桜雲の香炉
春の推理2022に参加してみました
薫と鼻を通る。その瞬間に小さな声で「良い香りだね」と聞こえた。「お香?」「どこからだろうね」そんな会話をしている女子高生がいる。
水辺を散歩していた。暖かな日差しで、猫がのんびり昼寝をするような今日は様々な音が聞こえる。ご機嫌麗しそうなマダム達の会話や、喜色溢れる子供の奇声。どこかではボールが弾むし、シャッターの音や鞄を開けるチャックの音も、横を通り抜ける自転車の風切り音とチェーンの音も、どこかゆったりと通り過ぎていく。
「少し離れすぎたかなぁ」
周囲に聞こえないような声で呟いてみた。答える人間は誰もいない。つまり独り言な訳だが、小さな声は再び漂う香りに覆われるように消えた。
――良い香りだ。
今度はちゃんと頭の中で呟いた。
――久しぶりにさ、外に出たんだよ。
頭の中で誰かに話しかけた。
とても良い気分だ。
久しぶりに出た外が、こんなに素晴らしい陽気だなんて。
「ねえ、オジサン」
「オジサン?」
だから、とても驚くだろう。絶対、絶対にオジサンと称されるような容姿ではないはずなのにそんな風に呼び止められたら。のんびりと良い気分に浸っていただけに、余計に。
「こら、お兄さんでしょう」
「オニーサン」
振り返るとそこには小さな、といってもどのくらいなのだろうか。三才とか四才とか、よく分からないが多分それくらいの女の子と、若いが落ち着いた雰囲気の母親と思われる女性が、困ったように柔和な笑みを浮かべていた。
「あの、これ、落とされたり忘れられたりしましたか?この子が先ほどあの辺りの桜の下で見つけたのですが」
そう言って差し出されたのは、金模様の描かれた薄青の小さな香炉だった。
ふわりと煙が燻るさまが見えて、ああ、ここかと得心した。
「いえ、わたしの物ではないですよ」
「あ、そうですか。まだ煙が立っていたので、付近にいる方の物かと思いまして。すみません」
「いえいえ。それにしても良い香りですね。落ち着きます」
ええ、本当に。と答えた女性の顔がやけに印象的だった。随分と静かに嬉しそうな顔をするものだ。だからだろうか。それとも久しぶりの外の暖かな空気に興が乗ったとでもいうのだろうか。わたしは珍しく会話を続けた。
「置いておいたら、気付いた持ち主が取りにきますかね?」
「……そう、なんでしょうか」
随分と含みのある言い方をするではないか。なんだか途端につまらない気分になった。こちらはさらりとした会話を楽しみたい気分だったのに、如何にも何か思っていることがあります、みたいな雰囲気を出されるとそれは違うと思った。今日はほかほかと幸せな、まったりとした気分で過ごしたいのだから。
ええ、きっとと適当に切り上げて、ではと背中を向けた。
背中からしーちゃんにちょうだい、ちょーうだい!と舌足らずながら大声で駄々をこねる声が響いてくるが、それもなんだかのんびりとした陽気には丁度よいと感じた。
鳥のさえずりと、ひらめく蝶と、子どもの賑やかな声。なんとも平和ではないか。
翌日、また同じ道を散歩していた。昨日と違って雨模様の今日は静かな音が響くばかりで人の姿はない。
桜の季節の雨は少し残念だ。花が散ってしまう。満開の時ほどなぜだか雨が降る。じきに緑の葉が目立つようになって、地面の花びらも汚れてしまうのだろう。
――でもそんな儚さも含めて美しいものだ、と詩人の気分に浸りながら進んだ。
おや、と思わず声に出す。
昨日の香炉が落ちていたと思われる場所に、今日は学生服姿の少年が座り込んでいた。薄青の香炉を手にしてなにやら考え込んでいるように見える。
どうやら昨日のしーちゃんは香炉を持ち帰らずに、その場に戻したらしい。思わず関心とひとつ頷いた。
「それ君の?昨日そこに落ちていたらしいよ」
素早く見上げてきた少年は驚いたように目を開けていたが、どこか疲弊していて、掠れた声であ、と呟き咳払いした。
「……はい。大事なものなんですけど、置いていこうか、やっぱり手元に持っておこうか悩んでて」
それは何とも奇妙なことだ。大事なものなら手元に置いておいたら良いではないか。
昨日ならわたしは絶対に少年に話しかけなかっただろう。昨日は暖かい春の陽気だったのだから、暗い雰囲気を醸し出す少年との会話は相応しくない。しかし今日は違う。センチメンタルな雨模様であれば、似つかわしいセンチメンタルな話しを聞いてあげても良い。そんな気分だった。
「大事なものなら、持っていたら良いんじゃないのかな」
「うーん。そうなんですけど、大事だからこそ、置いて行ったほうがいいんじゃないかと思って」
少し面倒になる。言葉遊びがしたい訳ではないのだから。
「それは君のものなの?」
「いえ、父のです。お香が好きで、色々な香りを集めてよく楽しんでいたんですけど最近は全然。だから、貰っても良いかなって」
「ええ、勝手に?それ怒られるんじゃない?」
そう訊ねると少年は苦笑いを浮かべて、そのあと唇を少し歪ませた。あ、しまったと途端に焦る。この顔はあれだ、言いにくい何かを言おうとしているけれど、感情が追いついていない時に見せる人特有の表情だ。
「あ、いや、えーと。あー。父は、結構前に死にまして」
やってしまった。
「それは、ごめん。そっか。それは大事なものだね」
「あーいえいえ。あの、本当、僕が紛らわしい言い方しちゃったんで」
そこから少年は焦ったように喋り始めたが、徐々にゆっくりと、噛み締めるように話しを繋いでいった。
「僕、今じいちゃんばあちゃんと暮らしてるんですけど、二人とも父ちゃんが死んでからずっと元気なくて。この香炉、父ちゃんが中学生の時にばあちゃんがあげたやつらしいんですけど、僕がこれ持ってるの見たらばあちゃんわんわん泣いちゃって。それがなんか、すげー辛くて。僕が持ってるの見て、ばあちゃんは父ちゃん思い出して辛くなっちゃうのかなとか、それとも大事にされているの見て嬉しい気持ちもあるのかな、とか。考えてたら分かんなくなって」
うん、とひとつ相槌をうった。きっとどちらもあって、それ以外も溢れるものだろうと思う。
「あと、僕が小さい頃に他の家族、母ちゃんとかも死んじゃったんですけど、なんかしばらくお線香もあげてないし、折角だからお花見がてらに線香を……いやお香なんですけど。昨日良い天気だったから、何回かお香焚いて、そんで桜見ながらお香の匂い嗅いでたら、ここに置いていってあげようかなって気持ちになったんですよね。なんか母ちゃんもお香好きだったらしいから」
少年の語りが途切れて、雨の湿気に混じった香の薫りが仄かに余韻を持たせた。
随分と苦労している少年じゃないか。センチメンタルで片づけるには重すぎて話しかけたことを少し後悔した。でも、ここで会話を終わらせるのはあまりにも無責任だろう。
だから考えた。いくつかの返答を。
少し迷う。何を喋ろうか。慰めるのは違うと思った。少年は悩んでいる。きっと誰も悲しまない香炉の使い道を。
ふと無邪気な子どもの声が聞こえた気がしたが、こんな雨の日に小さな子どもが遊んでいるはずないだろうから、気のせいだと片づけた。
「きっとその香炉は君が持っているのが良いんじゃないかな。多分今は君だけなんでしょう。その香炉に、家族を想いながら香をくべられるのって」
少年は何も言わなかった。だから続けた。決定的な何かを少年が待っている気がした。でも今日はそんなお悩み解決日和ではないだろう。なんとなくセンチな気分で、なんとなく気持ちを吐露する。そんな日だ。
だから少しは年長者として少年の心の凝りを解してあげたい。わたしに解してあげられるだろうかとも考える。鼻に燻る香が、少しでも少年の心を落ち着かせてくれると良い。
「煙はさ、死者を弔うのに良いんだよ。多分。みんな、ほら、線香とか使うし」
年長者として少年の心を解すとか御大層に掲げてみせたが、出てきた言葉は何とも恥ずかしいほどに頼りないものだ。正直少年以下の語彙力だ。でもそれで良いのだ。きっと少年は肯定が欲しいのだ。多分。
「それにおばあさんが泣いたのは、君の言った通り、思い出が甦っちゃったんだよ。香炉を受け取った時のお父さんの表情とかさ、そういう細かいやつ。だから香炉を君が持っているのが悲しいはずが無いって君もわかってるし、むしろ嬉しいよ、うん。でも嬉しい以上に思い出に心がやられちゃったのかな」
自分で思っていた以上に、咄嗟に良いことなんて言えないものだ。引きこもりのつけが回ってきたとそう感じた。別に、好きで引きこもっていたわけでもないのだが。
「ここに大事なものを置いていっても、きっと君以外の人はこの香炉を大事にしない。香を焚かなきゃお父さんとお母さんが好きだった香りで悼むことができない。だから、持ち帰って大事にするべきだよ。それで、たまに香を焚いてあげると良い。多分、君のためにも」
少年が求めるような究極の救いの言葉なんてものは結局出てこなかった。
それでも少年は小さく頷いてくれただろうか。香りが途切れた。だから、そこまでは良く分からなかった。
遠くで、しーちゃん、母ちゃんと囁く声が聞こえた。
また、一年ほど引きこもってしまったが、まあ、前回ほどではない。
随分と遅い時間、いや早い時間と言うべきか。薄く紫色に染まっていく空と、満開の桜。水辺に映った桜も、薄明るい空も、香の煙も、境界も何もあったものじゃない。
絶景だ。とても良い気分だ。だからこそ少年のすすり泣く声は相応しくない。こんな景色には、不思議が良く似合うじゃないか。
ああ、ほら、香りにつられてまたしーちゃんと母親が近付いてきているのに、どうやら少年は気付いていないらしい。
燻る煙で母子の輪郭を形作ってやらないこともない。
香炉を抱いて泣いていないで、少しは顔を上げてみると良いのに。
夜明けなのだから、不思議な夢のひとつやふたつ、見えたっておかしくない。