第9話
翌日の夕方、守流は家を出る時にまたきゅうりを一本収穫して、用水路に向かった。
橋の上に着くと、用水路では体操服姿の拓人と喜八が何やら楽しそうに話していた。
拓人は今日も午後から部活だったから、その帰りなのだろう。
「マモル! 今日もきゅうり持って来てくれたのか!?」
喜八は細目を輝かせて、守流の手にあるきゅうりを見つめる。
「喜八、よだれ垂れてるよ。本当にきゅうりが好きだなぁ」
「好きだ! チヤコのきゅうり、美味いし!」
くふふ、と笑って、喜八はきゅうりをパリンと噛った。
拓人は不思議そうな顔をする。
「そういや、喜八は守流のお母さんのことも知ってるんだっけ」
「知ってるぞ。チヤコ、子供の頃、すごく可愛かったぞ」
喜八はまた、くふふと笑う。
自分の母親のことを可愛いと言われ、何だか守流は居心地悪いような気分で首を掻いた。
最後のきゅうりの欠片を飲み込んで、喜八が守流と拓人の服装を見比べる。
「今日は拓人は学校で、守流は休みか?」
「学校は夏休みだよ。俺は部活で学校行ってたんだ。……運動しに行ってたの!」
部活が分かってなさそうな喜八の顔を見て、拓人が付け加えた。
ふ~んと頷いて、喜八は守流を見上げる。
「守流は“部活”してないのか?」
「あ、うん、入ってない。……色々迷ったけど…」
歯切れの悪い返事を返す守流を、拓人は溜め息混じりに笑う。
「適当にどれかに入ればよかったのにさ」
「そういうの、苦手なんだ……」
守流は部活動をしていない。
いわゆる“帰宅部”というやつだ。
守流が通う中学校は、部活動に力を入れていて、生徒の九割は何かしらの部に所属している。
生徒は皆、入学と同時に部活動一覧のプリントと入部申込書を配られた。
一覧を見て、守流はいくつかの部に見学にも行った。
しかし、これに入りたいと思う程の決め手がなく、提出期限ギリギリまで迷っている内に、考え過ぎて気分が悪くなり、結局入らないことにしたのだった。
守流は、“一つを選んで決める”ということが、とても苦手なのだ。
優柔不断で、決断が何でも遅い。
それは自分の嫌いな部分でもあるが、どう変えれば良いのかは分らないのだった。
「ふ~ん、そっか!」
気持ちが沈みかけた守流に、喜八は変わらず明るい声で言った。
その後に特に言葉が続かなかったので、何を言われるかと構えていた守流はホッとした。
「あ、町田さん、こんにちは!」
拓人の声でハッとして振り向けば、町田さんがちょうどこちらに歩いて来るところだった。
その手にはお茶のペットボトルが握られている。
「また来とるのか。お前さん達、すっかり仲良くなったなぁ」
守流と拓人は顔を見合わせて笑った。
そういえば、当たり前にこうして喜八に会いに来ている。
喜八は町田さんからお茶をもらうと、慣れた手付きでキャップを開けて、グビグビと喉を鳴らして美味そうに飲んだ。
「あ~美味い。今日はお茶もきゅうりももらって、オレ、嬉しい。幸せ。へへへ」
「喜八の幸せはお手軽だなぁ」
拓人が呆れたように笑えば、喜八は笑みを深めた。
「うん、嬉しいがいっぱいあって、オレ、幸せだもん」
守流は不思議に思って、疑問を口にする。
「喜八は、何でそんなに楽しそうなの? 元々住んでた小川は失くなったし、今は一所にいられないんでしょ? それに、どこに行ってもゴミだらけで掃除してるって言うし…。嫌にならないの? なんで怒ってないの?」
「怒るって?」
「だから、川を汚されて、人間に腹が立たないのかってことだよ」
守流が顔を歪めて言うのに、喜八はキョトンとして首を傾げた。
「だって、怒ってもきれいにならないもん」
「え?」
喜八は飲みかけのお茶を大事そうに道路端に置いて、キャップをする。
そして、上流から流れてきた汚れたペットボトルを、足元で拾った。
「そりゃあゴミを捨てないでくれたらいいなって思ってるよ。でも、『なんで捨てるんだ』って怒っても、川をはきれいにならないし。それならオレが拾ってやれば、きれいになるよ!」
「そんなの、割に合わないじゃないか。汚したのは喜八じゃないのに……」
守流が言えば、喜八は胸を張る。
「汚したのはオレじゃないけど、きれいにしたいのはオレだもんね! 川がきれいだと、オレは嬉しい! きっと、皆も嬉しいぞ!」
喜八の自信に溢れた言葉に、町田さんは大きな声で笑った。
「“無理なく、自分の心で、他の為に”。これこそ、奉仕の精神というやつじゃな」
お前はいいヤツだな、と拓人が笑っている。
しかし、守流は何だかモヤモヤした。
喜八ばっかり面倒を押し付けられているようで、悔しい。
「マモル」
優しい声で名を呼ばれ、ツルンとした手が守流の拳に触れた。
守流は無意識に拳を握っていたのだ。
ハッとして顔を上げれば、細目の奥の濃緑の瞳が、守流を気遣うように見つめている。
「……なんか…、くやしくて。……ごめん、僕……」
守流は小さな声で言った。
うまく考えがまとまらない。
いつもこうだ。
自分の気持ちがあちこちに向かっていて、どうしていいのか、どうしたいのか、よく分からなくなるのだ。
「マモルは、それでいいよ。大丈夫だよ」
小さくそう言って、喜八は守流の手を優しく叩いた。
『守流は、守流でいいんだよ』
不意に勘じいちゃんの声が聞こえた気がして、守流は喜八を見つめたまま動けなかった。
用水路を流れる静かな水の音だけが、守流の周りにあった。