とある子爵令嬢 中編
こうして、苦節一年の地獄の月1お茶会がなくなった後は、ネルにとって非常に平和な毎日を送れた。
よく当家に遊びに来ていたディランは、ネルと姉のルシータに勉強を教えてくれたし、皆で読書会をしたりして大変有意義な毎日を過ごしていた。
ディランは博識で、7つも年の離れたネルの相手も嫌がらず、いつも明るく笑って楽しい話を聞かせてくれた。
そんな楽しい日々を過ごしていたネルだったが、貴族の子供たちと一部の裕福な平民が通う学校が始まると、またしても苦痛な日が戻ってきたのだった。
ヘンリーは面白がる友人たち数名で、ネルを標的にして毎日馬鹿にしてきた。
そばかすの散る顔を不細工と笑い、ネルの全てを馬鹿にして否定してくる。
ヘンリーの友人たちも、ヘンリーに便乗してネルのことを知りもしないのに指さして笑うのだ。
幸いなことにヘンリーとはクラスが一緒になることは無かったが、何かにつけてネルを貶める言葉をかけてくるので、この男は他者を貶めなければ死ぬ病に罹っているのかもしれない、と一時期は本気で思っていたものだ。
友人たちはネルを心配し、出来るだけ一人にならないように配慮してくれたし、2歳年上の姉も出来るだけ一緒に通学してくれた。
本当は学校なんて行きたくもなかったし、ヘンリーやその取り巻き連中を見るのも嫌だった。しかし、ここで学校へ行くことをやめてしまったら、まるで自分がヘンリーに負けたような気がして、ネルは苦痛で仕方がない学校へ歯を食いしばって通っていた。
それに、ネルには密かに憧れている先輩がいて、その人を一目見ることを心の支えにしていたところがあったのだ。
その人はネルの二つ上の先輩で、姉のルシータと同じクラスの男性だった。
背が高く、柔和な顔立ちのその人に、ネルは淡い恋心を抱いていた。それはいわゆる所の初恋で、ネルはその想いを大切にしていた。
恋人になりたいとか、そんなことは思ってもなくて、ただただ、キラキラと輝くたった一つの宝石の様な想いを、ネルは大事に握りしめていただけなのだ。
しかし、そんなネルの宝物を無遠慮に暴いたのがヘンリーだった。
ある日、学校のエントランスでヘンリーはいつものようにネルを馬鹿にしてきた。
また始まった……と、うんざりしながらヘンリーを睨みつければ、ヘンリーは少し怒ったような表情をして、大きな声でネルの駄目なところを言い出したのだ。
「ネル!まずお前は可愛げがない!」
「…………」
「髪だってパサついて、手入れを怠ってるんじゃないか?」
「…………」
「それに、他の女子生徒に比べて太ってるじゃないか!自堕落な奴め!!」
「…………」
「なにより!その、そばかす顔!そんな不細工な顔をよくも隠しもせずに晒せるものだ!!お前は女である自覚はないのか!」
はぁはぁと若干息を乱しながら叫ぶヘンリーを、ネルは酷く冷めた目で見つめていた。
言い返すにしても、いちいち会話ごとに割って入るのは手間なので、全部を言い終えたあたりで言い返してやろうとネルが構えていると、ヘンリーはネルを指さしてさらに叫んだ。
「可愛げもなく、女らしさを磨くこともしないお前のような奴、先輩も迷惑に思ってるさっ!」
「……な、……!」
「先輩の優しさを勘違いしてるんじゃないか?ネル」
「な、んで……貴方が……」
「そんな事はどうでもいい!兎に角、お前はもっと自分の立場を理解するべきだ!」
「立場?立場ですって?」
「そうだ!浅ましくも婚約者のいる男性に思いを寄せるなど、身の程を知れっ!」
そんな事など、ヘンリーに言われずとも分かっていた。
先輩には婚約者がいて、ネルのこの想いは叶うはずがないものだ。
でも、それでも……。
「お前のような不細工に思われるなど、先輩だって迷惑してるに決まってる!」
「……っ!!」
「それに先輩は高位貴族だぞ?お前が不細工じゃなかったとしても、あり得るわけないだろう!」
誰かを好きだと思うことは、そんなにも悪いことなのだろうか?
心の中にある宝箱の中に、その想いを大切に仕舞っておくことの何が悪いのだ。その人に憧れ、その人のようになりたいと思うことの何が問題なのだ。
だいたい、ヘンリーにネルの恋心を滅茶苦茶にされる謂れはない。
そうは思っても、エントランスの奥にある階段にいる先輩を見てしまえば、もう無理だった。
「あっ!先輩!ちょうど良かった!先輩だって、こんな不細工に思われるなんて嫌ですよねっ!!」
「えーと……君は?」
「サンド伯爵家の次男でヘンリーと申します!」
「はぁ……。あぁ、うん。……で?サンド令息は何を騒いでいるのかな?」
「実は私の幼馴染が、身の程を弁えずに先輩に思いを寄せているようなのです」
「幼馴染?……あれ?君は、確かアンダーソン嬢の妹君では?」
「は、ぃ……。そうです……」
掠れた声で返事を返すネルを見て、先輩は少し困ったような表情をしていた。
もうそれだけで、ネルは限界だった。
決して口にするはずじゃなかった恋心を無遠慮に暴かれ、ネルの心はズタズタに引き裂かれていた。
悲しくて、悔しくて、それから、恥ずかしくて堪らなかった。
ネルはその場の空気に耐えきれず、踵を返してエントランスを駆け抜ける。
誰かが呼び止めても無視をして、頬を流れる涙もそのままに、必死で走って学校を後にした。
気付けば、ネルは自宅に向かってとぼとぼと道を歩いていた。
普段は馬車で往復している道を徒歩で移動しながら、ネルは悲しくて悲しくて泣いていた。
深窓のご令嬢と違って、ネルはそこそこ外を走り回っているので多少は体力がある。けれども、あくまでも多少だ。
案の定、泣きながら歩いていることも相まって、ネルは道の端にしゃがみ込んでしまった。
「あれ?もしかして、ネル?」
「……ぁ……ディラン、さま……」
「どうしたんだ!ネル!」
聞き慣れた声に顔を上げたネルは、馬に跨ったまま目を丸くしているディランと目が合った。その瞬間、ネルの瞳からポロポロと涙が落ちた。
愛馬のトルサから飛び降りたディランが、道の端でしゃがみ込んでいるネルの元に駆け寄り、泣いているネルの背を撫でて頬を撫でてくれる。
その温かな手にネルは更に泣けてきて、暫く涙が止まらなかった。
ディランは何も言わずにずっとネルの背を撫で続けてくれて、ようやく落ち着いたネルを愛馬に乗せて自宅へと送り届けてくれた。
何か別の用事があったようだが、ディランはちっとも気にすることもなく、勝手知ったると言う様子で手早くメイドや執事たちに指示を飛ばし、ネルを気遣ってくれた。
ディランの指示で楽な格好に着替えたネルは、温かい紅茶を飲んで息をつく。
「ネル、今いいかい?」
「はい、大丈夫ですよ。お兄様」
「少し顔色が良くなったね。安心したよ」
「ご心配をおかけしました。ディラン様にもご迷惑をお掛けして……」
「平気平気!こういう時はな?ネル。ただ、ありがとうって言えば良いんだよ」
「ありがとう、ございます……ディラン様」
「うんうん。どういたしまして!……むしろ、俺の方こそごめんな?格好良くハンカチの1枚や2枚や3枚くらい持ってりゃ良かったんだけど……。1枚も持ってなかったからさ」
「ディラン、昔から言ってるだろう?ハンカチくらい持ってろって……。紳士の嗜みだぞ」
「ハンカチ使わねぇんだよ。タオルの方が使うわ」
「はぁ……」
呆れたようにため息をつく兄キースと、その隣で頭を掻いているディランに、ネルは思わず笑ってしまう。
二人はいつもこんな感じで穏やかで楽しい雰囲気だから、アンダーソン家の者たちは気持ちよくディランを迎えるのだ。
そんなディランが普段とは違う雰囲気でネルを連れてやって来た事で、執事やメイドたちは内心大慌てだったようだが、ディランの的確な指示で場が混乱することはなかったようだ。
「ネル、何があったか話せるかい?」
「…………」
「あ、俺帰るね?その方が良いだろうし……」
「いえ!ディラン様も、居てください」
帰ろうとするディランを引き留め、ネルは数回深呼吸をして何があったかを話し出す。
キースもディランも終始相槌をうって、余計なことを言わずに話を聞いてくれた。
ネルがつっかえながらも何とか話し終えると、キースは深い溜息をつき、ディランは無表情のままぽつんと呟く。
「処すか」
「やめろ」
「大丈夫、2割は冗談だ」
「8割本気じゃないか」
「だぁって!ムカつくじゃんよー!!なんだって、ゴミカスヘンリーは可愛いネルをいじめるんだ?理解できねぇ!頭イカれてんだろ!」
「んっんん!!ディラン、言葉遣い」
「はっ!……えぇと、その……ゴミクズヘンリーは頭が悪いのかい?もしくは、そういう病に罹っているとか?」
「コラー!!」
可愛い妹に悪影響を及ぼしそうなディランの言葉遣いに、キースは一応怒ってみせる。しかし、内心は全く同じ事を考えているのでお互い様だ。ただ、口にしないだけである。
ネルは一瞬ポカンと口を開けて呆けていたが、ディランとキースのやり取りを見て、思わず声を上げて笑ってしまった。
「まぁ、冗談はさておき……。男だとか女だとか関係なく、ヘンリーは人として最低だ。最低すぎて魚の餌にもならねぇ野郎だ」
「こらこら、ディラン」
「いや、本気の話だぞ。少なくとも、俺は本気でヘンリーが嫌いだ。こういう、思い込みの激しい勘違い人間は大嫌いだ」
「勘違い人間……」
「そうだぞ?ネル。ゴミクズヘンリーは勘違いしてるんだ。自分こそが正しく、間違っているネルを糾弾して正しき道へ戻すのだ!とか何とか考えてんだろ」
「……さっぱり分かりません」
「分からなくていいんだよ。それが普通だし、分かり合う必要もない。時間と労力の無駄だ」
普段の明るく楽しい雰囲気のディランとは全く違う、厳しく容赦ないディランに、ネルは目を白黒させて話を聞く。
ディランは人の想いを踏みにじる行為に腹を立てているし、何よりネルの全てを否定するヘンリーに対して嫌悪している様子を隠しもしない。
「大体よぉ?ゴミカスヘンリーは何様なんだよ。お前は他人の容姿だなんだをがちゃがちゃ言える程の面と教養があんのかよ」
「ごっほん!!」
「おぉーと、失礼。お口がスルスル滑っちゃいました!」
「ふふ……!」
ふざけた調子で笑ってみせるディランにつられて、ネルもクスクスと笑う。しかし、不意に真顔になったディランが静かにネルを見つめ、落ち着いた声で話し始めた。
「ネル。人を好きになる事って、物凄く素敵なことなんだ。俺は、その気持ちを大事にして欲しい」
「ディラン様……」
「人を好きになる事は素敵だ。そして、その想いを告げる事はびっくりするほど勇気がいるんだ。でも、黙っている事も実は同じくらい勇気が必要なんだよ」
「そう、でしょうか?」
「そうだよ。だって、辛くて苦しい思いをするって分かった上で、それを選択するって勇気のいることじゃないか」
「…………」
「だからね?ネル。君は君自身を褒めて労うべきだ。そして、君は誰よりも強く美しい女性だよ」
「あ、ありがとう、ございます……っ」
声を震わせて、なんとかお礼を言うネルを、ディランは柔らかい表情で見つめている。
それが少し恥ずかしくて、でも嬉しかった。
「……俺の抱えるものと、ネルの恋心を一緒にしたら駄目なんだけどさ。叶わなくても、思ったり頑張ったりするのは無駄じゃないと思うんだ」
「?」
「俺の場合は夢なんだけどな!」
明るく笑っているディランとは対照的に、兄は複雑そうな表情をして黙っていた。それが妙に引っかかったけれど、唐突にディランが話し出したことに驚いて、その事は頭から抜け落ちてしまった。
「ネルのそばかすはチャームポイントだ。顔だって小顔だし、目はぱっちりとした二重じゃないか。鼻だってすっと高いし唇は綺麗で可愛いピンクだ。髪はまぁ……確かにパサついてるけど、それはケア用品が合ってないだけで、ちゃんと髪質に合わせれば絶対に綺麗になる。それに、ネルは太ってなんかないぞ。ネルは他の子と違って背が高いから、そのぶん成長する。女性の方が成長期が早いから、成長し始めたらあっという間に美人になるさ」
「あの……あの……!ディラン様!」
家族以外の者からの褒め言葉に慣れていないネルは、顔を真っ赤にしてディランに呼びかけるが、ディランは顎に手を当てて何かを考えこんでいるようで、何やらブツブツと呟いている。
困惑しながらネルが兄に視線を向けると、兄はおどけた様子で肩を竦めてみせる。その様子を鑑みるに、ディランのこの状態はよくあることらしい。
「俺的にはそばかすは可愛いと思うけど、女性は美を追い求める性だしな……」
「ディラン様?」
「ネル。俺は今のままでも十分可愛いと思うけど、美を追い求めるなら、アドバイスは吝かではないぞ」
「え?」
「そうだな。先ずは、日焼けを抑える為に日傘を使え。それから、飲み物を出来るだけレモン水に変えること。トイレが近くなる事が嫌でも、体内の老廃物……えーと、要らないものを出すことで体の調子を整えるんだ。それから、食事の際は野菜から食べるようにしてバランスよく食べること。散歩やストレッチ……えーと、柔軟運動をできるだけ毎日して、それから……」
「待ってくださいディラン様!!」
「はっ!……ぁ……ごめん。不躾だったな……」
「そうではなく、是非、メモを取らせてくださいな」
ディランが教えてくれた美容方法に前のめりになるネルを見て、ディランはきょとんとした後にニコニコと笑いながら頷いてくれた。
気付けば、あれだけ落ち込んで苦しんでいた心はすっかり落ち着きを取り戻していた。
それでも今日くらいは、傷付いた恋心のために、たくさん泣こうと心に決める。
兄もディランも、辛くて苦しい時はお風呂でたくさん泣くと良いと教えてくれた。泣いて泣いて、その後はたくさんレモン水を飲んで寝るのが良いらしい。
翌日、ネルは学校を休むことなく出席し、午後の授業が終わった後に姉のクラスへ向かい、先輩を呼んで淡い恋心を持っていたことを告げた。
すると先輩は、ネルを眩しそうに見つめて一つ頷いてくれた。そして、勇気を持ってその想いを告げてくれた事に、感謝の言葉をくれたのだ。
こうして、ネルの初恋は終わった。
ネル自身も、まさか自分が告白出来るほど勇気のある人間だとは思っていなかった。けれども、兄から聞いたディランの夢を聞き、更にその夢のために努力していることを知れば、不思議と勇気が湧いてきたのだ。
ついでに、湧いてきた勇気のままに、サンド伯爵と夫人宛に此度のことを事細かに書き綴った手紙を書き上げ、ヘンリーとは葬式以外では会いたくありません、と強い拒絶の意思を書き殴って送りつけてやった。
その後、サンド伯爵家で何があったのかは知らないが、ヘンリーがネルにちょっかいを掛けてくることはなくなった。