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自分を「悪役令嬢」だと言い出して特待生をいじめ始めた婚約者を持つ王太子のぼやき

作者: 雀40

 邪悪が世界を侵す時、光の神子が現れる――――。


 太陽の化身である神は、世界を滅ぼす邪悪に対抗するために光の神子を遣わされる。

 邪悪が持つ強大な力と深い闇はどんな力も受け付けない。ただひとつ、光の神子の強い想いだけが闇を祓うのだ。

 

 そして、邪悪とは多種多様である。


 あるときは、永い生を持て余した竜が魔に蝕まれ邪竜となった。

 あるときは、深く強く絶望した只人が魔王となった。

 またあるときは、異界の侵略者だったこともある……らしい。


 各国は、神の慈悲たるこの言い伝えを守り受け継ぎ、邪悪へ備えることを忘れなかった。

 もちろん、我が国もそのうちのひとつである。つまり、王太子たる私――アデルラートも、その守り手のひとりだ。


 もし、我が国に光の神子が遣わされたのであれば、全身全霊を持って神子を支えようと思うのだ。

 邪悪へ挑むという過酷な運命を課せられた神子が、人間の権力争いなどというくらだぬ事象で潰されぬためにも。


『――――ええ、お任せください。なにせ、わたくしは悪役令嬢(アクヤクレイジョウ)ですから!』


 とはいえ、婚約者のシャルベリーンが妙なことを言い出してからというものの、私のそんな決意は実に空疎なものだったと実感している。




 ※





「良いペースよ、あと三周っ!」

「…………はいッ!」


 ここは、貴族学院騎士科棟の訓練場。自主訓練に励む騎士科の生徒もそれなりにいるが、放課後の訓練場は空いている。

 その一角を陣取ったシャルベリーンは懐中時計を片手にし、光の神子である少女エリを走らせていた。

 

 エリを観察するシャルベリーンの後ろには彼女の侍女が控えていて、侍女が持つバスケットには特注の硝子のボトルが何本も収まっている。シャルベリーンいわく、中身は「特製すぽーつどりんく」なのだという。水に砂糖や蜂蜜を溶かし、塩レモンを加えたそれは、水分補給に優れているのだと熱弁していた。


「温室が無いと柑橘類の調達が難しいので、すぽーつどりんくを騎士団に布教したくとも量産できないのですよね。適した果物が他にもあればよいのですけれど……」


 我が国は、寒冷地帯に位置している。温暖な場所で栽培されるレモンも砂糖も贅沢品だ。蜂蜜とて、決して安価なものではない。

 王族である私や高位貴族であるシャルベリーンなら当たり前に享受している恩恵だが、エリは市井育ちである。はじめは恐縮しながら飲んでいた。もっとも、恐縮する余裕もないほどの負荷をかけられているため、いまや躊躇することなく飲んでいるが。

 じつは私も、訓練後の水分補給として試しに頂戴したことがあるのだが、ただの水よりも身体中に染み渡る感覚があった。実際に効果があるのかは不明だが、少なくとも気分はよいものであったのだ。

 訓練中の水分補給は「疲労が加速する」などという理由で否定されているが、この「すぽーつどりんく」なら高パフォーマンスを維持したまま訓練できるのではないか……などと考えてしまうほどだった。


 さて、すぽーつどりんくの可否はともかく、何故こんなことになっているかの説明をするのなら、いくらか時間を遡る必要がある。

 王都に住む平民の娘が、大怪我をした父親のために癒やしの魔法に目覚めた……ある日貴族学院の王族寮へ帰った私のもとに、そんな驚きの一報が飛び込んできたことが始まりだ。

 

 癒やしの魔法は、光の神子だけが持つ奇跡である。王都中が、光の神子が現れたことに対する歓喜で湧いた。その喜びは、やがて国中……いや世界中を巡るだろう。

 しかし我々王族は、警戒を強めねばならなかった。光の神子が現れたということは、邪悪の脅威が迫っているということだからだ。


 王城へ迎え入れられた光の神子はエリという名で、私と同じくらいの年頃の娘だった。

 

 しかし、エリは瀕死の父親のため咄嗟に癒やしの力を目覚めさせたものの、いままで魔法に縁のなかった彼女は自らの意思でその力を示せないらしい。自分が光の神子だと信じることもできず、されど上位者の命に逆らうわけにもいかない。

 状況に押し流されて王城に連れられ、その末に王族と大貴族の視線を集めて頼りなく身を縮こませる少女が、強大な邪悪へと立ち向かわねばならないのかと私は深く憐れんだ。


 父である国王は、エリを貴族学院へ特待生として編入させ、学ばせることにした。慣例上、光の神子は王族と同等に扱われるべき存在なのだ。作法や常識……そして魔法を学ばせるのに、学院より適した場所は確かにないだろう。

 まずは王城にて子供向けの基礎的な教育を施し、編入はそれからになるが、なるべく早く貴族社会の空気に触れておくことは重要だろう。


 エリが王城で学ぶための期間を使い、私は自らの口によって、婚約者であるシャルベリーンに説明をしておく必要がある。

 国王は、学院におけるエリの立場について、私が目を配っておけと仰せだった。しかし、男である私では女性の間にまで目が届かない。つまり、信頼の置ける女性の協力が不可欠だ。急いで設けたふたりきりの茶会の席で、私はシャルベリーンに協力を仰いだ。


『――ええ、お任せください。なにせ、わたくしは悪役令嬢(アクヤクレイジョウ)ですから!』

 

 そうして得られた承諾が…………これだ。

 もちろん、私もその場で「悪役令嬢」とは何かと問うた。


 聞けば、シャルベリーンは光の神子が現れる前の日に、天啓と思しき夢を見たのだという。

 その夢は、光の神子の出現を予言するものだったのだ。シャルベリーンは戸惑いつつもそれは天啓だと確信したが……それを急ぎ伝えられた彼女の父は、困惑するしかなかったらしい。


 しかし、光の神子はシャルベリーンの夢の通り現れた。彼女の夢は、まさしく天啓であったのだ。


『悪役令嬢は、光の神子をいじめぬかねばならぬそうなのです。彼女を追い詰め、さらなる成長を促すのがわたくしの役目』

『いじめるって……シャルベリーンは何をするつもりなんだ?』

『それはわたくしも悩むところでして……一般的に“いじめ”というのは、嫌がらせのことでしょう? でも、それでは精神的に滅入るだけで成長に繋がるものではありませんから……わたくしがやるべきなのは、彼女を身体的に追い込むことなのかと判断しました』

『し、身体的……?』


 そう断言したシャルベリーンの光の神子育成プランは、既に完成しているようだった。

 

 市井で育った光の神子をいきなり貴族子女の群れに放り込むと、よくも悪くも目立ってしまう。まずは作法について重点的に教え込み、できる限り悪目立ちしないようにするのが目標なのだという。

 作法とは言語の一種のようなもので、共通なら安心感や一体感が生まれる。それを考えれば確かに、他については後回しで構わないのだ。

 後回しにした部分は、エリがわからないことを正直に「わからない」と言ってしまえる雰囲気を、私やシャルベリーンを中心に作ってしまえばいい。そのあたりのサポートは、外からいくらでも出来る。


『当家で働く平民出の使用人たちから聴取したところ、細かい作法よりも先に姿勢の矯正に苦労したようなのです。ですから、先に姿勢の維持のために必要なもの……つまりはインナーマッスルを鍛えることが急務でしょう』

『インナーマ……えっ、鍛える?』

『はい。まずはトレーニングです』


 王城や高位貴族の使用人は、たとえ平民出の下級使用人といえど、見苦しくない程度の作法を教え込まれる。

 幼い頃から美しい姿勢を教え込まれる王侯貴族と違い、市井の民はそこまで姿勢というものに頓着しない。よって、姿勢の維持に必要な筋肉が不足している可能性があるという。それと同時に、インナーマッスルを鍛えることにより体幹を安定させ、その後の体力作りにも役立つと見込んでいる……とシャルベリーンは語った。


『体力作り?』

『邪悪を祓うためには、邪悪の巣食う地へ赴く必要がありますから。そのための体力を、光の神子たるエリ様には備えてもらわねばなりません』

『そ、そうだね……』


 平民として生まれ育ったエリは家業であるパン屋を手伝っていたため、体力はあるほうだと思われるが……確かに、遠征に必要な体力はそれでは足りないだろうと納得する。いや、納得はしたが、果たしてそこは「悪役」の仕事なのかと疑問に思う。

 

 とはいえ、自称悪役令嬢のシャルベリーンがあまりにもやる気なので、その眩しい笑顔に水を差すことなど私にはできなかった。

 その後、シャルベリーンは王城で勉強中のエリにインナーマッスルのトレーニングとやらを教え込み、エリの姿勢矯正に貢献した……らしい。


 ――そして、いまに至る。


「……お疲れ様、あとはクールダウンよ。いつも通りペースを落としてもう一周ゆっくりと走ってからここまで帰ってくること。呼吸が落ち着いたのなら歩いてもいいわ」

「は、はい……行ってきます……」


 大きく息を吐いてからゆっくりと再び走り出したエリを見送り、シャルベリーンは侍女に次の指示を出す。

 

 指示を受けた侍女は、バスケットから取り出した大きなクロスを敷き広げた。ここで、エリが水分補給とストレッチを行うのだ。ついでに、エリの食欲があるときは、ゆで卵のサンドイッチを食べさせている。先日のことだが、私がゆで卵のサンドイッチになんの意味があるのかと聞けば、シャルベリーンの侍女は質問に驚きながらも答えてくれた。

 侍女が言うには、ランニング直後の食事は運動によって疲れ切った身体を適切に回復させるため、トレーニングのより良い効果が見込める……らしい。我が国で手に入る食材のなかで、ゆで卵が最も効果的な食材なのだという。

 

 その際に、ゆで卵と同じくらい効果的な食材である「ダイズ」なる豆の所在について心当たりを尋ねられたが、私は豆について詳しくない。

 シャルベリーンが探している豆らしいので、外交部に質問を回しておいたが、反応は芳しくなかった。外交部にかぎらずとも、誰かが何らかの情報を持っていると良いのだが。


「エリ様、お疲れ様です。本日はゆで卵ではなく、蒸し鶏のサンドイッチをご用意いたしました」

「ムシ……?」

「水蒸気の熱で加熱する調理法です。油を使わないため胃に優しく、水溶性の栄養が逃げにくく、食物の水分が抜けにくいというメリットがございます」

「よくわからないけど、美味しそう……」

「はい、とても美味ですよ」


 水分補給を終えたエリとシャルベリーンの侍女が、和やかにエリの軽食の準備をしている。

 見慣れず聞き慣れない調理法に、私は好奇心をくすぐられた。


「…………シャルベリーン、あれは?」

「いつもゆで卵では飽きてしまうでしょう? 食には楽しみも必要だからって……カイヤの提案なんです」


 私が尋ねれば、誇らしげにシャルベリーンが笑う。


 カイヤとはシャルベリーンの侍女のことで、シャルベリーンは幼い頃から自分の世話をするカイヤにとても懐いている。

 私達より十ほど年上のカイヤは男爵家の末娘で、知識欲旺盛で物知りな女性だ。

 なんでも異国の調理法なのだという「蒸し」は、調理が特殊なぶん多くのメリットが見込めるものらしい。


 余談だが、私も蒸し鶏を後日馳走になった。焼いた鶏とも煮込んだ鶏とも、まったく違う印象で驚いたものだ。

 ただ、我々のような年若い男からしたら、淡白で物足りなさを覚えるかもしれない。

 蒸し料理を含め、シャルベリーンのトレーニング理論を騎士団へ提案してみたいところだが、賛同を得られるかは根回し次第だろうか。先に研究者へ情報を流すべきかもしれない。……なんにせよ、シャルベリーンとの調整が必要だ。


 なお、こちらも完全な余談になるが、私はこの異国の調理法を、前国王である祖父の隠居する離宮へ伝えてみた。もちろん、シャルベリーンの許可は取った上でだ。

 そしたら驚くことに、加齢と病で眠ることの多かった祖父は蒸し鶏をはじめとした蒸し料理を気に入って食が増え、祖母と共に庭をのんびりと散歩できるほどに回復した。病人食は味気なく、宮廷料理は胃に重く……食欲が落ちていた祖父は、蒸し料理のおかげで元気を取り戻したのだ。シャルベリーンとカイヤには感謝するばかりである。


 そんなふうに学業と体力作りに励むエリが忙しい日々を送り、我々にも多少の油断があったのかもしれない――――エリが、誘拐されかけたのだ。


 とある学院教師の手引きによって侵入した部外者が、警備の隙をついてエリに接触。

 部外者は言葉巧みにエリを連れ出そうとしたのだが、不審に思ったエリが全速力で逃走し、なんとか振り切った彼女は茶会中の我々の元へたどり着いた。


 それは、「ひとりで大丈夫だから、お幸せに」と駆け足で女子寮へ帰るエリを、シャルベリーンが「駆け足は淑女ではない」と叱って見送った直後。エリが自分にかかりきりのシャルベリーンを慮って、私とシャルベリーンふたりの時間を作ってくれた矢先である。

 従者に慣れていないエリは、普段は自分の侍女すら連れ歩いていない。茶会中の私はサロンから動かないので、誰かを伴わせるべきだった。

 

 事件を知り急ぎ警戒態勢を敷いたのが功を奏したのか、隠れていた部外者はすぐに捕らえることができた。

 後日、調査の末に判明した真犯人は、長年密かに他国と通じていたとある子爵。目先の功に目がくらんだ子爵は、光の神子を手土産に亡命し、取り立ててもらうつもりだったらしい。

 金で動いた学院教師共々、犯人の関係者が厳しい処分となったことは、言うまでもない。


「……トレーニングの効果が出ましたね。でもなによりも、エリ様が無事でよかったわ……」

「でも、シャルベリーン様……わたし悔しいです。せめて、もっと自分を守れるようになりたい」

「エリ様……もうじゅうぶん頑張られました。貴女はきちんと自分を守れたのですよ」


 エリを保護したあとは王族寮の応接室に落ち着いた。長椅子に乗り上げ、シャルベリーンに縋りついて涙を流すエリは、恐怖ではなく悔しさで泣いている。

 涙声と興奮で要領を得ない話をまとめれば、訓練場で自主訓練に励む騎士科の生徒に感化されたエリは、強くなりたいと願うようになっていたのだ。


「で、でも、今回はわたしひとりだったから逃げるだけで済みましたけど、もし誰かが傍にいたら…………わたしのせいで誰かが怪我をしてしまうんじゃって思って……それはいやなんです」

「……邪悪を祓う奇跡は光の神子たるエリ様にしかできないこと。そんな尊き存在のエリ様をお守りするのは、騎士の方々の誇りあるお役目ですから……もしそれで怪我をしても、それは名誉なことなのですよ」

「そう、かもしれません……そうなのかもしれませんけど……」


 シャルベリーンが穏やかにエリを諭す……が、エリは理解すれども納得したくないらしい。

 

 私やシャルベリーンは、いつでも護衛や従者が背後に控える状況が日常だが、市井で育ったエリは違う。その感覚の違いのひとつが、おそらくこれなのだろう。

 光の神子であるエリは守られるべき者だ。しかしエリの感情は、誰かが傷ついてしまうくらいなら、守られたくないと叫んでいる。


 私やシャルベリーンが、守られる立場であること受け入れているのは……そう生まれ育ったからというのが一番である。しかし、何よりも「それ以上の利益を国へもたらすべし」と周囲から望まれているのだと知っているからにすぎない。

 もちろん、それは広い意味で国を守ることに繋がるのだが……王都の一地区という狭い世界で生きていたエリには、まだ届かぬ視線だろう。


 エリは心優しい少女だ。夢見がちで現実的な、年頃の少女だ。

 それこそ、邪悪を祓うという世界を守る偉業が遠くおぼろげすぎて、未だ見知らぬ近くの「誰か」を想って泣いてしまうような――。


 ――そう、彼女は、普通の市井の少女なのだ。


 私がそう思い至ったと同時に、シャルベリーンも同じことを実感したのだろう。シャルベリーンから離れないエリをどう慰めるべきか、シャルベリーンと視線を交わしながら考えあぐねていると、カイヤが静かに前へ出てきた。

 カイヤはシャルベリーンといくつか言葉を交わしたあと、全力疾走と興奮による疲労でうつらうつらとし始めたエリを促し、急ぎ整えた部屋へと誘導していった。


「…………対応を任せてしまってすまない、シャルベリーン。……すべて私の油断だ」

「いえ、いいえ……わたくしも賛同したことですもの。わたくしたちの油断です」

 

 学院では、王族にのみ専属の護衛が認められている。王族と同等に扱われることになるエリにも、当初から護衛がつく予定だったが……慣れない環境で奮闘するエリの負荷を考えて見送っていた。他者の視線に慣れていないエリは、王城で勉強を始めた頃から部屋付きのメイドにすら気を使い続けていたからである。

 これは、学院が生徒の安全に力を入れているため問題がないだろうという私の判断だったのだが、完全な油断だった。


「エリ様のことでしたら、きっと大丈夫です。カイヤならわたくしたちよりもずっと彼女の心に寄り添ってくれるはずですから……」

「……いや、カイヤが付いているからエリのことは心配していない。シャルベリーンは……大丈夫か?」

「わたくし? え、ええ……わたくしは問題ありませ……あっ……」


 穏やかな美しい笑顔を保ち続けていたシャルベリーンの瞳から、はらりと雫がこぼれ落ちる。

 世話を焼いている友人が危険な目にあったのだ。シャルベリーンの感情もそろそろ限界だっただろう。


 シャルベリーンの聡明な瞳を涙の膜が覆う。しかし、彼女は一度だけぎゅっとまぶたを下ろし、滲んだ涙をそっとハンカチで拭い去った。

 

「…………いくらエリ様が戸惑われたとしても、護衛の手配をしておくべきだったと……今は思います。彼女にとって、自らを支える者たちの気配に慣れることは急務だったはずなのです……なのに、あたかも『彼女のため』だと問題を先送りしてしまって……」

「そうだな、私もそう思う。私がしっかりと現実的な判断をすべきだった……市井で育ったエリの価値観を軽視していたのは私だ」


 ただ知識や経験が不足しているだけで、エリは聡い娘だ。護衛を傍らに置く生活を続ければ、いずれその意味を心から理解したことだろう。もちろん、あの優しい心を失わない限り、決して傷つかぬわけではなかろうが……。

 私がエリの価値観を軽視し、シャルベリーンがエリの心を過剰に慮ったことにより、結果的に彼女を深く傷つけてしまった。


 エリの身体をいじめぬくと始めに宣言したシャルベリーンは、エリの心をずっと守ろうとしていたというのに。


「人に教えるって……難しいですわね……」

「ああ。子供が生まれたら教育方針は慎重にならねばと実感したよ」

「………………………………こどっ…………!?」

 

 顔中を真っ赤に染めたシャルベリーンが、まだ潤んでいる目を慌ただしく瞬かせる。私の顔を数秒だけ注視したあと、すいっと視線を逸らして部屋中を観察しはじめる。

 これで少しは気が紛れただろうかと、決してこちらを見ようとしないシャルベリーンを眺めて私は安堵した。


 そんな感情の中でも、護衛の選定を急がねばならないなと、自分の冷静な部分が条件をまとめていく。

 上位の実力者であることは大前提だが、それをどこまで求めるべきか――。


 ……ちなみに、普段は女子寮で暮らすエリが王族寮に宿泊するということで、誤解を防ぐ目的でシャルベリーンも急遽こちらに部屋を整えた。

 初めて彼女と共に摂った夕食は、なんだか妙な気分になるものだったが……夜は別に、特に何もなかった。


 何も、なかった。

 

 


 ※


 


 エリの専属護衛は、若いが実力のある男女の正騎士を選んだ。若い外見は学院に溶け込みやすく、エリができる限り護衛の存在を気にしなくて済むような人選である。

 同時に、騎士科に弟妹が在籍しているふたりでもあり、彼らの弟妹を通じて騎士科の生徒の視線をエリに向けることも目的としている。


 それをきっかけに、エリの体力作りには騎士科の生徒が数人ほど加わるようになった。そうして騎士科の生徒や正騎士と積極的な交流をはじめたエリは、自らの立ち位置について考えることが増えた。

 邪悪のもたらす恐怖が蔓延れば、人心は乱れる。それに対応することになる騎士たちにとって、光の神子の祈りがどれほどの希望となるか……彼らの真っ直ぐな言葉は、エリの心に深く染みた。

 同様に、邪悪を祓うための遠征に備えるエリのたゆまぬ努力は、見るものの心を打つ。エリと関わる我々以外の生徒が、少しずつ増えてきた。


 誘拐未遂事件以降、エリの顔つきが少しだけ変わった。

 状況にただ流されるのではなく、「強くなる」という目標を得たエリの瞳は、凛とした力強さを秘めている。そんな彼女に惹かれだした男たちもちらほらと見受けられ、エリは淑女としても順調に花開いていく。


 結局、私はエリを見くびっていたのだ。彼女の心はとても強い。エリが光の神子たる理由は……きっとこういう部分なのだろう。

 多少の導きは必要だったろうが、強く囲って保護する必要はなかったのだ。何も見抜けていなかった私は、自分がまだまだ未熟者なのだと思い知った。


 シャルベリーンや教師たちによる教育によって、エリの背筋はいつでもピンと伸びるようになり、歩く姿は優雅に堂々たるもの。

 心境の変化ゆえか、いままで苦戦していた魔法の授業も一気に進みはじめ、光の魔法の取り扱いもこなれてきている。

 

 そんな中、シャルベリーンの提案により、彼女の気分転換になればとダンスの練習が導入されるようになった。作法や魔法などに比べて緊急度が低いダンスは、いままで所属する家政科の授業で楽しみながら触れるだけだったらしい。

 ちなみに、これもシャルベリーンの提案なのだが……エリの練習相手が必要だと、私や私の友人たちが代る代るエリの相手を努めさせられた。


 なおエリ自身は、自分で踊るよりも、手本として踊る私とシャルベリーンの姿をうっとりと眺めるほうが楽しそうである。

 何故かというと、彼女はよく「オふたりノオ手本ガ、見タイデスー」とわざとらしいお願いをしてくるのだ。私とシャルベリーンが、エリのわざとらしさに苦笑いで了承し、結果なんだかんだふたりで楽しんでしまうのも……要因のひとつかもしれないが。

 仕方がない。付き合いの長いシャルベリーンとは、お互いの癖を把握しているので踊りやすいのだ。私だって楽しく身体を動かすことは嫌いじゃない。別に密着度の問題ではない。


「殿下、エリ様はいかがでしたか?」

「そうだな……。君が課したトレーニングの成果か、体力と姿勢には問題がなさそうだ。踊ること自体も嫌いなようには見えない。いまは気分転換扱いだが、回数をこなせばもっと様になるだろうから、次の学内パーティーでは積極的に――」

「い、いえ、そうではなく……いえ、そうですね……私もそう思いますわ」


 シャルベリーンから投げられた質問に、私が特に深く考えることもなく所見を述べれば、何かを言いたげな顔で彼女が口ごもる。珍しい表情だ。

 エリが私の友人と踊る姿を共に眺めながら……という状況なので、今現在の評価についての質問だと思ったのだが。


「……すまない。質問の意味を履き違えたかな」

「いいえ、申し訳ございません。いまのはわたくしに問題があっただけですから……大変失礼いたしました。殿下はどうぞ、お気になさりませんよう」

「……そうなのか?」

「そうなのです!」


 会話を打ち切ったシャルベリーンは、すっと私から目線を逸らした。私が何かミスをしてしまったか……と考えても、よくわからない。


 しかし、少々幼い振る舞いのシャルベリーンに懐かしさを感じたせいか、過去の幻影が脳裏をかすめる。それは、我々がまだ婚約者となる前に行われた顔見せの茶会――ようするに見合いだ――での出来事だ。


 シャルベリーンの母は、隣国の王女だ。王家ではなく公爵家に嫁がされたと不満に思い、格下へ嫁がされたと我が国を今でも毛嫌いしている。

 こちらからすれば、格下だ何だと文句を言われても、隣国から侵略戦争を仕掛けられたので返り討ちにしたからこうなっているだけだ。

 隣国とは結果的に和平を結ぶことになったので、友好の証として公爵家が王女を貰い受けることになったのだ。人質ともいうが――――――まぁ、それは別の話だ。


 そんな母親を持つシャルベリーンは、当然のごとく母子関係が破綻していた。

 自分と全く会話をしてくれない母親に連れられ、はじめて王城へ足を踏み入れた幼いシャルベリーンは、出会い頭から不機嫌だった。私は、その日のことをなんとなく覚えている。


「いまの君と似た表情を覚えているよ。見合い茶会があっただろ? 私達は、母達に追い出されて薔薇園で散策をすることになったね。不機嫌な君は、母親にお気に入りの髪飾りを褒めてもらいたかったのだと、拗ねて顔を真っ赤にしていたな」

「………………えっ……そんな昔のことを……っ!?」

「私はそれまで同年代の女の子と話をする機会なんてなかったから、君に理由を話してもらえるまでどうすべきか困ったことを覚えているよ」

「それに関しましてはもう……誠に申し訳ありません……」


 正直な感想を述べるのなら、当時は「困った」というよりも「面倒だ」と思っていた。誰からもそんな応対をされたことがなかったからだ。

 もちろん、今なら色々と対応を思いつくが……シャルベリーンとはもう少し腹を割って話したい。面倒でも、向き合いたいのだ。


「だから、今も少し困っている。できれば、あの時のように教えてもらえると嬉しい」

「う…………………………………………あの……その……」


 シャルベリーンは私と目を合わせようとせず、顔をそむけたまま頬を赤く染めている。言うべきか……言わざるべきか……そんな葛藤をしているのだとよくわかる。普段はそつなく感情を隠しているというのに、こういうときはあからさまだ。


 昔のシャルベリーンは癇癪が多く、私もずいぶんと手を焼いた。父は忙しく、母には無視をされ、乳母や使用人とは距離がある。きっと、感情の行き先がなかったのだろう。

 それが落ち着いたのはいつからかと思い返すと……おそらくは、カイヤが付いてからだ。シャルベリーンの傍らにカイヤを見るようになってから、シャルベリーンは徐々に落ち着いていった。彼女らの、母娘にも姉妹のようにも見える温かみのある主従関係は、あれからずっと変わっていない。

 

 お互いの教育が進むにつれ、シャルベリーンとは建設的な会話が出来るようになった。だから、最近のシャルベリーンが曖昧に言い淀むことは滅多にない。ふたりきりの茶会の場では、少々感情的になることもあるのだが……あれはプライベートな場だからだろう。多分。

 

 十秒ほどの間、唇を動かしては閉じる動作を繰り返した彼女はきゅっと唇を引き締めてから、ぽつりとこぼした。


「…………エリ様はとても可愛らしく健気なお方ですので………………共に踊って好意を持たれたりなどは……したのかと思って……………………」

「……………………つまり?」

「つまりも何も、それだけです。他意はございません!」


 熱を持ったのであろう頬に手をあてたシャルベリーンは、相変わらず私を見ない。

 さて、出てきた理由を要約すれば……彼女は嫉妬をした……ということか。たしかに、エリは一般に魅力的な女性だと分類されるだろう。それは否定しない。


 しかし、少し踊っただけで心を移すと思われるのは心外である。……別に、悪い気分にはならないが。


 そう、私は気分が良い。

 だから、踊っていたはずのエリが、騒ぐ私達を見てにやにやと笑っていることについては……不問としようじゃないか。


 慌ただしくも楽しく日々が過ぎ、エリの魔法は上達し、だいぶ体力がついたなと思っていたら、彼女はいつのまにか護身術を身につけていた。

 受け身にはじまり、身体的拘束から逃れる技術、相手の勢いを利用して投げ飛ばす技など……確かに護衛対象が身につけていると助かる技術だろう。万が一でも相手の隙を作れる。

 もちろん、光の神子であるエリがそれを必要とする状況にならないことが一番であるが、念には念を……という心持ちは間違いではない。間違いではないが、思うところはある。


 そうして、エリの準備が色々と――本当に、色々と――整ってきた頃。ついに邪悪の正体が判明した。


 邪悪の居場所は、隣国――――シャルベリーンの母の故国。

 敗戦の責任を取って幽閉されていた前国王が、突如幽閉先の離宮を魔に染めたのだという。



 

 ――――――お前が邪悪になるんじゃない!




 本音を言わせてもらうのなら、私は何よりも先にそんなことを思った。

 王族たるもの、去るときは潔くあるべし……だ。


 些細なことでも情報が欲しいと、隣国の前国王について尋ねるために、シャルベリーンの母親が王城に招かれた。

 しかし、書記官が記録を残す公的な場だというのに、彼女は「お前らのせいだ」と自らの父親が邪悪に染まったことを責め立ててくるのだ。

 

 緊急事態にも関わらず、品無く喚き続ける女性に誰もがうんざりとした表情を隠せず、主張に内容もないのでその場はすぐに散会した。

 あの逆恨みの根深さを考えれば、隣国の前国王が魔王とならなかったら、我が国の公爵夫人が魔王になっていたかもしれない。由々しき事態だ。

 

 王侯貴族とは、貴き奴隷である――私は父からそう教わっている。

 支配するのは秩序のため。誰よりも着飾るのは豊かさを示して標となるため。

 もちろん、そんなものは綺麗事だというのもわかっている。貧民街はどこにでも形成され、税を搾り取りたい貴族は法の隙間をついてくる。いたちごっこだ。

 

 つまり、いくら王が崇高な理念を掲げようとも、我が国とて決して健全ではない。しかし、度重なる内政の失敗によって膨れ上がった民の不満を誤魔化すため、その不満の矛先を他国へ向けるなんてことは論外で……それをやらかしたのが、かつての隣国である。


 隣国の現国王は、前国王に疎まれて早々に臣籍に降り、若くして隠居状態だった前国王の弟だ。彼は側室の子であり、王族らしさを履き違えた傲慢な異母兄姉を反面教師にして育ったらしい。優秀だが争いを好まない堅実な人物である。

 自分は王の座を蹴り落とされたのに、早々に追い落としたはずの優秀な異母弟がその椅子に座っている。前国王の不満の根は、そのあたりだろうか。

 

 とはいえ、憶測でしかない理由を考えたところでどうしようもない。

 王が王であることを忘れた末路は、邪悪の権化たる魔王として討たれる――そんな結末だけが重要なのだ。

 そして、その結末をもたらすために鍵となるのが、光の神子であるエリだ。なんという、やるせない話か。

 

 招集されたエリは、一連の話を凪いだ瞳で聞いていた。


 神は、何故こんな試練を、この華奢な少女に課すというのか。

 エリは、平民として生きてきた娘だ。私やシャルベリーンと違い、自分や家族のことだけを考えていればよかったのだ。だというのに、どうして急に世界なんて大きなものの命運を託されてしまったのか。

 しかし、エリだからこそ光の神子が務まるのだとも納得している。謁見の間に立つエリは、焦ることなく、怒ることなく……喜ぶこともなく、ただ静かに口を結んでいた。その清廉な気配が、エリを神子として相応しく見せてくる。


 光の神子が現れてより着実に進めていた魔王討伐隊の準備はすぐに整い、エリは彼らと共に隣国へ出立した。

 当然のことながら、私やシャルベリーンは同行できない。その代わりというわけでもないが、信頼がおける私の護衛のひとりを捩じ込んだ。さらに、エリの助けになりたいと希望する騎士科の生徒が、数人ほど特例で選出された。

 この道行きで何よりも心配だったのは、エリの心だ。あらゆる教育がエリに詰め込まれ、エリ自身も神より与えられた役割を受け入れているように見えるが……その奥底にある繊細な心が耐えられるだろうか。そんなエリの心を、歳の近い彼らに支えてもらいたい。

 

 邪悪が撒き散らす魔は、生き物を侵して変質させる。人間とて例外ではなく、変質したそれらを媒介に魔が感染していく。そして、変質した生物は凶暴になり周囲を襲う。そんな魔に侵された凶暴なモノが社会に紛れ込み、人心は不安で荒れていく。

 元人間である魔王そのものの相手に加え、怯える民の心が光の神子の存在という希望によってなんとか保たれているという現実がある。救いを求める彼らの行き過ぎた感情によって、エリの心身が害されなければ良いのだが――――。

 

 私とシャルベリーンがエリたちの無事を祈り、吉報を待ち続けること数カ月……やがて、魔王討伐の一報が届く。




 ――光の神子エリが、魔王をその聖なる拳で魔を祓い、正気に戻した……らしい。




「…………………………………………えええ……?」


 私とシャルベリーンはふたりそろって、急使がもたらした報告を飲み込むのに長い時間を必要とした。

 

 


 ※


 


 凱旋パレードにはじまり、謁見の間での公的な出迎え。そして、ごく少数を集めた軽い晩餐会。

 慌ただしく予定をこなし、明日のパーティーに備えての早い就寝時間の前、エリと私たちは城の談話室に落ち着いていた。


 隣国のあらゆる人々に引き止められ、それでも長い時間をかけて我が国へ帰ってきたエリは、この旅路でかけがえのない経験を沢山積んだのだろう。国を出立してからたった数ヶ月、彼女は”少女”から“女性”へと見事に羽化していたのだ。そして、そんなエリを今まで見たことのないような優しい顔で見ているのが――出立時、エリにつけた私の護衛。

 ……………………元々、護衛とエリは気のあう間柄だった。そういう理由もあり、エリの護衛へ推挙した経緯があるのだ。エリのほうも、その護衛には心を許しているように見えるから……問題なかろう。


 なお、国王である父が、光の神子に寄せられる縁談の対処に頭を悩ませていたので、報告しておかねばならない。独身のエリを高位の神職――神に仕える身である高位神職は、婚姻が禁じられている――として取り込み、自分たちの権威として祭り上げようと目論む生臭い宗教家共にも牽制が必要だ。

 婚姻するにも独身を貫くにも、エリは元々平民である。彼女の価値観で、婚姻に政治は付属しないのだ。よって、彼女本人の意思をじゅうぶんに尊重しなければ、偉業を成し遂げた筈なのにひどい罰になってしまう。……なお、これはシャルベリーン経由のカイヤの助言だ。危なかった。

 

 紅茶を含んで落ち着いたエリから話を聞けば、道中から試練の連続だったようだ。

 救いを求める隣国の民に何も出来ず、エリは光の神子という自らの立場に心を痛めた。邪悪と魔に侵された生き物以外、光の神子として為す術はない。何故なら、それは為政者の仕事だからだ。だとしても、救世を成す力があるはずなのに何も出来ない自分にエリは強く失望した。


 怪我人を癒やしの魔法で治療するにも、魔を祓うのにも、魔法の源である魔力を使用する。魔に侵された者がどこに潜んでいるかわからない以上、癒やしの多用は出来ない。

 さらに、魔王城と化した離宮が近づけば近づくほど、魔に侵された者が増えていく。街も人も荒れ、怪我人も余所よりずっと多いが、そこでは魔の浄化を優先しなければならなかった。


「わたし……何も出来ないことが悔しくて悔しくて。騎士の皆様にも怪我が増えていくし、でも本当にひどい怪我じゃないかぎり治すのも止められてしまって……」

「そうですね……。魔を浄化すれば、新たな被害を防げるかもしれませんから……」

「はい。そう言われて……理解もしていたんですけど……」


 そうして我慢を重ねたエリは、遂に魔王の前にたどり着く。

 しかし、魔王は数多の強力な魔法を操り、精鋭の騎士たちを苦しめる。エリは残りの魔力量を気にしながら傷ついた騎士を癒やし、後方で守られただ待った。


 長い激闘の末に捕らえられた魔王の前に、エリは立った。

 そのエリの眼の前には、淀んだ瞳でエリを睨み上げる魔王がいる。


「魔王の往生際の悪さを見て、わたし……なんだかもう腹が立って仕方がなくなって……つい、グーが出て………………」

「グーが」

「まぁ…………」

 

 エリの言っていることが一瞬理解できず、私は間抜けにも復唱してしまった。

 そんな私の隣では、驚いたシャルベリーンが小さく開いた口に可愛らしく手を当てている。


「事情は出発前に伺いましたし、あちらの国でも色々と聞けたんです。だから、殿下もシャルベリーン様も……もちろん両陛下も他のお方々も、この国の王族の皆様は国のために力を尽くしてくださっているのに……どうしてあの人は、ああなんだろうって。どうしてあんな人のために、皆が苦しまなければならなかったのかって……。あちらの今の王様も、すごく良くしてくださったのに……どうしてって思うと……」


 そろえた膝の上に載せていた手を、エリがぎゅっと握りしめる。

 しかし、俯くエリの肩に、背後に立つ護衛の手がそっと添えられた。肩に触れる手の温かさに気づいたエリが、彼を見上げてふわりと笑い……なるほど、彼らはこうして仲を深めていったのだろう。


「だから、苛々してどうしようもなくて、つい殴ってしまいました。……お恥ずかしい」


 ほんのりと頬を染めたエリが、頬に手を添えて微笑んだ。

 シャルベリーンとよく似たお手本のようなそれを見れば……恥ずかしいのは本心だろうが殴ったことを微塵も後悔していないことがよくわかる。

 

 はて、出会った頃のエリは、こんなにアグレッシブな娘だったか。もしかしたら、シャルベリーンの体力作り(いじめ)と騎士たちとの交流により、こうなったのではないか……疑念は尽きない。


 とはいえ、正直なところ気持ちは理解できる。

 それに、エリが殴打ついでに魔王を浄化したことで、前国王は人間として存命できているのだ。その痛みくらい、粛々と受け止めるべきだ。もちろん、この後にどんな処遇が待ち受けているかは、隣国次第である。かの前国王が、どんな言い訳をしているかは……そのうち聞いてみたいところだ。


 このまま客室に泊まるエリとシャルベリーンが、部屋へ戻って引き続き「パジャマパーティー」なる催しをするということで、私は談話室から引き上げた。

 パジャマパーティーとはよくわからないが、シャルベリーンが妙にそわそわとしていたし、おそらくは楽しいことをするのだろう。少し羨ましい。



 

 ――ああ、平和で何よりだ。



 

 光の巫女が現れてからというものの、シャルベリーンは何かに取り憑かれたかのようにエリのため動いていた。

 シャルベリーンが見た天啓の夢は、我々に伝えられたものの他にも何かがあったのかもしれない。例えば――――――滅びの予言など。


 シャルベリーンは何も言わない。

 けれど、エリが帰ってきた今は、すっきりとしたように心から笑っている。


 学院を卒業したら、本格的な結婚準備に入る。

 天啓に関する何かを抱えていたのなら、夫となる私にはそのうち話してもらえるだろうか。

 

 もしかしたら、我慢しきれずに尋ねてしまうかもしれないが……それは彼女次第だ。


 その時が、少し楽しみになってきた。




 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ 





 

【番外:カイヤとシャルベリーン】

 

 パジャマパーティーの準備を進めながら、カイヤはこれまでを思い返していた。


 カイヤは末端男爵家の末子である。貧乏子沢山の実家では、下の子は雑に扱われていた。

 おざなりな世話で身体が空腹を訴えていた二歳だか三歳だかの頃、カイヤは自らに前世と思われる別世界の記憶があることを自覚する。


 そして悟ったのだ――――この親は駄目だと。

 

 専属の子守りは付けられず、だいたい放置されていたカイヤは、自力で学ぶことに決めた。

 家族の話を聞くに、この国の貴族令嬢の価値は結婚にある。しかし、末娘ということで持参金が期待できないため、まともな結婚は難しい。つまり、生きるためにはスキルを身に付けなければならないのだ。

 カイヤは数少ない使用人に交じって、なんでも手伝った。使用人のほうは、放置されているカイヤを気の毒に思うのか、色々と快く教えてくれた。後から思い返せば、彼らは遊んでくれていただけかもしれないが。


 読み書きは、王都の平民が通う学校で彼らと共に学んだ。末子に家庭教師をつける費用なんてなかったからだ。

 前世の感覚が強いため、平民と並んで学ぶことに抵抗はない。ないどころか、彼らと駆け回って積極的に遊んだ。


 カイヤの前世は、地球の日本国で生きた普通の庶民女性である。

 長年付き合った男と結婚したら半年も経たずに若い女と浮気をされて離婚したという、嫌な記憶もあるが……普通の女性だ。そんな記憶があるので、結婚願望もない。だから、金で妙な嫁ぎ先へ売られる前に、合法的に逃げ出したい。


 そんなことを考えていたカイヤは幸運だった。慈善活動の一環で平民学校を訪れていた下位貴族の夫人に、気に入られたのだ。

 当時のカイヤの振る舞いは、母や姉の見様見真似だったが、それなりには出来ていたらしい。もちろん、平民にしては……という前提があるが。

 

 そうして、カイヤの事情を知った夫人の紹介で巡り巡って、様々なことを学んだカイヤはシャルベリーンの侍女になった。ひどい癇癪持ちだった当時のシャルベリーンの相手は、普通の貴族令嬢には難しかったのだ。


 カイヤに結婚願望はないが、子供は可愛いと思う。前世で子を持つことは出来なかったし、今世も予定はない。

 だから、カイヤはシャルベリーンのことを、自分の娘だと思って接することにしたのだ。

 なにせ、シャルベリーンの実母は娘を居ない者として扱っている。だったら……カイヤが母になればいい。


 実年齢の差は十程度しかないし、主従でその心持ちは不敬かもしれないが、カイヤはシャルベリーンを愛したいと思った。愛情を欲して泣きわめく子供を、守りたいと思った。

 

 それからのカイヤは、シャルベリーンの孤独にひたすら寄り添った。


 ただ泣いて眠らない夜は、眠りにつくまで手を握った。

 ひとりでの食事を拒絶するときは、こっそりと卓を共にした。

 癇癪で菓子を投げ捨てたときは、食材の生産と流通について説明した。

 勉強から逃げ回ったときは、家庭教師と相談しながら学びで世界を知る楽しさを教えた。


 たとえば、シャルベリーンの服が、どう作られているのかだ。

 絹布をじっくりと触り滑らかな手触りを教え、繊細な糸が織りなす美しいレースを称え、職人の刺繍が描く豊かな色彩に見惚れた。

 この国は絹をどこからどう輸入しているのか、優れた技術を有する職人をどう保護し育成しているのか。そして、絹同様に輸入が増えている木綿やこの国でも生産できる麻は、どんなものなのかと触れた。


 シャルベリーンの将来は、国を背負って立つことが定められている。

 衣食住という人々の営みの根幹を教え、国は人々が支え合って成り立っていること、シャルベリーンはひとりではないと知ってほしかった。シャルベリーンも国を構成するかけがえのない「ひとつ」なのだと、国はひとつの集合なのだと、カイヤは教えた。

 だから、時折ひとりだと感じて寂しくなっても怖くないのだと、カイヤは小さく柔らかな手を握った。何故ならカイヤは、シャルベリーンの隣にいる「ひとつ」だから。

 

 父親とは会えなくて、母親には無視をされ、使用人とは距離がある。祖父母をはじめとする親戚の記憶はあまりない。

 

 シャルベリーンはひとりで寂しかったが、寂しいという不快な感情を、カイヤに教えられはじめて理解した。けれど、カイヤはシャルベリーンの寂しさを否定しなかった。寂しいという感情も、シャルベリーンの中にある大切なものだからだ。

 寂しくて泣きたいときの逃げ場所をカイヤが作ったから、シャルベリーンは寂しくなることが減った。そうした積み重ねの結果、シャルベリーンは少しずつカイヤを受け入れていった。


 シャルベリーンが両親とのほどよい距離感を見定めて落ち着くと、日々は穏やかに過ぎていく。

 感情が落ち着いたら、少しずつ増えた友人や時折会う婚約者とも話が弾むようになった。カイヤや家庭教師が教えてくれたあれこれは、皆の興味をよく引いた。

 寂しいという感情は、シャルベリーンに目隠しをしていたのだ。楽しい時間は、シャルベリーンが国の「ひとつ」でも孤独な「ひとり」ではなかったと教えてくれた。


 そして貴族学院へ入り、婚約者と並び立つ機会が増える。

 同世代の多様な子女との関わりが増え、シャルベリーンは思う。婚約者のアデルラートは、よく出来た真面目な人なのだ。


 かつての癇癪放題の自分を思い返し、シャルベリーンは恥ずかしくなった。

 昔の記憶に居るアデルラートは、いつも困ったように微笑んでいた。同じ年だというのに、大違いである。

 いつもの茶会で今更の謝罪をしたが、アデルラートは快く許してくれた。人としての器も大違いである。


 思い切って謝罪したことで心機一転、アデルラートに相応しい貴婦人を目指すのだとシャルベリーンが決意した頃――不思議な夢を見た。


 


 そして、シャルベリーンは思い出した。

 ――自らの中にあった、前世の記憶を。

 



 


「……………………えっ、シャルベリーン様()ですか?」

()ってことは…………もしかしてカイヤ……貴女も?」

「はい。私が思い出したのは、うんと幼い頃でしたが……」

「まぁ……」


 シャルベリーンが思い切ってカイヤに相談したら、なんともあっさりとしたカミングアウト。

 少し驚いたが、シャルベリーンが知っているカイヤは彼女だったので、関係性は何も変わらなかった。

 

 しかし、前世を思い出したとはいえ、シャルベリーンが思い出せたことは殆どない。

 前世の女性が身体を動かすことが好きだったこと、死ぬ少し前に読んだとある漫画のこと。それくらいだ。


 とはいえ、その漫画というのが問題である。友人に薦められ、お試しにアプリで一話だけ読んだその漫画には「シャルベリーン」という名のいじわるな悪役令嬢が居たのだ。


 漫画のことはそれなりに覚えているが、読んだのは一話だけ。あらすじと合わせても、知っている情報は、平民出身の光の神子が現れて貴族学院へ入学し、そこで王太子と恋に落ちる――――そんなよくある設定だけ。

 なおカイヤは、悪役令嬢というジャンルの作品には多少触れたこともあるらしいが……その漫画のことを何も知らなかった。


「困りましたね、ミリしらで破滅回避をしなければならないとは……」

「ええ、困ったわね。どうしましょう……わたくしは光の神子にいじわるをしなければならないのかしら……」

「いじわるをする必要は無いと思いますが……“強制力”などという、ふざけた現象がある可能性を考えると気がかりですね……」


 現在、シャルベリーンが積極的に光の神子を害する理由は微塵も無い。

 しかし、何かしらによって、シャルベリーンに濡れ衣を着せることは可能なのだ。カイヤは、これを一番危惧している。

 

「しかし、いくら光の神子が相手とはいえ、王太子殿下がシャルベリーン様を捨てるなどという愚行を犯すのなら許せませんが……」

「不敬よ、カイヤ。それに、伝説の光の神子が相手なら……仕方ないわ……」

「仕方なくありません。シャルベリーン様は本当に素敵な女性へお育ちになりましたから、目移りするのは異常なのです」

「あらまぁ、侍女の欲目だわ。…………ありがとう」


 カイヤと話し合い、シャルベリーンは前世の夢を有効活用することに決めた。

 

 国として光の神子を育てねばならない以上、わかりやすい何らかの壁が必要だと思ったのだ。光の神子が王太子に恋をするのなら、その婚約者であるシャルベリーンが立ちはだかるべきである。なぜなら恋というものは、年頃の娘にとって強い原動力になるはずだから。


 悪役令嬢は主人公をいじめるものだ。しかし、いじめと称した嫌がらせが成長に繋がるとは思えない。

 シャルベリーンは考えに考え、光の神子をいじめと呼べるほどに厳しく鍛えることにした。幸い、トレーニングの効率的なやり方ならシャルベリーン本人が思い出しているので、少しの準備をするだけでよかった。


 そして、実際に光の神子が現れ、アデルラートとシャルベリーンは共に彼女の世話をすることになる。

 なおカイヤは、光の神子も転生者で、シャルベリーンに牙を剥く可能性を警戒していたが……光の神子エリは、ただ善良なだけの人物だった。


 エリは、持ち前の善良さと正義感によってシャルベリーンの体力作り(いじめ)に食らいつき、才能を開花させていく。

 誘拐未遂を経て、なんだか妙な方向性を進み始めたが……エリは正しく光の神子だった。


 長い旅路の末、魔王と化した隣国の元国王をぶん殴って帰ってきたエリは、シャルベリーンの隣で大口を開けて笑っている。

 その笑い方は淑女ではない………………そう思うが、偉業を成し遂げたエリには、気を抜ける時間が必要だ。


 エリにつられたシャルベリーンも、いつもより大きな声で笑う。


 


 ――――ああ、私はこれが見たかったのだ。




 部屋の大きなベッドに座るのは、ふたりの少女。

 傍らのワゴンで温かいハーブティーを注ぎながら、カイヤは滲みそうになる涙をこらえた。

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