とある子爵令息 中編
ある日、ディランは両親に連れられて初めて他領へ足を踏み入れた。
一緒にいる兄たちも少し緊張しているようだったが、どちらかと言うと好奇心の方が勝っているようだった。シーカー子爵家の三兄弟は、優秀で破天荒なことで有名なのだ……と、言われていることを随分経ってから知った。
アンダーソン子爵家のお茶会に招かれ、両親たちは穏やかに話し合って笑顔を浮かべている。
そんな中で、両家の子どもたちの紹介があった。
アンダーソン子爵家の長男キースはディランと同じ年で、5歳のルシータと3歳のネルの姉妹を紹介してくれた。
ディランは初めて自分よりも年下の貴族の女の子を見て、お人形さんみたいだと思ったことを覚えている。特にまだ小さいネルを見て、めっちゃ可愛い!と思ったものだ。
なお、ディランが他の貴族の子供と出会っていないのは、暇を見つけては兄弟そろって家を脱走して野山を駆け回ったり、港に入り浸っていたからだ。ディランを捕まえるより、お茶会などを諦めるほうが母としては楽だったのだろう。
子猫の愛らしさに心を鷲掴まれ、はぁはぁと息を乱して胸を押さえる駄目な大人のように、ディランは幼い姉妹が可愛くて仕方がなかった。
もっと言うなら、長兄と次兄も可愛い姉妹と大人しいキースを見て、ニッコニコ笑顔だった。
兄曰く、ディランは可愛げとは無縁すぎるし、可愛いがりたくても出来ない、とのことだ。酷い言葉だよ。
初めて会ったキースは、少しディランより背が高いだけで、ヒョロヒョロとした少年だった。大人しくて、はにかみながら笑う可愛い少年。
同じ10歳とは思えないほど、しっかりとした体つきのディランと並べば、そのヒョロさが際立つような、そんな少年だ。
そんな可愛い可愛いキースとディランは、妙に仲良くなった。
「俺……ぁ……僕はディラン。よろしくね、キース」
「うん!僕こそよろしく、ディラン」
普段と同じ様に喋りそうになったディランを、笑顔を貼り付けたまま、物凄い勢いで振り向いた母が見つめる。
お母さん怖い……。笑顔なのに目が笑ってない。
体を小さくしてぷるぷるしているディランを、兄2人が笑いながら見つめてると、その2人にも母の鋭い目が向けられる。
お前ら見てるからな、と言う無言の圧である。
男の三兄弟なんて、大体こんなもんだ。
とくに年子なせいか、俺たち三兄弟はなんやかんや言いながら共に行動することも多く、それなりに仲が良いと思う。
その結果、なんかしらのやらかしがあった場合の処理が3倍になることも多々あった為、母は気が気じゃなかったのだろう。
アンダーソン子爵家には立派な庭が有り、ちょっとした迷路のような生垣があって、小さな人工の川も流れていた。子供にとっては絶好の遊び場である庭で、俺たち三兄弟とキースが遊ぶのを両親たちは笑顔で見つめていた。
ただし、うちの両親だけは目が鋭かった。
結果的に、それは正しかったと言えよう。
人工の川は元々の川を引き入れて作られているものだったので、水の中の生き物も当然流れてくる。
川には魔物の一種である魔魚が生息していることは知っていたが、実際には見たことがなかった。
その魔魚が川を泳いでいるのを見た瞬間、ディランは目を輝かせて川に突入し、全身をビッシャビシャにしたのだった。
目を丸くして驚くキース。
ディランを指さして爆笑する兄2人。
遠くで額を押さえる両親。
輝く笑顔で、素手で獲った魔魚を掲げるディラン。
「すっ…………ごい!!凄いよディラン!!」
「だよな!すげぇよな!!魔魚だぜ?キース!」
「いや、そっちじゃねぇだろ」
「違うと思うぞー?ディラン」
凄い凄い!とはしゃぐキースとディランを、サイモンとハロルドは肩を竦めて見つめていた。
その後ディランは、母にしっかりと怒られつつも、捕まえた魔魚を持って帰るために、アンダーソン子爵家でバケツを借りるのだった。
それがきっかけとなって、キースとディランは常に一緒に遊ぶようになった。
そうなってくると、必然的にキースも体を鍛えることとなるのだが、意外なことにキースはそれを嫌がりはしなかった。
いくら可愛くても、やっぱりキースも男の子だったので、屈強な男性に憧れていたらしい。
そして、ディランに触発されて体を鍛えるようになり、ディランの鍛錬に共に励むようになれば、あっという間にヒョロもやしは、細マッチョへと変貌したのである。
はにかみながら笑う可愛い少年は、いつの間にか口を開けて爆笑する様な元気な少年へと変わり、長兄と次兄はディラン2号じゃねぇか!と地団駄を踏んでいた。酷いよねぇ。
キースの変わり様に、流石にご両親から何か言われるかと思っていたが、そんな事は全くなかった。
その家の教育方針と違うなら、普通は嫌がるものだ。
しかし、アンダーソン子爵夫妻は、ディランを邪険に扱ったり怒ったりしない聖人君子のようなお二人だ。
ディランの母であれば、美しい顔に般若の笑顔を貼り付けて、ディランの頭に拳骨を落としているだろう。物凄い儚げ美人な容姿をしているくせに、ディランの母は大変たくましいのだ。
そんな幼いディランの度重なるやらかしがある為、シーカー子爵家ではアンダーソン子爵家に頭が上がらない。
後で知ったことだが、うちの愚息がすみません!と、何度も謝罪と感謝の手紙と品を送っていたらしい。
そんなこともありつつ、気付けばディランは17歳になっていた。
この頃は将来について、絶賛両親と話し合いを繰り返しているところだった。
両親は、ディランの夢である東の辺境騎士団の最前線部隊に入ることを強く拒み、どれだけディランが辺境騎士団全体の生存率や死亡率を分かりやすく説明しても、一向に頷くことはなかった。
もう何年も同じ話をして、何度も説明しているにも関わらず、両親はディランの背を押してはくれない。いっそのこと飛び出して行ってしまおうかと、何度思っただろう……。
そうしなかったのは、兄2人とキースやアンダーソン子爵夫妻のお陰だ。
兄2人はディランと共に両親の説得に尽力してくれたし、キースは思い悩むディランを何度も息抜きに誘ってくれた。
家に居辛くなっていた時は、アンダーソン子爵夫妻が何も言わずに家に泊めてくれた。
その内に両親とディランは妥協案をそれぞれ出し合い、両親が提示した内容に俄然やる気を燃やし、鍛錬の内容を綿密に練り直しては、個人資産を着々と増やす日々を送っていた。
そんな時に、思い詰めた表情で声をかけてきたのが、キースの妹であるルシータだった。
「ディランお兄様……少し、話を聞いてもらえませんか?」
「どうした?何があったんだ?」
「実は……ネルについてご相談が……」
「え?ネル??」
12歳になったルシータは幼いながらに綺麗な少女で、その妹のネルは10歳で、まだまだ遊び盛りの元気いっぱいの可愛い女の子だ。
庭で一緒に砂の城作りをした事か、それともネルを抱えたまま人工の川を飛び越える遊びか、はたまたネルと一緒に木の上で昼寝したことか……。
物凄い勢いで、ディランの脳裏を駆け巡るネルとの遊び。決して少女らしいとは言えないそれらに、流石にご両親に何か言われたのか?と、少々焦りながらルシータを見つめる。
「ごめん。もしかして、俺のせいでお転婆がすぎるって言われた?」
「え?いえ、違います。大体、ネルがお転婆なのは今に始まったことじゃないですし……」
「あ、はい……」
「ディランお兄様には、私もネルもたくさん遊んでもらって、たくさんお勉強も教えてもらって、私たち何にも不満なんてありませんわ」
「うわ、凄い。天使じゃん……めちゃ良い子っ!!」
「で、相談したい事はそんな事ではなくてですね」
「あ、はい……」
「実はこの前、母とネルがサンド伯爵家のお茶会に呼ばれまして……」
「うん」
「そこで、サンド伯爵家のバカタレ……次男がですね」
なんか今、ペロッと悪口でたけど気にしない。アンダーソン家の子供たちの口が悪いのは、どう考えても自分のせいなのであまり深く考えてはいけない。
「ネルに酷いことを言ったんです」
「はあ?」
「さらに、暴力まで振るわれたらしく……」
「サンド伯爵家の次男だな?今すぐ息の根を止めてくるから待ってろ」
「駄目ですよ、ディランお兄様。ネルが泣いちゃいます」
「……ちっ……!」
サンド伯爵家の次男よ、ネルが優しいことに感謝しろクソガキがっ!
気を取り直してルシータから詳しい事情を聞けば、そのバカタレは可愛い可愛いネルを不細工と罵り、言い返したネルを突き飛ばしたらしい。
ネルのどこが不細工じゃ!!言ってみろ!!言ったらぶっ殺すけどなっ!!
「ふぅぅー……。そのクソガキは何だってそんな事言うんだろうな?」
「きっとネルが可愛いから、からかって言ってるんですよ」
「あぁー……よくあるやつか。アレってなんなんだろうな。俺にはさっぱり分からんわ」
「私にも分かりません」
「可愛いなら可愛いって素直に言えばいいじゃんな?」
「本当ですよね。相手をわざわざ不快にさせる必要はないですよね」
「たぶんソイツ、まともに女子と喋ったことない奴なんだろうな」
「むしろ嫌煙されてるのかも……」
「ありそー!」
散々2人でサンド伯爵家の次男をボロカスに罵ったあと、ルシータからネルを元気づけてほしいと頼まれ、ディランはいつもの調子で快諾した。
しかし、落ち込む少女を元気づける方法などパッとは思い付かず、暫し悩んだあとディランはネルの元を訪ねるのだった。
ネルの部屋をノックし、返事を待ってからドアを開ける。
ネルはニコニコと可愛い笑顔を浮かべており、落ち込んでいるようには見えなかった。けれども、心の傷は目に見えないだけでちゃんと存在していて、それはちゃんと手当てをしなければ痛いままだ。
「ネル、一緒に料理しないか?」
「うん!やりたい!」
「じゃあ行こうか」
「うん!」
笑顔でディランの手を握ってくる可愛いネルを見ながら、やっぱりサンド伯爵家の次男は変人なんだろう、と内心で深く頷くのだった。
2人で仲良く厨房へ向かい、簡単なおやつを作りたいことをコックに告げ、キッチンの使用許可をもらってから調理に取り掛かる。
案外この世界は食材が豊富で、ぶっちゃけそこまで食に困ることはない。
レシピだって他国から取り寄せたり、流行りにのってきたりして、そこそこ出回っているのだ。
味噌だの醤油だのも他国にちゃんとある。欲しけりゃ買えば済むことだ。ただ、アホみたいに高いけれど……。
今日作るのは、材料さえあれば簡単に出来る卵ボーロだ。
卵と片栗粉と砂糖と牛乳で出来るし、手早く簡単に出来るのでサッと作って、お茶請けにしようと思ったのだ。
材料の計量をネルに任せれば、ネルはしっかりと頷いて慎重に材料を計る。その真剣な眼差しが微笑ましくて、多少の増減は大丈夫だと笑えば、ほっと肩の力を抜いて笑っていた。
材料を混ぜ合わせ、2人でやや大きめの楕円に形成したものをフライパンで焼き、そう間を置かずに出来上がったものを皿に盛り付ける。
「でーきた!」
「わぁ!すごい!すぐにできた!」
「簡単だろ?」
「うん!」
「ネル、あーん」
「……?あー……」
小さなネルが不思議そうにしながらも口を開けるのが可愛くて、ディランはニコニコと笑いながら皿から一つ摘んだものを口に入れてやる。
ネルは驚いて両手で口元を隠しながら、もぐもぐと口を動かしてゴクリと飲み込み、美味しい!と目を輝かせた。
試食は作った者の特権だぞ?と、笑いながら教えてやれば、それを聞いていたコックも笑いながら頷いていた。
その後は2人でお茶をして、ネルに勉強を教えてるところにキースが突撃してきて、2人で目を丸くして笑っていた。
しかし、月1で行われるお茶会と言う名の苦痛の日は、ネルに暗い影を落とすようになっていった。
ディランもキースもルシータも、みんなネルを心配していた。
ネル付きのメイドは、毎回お茶会が終わると悔しそうに歯噛みをしていて、あのクソバカを池に投げ入れたい!と、かなり真剣な目で同僚と話していた。
爵位が向こうの方が上なので滅多なことはできないが、この国では必ずしも高位爵位の者たちが幅を利かせている訳ではない。
一定の権力は確かに有しているが持ちすぎないようになっているし、行き過ぎた行為には爵位が下の者たちから物申せるように法律もきちんとしている。
過去には、やり過ぎた公爵家が下位爵位の者たちによって、没落させられた事もあったらしい。
ただ、今回の事はどう話を持っていけば良いのか……。何ともやり辛い。
当事者同士で話がつけば一番早いが、なかなかそれが難しいのだ。
恐らくサンド伯爵夫人は、息子の婚約者にネルを据えたいのだろうが、何せ相性が悪すぎる。お互いが素直過ぎるが故に、はっきりものを言い過ぎるのだ。
何度アンダーソン夫人が相性が悪いと言っても、にこやかに笑って息子のアレは照れ隠しなんです、と言って次のお茶会に誘ってくるそうだ。
頭ん中に芥子畑でも広がってんのか?
他人を貶める発言をしたり、嫌な思いをさせたりする事を、照れ隠しで済ませれると思ってる辺りが、ディランにはどうにも理解し難い。
自分の母だったら、そんな事をしようものなら、頭に拳骨を叩き込んだ上に往復ビンタをお見舞いされ、頭を押さえつけて一緒に頭を下げるだろう。
過去にまったく違う事で、母にこっぴどく叱られて体験したので間違いない。
あの時は、こっそり飛竜の荷物に紛れ込んで空を飛んだ時だったかな?
サンド伯爵家のお茶会は、所謂ところの嫌なママ友とのお茶会に該当する。
断りたくても断り辛いアレだ。
断る為の決定打があれば、きっとアンダーソン夫人は此処ぞとばかりに畳み掛けるはずだが、なかなかその機会は訪れなかった。
そうこうしている間に、キースの方が数回キレそうになり、それを宥めるほうが大変だった。
ネルもネルで、負けん気があるものだから言い返したりして更に煽るものだから、相手はムキになって歯止めが効かない状態になりつつあった。
ネルを元気づけるために一緒にお菓子を作ったり料理を作ったり、愛馬のトルソに乗せて遠乗りに行ったりしながら、ディランはふむ……と、一つ顎を撫でて頭を巡らせた。
大々的にやり過ぎず、しかし決定的な事を起こすように相手を誘導すれば、上手いことやれそうだな、と考えたディランはにこやかに笑いながらネルに本を貸した。
本は高い。けれども、高過ぎる事もない。
だからこそ、丁度いい。
お茶会の時に四阿で読みながら時間を潰せば良いよ、と言ってネルに貸した本は、金策のために昔ディランが書き上げた本だ。
意外と世間の受けが良く、重版して再販しても直ぐに売り切れてしまう程だが、ディランはさほど興味がない。今では他国からも求められており、そこそこの値段で取引されているらしい。その辺りのことは、ディランの腹心に任せているのでよく知らない。
しれっとネルが外で本を読むように誘導し、その結果相手がどうするのかわかった上で、ディランは笑顔で罠を張った。ご丁寧に、わざわざ庭の植え替えを午前中にする様に庭師に言って、新しい肥料を試したいと言って何も植えてない場所を多々設けた上で、だ。
その罠にまんまと嵌った相手に、ディランは内心で爆笑していた。
ざまぁみろ!クソガキが!お前にネルは勿体ないわボケ!!
アンダーソン夫人と共に頭を下げるネルに、本なんか気にするなと言って笑い。今までの苦労を労う言葉をかけると、ネルは大粒の涙を落として泣いていた。
ネルがどれほど我慢して、そして相手から言われた言葉にどれほど傷付いていたのか……。
もっと早く行動していれば良かった、とディランが後悔していると、ネルは一発くらい殴りたかったと言って、泣きながら笑っていた。
ネルは心優しい我慢強い女の子だが、大胆で行動力のある素敵な女の子なのだ。
それが分からないとは、全くもってあのクソガキは見る目がない残念野郎だ。
ネルの苦行であった月1のお茶会が終わりを告げると、ネルはみるみる元気になっていった。
それにホッとしつつ、ディランもディランで自分の夢のために奔走する日々を送っていた。
一生遊べる額ってどれぐらいなんだ?と、毎回個人資産の数字を見ながら頭を掻き、多ければ多いほど良かろう!と、あまり深く考えずに毎回違う商品やら投資先やらを考えていた。
資産運用等を任されているディランの腹心は、毎回嬉しくも大変な悲鳴を上げているのだが、その悲鳴がディランに届く事はない。
やがて、ネルが学校へ通う12歳になると、またしてもネルは苦痛の日々に苛まれることになった。
ディランもディランで、己の超えるべき壁の高さに膝を折りそうになっていた。