愛しい骨
「僕は、恋人の骨を食べたんだ」
その言葉を今でもはっきりと憶えている。
当時、田舎の高校で、平凡で平和的な1学生だった自分には、あまりにも衝撃的な一言だったのだ。
大人になった今でも、その言葉を思い出す度に、胸の奥深くに突き刺さって、心臓を抉れるような気持ちになる。
他人のお骨を口にするなど、誰がそんな人として非常識で非道徳的な、トチ狂った行動に出るのだろうか?
少なくとも、自分には絶対真似などできないだろう。
あの人は…当時の担任だった数学教師は、どんな気持ちで、その様な行動を起こしたのだろうか…
当時の「私」には想像もつかなかったのだ。
それは、何気ない授業中の雑談から始まったのだと思う。
数学教師は、長身痩躯のスラリとしたスタイルに、若い身でありながら物腰も柔らかく、穏やかだが明るい性格で、見目も大変美しい。
年齢も近い事もあり、生徒からも人気者であった。
小難しい、数字の世界を、わかり易く噛み砕き、理解させてくれるものだから、数字が苦手な自分でも、苦手意識を持つこと無く、楽しく授業を受けることができたのだ。
クラスメートも皆、和やかな雰囲気で、机に着き、勉強にも集中する事ができた。
担任の雑談も、バラエティ豊かな物で、私は話を聞くのが好きだった。
やれ、あのアーティストのアルバムはロックだったとか、あのギタリストは良かったとか、音楽に造詣が深く、バンドでギターをやってた自分など、ワクワクドキドキしながら話を聞いたものだ。
ある日の雑談の、前後がどんな内容だったかは、記憶から抜けてしまっているが、教師は徐ろにこう言ったのだ。
「自分は君達と同じ頃に「恋人」を亡くしたんだ」
不慮の事故で、何の前触れもなく、ある日突然「恋人」は帰らぬ人となったと言った。
教室の中は、シーンと静まり返り、皆黙って只話に耳を傾けた。
担任は、恋人を亡くした日の事を、殆ど憶えていないと言う。
あまりにも悲しくショックが大きく、記憶から排除されたのだと、自分は考えていると言う。
そうでもないと、自分は保たなかったのだろうと…
信号無視をした、大型車に、恋人は撥ねられ死亡したと、後から説明を受けたとのことだった。
一瞬にして、自分の取り巻く世界が変わってしまった…
自分が、駆けつけた時には、既に冷たくなっていて、無機質な病室では何もかもに現実味がなく、奇麗な顔をして目を閉じていた「恋人」は、只眠っているように見えたのだ。
恋人の傍らで、泣き崩れる親兄弟の姿が、どうしても理解できなかった。
シーンと静まり返る教室の静寂を破ったのは担任だった。
「ああ…皆すまないね。こんな人の骨を食べたなんて気持ち悪い、不気味な話をしてしまったかな」
申し訳なさそうに さぁ、この話題は終わりだ、と言うように黒板に向かって、授業を始めようとした時に、私は思わず聞いてしまったのだ。
「先生!!そのお骨はいつどこで食べたんですか?どうして食べたんですか!!」
緊張感の中、一斉にクラスメート視線が自分に集中した。
普段、極力目立たず、なあなあに友人達と過ごし、その他大勢の中に紛れるように過ごしている「私」が、一体どうしたというのか?
まさか担任も私が声を上げるなど思っていなかったのだろう。
一瞬驚いた顔を見せたが、まるで再開の合図であったかのように、話し始めたのだった。
「恋人」との別れの話は、当時の「私」には、あまりにも悲しく辛い、たが自分とは関係の無い世界のお話だと思えた。
ましてや、今の自分達と同じ頃の「死別」など想像する事もなかったからだ。
だが、担任は当事者として経験したのだ。
もし、自分が同じ立場ならば、きっと立ち直ること無く、亡くした「恋人」を想い、貝のように閉じこもってしまったに違いない…
「僕は、恋人が亡くなって、火葬された時、ご遺族の計らいで一緒に骨上げさせてもらったんだ」
その時のことは、何一つ憶えていない。
記憶にないんだと言う。
「…君達には信じられない事だと思うが、火葬され、綺麗に骨だけになった「恋人」を、その骨をパクリと一欠口にしたらしい」
らしいと言うのは、ホントに記憶にないんだよと言う。
当たり前だが、その場に居た者、皆騒然となった。
悲鳴を上げるもの、悲しみに慟哭する者…憐れみの目で見る者…
たが、1人として、自分を責める者は無かったという。
気付けば、全ては終わっていて、目の前には、小さな箱に収まってしまった「恋人」の姿があった。
後から、「恋人」の父親から聞かされた話によれば、自分は心臓のあった部分の肋骨の一欠を口にしたとの事だった。
その時の自分は、「恋人」とずっと一緒に居たい、自分の中に取り込んでしまえば、自分の血となり肉となり、自分の一部となり、永遠に一緒に居られるとでも思ったのだろう。
「だから…今でもどんな時でも、彼女は僕の中に居ると信じてるんだ」
高校生の自分には、あまりにも衝撃的な話だったのだろう。
そんな深い深い「愛」もあるのだ。
この人は、そんな「想い」を抱えながらこれからも生きて行くのだろう。
そう思ったのだった。
それから、随分と時は経ち、自分は随分と歳を重ねた。
それなりの人生で、共に歩んで来た「最愛」の者との別れの時が来たのだ。
自分達には、子はなく、常に二人で寄り沿うように生きて来た。
私は「最愛」と共に生きてこられて、とても幸せだった。
今目の前で、綺麗にお骨になった姿をみて、あの時の担任の気持ちが、初めてわかるような気がした。
「僕は、恋人の骨を食べたんだ」
あの時の、言葉が頭をよぎったのだ。
やはり、私には「最愛」を口にすることはできなかったけれど、その気持ちだけは、痛いほど共感したのだ。
いつか読んだ、小説の一節のようになってくれたらいいのに。
ー 魂にも形が残ればいいのに ー
その一節の様に、形に残ってくれたならば、君は美しいコロンとした優しい色合いの、綺麗な綺麗な石になって、片時も離さずに生きて行けるのにね。