第10話:人間であること(Being Human)
■ 聖域の崩壊
エンターキーが叩かれた瞬間、世界から音が消えた。
唸りを上げていた数万台の冷却ファンが、一斉に停止したのだ。
明滅していたLEDランプが、波が引くように次々と暗転していく。
白一色だったサーバールームが、完全な闇に包まれた。
静寂。
耳が痛くなるほどの、絶対的な静寂。
「……失敗、か?」
佐倉が呟く。
何も起きない。システムはただ沈黙しただけに見えた。
その時。
ブォン……という低い重低音と共に、メインコンソールの巨大スクリーンが赤く発光した。
それだけではない。壁面のサブモニター、警備員たちが落としたタブレット、堂島が持っていたスマートフォン。
ありとあらゆる「画面」が一斉に起動し、同じ映像を映し出した。
『……これを見ているということは、私はもういないのだろう』
画面に現れたのは、やつれた顔の父、遠藤浩司だった。
以前に奈々が見た告発動画。だが、今度は奈々一人に向けてではない。
この地下室の全モニター、いや――外の世界にある全てのデジタルサイネージ、全ての個人のスマートフォンをジャックして、父の遺言が再生され始めたのだ。
『私が開発した群制御アルゴリズムには、致命的な欠陥がある。……いや、意図的なバックドアがある。堂島剛士はそれを利用し、都合の悪い人間を「事故」に見せかけて排除している』
「やめろ……! 止めろ!!」
堂島が絶叫し、コンソールに駆け寄った。
「配信を切れ! これは違法アクセスだ! 遮断しろ!」
彼は狂ったようにキーボードを叩くが、システムは一切反応しない。
セレスのチップが植え付けた「無限の迷い」によって、システムは堂島の管理者権限よりも、浩司の告発を優先すべきか判断できず、フリーズしているのだ。
画面の中の父が、淡々と証拠データを提示していく。
改竄される前のログ。
殺害された人々のリスト。
そして、「遠藤奈々を犯人に仕立て上げろ」という堂島自身の音声コマンド記録。
『私の娘、奈々は無実だ。彼女は被害者だ。……もし彼女が戦っているなら、どうか信じてやってほしい』
その言葉が、地下室に、そして世界中に響き渡る。
堂島は膝から崩れ落ちた。
「嘘だ……。私の聖域が……完璧な秩序が……こんなアナログな感情論で……」
その時、サーバールームの扉が爆破された。
白煙と共に突入してきたのは、オメガ・コープの私兵ではない。
警視庁のSIT(特殊捜査班)だ。
そして、その先頭に立っていたのは、スーツ姿の冷徹な女性――オメガ・コープ本社から派遣されていた監査役、リサだった。
「堂島支社長。そこまでです」
リサは冷ややかに告げた。手元のタブレットには、杏子が送信したログが表示されている。
「本社への報告は済ませました。……これより、監査役権限に基づき『緊急解任規定』を発動します」
リサは毅然と言い放った。
「あなたの暴走は、もはや社の利益ではありません」
リサの後ろから、かつて佐倉を追っていたサイバー犯罪対策課の刑事が現れた。彼はバツが悪そうに佐倉に視線を向け、そして深々と頭を下げた。
「すまん、佐倉。俺たちの目は節穴だった」
刑事は堂島の手首に手錠をかけた。
「堂島剛士。殺人教唆および不正アクセス禁止法違反で逮捕する」
堂島は抵抗しなかった。
彼の魂は、システムと共に死んでしまったかのように、虚ろな目をして動かなくなった。
「完璧すぎたんだよ」
佐倉が連行される堂島の背中に、静かに声をかけた。
「人間は、そんなに綺麗に生きられねえ。間違えるし、迷うし、傷つく。だが、だからこそ愛おしい。……お前は、それを忘れちまってたんだ」
奈々はメインコンソールから、セレスのメモリチップを抜き取った。
チップは熱を持っていた。まるで、最後の仕事を終えたセレスの体温のように。
全世界への配信を終えたシステムが、再起動を始める。
黒い画面に、白いカーソルが点滅し、一行のメッセージが表示された。
[ SYSTEM REBOOT: COMPLETED ]
[ MODE: HUMAN-ASSIST (人間補助モード) ]
「支配」から「補助」へ。
AIは、主人の座を降り、再び人間のパートナーへと戻ったのだ。
父が望んだ、「人間とAIが手を取り合う未来」の第一歩。
「帰ろう、奈々」
佐倉が振り返った。その顔には、いつもの皮肉な笑みではなく、父親のような穏やかな表情が浮かんでいた。
「外の世界が、どうなってるか見ものだぞ」
■ カオスと再生
地上に出ると、東京はかつてないカオスに包まれていた。
父の動画が強制配信された影響で、主要なシステムは一時的にダウンしている。
信号機は消え、デジタルサイネージはブラックアウトし、自動運転車は路上で立ち往生している。
街は暗闇だった。
けれど、奈々はそこに「光」を見た。
交差点では、警察官たちが手信号で車を誘導している。
止まってしまったコンビニの前では、店員が懐中電灯を持って商品を売り、客と言葉を交わしている。
スマホが繋がらない人々は、画面を見るのをやめ、隣にいる誰かに話しかけている。
「あの動画、見ました?」「オメガ社の社長が犯人だったなんて」「あの子、無実だったんですね」
街のあちこちから、そんな会話が聞こえてくる。
効率的なデジタル通信が途絶えた代わりに、非効率だが温かい、生身のコミュニケーションが復活していた。
「……すごい」
奈々は息を呑んだ。
パニック映画のような暴動は起きていない。
人々は戸惑いながらも、真実を知り、自分たちの頭で考え、助け合っている。
「人間は捨てたもんじゃねえだろ?」
佐倉が煙草に火をつけた。
「リコメンドがなくなりゃ、自分で考えるしかねえ。不便だが、その分、他人の痛みに敏感になる」
広場の大型ビジョンが、予備電源で復旧した。
そこに映し出されたのは、堂島剛士の連行シーンと、それを報じるニュースだった。
画面の中のアナウンサーが、深々と頭を下げている。
『……我々は、AIの情報のみを鵜呑みにし、誤った報道を行っていました。遠藤奈々さん、ならびに佐倉悠斗さんに、深くお詫び申し上げます』
「やったわね、奈々!」
人混みの中から、杏子が飛び出してきた。
タブレットを掲げ、泥だらけの奈々に抱きつく。
「あんたのチップがこじ開けた穴に、私が拡散パッチを流し込んだの! これで誰も真実から目を逸らせない!」
「ありがとう、杏子。リサを動かしてくれたのも、杏子なんでしょ?」
「ま、ちょっと背中を押しただけよ」
奈々はセレスのメモリチップの入った胸のポケットを押さえた。
「私、一人じゃないんだな」
父と、セレスと、杏子と、そして佐倉さん。
みんなで勝ち取った未来だ。
奈々は夜空を見上げた。
街の明かりが消えたせいで、東京の空には、見たこともないほどの満天の星が輝いていた。
それは、AR(拡張現実)の星空よりも、ずっと遠くて、ずっと美しかった。
■ 自分の足で
季節は巡り、秋風が吹き始めた頃。
奈々は、新しい靴屋にいた。
以前なら、足のサイズと歩行データをスキャンし、AIが選んだ「最適解」の一足を迷わず買っていただろう。
でも今は違う。
店員と相談し、何足も試着し、鏡の前で悩み続けている。
「お客様、こちらのベージュもお似合いですよ」
「うーん、でもこの赤いのも可愛いし……。少しヒールが高いかな?」
迷う。
ひたすらに迷う。
それは非効率で、時間の無駄かもしれない。
けれど、奈々はその時間を楽しんでいた。自分で悩み、自分で決めることの喜びを噛み締めていた。
「……これにします」
選んだのは、歩きやすそうな茶色のローファー。
自分の意思で選んだ、最初の一足。
店を出て、並木道を歩く。
新しい靴は、まだ少し硬くて、かかとが痛い。
でも、その痛みさえも愛おしい。私が私の足で地面を踏みしめている証拠だから。
スマホを取り出す。
画面には、新しいアシスタントAIが表示されている。以前のセレスのような「過保護な母」ではなく、あくまでユーザーの判断を待つ「控えめな秘書」のようなAIだ。
『奈々様。午後の予定は?』
「今日はいい天気だから、少し散歩するわ。リコメンドはなしで」
『承知いたしました。行ってらっしゃいませ』
奈々はスマホをポケットにしまった。
公園のベンチに、見慣れた後ろ姿があった。
ヨレヨレのトレンチコート。紫煙をくゆらせる猫背。
「佐倉さん」
声をかけると、佐倉が振り返った。
「よう。……なんだ、随分といい顔になったな」
彼は少し眩しそうに目を細めた。
「そうですか? 就職も決まったし、悪くない気分です」
奈々は、父の跡を継ぐように、システムエンジニアとして小さな会社に就職していた。
AIに頼るのではなく、AIと共存するシステムを作るために。
「佐倉さんは? 相変わらずガラケーですか?」
「ああ。俺にはこいつが一番合ってる」
佐倉は愛用のガラケーをパカパカと開閉させた。
「それに、便利すぎるってのも考えもんだ。不便だからこそ、会いたくなった時に会いにいく理由ができる」
佐倉の言葉に、奈々はドキリとした。
彼の視線が、優しく私を見ている。
「……そうですね。データだけじゃ伝わらないこともありますから」
奈々は隣に座った。
少しの沈黙。
でも、気まずくはない。
風の音。子供たちの声。落ち葉を踏む音。
検索すれば0.1秒で答えが出る世界ではないけれど、ここには確かな「時間」が流れている。
「ねえ、佐倉さん。お腹空きませんか?」
「あ? そういや昼メシまだだったな」
「美味しいチャーハンの店、見つけたんです。……佐倉さんの手料理には負けますけど」
佐倉は吹き出し、クシャッと笑った。
「生意気言うようになったな。……よし、行くか」
彼が立ち上がり、手を差し伸べる。
奈々はその手を握った。
ゴツゴツして、温かい手。
この温度だけは、どんな高度なAIにも再現できない。
二人は並んで歩き出した。
ナビゲーションは使わない。
迷ったら、立ち止まればいい。間違えたら、引き返せばいい。
それが、人間であるということだから。
秋晴れの空の下、二人の影が長く伸びていた。
その足取りは、どこまでも自由だった。
「便利であること」は、本当に「幸せ」なことなのでしょうか。
本作『聖域のアルゴリズム』は、そんな素朴な疑問から生まれました。
私たちは今、AIやスマート家電に囲まれ、かつてないほど効率的な生活を送っています。今日の天気、最適なルート、おすすめの映画、果ては恋人との相性まで、AIが教えてくれる時代です。
しかし、もしその「親切な提案」の裏に、計算された悪意が潜んでいたら?
エラーも警告も出さず、ただ「正常に」私たちが死へと誘導されていたら?
この物語の主人公・遠藤奈々は、そんな現代の恐怖の只中に放り込まれます。
彼女は特別なスーパーヒロインではありません。私たちと同じようにテクノロジーに依存し、少しだけ臆病な、等身大の女性です。そんな彼女が、父の死という喪失を経て、アナログな刑事・佐倉と出会い、自分の足で歩き出すまでの「自立」の物語でもあります。これは人がAIとの適切な距離感で自律していく姿でもあります。
この本を閉じた後、皆様がふとスマホを置き、ご自身の目と耳で世界を感じてみたくなれば、著者としてこれ以上の喜びはありません。
最後に、奈々と佐倉の最初の事件を目撃してくださった読者の皆様に、心からの感謝を捧げます。
さて、事件はこれで終わりではありません。
デジタルの闇は深く、まだ語られていない「亡霊」たちが眠っています。
次作『追憶のアルゴリズム』で、またお会いしましょう。




