第14話
夕方、守流が玄関を入ってサンダルを脱ぐなり、居間から顔を出した望果が言った。
「お兄ちゃん、臭い!」
守流は顔をしかめた。
帰る時に、掃除中に履いている古い靴は履き替えているし、家の中に入る前に外の水道で手足の泥は落としている。
それでも、用水路の掃除をして帰ると、すぐに分かるくらい臭いらしい。
「望果、そんなこと言わないの! 守流、お風呂沸かしてあるから、ご飯の前に入ってらっしゃい」
「うん」
口を尖らせる望果の背を押して、母さんが言う。
守流は風呂場に直行して、汗と汚れを落とした。
喜八の前で宣言してから、守流は約束通り、天気の悪い日以外は毎日用水路の掃除に通っている。
五十メートルそこそこの用水路の掃除なんて、二、三日で出来るだろうと思っていたが、全くもって甘かった。
用水路の左右の壁際には、背の高い雑草が山と生えていて、それを除去するだけで一苦労だった。
苦労して引っこ抜けば、底のヘドロと一体化するように沈んでいた、様々なゴミが悪臭と共に浮かび上がってくる。
最初は、それを拾うのも随分勇気がいった。
嬉しかったのは、掃除を手伝い始めた日に、部活帰りの拓人が守流を見つけ、「何だよ、俺も誘えよ!」と言って参加を宣言したことだ。
部活や塾がない日は一緒に掃除をして、喜八と三人で何やら話しては大笑いしている。
そうすると、いつの間にかこの時間が楽しいものになってきた。
更に、きれいになった部分を見ると、達成感と共に、不思議と胸の内が晴れるような、清々しい気分を味わえた。
面倒だと思っていた夏休みの課題も、上手くまとめられそうな気がした。
「掃除、終わりそうなの?」
「うん、明日には終わると思う。母さん、おかわりしていい?」
守流が茶碗を持って立ち上がると、望果が不思議そうに首を傾げる。
「お兄ちゃん、最近よく食べるね」
「……お腹空くんだ」
用水路の掃除は意外に肉体労働で、夕飯前にはお腹ペコペコになるのだ。
「成長期だもの。いっぱい食べなさいよ〜」
茶碗にご飯をよそう守流を見て、母さんは笑ってお茶を注ぐ。
用水路の掃除をすると話した時、てっきり嫌な顔をされるかと思ったが、母さんは軽く理由を聞いただけで少しも反対しなかった。
怪我をしないよう、気をつけるように言われただけだ。
実際、掃除を初めて今日で十日経ったが、臭いと文句を言うのは望果だけで、母さんは毎日当たり前に泥で汚れた服を洗ってくれていた。
嫌がるどころか、なぜか嬉しそうにも見える。
守流は二杯目のご飯を頬張りながら、やはり親は、子供が家でゴロゴロしているよりも、目標を持って動いている方が嬉しいのかもしれないと思った。
翌日、喜八と、部活が休みの拓人と三人で、最後の用水路掃除をした。
町田さんも、道路端でゴミの分別をしてくれている。
「ここが終わったらどうするんだ?」
「別の川を掃除するよ」
拓人の質問に、喜八は当たり前に答える。
守流たちは、別の用水路までは手伝いに行かない。
町田さんにも止められたのだ。
守流達はまだ義務教育中の未成年で、何をするにも親や大人の理解や助けが必要だ。
ここの用水路掃除は、校区内で家からも近く、町田さんが活動を助けてくれているから出来た。
しかし、別の場所へ行けば、また別の大人の理解を得なくてはならなくなる。
清掃活動が楽しくなっていた守流は、少し腑に落ちないような気持ちにもなった。
しかし、確かに夏休みに清掃ばかりしているわけにもいかず、上手く活動を続ける方法も思いつかなかったので、ひとまず今回は、この用水路の清掃が完了した時点でやめることにした。
「別の川に行っても、夏休みが終わっても、マモルとタクトがここを通る時は、遊びに来るよ!」
へへへ、と喜八が笑う。
守流もホッとして笑った。
用水路の掃除を手伝うと決めた日、勘じいちゃんのことを忘れていると、守流は正直に喜八に告白した。
しかし、守流が想像していたように、喜八はがっかりはしなかった。
ただ『うん、そっか』と答えただけだ。
告白ついでに、勘じいちゃんのことを教えてもらおうと思ったのだが、喜八は何も教えてくれなかった。
『マモルが自分で思い出して』
喜八はそう言った。
『でも、……思い出せないかもしれない』
『それでも、オレは教えられない』
『……何で?』
古ぼけた麦わら帽子を大事そうに撫でて、喜八は笑って言った。
『カンシチの夢だもん』
勘じいちゃんの夢って、どういうことなんだろう。
聞きたくても、それ以上はどうしても喜八は教えてくれないのだった。
いつか思い出せるのだろうか。
守流がぼんやりと考えた時だった。
「お兄ちゃーん!」
「あれ、望果。母さんも……」
橋の上から母さんと望果が手を振っていた。
「きゃっ!」
……え? 『きゃっ』?
ぱしゃんと水の音がして、守流と拓人は振り返った。
しかし、さっきまで喜八が立っていた所には誰もいない。
「あれ? 喜八?」
周りを見ても喜八はいない。
水の中に姿を消したらしい。
「あら? 拓人くんだけ? 三人って聞いてたけど……」
「え?……あ、ちょっと用があって家に帰ってる……」
母さん達が近くまで来て聞くので、そう答えて誤魔化した。
どうやら出掛けていた帰りに寄ったらしい。
差し入れだと冷たい飲み物を渡して、町田さんと少し話すと、母さん達はすぐに帰って行った。
「び、びっくりしたぁ……」
いつの間にか戻って来ていた喜八は、胸を押さえている。
「何だよ喜八、何で消えたんだ?」
「だって、チヤコいたもん」
「え? 母さん?」
喜八は顔を赤くして、にへっと笑った。
「チヤコ、オレのはつこいだもんね」
「「はあぁ~!?」」
守流と拓人の声が同時に響いた。