娘を悪役令嬢にしたくない俺は新天地を求めて旅に出る
「離婚よ!!」
甲高い女の怒鳴り声と右頬の強烈な痛みで前世の記憶がよみがえった俺は赤ん坊を抱いたまま無人のエントランスで愕然と立ち竦んだ。
キィと玄関の扉がゆっくりと閉まる。扉の裏側に貼りつけられた一枚の大きな鏡に自分の全身が映って仰天した。
誰だ、このイケメン?!!
黒髪黒目は見慣れたものだが、日本人には滅多にない小さい顔と高い鼻、切れ長の目に泣き黒子が一つあり、足が長くて均整のとれた筋肉質な体は自画自賛できるほど素晴らしい。
前世の俺に終ぞなかったものが全て備わっている現世の俺に見惚れていたら、赤ん坊の笑い声で我に返った。恥ずかしい。
金髪黒目の女の子。笑顔が可愛い。
さっき出ていった女性が金褐色だったので間違いなく俺の娘だろう。こんな時でも無邪気な笑顔を振りまく娘は大物かもしれない。
試しに笑い返したら泣いた。解せん。慌てて揺り動かしたら秒で寝たので良しとする。
さて静かになったので落ち着いて現状を確認してみよう。
俺の名前は、シャルル・フォン・シャルトルーズ。三十五歳。男。現伯爵。王国騎士団副長。既婚、いやバツイチになったばかりの子持ちだ。
剣の腕は一流で、剣聖の最年少直弟子として有名になったことで出世も早かった。真面目で驕ることなく仕事に取り組む姿勢は上司に評価され、同僚からは信頼されていると思う。
だが筋トレが趣味なので女性の心の機微に疎いという欠点があり、この年齢で結婚するまで交際歴なしの堅物のまま知人の薦めで一年前に見合い結婚した。
相手は子爵家の令嬢。二十歳の美容と社交が大好きな今時の女性だ。
俺は覚えていないが、以前に要人を警護した時の俺を見初めたらしい。金持ちのイケメン騎士で女関係は潔白の優良物件は理想的な相手だろう。十五歳差は大したことではないようだ。
幼さが残る柔和な目元と色気を感じるぽってりとした厚めの赤い唇がアンバランスで美人とは言いがたいが密かに好ましく思っていた。
丁寧に手入れされた髪は金糸のように輝いて美しく、白い肌はきめ細かで滑らかだったが、ちょっと厚化粧で薔薇の香水はきつかった。
そんな女性だから結婚してもろくに帰らず社交界さえ出ない夫に不満を抱いていたはずだ。それでも俺の立場と、実家の両親に跡継ぎができれば変わるだろうと説得されて出産までやり遂げた彼女だったが、結局は娘が生まれても一週間以上帰らず、ようやく帰ってきたところで娘を名づけた途端にブチ切れた。
完全に俺が悪い。いや、俺じゃなくて、こいつだけど。
魂抜けるほどショックを受けるなら、どうして彼女を大切にしなかったのか。今さら後悔しても後の祭りだ。
なにしろ娘の名前はシャルトリーゼ。俺と彼女の名前を合体したやつだ。
これは駄目だ。子供の名前を適当につけて喜ばれた試しがない。前世の俺も子供の命名には苦労した。漢字の意味や画数が大事だと散々に言われたのだ。
さらに残念なのは血縁がつけた最初の名前は一生変更できないことだ。詳しくは知らないが魔力が関係しているらしく、どうしても変えたい場合は面倒な手続きと多額の金が必要になる。
金はあるが教会に払いたくない。シャルル《おれ》の心が激しく抵抗している。過去に何かあったのだろう。
まだ前世の感覚を引きずっている俺には分からないが、完全に一体化すればその内知ることになるはずだ。
というわけで、娘よ。すまん。
おまえの名前はシャルトリーゼに決定だ。まあ、別に悪くない名前だし、俺が由来さえ話さなければ問題ない。
本人もすやすやと眠っているので大丈夫だ。多分。
「ご主人様」
「ん?」
背後から抑揚がない男の声で呼ばれて振り向くと、十数人の男女が荷物を持って整列していた。全員子爵家の使用人だ。
「我々はお嬢様を追いますので、こちらに署名をお願いいたします」
「離婚届………、用意がいいな」
「お嬢様の気持ちをお察しください」
使用人頭の男の言葉に納得した俺は内ポケットからペンを出して署名した。離婚届は灰になり、左手の小指にはめていた指輪は粉々になって床に落ちる。
離婚成立。呆気ないもんだ。
では、と男を含む使用人達が一斉に頭を下げて邸を出ていく。誰一人俺を見なかった。信頼関係を築いていなかった証左だ。
ちなみに伯爵家には使用人がいない。仕事人間だった俺は滅多に帰らないし、家族は領地にいるので他に誰も住んでいないのだ。
だから掃除婦を雇って定期的に綺麗にしてもらうだけで事足りている。
「疲れたな」
思いの外、平坦な声が出た。
まだこの男と完全に同化できていないせいだろう。未だ傍観者の気分だ。
今はこれでいい。他人事のように冷静でいられる内に色々と考えて決めなければいけないのだから。面倒事は早めに片づけるに限る。
俺は執務室に入るとソファに赤ん坊を寝かせて山積みになった書類を片っ端から処理し始めた。
仕事関係は城で終わらせるのでほとんどない。せいぜい個人的に使う武具や魔道具の請求書を確認して支払い手続きを行うだけだ。
領地経営は妹夫婦に任せているので決裁のみ、交友関連の出費は使用人頭に一任していたので決済処理を行う。
問題は妻が使った出費額だ。ドレスや化粧品、宝石類や身に着ける物の金額以上に高価な食材を取り寄せて邸で開いたパーティーの金額がえげつなかった。
「よくブチ切れなかったな、俺」
以前の俺の記憶では結婚してから月二回の頻度で催されている。初めは慎ましいものだったが、俺が何も言わないことをいいことに贅沢なパーティーを重ね、最後は俺の年収半分が軽く吹き飛ぶほどの出費だった。
これは離婚して正解だったかもしれない。
俺は最後の請求書にサインをして机に突っ伏した。徹夜明けの離婚劇はくたびれた。
【シャルトリーゼ! きみとの婚約を破棄する!】
「うわっ!!」
「んぎゃあ! んぎゃあ! んぎゃあ!」
「え、泣き声?! あ、やばい! 寝てた!」
ソファの上で泣き叫ぶ赤ん坊に気がついて、俺は慌てて駆け寄った。優しく抱き上げてあやすが泣き止まない。
おむつか、ミルクのどっちだ?と、前世の俺の経験から見当をつけて餅のような柔らかい尻に手をあてる。
「おー、ぐっしょりだな」
ソファに染みはないが、ベビーオールはちょっと湿っていて肌着は完全アウトだった。
裸にすると泣き止んだ。不快感が消えたらしい。風邪をひかないように自分の上着でくるんで執務室を出た。
向かう先は元妻の部屋だ。膨大な請求書の中に子供服もあったので着替えはあるはずだ。
案の定部屋には所狭しと空箱が散乱しており、その中にいくつか未開封の箱があった。全て赤ん坊の物だろう。一先ず手近な箱から開いていく。
「肌着に玩具、こっちはブランケットか。おむつはどの箱だ?」
「んきゃ!」
「なんだ?」
「んきゃ!」
「これか? お、当たりだ!」
うずたかく積まれた箱の三段目を小さな右手が叩く。蓋を開けると紙おむつが詰め込まれていた。
俺は早速ブランケットの上に娘を横たえておむつを替える。この世界に前世と同じ構造の紙おむつがあって良かった。
「気持ちいいか?」
「だあ!」
「よしよし。肌着も着せて……、服はこれでいいな」
「や!」
「え、嫌なの?」
「や!」
「これは?」
「や!」
「このピンクは?」
「あう!」
桃色の絹に似た生地は肌触りがよく、中はモコモコした毛で暖かい。襟と袖の白いレースがアクセントになって、シャルトリーゼの愛らしさを引き立てている。
赤ん坊なのに自分の価値をすでに分かっているような身振り手振りだ。金色の柔らかな髪を撫でると機嫌よく笑った。
「かわいいなぁ〜」
前世でも娘はいたが、赤ん坊の頃の記憶が曖昧だ。あの時の俺はこいつと同じ仕事人間だった。
若くしてデキ婚で娘を産んだ母親は産後の肥立ちが悪く亡くなった。それが原因で実家と疎遠になった俺は娘を保育園に預けて仕事に邁進した。
そして小学生になった娘は母親と同じ病気にかかり病院へ通うことになった。日常生活を送る中で運動ができない反動か内向的な性格になり、読書やゲームが好きなオタク女子に育った。
互いに会話は少なかったが、娘が望むことは叶えたし日々の成長を楽しみにして俺は懸命に生きていた。
まさか交通事故に巻き込まれるとは思いもよらず、ここにいる事実を考えると俺は死亡したのだろう。気がふさぐ。
「だあだ!」
「ん?」
「だあだ! だ!」
「もしかして励ましてくれてるのか?」
「んきゃ!」
「そうか。ありがとう。シャルトリーゼ」
髪に触れた指を握る小さな両手が思いの外強くて、娘に元気づけられていると気づいた俺は目を細めた。嬉しい。
「はぁ、腹がすいたな。やることはやったし、飯食って風呂入って寝るか!」
「んきゃ!」
「よし! じゃあ、まずは食事だ!」
俺はシャルトリーゼを抱き上げると勢いよく部屋を出た。
*****
「わたくしは承服できません!」
金髪の少女が叫ぶ。
気品ある金糸の刺繍が施された黒いマーメイドドレスがよく似合う十五、六歳の美しい少女だ。切れ長の黒い瞳が階段上にいる一組の男女を映す。
「殿下!」
「黙れ! きみが彼女にした仕打ちは明白だ! 俺は絶対に許さない!」
銀髪の少年が怒鳴った。
こちらは銀糸の刺繍が施された黒い軍服を着用している。秀麗な容貌は怒りで歪み、憎悪を滲ませた赤い眼光が階下の少女を射抜いた。
「わたくしは何も知りません! 無実ですわ!」
「嘘をつくな! きみの罪はここにいる全員が証言している! 彼女の怪我もきみが負わせたのだ!」
「事実無根です!」
「殿下に近づく私が邪魔だと言って……」
「でたらめですわ!」
「殿下……私、怖い!」
「心配ない。俺が必ず守る」
空色の髪をツインテールにした可憐な少女が体を震わせて怯えている。少年は労るようにその細い肩を抱くと表情を一変させて愛しげに少女を見つめた。
金髪の美少女が両手を広げて声を上げる。
「殿下、騙されてはいけません! 彼女はこの国を乗っ取るために殿下に近づいた帝国の回し者ですわ!」
「いいえ、彼女は潔白です。あなたの方こそ見苦しい言い訳をしないでください」
「貴様が殿下の婚約者という立場を利用して犯した数々の悪事はすでに国王様もご存知だ」
少年と少女の後ろから、藤色の短髪の精悍な少年と亜麻色の長い髪をした小柄な少年が現れて言った。
二人は刺繍がない黒の軍服姿で紋章の襟章をつけている。侯爵家と伯爵家の紋章だ。
小柄な少年が無表情で銀髪の少年に一枚の羊皮紙を差し出した。
「国王様が………、なぜ?」
「白々しい。貴様の父親である騎士団長も認めたぞ」
「お父様が?! あり得ません!」
「もういい! きみにはうんざりだ」
「そうですね。これ以上無駄な時間を費やす必要はありません。殿下、判決をお願いいたします」
「シャルトリーゼ・フォン・シャルトルーズ! 死刑に処す!」
「うわあああああああ!!!」
飛び起きた。
夜明け前だ。俺の横でシャルトリーゼが大泣きしている。短い手足をばたつかせて悲鳴のような泣き声を上げていた。
とっさにおむつの中へ手を入れて濡れていないことを確かめ、ミルクか?と思って抱き上げると泣き止んだ。
「だあ!」
「……………はぁ」
急な脱力感に見舞われて項垂れた俺の頭を小さい手がしたたかに叩く。悪夢から目覚めたばかりの俺には地味に効く。おかけで少し心が落ち着いた。
酷い夢だった。鳥肌が立った。あまりにもリアルなので吃驚して目が覚めた。今でもはっきりと覚えている。
金髪の美少女は成長したシャルトリーゼだ。俺に似た切れ長の黒い瞳は間違いない。
そして少年達が着ていた軍服は学園の式典や行事でのみ着用する正装だ。場所は自分が学生の頃に毎日通った玄関ホール。
そこで繰り広げられた突拍子もない会話とあり得ない展開に、いったい何が起きたのかすぐに理解できなかった。
嫌な気分だ。胸がモヤモヤする。何か忘れているような、何かしなければいけない、そんな感じだ。だがどうしていいか分からない。それが嫌だった。
「二度も同じ夢を見る理由って何だ?」
ペシペシ
「何か意味があるはずだが………、全く分からん」
ペシペシペシ
「まさか正夢か? かなり未来のことだぞ?」
ペシペシペシペシ
「………シャルトリーゼ。叩くのやめなさい」
ペシペシペシペシペシ!
「イケメンパパが禿げてもいいのか?」
「ぁぶ!」
「え、今笑った?」
頭頂部を庇うようにして顔を上げた俺は、鼻の下を伸ばして下唇を突き出し、目をきつく閉じた娘の変な顔を見て吹き出した。
ひとしきり笑ったあと、機嫌がなおったらしい娘を抱き直して柔らかな髪を撫でる。
親が情緒不安定になると子供も同じ状態になりやすい。前世で経験したはずなのに、すっかり忘れていた。
この子には俺しかいない。あやふやな夢に惑わされて悩む前に、今のシャルトリーゼを立派に育てなければならない。今世の俺も娘が一番大切な存在なのだから。
そう思うと自然と活力が湧いてきた。
「外が明るくなってきたな。少し早いが朝食にしよう」
「だあ!」
「………おまえ、俺の言葉を理解しているような反応するな」
「だ?」
「まさか俺と同じなのか?」
「だあ」
俺の問いかけに対して、頭を左右交互に傾けたシャルトリーゼは笑顔で両手を上げた。
これはどういう意味だろう。イエスかノーか、はっきりしない答えだ。「だあ」と「や」しか言えない赤ん坊だからやむを得ないが、今までの反応を見ていると理解しているように思えてならない。
俺に精神系スキルがあれば何か分かるのかもしれないが残念ながら戦闘系なので諦めた。しつこく聞いて嫌われるのはいやだ。シャルトリーゼが話し始めるまで待とう。
王城の鐘が鳴った。
時刻を伝える鐘は教会が鳴らすはずだと、俺はカーテンを僅かに開いて外の様子をうかがった。
ゴーンゴーンと腹に響く重低音が静謐な朝の王都に広がる。それが七回鳴ったあと、王都にある教会の鐘が一斉に鳴り響いた。
その瞬間、前世の俺と完全に同化した俺は思わず叫んだ。
「思い出した! 娘がハマっていたゲームだ!!」
今まで細切れにしか思い出せなかった前世と今世の記憶が、まるで長編映画のような物語となって頭の中を駆け巡る。
奔流する記憶の中に娘が熱中していた夢と同じ内容の恋愛ゲームがあり、主人公はツインテールの少女だった。
中世風の世界が舞台で、色々な人種や身分の男性と恋愛できる体験型ゲーム。その中にシャルトリーゼや銀髪の少年達が登場する学園物があった。
娘曰く、シャルトリーゼは悪役令嬢という主人公を虐めるラスボス的な立場で、絶世の美人だが陰険で性悪な最低最悪のキャラクターらしい。主人公の恋路を邪魔する度に娘から怨嗟の声が聞こえていた。
ただし俺は詳しい物語を知らない。
それよりもこの鐘の大合唱は王国に慶事があった時にだけ鳴る。そして俺は何があったかを知っている。
「世継ぎが生まれたのか」
俺が一週間以上帰宅できなかった理由は王宮での仕事が忙しかったからだ。
正后の初出産に伴う警備に国王が厳しい条件をつけて、騎士階級第二等以上の既婚者しか警備できないよう厳命した。特にこの数日間は多忙を極め、疲労と寝不足が限界に達したところで後任と交代して帰ってきたのだ。
まさか引っ叩かれて離婚されるとは夢にも思わず、国を挙げてめでたいことなのに素直に喜べなかった。
「だあだ!」
「そうだ。もし生まれた世継ぎが王子なら対策を練らないとな。腹ごしらえして城へ行くぞ」
「だあ!」
シャルトリーゼの可愛らしい声に応えて、俺は早速寝室を出た。
*****
やはり王子だった。王国待望の嫡子だ。
城下はお祭り騒ぎで、城に行くまでもなくそこかしこで銀髪の赤い瞳をした王子が誕生した話題で賑わっている。
シャルトリーゼを背負ったまま道端で立ち尽くしていた俺は、そこに見知った顔を見つけて思わず声をかけた。
「シャルル! 久しぶりだね。きみも城へ行く途中かい?」
「そのつもりだったが、この人だかりでやめた。ところでその赤ん坊は?」
「三ヶ月前に生まれた僕の息子だよ! ラアルっていうんだ。もっと早くに見せたかったけど、きみも忙しそうだったから会えて良かった!」
亜麻色の長い髪をなびかせて振り返った男は同じ髪色をした赤ん坊を抱えていた。
ラセット・フォン・オーカーは俺の幼馴染だ。シャルトルーズ領の東に位置するオーカー伯爵領の次期当主で、今は外交官として働いている。同性で同年のお隣さんなので、幼少時から成人するまでほぼ一緒にいた。
「どう? 僕に似て可愛いでしょ?」
「ああ」
「ふふ。娘も可愛いけど、最近ちょっと照れ屋なおませさんになって寂しかったんだ。でもアリッサムが頑張ってくれたおかげで、ほら! また可愛い天使が生まれたんだよ!」
「おめでとう」
「ありがとう! 王子様と同い年だから、将来は僕達のような関係になるかもしれないね」
「アリッサム達は一緒じゃないのか?」
「この混雑で馬車が使えないから、今日は僕たちだけ。最初は僕一人だったけど寂しいから連れてきちゃった!」
「大丈夫なのか?」
「もちろん! 可愛い息子を独り占めできて最高だよ。ラアルもパパとお出かけできて嬉しいよね?」
息子に頬ずりするラセットのだらしない顔とは対照的に赤ん坊らしからぬ無表情のラアル坊は指を咥えてひたすら耐えている。
可哀相に、三年前も同じ光景を見た。
その娘はラセットが構いすぎたせいで、最近は嫌がって近づかないとアリッサムから聞いている。本人は全く気づいてないが。
普段は仕事ができる気のいい男なのだが家族自慢が甚だしいので、俺でも時々煩わしくなる。度が過ぎる愛情はときに苦痛を与える。俺も気をつけよう。
「ずっと気になってたけど背中の赤ちゃん、誰の子?」
「俺の娘。一週間前に生まれた。シャルトリーゼ、このおじさんはパパの幼馴染だ」
「だあ!」
「初めまして。パパのお友達のラセットおにいさんだよ。仲良くしてね。シャルトリーゼちゃん」
「気色悪い声で変なことを言うな」
「酷い。僕はまだおじさんじゃないよ!」
「娘から見たら立派なおじさんだ。ラアルと同列にするな」
「え〜、せめてラアルパパがいい」
「どっちでもいい」
「冷たいよ、シャルル。シャルトリーゼちゃん、僕の息子のラアルだよ。よろしくね!」
「だあ!」
「わ、挨拶してくれた! 良かったね、ラアル」
「………」
「ふふ、照れてるのかな? これでカナリーの子が産まれたら、僕たち四人の子供が揃って学園に通うことになるね。楽しみだ!」
「カナリーの子? 妊娠してるのか?」
「知らなかったの? 今年生まれるって手紙が来てたよ」
「あとで確かめてみる」
カナリー・フォン・ビアンカは現国王の従姉妹で、学園で出会った才女だ。儚げな印象を持つ気弱な見た目に反して、クラスで浮いていた俺たち三人の面倒をみてくれた姉御肌の彼女には今でも頭が上がらない。
そういえば大恋愛の末に帝国貴族と五年前に結婚したが、子供ができないと愚痴っぽい悩みを聞いた記憶がある。
前の俺はどう答えていいか分からずに相槌を打つことしかできなかったが。
そうか、妊娠していたのか。良かった。あとで贈り物を送ろう。
「シャルル、仕事が忙しいのは知ってるけど、きちんと家に帰った方がいい。奥さんに任せきりにしてると愛想を尽かされるよ」
「うっ」
「確かカナリーの知人が紹介してくれた子でしょ? 今度一緒にシャルトリーゼちゃんを連れて会いにいくといいよ。きっと喜ぶと思う」
「ソーダナ」
「じゃ、僕はそろそろ行くよ! また会おうね! シャルトリーゼちゃんもバイバイ!」
ラセットの鋭い指摘に空返事をして、俺たちは別れた。手を振って何度も振り返るうざったさにはほとほと参った。
なんて暢気に見送っている場合じゃない。離婚の件もやばいが、あの悪夢が正夢になると分かった以上、ここでじっとしている時間はない。
俺は踵を返すと人波に逆らって走り出した。
以前に侯爵邸で会った旦那の髪色は紫だった。そしてカナリーは白髪だ。つまり生まれてくる赤ん坊は、俺が夢でみた藤色の髪の少年に違いない。
銀髪の王子、亜麻色の髪をしたラアル、そして金髪のシャルトリーゼ。なるほど、何となく十五年後の四人の顔は俺たちの面影がある。
決定的だ。前世の娘が熱中していた恋愛ゲームと同じ未来が訪れようとしている。
まだまだ先のことだと悠長に構えている時間はない。今すぐ行動しなければ後悔する。そんな予感がした。
「シャルトリーゼ。おまえは俺が必ず守る!」
前世は仕事を優先して娘を疎かにした最低な父親だった。だが今度は絶対に幸せにすると決めた。仕事、地位、名誉、家督、財産の全てを手放す覚悟はできている。
まずは辞職願を出して、家督と財産相続手続きを行う。王都の邸を片づけたあと、元嫁の家に挨拶をして実家に帰ろう。
即断即決!
王子が誕生した日に辞職願を出した俺は、本来団長の承認印が必要なところに副長権限を発動して、自分で自分の辞職を代理承認した。その後たまたま新人しかいなかった人事部へ提出、即認可させて速やかに貴族院へ向かう。
もちろん引継ぎは書類で済ませ、支給品は返却、私物は回収した。
城に隣接する貴族院で家督と財産の相続届を提出し、ひとまず必要な書類をもらって終わった。あとは伯爵領にいる妹がサインをすれば完了だ。
最後に元妻の邸を訪ねて、子爵夫妻に挨拶をし多額の慰謝料を払ってシャルトリーゼの親権を獲得した。反対はなかった。
「本当に申し訳なかった」
結局、元妻には会えなかった。
子爵邸の門を出たところで俺は振り返り、頭を下げる。けじめは大事だ。
彼女と離婚しなければ、今の俺はいなかったのだ。ありがとうと、心の中でお礼を言って去った。
邸に戻り、領地に帰る準備をする。必要な物だけ鞄に入れて施錠をすると庭師に門の鍵だけ渡して今後の管理を頼んだ。いずれ妹夫婦が来るだろう。
そして俺はシャルトリーゼを前向き抱っこしてリュックを背負い、賑わう人出を避けて裏道を通ると王都の外門まで来た。出るのは自由だ。
前世の赤いタワーくらいある城壁を見上げて決意を新たにする。
さらば王都。さらば破滅の未来。俺はシャルトリーゼを守るために、この国を出奔する。そして安住の地を見つけて幸せに暮らすぞ!!
*****
「馬鹿兄ー!!」
「ぶっふう!!」
実家に帰って妹夫婦に事情を説明するなり、妹に拳で殴られた。顔は鍛えようがないので痛い。絶対に腫れる。
ちなみにシャルトリーゼは客間のベッドでぐっすり昼寝中だ。十歳の姪っ子が見てくれている。
「お、落ち着いて、ハニー! お義兄さんにはのっぴきならない事情があったんだよ」
「甘いわ、マルベリー。どうせ仕事を理由にして結婚したあともろくに帰らず、娘が生まれても変わらなかったから愛想を尽かされて離婚されたのよ!」
「まさかお義兄さんはそこまで薄情な人ではないよ」
心に精神的ダメージを受けて動けない俺と鼻の穴を極限まで開いて憤慨する妹の間に入って仲裁する義理の弟はラセットの実弟だ。
兄同様に気のいい男で、兄と違って空気を読めるできた義弟は今も色々と察して妹を宥めてくれている。
ありがとう、マルベリー。ラセットと幼馴染だったことを感謝するのは、いつもきみがフォローしてくれるからだ。
「それでどうして仕事を辞めたの?」
「子育てをするためだ」
「仕事中毒の兄さんが何を言っているの?」
「俺は本気だ。シャルトリーゼを幸せにするために辞めた」
「逆でしょう。女の子は成長するごとに出費がかさむのよ。今辞めてどうするの?」
「乳母を雇えば良かったのでは? あるいは育休を取る方法もあったはずです」
「そうよ。王国軍人なんだから育休と有給を最大限に利用すれば三年は取れるでしょう?」
「たった三年で復帰して、その後のシャルトリーゼの成長を見れないなんて我慢できん」
「え?」
「今も可愛い娘が三年後も可愛いに決まっている。つまりそのあともずっと可愛いんだぞ? その成長を間近で見れないなんて、俺には無理だ」
騎士職は多岐にわたる。要人警護以外に城の警備や部下の管理と稽古、各部署との会議や書類仕事に出張もある。そして俺は副長なので団長の補佐もしなければならないし、伯爵家当主としての仕事もこなす必要がある。離職率ナンバーワンの職業だ。
今までを思い返して、よく過労で倒れなかったなと自分のスペックの高さに自画自賛していたら、妹の辛辣な一言で再び心に痛手を負った。
「兄さんって子煩悩だったのね。仕事しか愛せないと思っていたわ」
「ハニー、それは言い過ぎだよ」
「そうかしら? 実際にふられたじゃない」
「ま、まあ、その通りだが………だからこそ俺は娘と旅に出ると決めた。必要な金はすでにあるから、退職金は好きに使っていい」
「お義兄さん………」
「あと相続権はハニーにあるが、財産管理や領地経営はマルベリーに一任する。王都の家はそのままにしてあるから庭師に聞いてくれ」
「兄さん、本気なのね?」
「俺が冗談を言うと思うか?」
「言わないわね。でも本当の理由はシャルトリーゼじゃないでしょう?」
妹の問いかけに俺は曖昧に笑って暗くなり始めた窓の外を見た。
ゲームのシャルトリーゼが死刑になったあとのシャルルがどうなったかを俺は知らない。しかし夢では娘の刑罰を認めた。もしかすると冷え切った親子関係だったかもしれない。
だが俺は断言する。娘を亡くした父親が幸せな余生を送れるわけがない。絶対に後悔したはずだ。今、俺がシャルルだから言える。
決して元妻の豪遊を隠していた罪悪感から譲るわけじゃない。
「シャルトリーゼには俺しかいない。分かるだろう?」
「狡いわ、兄さん」
「ハニー、お義兄さんは……」
「分かっているわ。兄さんは昔から一度決意したことを貫き通す頑固者よ。でも国を出る必要なんてないじゃない」
「そうですよ。ここで一緒に暮らせばいいのでは? シャルトリーゼが大きくなったら復職するのでしょう」
「いや、迷惑をかけるつもりはない」
「迷惑なんて……」
「実は相続権の委譲が認可されたあと、伯爵家の継承権もおまえに移るようになっている」
「ええ?!」
「どうしてですか?」
「来年に初孫が生まれるだろう。おめでとう」
「ありがとうございます!」
「ありがとう。でもそれと継承権は関係ないわ」
「いや、今まで結婚するつもりはなかったから、いずれおまえ達の子供から養子をもらうと考えていたが……」
俺が言いたい事を察した二人は渋面を作って押し黙った。
そのわけは伯爵家当主の俺が三十代まで結婚せずに騎士職に就いている理由でもある。
この国は王族と貴族、そして平民がいて、貴族には公爵を筆頭に五つの爵位がある。
問題は領地持ちが伯爵位までで、子爵以下は平民と同じように働かなければ生活できない。
ではなぜ俺が騎士をしているのか。それは領地経営だけでは貴族らしく暮らしていけないからだ。
王都周辺の公爵領やその周辺及び地方都市は侯爵領で占められ、ほとんどの伯爵領は国境及び辺境地しかない。
北の果てにあるシャルトルーズ領はチョモランマ並の山脈に半包囲された不毛な地域で、領民はおらず税収がない。荒野にポツンと我が家があるだけで、短い夏の間に訪れる遊牧民や酔狂な登山家くらいしか交流がないド田舎だ。
山を越えた場所に国交していない氷人族の国があるので一応は注意しているが、侵攻してくる理由がないので兵士は置いていない。
ここまで説明すれば分かるだろう。
資源のない作物が育たない土地で生活するために俺は騎士になって生活費を稼ぐ必要があった。十年前に亡くなった父親の年金だけでは王都の邸や実家を維持するのは難しく、シャルルが仕事人間になってしまったのも仕方がない。
ハニーは同じ境遇だったマルベリーと結婚し、俺と同じ理由で外交官をしているラセットの代わりに、二人が二領を管理している状況だ。
多かれ少なかれ伯爵領はどこもこんな感じで、生き残るために親族を婚姻させて家名を保っている。
そこまでしなくても領地を返還すればいいと今の俺は思うのだが、領地返還イコール爵位返上という先祖が頑張って得たものを放棄する行為は死んでもできないという貴族観念が根づいており、安易に手放せないのが現状だ。
とまあ、こんな事情で子供の多いところは爵位を守るため、学園卒業後は市井の中で働く人もいる。三人の子供を持つ妹夫婦にとっては憂慮すべき問題なのだ。
もう一度言うが、元妻の件で怒られるのが恐いからじゃない。
「騎士を辞めて国を出る俺が継承権を持っていても意味はない」
「でもシャルトリーゼに家名は必要よ」
「いらん。俺の目が黒い内は娘に指一本触れさせん!」
「分かります! 可愛い愛娘を守るのは父親の義務ですよ!」
「その通りだ、マルベリー。娘を狙う悪い虫は殲滅しなければならないが、まずは近寄らせないことが重要だ。俺は十五年後を見据えて、今から入念に準備をする!」
「なるほど。勉強になります!」
「何の話をしているの?」
「俺の一番はシャルトリーゼだという話だ」
「お義兄さん、格好いいです! 僕も頑張ります!」
「二人ともほどほどにしないと、そのうちパパの服と一緒に洗うのはイヤ!とか、パパは臭いから近寄らないで!とか言われるわよ」
「シャルトリーゼがそんなことを言うわけないだろう!」
「そうだよ! もしもそんな酷いことを言われたら僕は、僕は……ううう〜」
泣いた!
兄同様に子煩悩なマルベリーは涙を流して崩折れる。突然のことに驚く俺の横で、ふんっと腕を組んで顔を背けた妹の拗ねた態度に、ひょっとしてこのやり取りは日常茶飯事なのかもしれないと思った。
やはりラセットの弟だと妙に納得した俺は溜息を吐いて二人を宥めるのだった。
そして翌朝、俺とシャルトリーゼは妹家族に見送られて旅立った。
シャルトリーゼを前向き抱っこして荷物を背負った俺は南北に分かれる道の手前で立ち止まる。
徒歩で?と不思議に思うだろうが、この世界に自動車のような便利な乗り物はなく、移動手段は獣車しかない。前世で例えると馬車に似た乗り物だが、舗装されていない道をサスペンションなしで乗るなんて無謀すぎる。
試しに王都から外へ向かう乗合獣車に乗ってみたが即下車した。腰が壊れるかと思った。
いつも仕事で使う王族専用車に慣れていた俺は平民の逞しさに脱帽した。鍛えたら平気になるだろうか。いや、俺には無理だ。
そういった理由で実家まで走って帰った俺は自分の身体能力に驚いた。普通は獣車で一週間かかる場所を、たった三日で踏破したのだ。
妹達は何事もなく迎え入れてくれたので、いつも走って帰省しているのかもしれない。関節痛や筋肉痛に襲われることもなかった。
だから今回の旅も歩いて行くつもりだ。
手っ取り早く国外へ脱出する道は二つある。一つ目は伯爵領から北のチョモランマ並の山脈を越えて氷人族の国へ向かう道と、隣のオーカー領まで続く谷底の川を下った先にある砂岩人族の集落へ向かう道だ。
ほぼ同じ距離で、どちらも過酷な獣道だ。最初は赤ん坊連れで行くか迷ったが、自分のスペックの高さと早く遠くへ行きたい願望と、妹が「兄さんの強さなら大丈夫」というお墨付きをもらったことで決めた。
「さて、どっちへ行こうか? これから寒くなるし北へ行くのはやめるか」
「や!」
「え? 北に行きたいのか?」
「だあ!」
シャルトリーゼが短い人差し指を北の方へ向けて俺を見る。
俺はそのぷくぷくした手の平を揉んで、剣先のように尖った山々を見上げた。夏なのに山頂は白い。前世の俺ならば決して登ろうとはしなかった山だ。
登頂するわけじゃないし、何度か通ったことがある道なので大丈夫だろう。今回はシャルトリーゼもいるので即行で越えるつもりだ。
「よし! 行くぞ、シャルトリーゼ。俺達の旅の始まりだ!!」
「だあ!!」
うちの娘、めちゃ可愛い。
9/11 誤字を修正しました。ご報告ありがとうございます。
赤ん坊の取り扱いについて厳しいご意見をいただきました。異世界のお話として気軽に考えずに書いてしまい申し訳ありませんでした。