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2024/5/12 数字を漢数字に変更、三点リーダの記法を変更
フィルテの無罪を証明する。一見簡単そうに見えるその依頼は、実際のところは困難を極める仕事の一つである。その理由として最も深刻なものとして、物的証拠が存在しえないことが挙げられるだろう。
仮にフィルテが毒を盛っていたのであれば、毒の残りを探す、保存容器を探す、盛った現場を見ていた者を探すなどと、正確性に欠けこそすれ、ある程度の説得力を持った材料を探すことができる。しかし、仮にフィルテが何もしていないのならば。毒の残りも保存容器もフィルテが持っていなかったとて、目撃者も存在しなかったとしても……それは、フィルテの無罪を証明する根拠にはなりえない。とある世界にて悪魔の証明と呼ばれるそれは、当然に、それ相応の理不尽さを抱えた理論であって、それはこの世界においても例外ではない。
それをわかってかわからずか、ゼロは足りない情報を補わんと、一度は引いた椅子に再度腰掛け、村長のほうを鋭く見据えた。もはや先ほどまでの、どこか他人事な態度はいずこかへ消え、傭兵として、己の責務を全うせんとするその表情に、村長はごくりと生唾を飲んだ。
「……連中が使っていたグラスは残っているか。」
「ああ、あっちにおいてある。ほら、ちょうどあそこのカウンターの上の……。」
そういった直後、男たちはそこに広がっていた光景に目をむいた。彼らに従いそちらに目を向けたゼロは、怪訝に眉を顰める。
彼らが指さした先、酒場のカウンターにならんだ低い椅子に、一人の少女が座っている。片手で小さなグラスをつかんだ少女は、もう片方の手をその広い口に突っ込み、粘性がある液体をしきりにぬぐい取っている。
そして彼女は、まったくためらいなく、べたついた指を咥えた。
「嬢ちゃん!? それはダメだ!」
血相を変え慌ててルーからグラスを奪おうとする男。しかし、客観的には手遅れだ。彼女は毒を飲み、そうとは思えないようなきょとんとした顔で近寄ってきた男を見つめる。
「っ! やっ!」
そんな態度も、男がグラスを取り上げようとするとともに急変した。彼女は全く元気そうな様子で身をよじり、座りながらにして男からグラスを遠ざけようと、小さな足で男の体を押しのけようとする。
遅れて駆け足でやってきたゼロが腰を落としてルーと視線を合わせる。彼女はゼロの顔を見て、次いで手元のグラスに視線を落とすと、ゼロに向かって勢いよく両手を突き出した。
「ん!」
「……何ともないか。」
「……? ん! あまい、よ! しね、ない!」
相も変わらず言葉の意味を若干勘違いしているルー。しかし、ゼロはその言い分を聞いたことがある。ルーが差し出してきた空っぽのグラスを手に取り、少女を見下ろし問うた。
「……甘い、だと。」
「うん!」
ルーの言葉を信じたのか、ゼロはグラスに指を入れ、底に残った少量の、粘性のある液体を指先で掬い取った。眼前で指を合わせ離すと、透明な橋が指の間を伸びる。
そしてゼロは、ためらいなくその液体を口に入れた。
「お、おい! それ毒……。」
男の忠告に返答はない。しばし味わうようなそぶりを見せた後、彼はそれを見えない場所に吐き捨てた。
「……。」
「だ、大丈夫か……?」
男の心配をよそに、ゼロはカウンターに手をつきゆっくり立ち上がった。近寄ってきたルーの肩を優しくたたきながら、男たちとフィルテに向きなおる。
「……これは毒ではない。否……おそらく、ゼールの溶けた飴か何かだ。酒ですらない。」
「なに? 飴? 酒ですらないだって? 冗談は顔だけにしてくれよ!」
男は、その口調のわりには、怒りというより困惑に近い表情を見せる。さもありなん、ただの飴なんぞで人が死ぬはずがない。隠された毒性がある可能性は、つい先ほど少女によって否定された。
そして何より、人死にの舞台は駄菓子屋ではない。
「飴をあんな風にこう、グイっといけるわけないだろ!?」
近場に置かれたグラスをつかみ、口元で鋭く傾ける男は、ゼロの言い分を明らかに信じていなかった。
だがしかし、矛盾した二つのうち、一つの事柄が全く正しいのであれば。もう一つの事柄は間違っているか、そもそも前提が違うかのどちらかでしかない。なおも無言のゼロに押し付けられたそれを舐め、男はそれを認めざるを得ない状況へと追いやられた。
「本当だ、飴だ……。」
「……厄介なことになった。」
そう、飴はもちろん、魔術師殺しも滅多なことでは致死性を発揮しない。
あるはずのないもので、起こるはずがないことが起きた。それは重要な手掛かりの一つではあるが、とはいえ状況が難解になることはゼロにとって望ましいことではない。なぜならゼロの目的は、フィルテの無罪を証明し、安穏を取り戻すことだからである。
その時であった。階上がにわかに騒がしくなったかと思うと、昼なお暗い廊下に小刻みな足音が響く。
「おーい! キーラさんが目を覚ましたよ!」
「本当か!」
「ああ! 体調は悪そうだが、ひとまず峠は越えたみたいだ!」
ほどなくして、階上から知らせをもたらしたのは恰幅の良い女性。彼女の後ろを通り、数人の女性がよろよろと階段を下りてくる。夜通し起きていたためだろう、一様に疲れ切った白い顔には、しかし一つの大仕事を終えた達成感と安堵が満ち溢れている。彼らの表情から、本当にもう大丈夫なのだと確信を得たのだろう。ホールの男たちとフィルテもまた顔をほころばせる。
「……都合がよいな。おい、女。」
状況がわかっていないであろうルーもまた、とりあえずと言わんばかりににぱっと笑みを浮かべている。そんな中ただ一人仏頂面を保つゼロが、踵を返し看病に残るであろう女性に、後ろからよく通る声をぶつけた。
「……あん? あたしかい? なんだい失礼な奴だね。」
口調か呼称か、その両方か。呼ばれた彼女は何かが気に入らなかったようだ。険のある言い方だったが、しかしゼロはかまわず続ける。
「……目を覚ました女に聞きたいことがある。話せるか?」
「聞きたいこと? 後にしな! 起きたばっかりなんだ。」
全く持って妥当な言い分である。ゼロとしても、そう言われたことに特段の驚きはないようだった。
「……昼過ぎだ。それならば文句なかろう。」
「なんだい、偉そうなヤツだね。いいよ、キーラさんが良いって言ったら入れてやる。」
話は終わりだ、と、女性が階上へと消えていく。それを見送ることもせず、ゼロもまた踵を返し光の中へと消えてゆく。ルーもまた、残された者たちに向けてフリフリと手を振り、ゼロにピッタリ付き従って酒場を後にして。そして酒場には静寂が戻った。
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キーラとの対面を断られたゼロは、魔術師殺し畑へと足を運んでいた。よく晴れた空の下、腰に少女をくっつけて無遠慮にがつがつ歩く様子を、村人たちが遠巻きに見つめる。それはゼロを監視しているというより、蹴躓いたり、宙を舞う虫に気を取られたり……ことあるごとに置いていかれそうになるルーのほうを心配しているようにも見えるが。しかし、そのたびに男が彼女を引き戻し、速度に波がありながらも、彼らはともに畑を歩む。
彼らが立ち止まったのは、本当に畑のど真ん中。畑にかがむ若い男が、ゼロの長身が生み出す影に覆い隠され、何事かと困惑した表情で空を見上げる。
「……そこの男。」
「えっ……えっ、俺!?」
「……貴様以外に誰がいる。お仲間はとうに退避したようだが。」
ゼロの指が差す先を見て、男は衝撃を受けたように立ち上がった。彼の視線が向いた場所、男を挟んだ反対側にて、彼の友人と思われる数人が、言葉を交わす三人―二人を遠巻きにしている。
「あいつら!? クッソ、薄情な奴らめ!」
どうにも彼は、辛気臭い傭兵の前でもそれほど委縮していないようだった。ひとしきり薄情な友人たちに悪態をついた後、あろうことかびしっとゼロに向けて指を突きつける。
「お前もお前だ! 怖いんだよ! 雰囲気とか、顔とか! もうちょっと柔らかくなれよ!」
無茶苦茶である。雰囲気はともかく、生来の顔を非難されたところでゼロにできることなど何もない。とはいえ、よしんばどうにかできたとしても、ゼロにその気はないであろう。
「……どうでもよい。それよりも、旅芸人の片割れが死んだ夜の状況を、貴様に詳しく聞きたい。」
このままではらちが明かないと判断したか、それとも単に性格ゆえか。さっさと本題に移るゼロ。彼の視線が外れた調子に、友人たちはそそくさと畑仕事に戻っていく。
「え、あの夜の状況……? そんなに覚えてない、てか、なんで俺に聞くんだよ。」
状況、という言葉が指し示す範囲は広い。男もなにを答えればよいのかわからなかったのだろう。結果として、なんとも生産性のない逆質問が帰ってくることとなった。
「……酒場でやけにあの娘……フィルテを見ていただろう。つまりそういうことだ。」
「えっ!?」
意外にも、ゼロはそれに答える。しかしその返答が思いもよらぬものであったか。男は赤面し、衝撃を受けたようによろりと後ろに揺れる。畑の畝に足を取られながらもなんとか転倒だけは避けたが、動揺からかさほどの余裕がないようで、片足を後ろに引き中腰の、半端な体勢から戻ることができない。
「そんな、どうしてバレて……ん?」
「……何かしたか。」
「その、もしかして、フィルテ、疑われてるのか?」
ゼロが提示した情報は限りなく無に近かったはずだ。それにもかかわらず、青年は短時間で一つの答えにたどり着いた。先の醜態が嘘のようにすっと直立した男を見て、ゼロがわずかに面白そうな顔をする。
「……物わかりの良い男だ。」
首肯するゼロ。とたんに興奮した青年に詰め寄られ、その顔がうっとうしそうに歪む。
「おいおい、嘘だろ! フィルテにそんなことできるはずないって! だって、フィルテだぞ!?」
「……それは理由ではない。意図は理解できるが。」
やはりゼロにもフィルテの虚勢はバレていたようである。ともあれ、その発言によりゼロがどちらについているのか把握したのだろう。青年は居住まいをただし、真剣な表情で考え込む。
「って言ってもなぁ……フィルテ、ずっとプルプルしてただけだし。怒って酒場出てった後も、別に帰ってきたりもしてないし。」
「……旅芸人の様子は覚えているか。」
「うーん、別に普通だったと思うけどなぁ……。」
顎に手を当て、視線を下に考え込む様子からするに、特に不自然なことはなかったのだろう。しかし、少なくとも男はこの件について真剣に考えているようだった。何せ自分の好いた少女があらぬ疑いをかけられているというのだから、当たり前に必死になるものである。あるいは、それこそがゼロのねらいであったのかもしれない。
そうして、最終的に男が口にしたのは、あまりにも些細な一要素の証言。
「そういえば、男の……ネルさんだったか。あの人、おばさんが持ってきた魔術師殺しのお菓子断ってたな。」
「……単なる好みとも考えられるが。」
「いや、そこまではわからない……嫌いなのか、っておばさんたちが聞いてたけど、あいまいに笑うだけだったし。キーラさんも、これに関しては特に何も言ってなかった気がする。」
「……把握した。協力感謝する。」
男の精一杯の証言は、決して十分なものではなく、むしろ、見方によっては可能性が広がってしまうようなものであった。そのことは本人もわかっているのだろう、言葉とともにゼロが差し出した金を男は受け取らず。ゼロの胸元に彼の手を押し付けて、彼を見上げる。
「いいよ、金なんて。大したこと言えてないし。だから、さ。フィルテのこと、助けてやってくれ。」
「……それが貴様の願いか。」
「願い? そりゃあそうだよ。」
さも当然かのように言う彼の瞳はどこまでも澄み切っている。この村に来て二度目、やけに多い無償の善意に、何をもって返礼すべきか。それはもはや明らかである。
「……承知した。」
押し付けられた金をしまい、小さな土団子を握りしめたルーを促し、ゼロは畑を後にする。彼の背姿を眺める男のもとに、そろそろと戻ってくる数人の男たち。土を踏む湿った音に男は振り返り、そして帰ってきた友人たちに気が付いて。己を見捨てた薄情な友人たちを笑いとともに責め立てながら、彼らは何事もなく己の仕事に戻ってゆく。
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畑から、村に続く一本道を歩く大小の影。そのうち小さな少女が、大きな影を見上げ立ち止まる。
「……どうした。」
「あのね、えっと……。」
それは、当人はとうに忘れていたであろう、些細な一言であり、しかしただ単に、少女にとってはそうでなかったというだけの話でしかない。そして、体躯に見合う小さな世界に生きる彼女は、己の想いを精一杯の言葉にのせることへのためらいを、未だ知らないというだけでしかない。
「あのね、ぜろ、こわい、ないよ。」
「……よく言われることだ。」
ゼロはそう言って、精一杯のフォローを入れるルーの頭をそっと撫でた。