とある子爵令息 前編 2
ディランが親友の妹であるネルから、デビュタントのエスコートを頼まれたのは、2ヶ月ほど前の事だ。
ネルはアンダーソン子爵家の令嬢で、ディランの7つ下の16歳だ。
小さな頃から知っているディランからすれば、まるで自分の妹のような、娘のような女の子だ。
ネルには婚約者がいないので、エスコートは父親や兄に頼むものだが、何故か同じく婚約者がいないディランに、エスコートを頼んできたのだ。
首を傾げるディランに、ネルは一生懸命に説明してくれた。
父であるアンダーソン子爵は腰を痛めているらしく、兄であるキースには会わせたくない者がいるので、頼める相手がディランしかいないと言うのだ。
少々驚いたが、ネルの兄であるキースが会場に向かうと、デビュタントを迎えた少女たちの晴れ舞台を、阿鼻叫喚の悲劇の舞台に変えかねない。
デビュタント会場には、同じく期待に胸を膨らませた16歳の男の子たちもいるので、その中にキースをぶちギレさせる奴がいるのだ。
今の今まで、アンダーソン子爵夫人とその他の者たちの努力で、なんとか事なきを得ていたのに、ここでキースを殺人犯にさせるわけにはいかない。
そう考えたディランは、緊張した表情を浮かべるネルに、いつもと同じ様に明るく笑って了承したのだ。
ほっと息をついたネルを見つつ、貴族令嬢はエスコートとか考えなきゃいけないから大変だなぁ……と、呑気に考えていた。
そもそも、ディランの中ではいまだに貴族社会と言うものがしっくりきていない。そういうものだと分かってはいるが、どうにも水が合わないのだ。
それというのも、ディランは前世の記憶を持つ転生者だからだ。
ディランは、シーカー子爵家の三男として生を受けた。
シーカー子爵家は男ばかりの三兄弟で、みんな一つ違いの年子だから、母はさぞかし大変だったろう。しかし、流石は貴族というべきか、それぞれにちゃんとお世話係のメイドがついていたので、育児の大変さはそこまでではなかったのかもしれない。
その割には、貴族には珍しい事に母は母乳で我が子達を育てた人だったので、珍しいものだと子供心に思っていたものだ。
ディランの場合、物語やアニメの様にある日突然前世を思い出したわけではなく、生まれ落ちた後に水が浸透するように、ゆっくりと時間をかけて、今の自分と前世の記憶が融合していった。
そうして、ディランがディランとして、しっかりと自己を確立していったのだ。
ディランが思うに、前世の自分はそこそこの大人だったのだろう。そうでなければ、ある種の達観した価値観を持ち合わせていないはずだ。
それに、性別や顔つきなどは覚えていないが、恐らく成人男性だったと思う。
自分でもびっくりするほどスラスラと悪口が出るので、たぶんそうだと思っている。これで女性だったら嫌すぎる……。
ディランがこの世界に興味を持ったのは、完全に前世の記憶が自身の一部として昇華された5歳頃のことだ。
きっかけは、なんと風呂だ。
湯船に入りたい!とかそんな事を思わなくても、この世界……と言うか、この国では普通に浴槽に湯を張って入浴するのが主流である。
ただ、その湯を沸かすやり方に衝撃を受けたのだ。
ディランが衝撃を受けた湯の沸かし方。
それは、焼き石式湯沸かしだったのだ。
シーカー家では、夕食前に子供たちは入浴する決まりがあり、そのために夕食前はメイドたちが忙しく動き回っている。それを幼いディランは遠目に見ていたのだが、数人のメイドたちが鉄の籠に黒い石が半分ほど入ったものを抱えているのを見て、何をするのだろうと疑問に思ったのだ。
それが気になって、世話係のメイドを連れて彼女たちの後を追えば、厨房の隣に併設された部屋へとたどり着いた。
そこには井戸があり、その隣には大きな石造りの水槽が二つ並んでいた。
二つの水槽を繋ぐように中央には短い水路があり、その真ん中には仕切りとして分厚い木の板が差し込まれている。井戸の水を汲み上げて水槽へ流し入れると、仕切板を外しているため隣の水槽へと水が流れて溜まっていく。
やがてそれぞれが一杯になると、仕切板を差し込んで水が流れていかないように堰き止め、厨房の竈門で真っ赤に焼けた石を入れた籠を、片方の水槽の中へ沈めたのだ。
熱せられた石によって瞬間的に水が沸き、それを数回繰り返してあっという間に片方の水槽は熱湯へと変わった。
そうして水とお湯の水槽が完成すると、木の蓋をして熱が逃げないようにしてから、浴槽へと繋がる仕切板を外して水とお湯を流し入れるのだ。
この一連の流れ作業を見て、幼いディランの頭には衝撃が駆け抜けた。
それと同時に、色々と理解できたこともある。
だから、浴室には湯揉板みたいなものがあったのかとか、浴槽の栓が木製なのはゴム製品が無いからかとか、シャワーがないから手桶でお湯を汲んで洗ってるのかとか……。
まぁ、分かってしまえば色々と腑に落ちるし納得もした。
それと同時に、随所随所で目にしてきたアレコレが、先人転生者たちの名残な事も理解した。
特に、この焼き石式湯沸かし風呂を考えた奴は、絶対に日本人だろう。何がなんでも風呂に入りたいと言う、熱い思いが伝わってくる。
無から有を作り出すことは容易ではない。
この風呂だって、なんで焼き石?と思うだろうが、ボイラーの作り方なんて一般人は知らないはずだ。
知っていた人がいたとして、それを一から作れるだけの技術と金があるだろうか?
一番簡単であろう五右衛門風呂だって、それを鋳造できなければ意味がない。そもそも、どの時代の日本人なのかにもよるだろう。
そんな中で、自分の持つ知識で再現可能な範囲であれこれやった結果が、この焼き石式湯沸かし風呂なのだろう。
むしろ、よく思いついたものだ。
それに、メイドたちの事をよく考えた作りだと感心する。
中世ヨーロッパでは、入浴する習慣が少なかったそうだが、全くなかったわけではない。
実際、何処ぞの王宮では大浴場があったらしいが、そこに湯を張るのはなかなか大変な仕事だったそうだ。メイドたちは厨房で沸かした湯が入ったバケツを持って、何往復もして浴槽に湯を溜め、使い終わった後はバケツで湯を汲み取って捨てていたらしい。
考えただけでうんざりするが、大浴場に入れるというのはそれだけ金を持っていると言うアピールだったのだろう。
その点、この焼き石式湯沸かし風呂は、井戸の近くに水槽を作り、浴槽だってちゃんと水が抜けるように栓を作っているし、何より隣が厨房なので焼いた石を運ぶ距離も短くて済む。
もしかしたら、最初はサウナを作りたかったのかもしれないが、あれだって一般人は正式な作り方など知らないはずだ。
一体どれぐらい昔に確立されたやり方なのか知らないが、今のところこの焼き石式湯沸かし風呂が主流らしいので、かなり昔なのだろうと予想している。
聞けば、焼き石に使っている石は熱に対してべらぼうに強い上に、長時間の保温が可能らしい。
きっと、この石を見つけた先人転生者は小躍りしたに違いない。おまけに比較的安価で手に入りやすいので、二重の意味で小躍りしただろう。
そんなこんなで、ディランは先人転生者たちの名残を感じながら日々を過ごしていた。
生活のあちこちに散見する名残を見つつ、ふとこの世界には魔法がないのだろうか?と、疑問に思った。
それを長兄のサイモンに聞いてみたところ、苦笑しながらそんな便利なものは無いよと、教えられたのだった。
魔法がないのかぁ……と若干落ち込んでいたディランに、次兄のハロルドは魔物の存在を教えてくれた。
魔法はないのに、魔物はいるだと?と、俄然その話に興味を抱いたディランに、事細かに説明を求められたハロルドは、話の序盤で家庭教師に丸投げしたが、ディランはそこで様々な事を知ったのだった。
兄の家庭教師が言うには、魔物は大きく強靭で、また様々な姿形をしているらしい。魔物は体格が大きくなるほど攻撃性が高く、群れを成すものは知恵を使うそうだ。
そして、魔物は魔の森と呼ばれる黒い森から現れる脅威の存在だ。
しかし、魔物は様々な恩恵を人間に与えてくれる存在で、一概に全てが悪いわけではないそうだ。
一部の魔物は人間の手で繁殖され、人間と共存している種族もいるらしい。
「魔物は魔法を使うんですか?」
「使いませんよ?ディラン様」
「…………なんで?」
「えぇ……?なんでと言われましても……」
「火とか、水とか……なんかそういう攻撃とかしないの?」
「そんなことされたら、私たちは直ぐに死んじゃいますよ」
「…………もしかして、魔物って魔の森から出てくるから魔物って名称なの?」
「まだ5歳ですよね?ディラン様……」
「なんだぁ……そっかぁ。ふーん」
物語やアニメに出てくるような魔物を想像していたディランは、現実の魔物は違うのだと理解し、急激に興味を失ってしまった。
何故なら、やっぱり異世界転生した以上はなんかしらやってみたいと思うし、考えるじゃないか。
知識無双とか武力無双とかやりたいじゃない。だって男の子だもの。
でも、知識無双はそう簡単には出来ないのが分かっているし、やれたとしてもじっくりジワジワやるしかない。
ワンチャン、武力無双ならイケるかもしれないと思ったものの、魔法が無い時点でどうやらそれも難しい。そりゃ興味も無くすわ。
物語の主人公のような劇的な活躍をやってみたいと考えた少年は、それが如何に難しいことかを瞬時に理解し、秒で無かったことにした。
魔法もない世界で無双するなど、余程条件が整っていなければ土台無理な話だ。
儚い夢だった……と、すっかり興味を無くしたディランが分厚い書物を読み出すのを、兄の家庭教師は目を剥いて見つめていた。
しかし、ディランが再度魔物に興味を抱いたのは、割と直ぐのことだ。
その日、初めて自宅の敷地内から出たディランは、家族全員を乗せた馬車に乗り込んで、港へと向かった。
港と聞いていたので、てっきり海か河があるものだと思っていたのだが、到着した先には水気など全く無く、だだっ広い整地された空間と大きな建物があるだけだった。
建物内では、大きな木箱や布で梱包された荷物を運ぶ人達が忙しそうに働いており、高い天井を見上げて、ディランは息をつく。
この建物の構造は、ディランの記憶が正しければモスクに近い構造である。
モスクはイスラム教の礼拝所として使用され、それ以外でも学問や教育の場として使用されている場所だ。特徴的なのは、中心部に立つ玉ねぎ型の丸屋根だろう。その丸屋根はドームと呼ばれ、下には広い空間が広がっている。
細かな構造や配置などは違うようだが、外見の姿形はモスクによく似た建物を見ながら、ここにも先人転生者の名残があるのか……と、ディランは小さく頷くのだった。
お世話係のドーラにこの場所について聞いてみれば、この建物自体を港と称す事が分かった。
なるほど……と、頷きながら建物内を忙しなく動いている人達を見つめ、何となくだがこの場所が空港の雰囲気に似ていることに気付く。
ほぉん?と内心で顎に手をやって考えていたディランだったが、建物の奥にある整地された場所にドラゴンが降り立った事で、全ての思考が停止した。
え?ドラゴンじゃない?アレってドラゴンだよね?
しかも、いわゆるところの西洋ドラゴンだ。
そのドラゴンには轡と背には鞍が付けられており、どう見ても人が操っているのだ。
そして、ドラゴンの背から降りる人物に手を貸しているのは、ファンタジーの定番である騎士っぽい人だ。
ポカンと口を開けて、遠くに見えるドラゴンを凝視していたディランに、ドラゴンの背から降りてきた人物が笑いかける。
ゆったりとした歩調で歩きながら朗らかに笑っているのは、ディランの祖父だ。
じーちゃんがドラゴンから降りてきた。
驚きすぎて固まっていたディランだったが、直ぐ様祖父に駆け寄って足にしがみつき、なぜ何どうして攻撃を開始する。
それに目を丸くしていた祖父だったが、直ぐに可愛い孫を抱き上げてドラゴンの近くへ行ってくれた。
間近で見たドラゴンは、ディランが思っていたよりも大きく、そして随分と大人しかった。
ドラゴンの表皮は固く、爬虫類の鱗のような滑らかさを想像していたが、どちらかと言うとゴツゴツとした岩肌のようだった。手足はがっしりとしており、筋肉質に見える。
翼は皮膜かと思っていたのだが、まさかの羽根だった。しかも、柔らかいのは下毛だけで表面の羽根は固い上に大きいのだ。
キュウ!と、なんとも可愛らしい高い声で鳴くドラゴンに、ディランは夢中になった。
ドラゴンの爬虫類の様な瞳に確かな知性を感じ、これが人と共存している魔物なのかと胸が躍った。
そんなディランに、ドラゴンを操っていた騎士っぽい人が話しかけてくれた。
騎士っぽい人は、正規の騎士だった。しかも、王都騎士団の人だ。
聞けば、竜騎士と呼ばれる騎士たちは各騎士団に必ず一部隊は在るそうだ。
その中でも、比較的温厚な種族である飛竜を操り、人や物の物流を担っているのが王都騎士団第八部隊である、翼竜騎士団なのだそう。
四方の辺境騎士団の竜騎士は、基本的に魔物との戦いに出るため飛竜の気性が荒く、主人以外は背に乗せないらしい。
「すごい!格好いい!!」
「そうだろう?竜騎士は格好良いぞ?女の子にもモテモテだぞ?」
「どうしたら竜騎士になれますか?」
「女の子にモテる竜騎士になる為には、先ず王都騎士団入隊試験に合格しなくちゃいけないんだ」
「ふぅん?辺境騎士団に入る場合でも、王都騎士団で良いんですか?」
「はえ??」
「俺、戦う竜騎士が良いです!」
「……………………まぁ、うん……。男子たるもの、一度は夢見ることだよなぁ。あー……辺境騎士団に入りたい場合は、辺境騎士団入隊試験を受けないと駄目だな」
「わかりました!!」
元気よく返事をするディランを、騎士と祖父は微笑ましく見つめていた。両親や兄たちも、子供の可愛い夢だと笑っていた。
しかし、徐々にコイツは真面目に騎士になりたいのでは?と、両親や兄たちが思い始めたのは、比較的早い段階だった。
ディランは今の時期から体を作るべきだと考え、タンパク質を中心としたバランスの良い食事を摂ることに気を付け、日々コツコツと体力と筋力作りに勤しんでいた。
その合間に、両親にねだって気になる本を買ってもらったり、港に来る騎士たちの話を聞いて、沢山の情報を集めることを行なっていた。
この辺りから、ディランの中で竜騎士よりも、辺境騎士団への興味の方が大きくなりだしていた。
理由は簡単で、竜騎士たちや商人たちの話を聞いていると、辺境騎士団の騎士たちは、身一つで魔物と殺りあっているらしいのだ。
そんなの、俄然気になる。
魔法がないこの世界で、未知の生物と身一つで戦っているなど、気にならないわけがない。
辺境騎士団の事を調べれば調べるほど、ディランは彼らに夢中になった。
気付けば、竜騎士についてはすっかり頭からスッポ抜けてしまっていた。
そんなディランを、両親は一抹の不安を抱えながらも、見守ることにしたのだ。
ディランが体を鍛え始めて、早3年が経過した。
その間に、ディランは鍛えている最中に何度か経験した事を踏まえ、一つの仮説を立てていた。
この世界に魔法はないが、ある。
と言う仮説だ。
意味が分からないと思われるかもしれないが、ディランはこの仮説がほぼ当たっている確信がある。
きっかけは、体を鍛える一環で行なっている筋トレだ。
ディランは筋トレの一つとして、砂袋を担いでいる。一つの砂袋が大体5キロで、それを一つ背負って自宅の庭を2周ほど歩くと言うものだ。
まだ子供なのであまり無茶は出来ないが、そろそろ砂袋を増やしても良いかもしれないと思い、砂袋を思い切って三つ背負ってみたのだ。
いきなり15キロは無理かな?と思ったのだが、案の定無理だった。
砂袋を背負ったままその場でプルプルしていたディランだったが、せめて数歩は歩きたいと思い、震える足を踏み出した瞬間、全身に補助を受けたかのように一瞬軽くなったのだ。
それは本当に一瞬のことで、驚いている間にその感覚はなくなった。
どういうことだ?と疑問に思いつつ、もう一歩踏み込むと、また軽くなったのだ。
歩く時は軽くなる、と言う現象にディランの頭の中で様々な仮説が立てられた。
その仮説を証明するために、ディランは様々な事を行い、最終的にその現象が魔法の類ではないかと考えたのだ。
この世界に魔法はない。それはたぶん、何もないところから炎や水を出現させ、自在に操ったりすることを指すのだろう。
それを魔法と言うなら、確かにこの世界に魔法は存在しない。
ただし、身体強化という魔法ならあるようだ。
よくよく思い出してみれば、それらはディランの周りで当たり前のように存在していたのだ。
ディランが暇を見つけては通っている港でも、荷運びの仕事をしている女性が、自分の2倍ほどの物を持ち上げて運んでいるのだ。人によっては、3倍くらいの物を運んだりしている。
凄いなぁ……と漠然と思っていたが、あれは無意識下で使われている身体強化魔法なのだろう。
魔物がいるような世界なので、人間の身体能力が元々高いのだろうと気にしていなかったが、どうやらそれだけではないらしい。
そうと分かれば、意識的に身体強化魔法を使えるようになりたい!と、ディランは考えるわけで……。
あの手この手で試行錯誤しまくり、意識して瞬間強化が出来るようになるまでに、2年の月日が流れていた。