第7話
次の日の夕方、キハチに会うため、守流は家を出る。
今日は拓人は部活の日だ。
ふと、止めてある自転車の向こう、壁沿いに生い茂るきゅうりの大きな葉が見えて、守流はプチ菜園を覗き込む。
食べ頃のきゅうりがあるのを見つけ、側に置いてある園芸バサミで一本収穫した。
用水路までは、守流の家から歩いて五分程度だ。
守流は用水路の上の橋まで来ると、下を覗き込んだ。
「マモルー!」
嬉しそうに手を振るキハチは、今日も小学校の体操服を着てゴミ拾いをしていた。
生活道路に下りて、話しかけようとした守流は、突然口の端からダーとよだれを垂らしたキハチを見て怯んだ。
「な、なに!?」
「採れたてきゅうり…」
守流は、家の外で採ったきゅうりを持ったままだった。
スンスンと鼻を動かしながら、きゅうりから目が離せなくなっているキハチを見て、守流は吹いた。
「おみやげだよ。好きなんだろ?」
「ありがとうっ!」
両手で受け取って、真ん中から豪快に噛ったキハチは、パキン、ポキッと軽やかな音を立てて、何とも幸せそうな顔できゅうりを食べる。
「うまいなっ! これ、誰が作った!?」
「作った? えっと、母さんが育てたんだ」
「チヤコかぁ!」
くふふと笑って、キハチがまたきゅうりを噛った。
守流は驚いて目を見張る。
母さんの名前は、確かに“千弥子”だ。
「何で母さんの名前を知ってるの?」
「カンシチに教えてもらったもん」
その答えに確信を得て、守流はゴクリと一度つばを飲んだ。
キハチは、勘じいちゃんを知っている。
最後の一口を口の中に放り込んだキハチの頭には、紺色の縁取りが付いた麦わら帽子が被さっている。
写真で見た、勘じいちゃんの麦わら帽子だ。
「キハチは、勘じいちゃんのことを知ってるんだね?」
「カンシチは兄ちゃんだ!」
「え? 兄ちゃん?」
「うん! 『家族がいないなら弟にしてやる』って、名前をくれた。七の次だから、八だって。字も考えてくれた!」
キハチは道路に上半身だけ乗り上がって、濡れた指でアスファルトの上に字を書いた。
“ 喜八 ”
喜八は得意気に、へへへと笑って、細い目の目尻を更に下げた。
喜八は以前、勘七の住んでいた山の小川に住んでいた。
勘七が子供の頃に出会って、二人はすぐに仲良くなった。
『仲間、いないのか?』
『いるけど、皆、姿は見せられなくなっちゃった』
『なんで?』
『河童を信じてくれる者がいなくなったから』
勘七は驚いたように目を真ん丸くする。
『……信じてもらえないと、消えちゃうのか?』
『そうみたい。でも、見えなくても水の中にいるよ。皆、水をきれいにしてるんだ。俺も、いつかそこへ行くんだ』
『まだ行くなよ!』
勘七は、ツルンとした河童の手を握った。
『俺はちゃんとお前が河童だって、信じるし!』
『へへへ、カンシチ、いいヤツだな』
『お前だって……、ああ、名前がないと呼び難くていけないや。そうだ! 名前、付けてやるよ』
勘七は、落ちている小石で、湿った土の上に文字を書く。
『うーんと……、そうだ、俺が兄妹の七人目で勘七だから、お前は八』
『八?』
『うん、喜八にしよう!』
土の上には“勘七”と“喜八”の文字が並ぶ。
『喜八の家族がいないなら、弟にしてやる。今日から、俺は喜八の兄ちゃんだ!』
喜八は、土の上に書かれた文字と、顔中で嬉しそうに笑う勘七を見比べる。
そして、くふふ、とくすぐったそうに笑った。
『うん。カンシチは、オレの兄ちゃんで、友達な!』
「あの日からずっと、カンシチはオレの兄ちゃんだ」
喜八は、アスファルトの熱で、もう殆ど消えかかった道路の文字を嬉しそうに見つめる。
「チヤコもマモルも、名前と文字をカンシチが教えてくれた」
「……だから僕の名前は読めたのか」
「うん。この帽子も、最後にカンシチに会った日にもらったんだ」
喜八の被っている古ぼけた麦わら帽子は、あの写真では、まだ勘じいちゃんが持っていた。
最後に会った日にもらったのなら、少なくとも守流や従兄弟達が小川で遊んでいた時、喜八はまだ勘じいちゃんと会っていたってことだ。
「じゃあ、喜八はずっと、あの川にいたの?」
「いたよ。水の中で、皆が遊ぶのも見てた。マモルがザリガニを釣るのも!」
そうだ。
昨日思い出したんだ。
ザリガニを捕まるには、タコ糸とスルメ。
それを教えてくれたのは、勘じいちゃんだ。
ずっと、忘れていた。
「マモル、カンシチのこと、覚えてる?」
不意に、喜八がそう尋ねた。
その顔は変わらず笑顔だが、細目の奥の濃緑の光は、どこか窺うような色だ。
「え? うん、覚えてるよ」
「そっか!」
守流が答えると、喜八はへへへと嬉しそうに笑う。
「良かったなぁ、カンシチ」
守流を見ずに、独り言のように喜八が言った。