量が動いた。
バスだ。
止まるはずのバスが、減速していない。
それどころか、モーターの出力を上げ、加速している。
奈々はとっさにスマートグラスを凝視した。エラーが出ているはずだ。
しかし、そこに表示されたのは、あまりにも無慈悲な文字列だった。
[ Bus Status ] OBSTACLE: NONE (障害物:なし)
[ Signal ] PERMISSION: GRANTED (進行許可)
[ Prediction ] COLLISION PROBABILITY: 0.00% (衝突確率:0%)
障害物、なし?
私がいるのに?
奈々の全身の血が凍りついた。
バスのAIカメラにとって、私は「見えていない」のだ。
背景のサイネージが放つ特殊なパターンと、私の服の色、そして歩行速度。それらすべてが計算され、AIの画像認識アルゴリズムの盲点を突くように設計されている。
いわゆる「敵対的攻撃」。
システム上、私はアスファルトのシミや、光の加減によるノイズと同じ扱いになっている。
私は今、この世界で「透明人間」なのだ。
逃げなきゃ。
本能が叫ぶ。足がすくむ。
グラスの表示は、依然として
「SAFETY LEVEL: A」
「COLLISION: 0%」
を示し続けている。
目の前のバスが轟音を立てて迫ってくる物理的な「現実」と、グラスに表示される安全な「虚構」。
どちらが正しい?
今まで私は、一度だってAIの判断を疑ったことはなかった。人間はミスをするが、AIは間違わない。それが私の世界のルールだった。
だから、動くな。動くのは非合理的だ。これは錯覚だ。0%なんだから、ぶつかるはずがない。
その一瞬の「思考停止」こそが、犯人の狙いだった。
バスのフロントガラス越しに、監視員の顔が見えた。彼はまだタブレットを見て笑っていた。
前なんて見ていない。システムを盲信しているから。
私と同じだ。
バスまで、あと十メートル。五メートル。
巨大な鉄の塊が、死の風圧を伴って迫る。
間に合わない。
奈々は目を閉じ、最期の瞬間を待った。
■ アナログの逆襲
ガシャアンッ!!
何かが砕ける乾いた音。
続いて、キキーッ!!という、鼓膜をつんざくような激しいブレーキ音。
タイヤがアスファルトを削り、焦げ臭い匂いが鼻をつく。
突風が奈々の体を突き飛ばした。
尻餅をつく。
痛みはない。生きている。
恐る恐る目を開けると、目の前、わずか三十センチの場所に、バスのバンパーが停まっていた。
そして、バスのフロントガラスは、無惨に染まっていた。
鮮やかな、蛍光ピンクの塗料で。
べっとりと張り付いたその粘着質な液体が、バスの上部に設置されたカメラと、LiDARセンサーの目を物理的に塞いでいた。
「腰抜かしてんじゃねえぞ、お嬢ちゃん」
聞き覚えのある、悪態。
歩道のガードレールの上に、佐倉が立っていた。
手には、警察が暴徒鎮圧に使う大口径のペイントガン。肩で息をしながら、ニヤリと笑っている。
その姿は、スマートなデジタル都市には似合わない、泥臭いヒーローのようだった。
「佐倉、さん……?」
「ったく、最新のAIってやつは、目隠しされるとパニック起こして急停止するんだな。人間より臆病だ」
佐倉はひらりとガードレールを飛び越え、バスの運転手に怒鳴られながらも、悠々と歩み寄ってきた。
「無事か?」
「……どうして」
奈々は震える声で尋ねた。「どうして、わかったんですか? AIも、監視員も、誰も私に気づかなかったのに」
「勘だ」
佐倉は短く答えた。
「お前が一人で歩いてる時、街の信号のタイミングが妙に良すぎた。まるで『こっちへ来い』と手招きしてるみたいにな。……嫌な予感がして、先回りしたんだよ」
勘。
データでも、論理でもない、不確かなもの。
でも、その不確かなものが、最強のアルゴリズムを凌駕し、私を救った。
バスの運転席から、蒼白になった監視員が降りてきて、喚き散らしている。「何をするんだ! 器物損壊だぞ! システムエラーの原因になったらどうする!」
佐倉はその監視員を一瞥もしない。ただ、へたり込んでいる奈々に手を差し伸べた。
「立てるか?」
その手は、ゴツゴツしていて、火薬とタバコの匂いがして、とても温かかった。
奈々はその手を掴んだ。強く、引き上げられる。
「私は……馬鹿です」
奈々の目から、堰を切ったように涙が溢れた。
「バスが来てるのに、グラスの『0%』って数字を見て、逃げちゃいけないって思いました。自分の目よりも、データを信じて……死ぬところでした」
「それが今の人間だ。数字を見せられりゃ、目の前のライオンも猫に見えちまう」
佐倉は乱暴に、しかし優しく奈々の頭をポンと叩いた。
「だが、お前は今、生き残った。システムのエラー(例外)になったんだ」
佐倉は奈々のポケットから、転倒した拍子にヒビが入ったスマートグラスを取り出し、彼女に持たせた。
「覚えとけ。機械は計算しかできねえ。だが、人間には『痛み』や『恐怖』を感じるセンサーがある。システムが『安全だ』と言っても、胃が痛くなったら止まれ。鳥肌が立ったら逃げろ。それが生き残るための、最強のセキュリティだ」
最強のセキュリティ。
それは、ファイアウォールでも、高度な暗号化でもない。
自分自身の「感覚」を信じること。生物としての生存本能。
奈々は涙を拭い、佐倉の手をもう一度強く握り返した。
「……はい」
もう、リコメンドはいらない。
私は私の足で、私の感覚で、この歪んだ迷路を突破する。
その決意と共に、奈々は佐倉の隣を歩き出した。
背後で立ち往生する自動運転バスと、状況を理解できずに混乱するAIの警告音を置き去りにして。
二人の影が、デジタルサイネージの光に長く伸びていた。




