気になるあの子と、とんこつラーメン。
春。
あらゆる物事、あらゆる行事にとっての始まりの季節だ。
ここ福岡の町にもまた、春の新生活を始める少年が一人。
つまり僕。
僕の名前は古賀瞬矢。
ピカピカの高校一年生である。
受験勉強を頑張った僕は、福岡にある名門校に合格できた。
それに合わせて、僕も故郷の町から福岡に移ってきた。
生まれ育った町は片田舎の小さな町で、今の僕は福岡の都市の大きさにひたすら圧倒されている。
この町で、僕はアパートで一人暮らしをしながら、アルバイトで生活費を貯める予定だ。学費までは親が出してくれるが、親に頼り過ぎなのも悪いと思って、生活費くらいは自分で稼ぐと僕自身が申し出た。
高校が経営する寮に入ることも考えたけど、小さな町でのんびり生きてきた僕にとって、寮とかよく分からない。バイトをすることになってでも、一人暮らしが性に合ってると思う。
さて、高校生活が始まって、はや一週間。
今日の学校も無事に終わり、あとは帰宅するだけ。
今は町の雰囲気に慣れるのを優先して、バイトなどはまだ始めていない。
自転車のペダルをこぎながら、僕はふと思う。
今まで真面目な学生として生きてきた僕は中学時代、どこかの飲食店で食事をして帰る、なんてことは一切しなかった。
今の僕は高校生。
学校の帰りに飲食店で食事をしても、何も悪いことはない。
改めて周りを見てみると、この辺りは飲食店が多い。
ファストフードのチェーン店や洋菓子店、個人が経営しているであろう居酒屋っぽいお店などが軒を連ねている。
これは、少しくらい寄っていかねば失礼というものではなかろうか。
都会の雰囲気を知るためにも、今日は食事をして帰ろう。
そう決めたのは良いのだが、いざお店を選ぼうとすると、ものすごく迷う。
どのお店もすごく魅力的だ。
せっかくの機会……後悔の無い選択をしたい。
どうせなら、福岡ならではの料理が食べたいかもしれない。
そう思った矢先に僕の視線が捉えたのは、とんこつラーメン店の看板だった。
とんこつラーメン……良いかもしれない。
僕は己の直感に従い、このラーメン屋の戸を開けた。
ちなみに、店の名前は『中村亭』というらしい。
「いらっしゃいませーぃ」
店の中に入った僕を迎えたのは、思った以上に力の抜けた声。
てっきり暑苦しい店主から元気に歓迎されるかと思った僕は、少し戸惑う。
それに今の声、男にしてはやや高めで、女性の声っぽかったような。
「あれ? もしかして、古賀くんじゃない?」
ラーメン店主がそう尋ねてきた。
よく見るとこの店主、本当に女性だ。
しかも僕と同年代くらいで、おまけに顔も見覚えがある。
「ほら、私だよ。同じクラスの中村かえで。今日だって少しお話したじゃない」
そうだ、思い出した。
彼女は同じクラスの中村さんだ。
中村さんは肩までかかる艶やかな黒髪で、どこかちょっとニヒルなところがある、掴みどころがない女の子といった印象だ。顔立ちはかなり綺麗で、正直なところ、同じクラスになった初日から少し気になっていた。
ちなみに中村さんの身長は僕より少し高く、160センチほど。
彼女の背が高いというより、僕が低いのだ。
こ、これからもう少し伸びる予定だし。たぶん。
ちゃんと伸びるよね? ここで止まらないよね僕?
いや、今はそんなことはどうでもいい。
中村さん、何でここにいるの? バイト?
「なんでって、ここ私の家だよ? 私のお父さんが経営してるお店なの」
あ、そうだったんだ……。
それで今は、お店のお手伝い、と……。
「そういうこと。でも今、お父さんはちょっと急用が入って出かけてて、お母さんも今日は体調不良でダウン中。だからお父さんが帰ってくるまで、今は私が店番してるの。これが本当の替え玉ってね」
上手いこと言ったつもりか。
あー、つまりもしかして、店主のお父さんがいない今、僕はラーメン食べられない?
「あ、心配しないで。ラーメンなら私でも作れるから」
え? 本当に?
「ホントホント。スープはお父さんが用意してくれてるからね。あとはお客さんの注文に合わせて麺を湯がいて、トッピングして完成。私が作ったので良ければ、今から作るよ?」
これは……またとないチャンスかもしれない。
気になっていた女の子から、ラーメンを作ってもらえるなんて。
そんな心の内は秘密にしておいて、僕は注文することにした。
中村さんのラーメンで良いのでお願いします、と。
「おっけー! じゃあ麺の硬さはどうする? かため? 普通? やわらか?」
か、硬さ?
麺に硬さとかあるの?
「あはは、そこからかー」
それから、中村さんのラーメン作りが始まる。
僕はカウンター席に座って、その様子を眺めている。
今の中村さんは、店の制服であろう黒いTシャツを着て、その上から紺色のエプロンを着用している。頭には深い青色のバンダナを巻いており、艶やかな黒髪によく映える。
「というか古賀くん、ここが私の家だって知らずに来たの? ウケるー」
にひひと笑いながら、中村さんが声をかけてきた。
僕だってビックリだよ。こんなところにクラスメイトがいるなんて。
「ほほう。『こんなところ』とはごあいさつだね」
あ、いや、今のはそういう意味で言ったんじゃなくてね?
「あはは、冗談冗談。ラーメンもう少しで出来るから待っててねー」
そう言って中村さんはトッピング作業に入る。
彼女の性格からして分かっていたが、会話のペースはあちらに握られっぱなしだ。
楽しそうに、しかしそれでいて真剣そうに、具材を盛りつける中村さん。
そしてほどなくして、僕のテーブルにラーメンが差し出された。
「はーいお待ちどー! とんこつラーメンだよー」
いま、中村さんがラーメンを置く時に、彼女の親指がラーメンのスープの中にちょっと入った。
普通なら、ここは「指が入ったぞ」と怒る場面なのだろう。
だが僕はあえて言おう。ありがとうございます、と。
でも実際に口に出す勇気はない。
中村さんのラーメンは、とても美味しそうだ。
ちょっと濁った色合いのスープに、緑のネギや黒っぽいキクラゲ、薄茶色の味玉が浮かんでいるのがたまらない。チャーシューも良い色に焼き上がっており、しかも三枚も入っている。
「チャーシュー一枚おまけしといたよー。半人前の私のラーメン食べてくれるサービスってことで」
中村さん最高かよ。
それじゃあさっそく、いただきます!
ズズズ、と僕は音を立ててラーメンをすする。
ふおお、これが本場、福岡のとんこつラーメン……!
麺のコシすげぇ! スープのコクやべぇ! チャーシューうめぇ!
ネギしゃきしゃき! キクラゲ良い歯ごたえ! 味玉あまーい!
夢中になって、僕はラーメンを食べ続ける。
ふと顔を上げると、中村さんが僕のことをジッと見ているのに気付いた。
中村さん、そんなに僕の方を見てどうしたの?
「んー? いやぁ、美味しそうに食べてくれるなーって」
どことなく恥ずかしそうに、彼女はそう言った。
なんか、胸がドキッとした。
「それと、古賀くん、男子のわりに身長低いなーって」
ぐふっ……!?
人が気にしていることを、何の躊躇もなくズバッと……!
ま、まだこれから伸びる予定だし!
「でも私は古賀くんくらいの身長の男子、好きだよ?」
え?
す、好きって、どういう?
「ほら。身長低めの男子って可愛くない?」
そういう方向性かーい!
僕は可愛い系じゃなくて格好良い系を目指したいの!
「そっかそっか。ところで身長伸びる予定って言ってたけど、麺も伸ばす予定なの? 早く食べないとラーメン伸びちゃうよー?」
あばばばば。
た、食べます食べます! のびのびの麺は好みじゃないので!
その後、僕はラーメンを完食。
スープの一滴も残さず食い尽くしてやった。
空になった器を厨房の中村さんに渡し、レジへと進む。
お会計は六百円だ。
「ごめんねー古賀くん。半人前の私のラーメンなのに正規の料金もらっちゃって」
そう言って中村さんが謝ってきた。
でも僕としては、それだけの代金を払うのに十分な価値がある美味しさのラーメンだったと思うから、まったく気にしてないよ。チャーシューおまけしてもらったし。
「そう言ってくれると嬉しいよ。今度はぜひ、私のお父さんがいるときに来てね。このお店のラーメンの本当の味を教えてあげるよー」
うん。楽しみにしてる。
必ずまた来るよ。
「それに……お父さんにも古賀くんのこと紹介したいしね?」
そ、そんな風に言うと、カップルが相手の両親に挨拶しに行くみたいになってるからどうかと思うなー僕は!
「あはは、冗談だよー。うん……冗談。それじゃ、また来てねー」
そう言って中村さんは、店を出る僕に向かってひらひらと手を振った。
僕も軽く振り返って、中村さんに手を振り返した。
停めておいた自転車にまたがり、僕は福岡の町を走る。
ラーメンを食べて火照った身体に、春らしからぬ涼しい風が心地良い。
いやぁ、本当に身体が熱い。
本場のとんこつラーメンを食べると、こんなにも身体が温まるのか。
それとも、中村さんのせいかな?
気になるあの子と、とんこつラーメンか。
春の季節。
始まりの季節。
僕の青春も、ここから始まるといいなぁ。
◆ ◆ ◆
古賀くんが帰っちゃった。
まさか、彼がこの店にやって来るとは……。
しかも彼は、私がこの店にいるとは知らず、偶然やって来たというのだから凄い話だ。
私の友達がこの店にやって来るのは、別に珍しいことじゃない。
地元の友達には、私の家がラーメン屋だというのはよく知られている。
けれど、彼が来ると、やはりドキドキするものだ。
同じクラスになった初日から気になっていた。
真面目そうで、ちょっと可愛らしく、からかい甲斐がありそうな、あの雰囲気。
ここだけの話、どストライク。
私のラーメン、美味しそうに食べてくれた。
あんなに夢中になって麺をすすってくれて。
気になるあの子と、とんこつラーメン。実に絵になる光景だった。
「ふふ、常連さんになってくれたりしないかなー、なんて」
あの時、わざとスープに突っ込んだ親指をしゃぶりながら、私はそんなことを考えてみるのであった。まる。