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2024/5/12 数字を漢数字に変更、三点リーダの記法を変更
この日、孤児院の子供たちに割り当てられた仕事は、スワン商会が『塔』に保持している部屋のうち、患者の診察に利用する部屋三つの清掃である。小さな子供に触れさせられないようなものが軒並み片づけられ、寝台と椅子と机、そして鍵のかかった棚くらいしか残っていない部屋は殺風景で、白い壁と床が清潔感を演出している。
「それじゃあみんなはいつもの通り、低いところをお願いね! 届かない所があったらいつでも言って?」
そう言いながら、アルは子供たちに布切れを配ってゆく。何度か使いまわされたのであろうそれはややくすんだ色をしており、僅かに湿り気を帯びていた。子供たちは少女からそれを受け取ると、元気よく返事をしながら部屋のあちこちに散らばってゆく。
「……?」
一方で、いつもの通り、などと言われても、ここに来るのが初めてのルーは当然何もわからない。先ほどまでの態度はどこへやら、ルーに目もくれず黙々と棚の掃除を始めた少女に、不安げな目を向けるもそれで何かが変わるわけでもなし。残りの二人も窓やら椅子やらにつきっきりで、彼女を助けてくれる様子はない。
「ルーちゃん。」
そんな彼女に声をかけたのは、やはり例の女の子であった。灰色の髪を肩口で切りそろえた彼女は、先ほどまでのように、孤児たちのリーダーらしく、ルーの面倒を見にやってきたらしい。一回り背の高い女の子に見下ろされ、ルーはぽかんと間抜け面を浮かべる。
「やり方、分かる?」
「……やりかた?」
「床をね、それで拭くの。きれいになるのよ。白色が、いっぱい白色になるの。」
「……しろ? いっぱい?」
「そうよ。やってみるのよ。こうするのよ。」
女の子がルーの手を取り、優しくいざなう。彼女にされるがまま、膝をつき、布切れを床に押し付けるルー。小さな手との間で押しつぶされ、布からわずかに水が滲みだす。
しばらくの間、無言で拭き掃除をする二人。真剣なまなざしで床を見つめる彼らは、少女のうち二人がほほえましい光景にニコニコしている、そのことに気が付かない。ちなみにほかのもう一人、シルは既に堂々と仕事をさぼって本を読んでいる。素晴らしい早業である。
ややあって、女の子がそっと、ルーの手を床からどかす。果たして、彼女たちが一所懸命に掃除していた床は……実際のところ、見た目には大して変わっていなかった。毎日掃除しているのだから、見た目に変わりがないことなど当たり前である。しかし、立ち上がった女の子はどこか満足げだ。
「白色がいっぱいになったわ。偉いわ、ルーちゃん。」
そう言って、彼女はちょっと汚れた手でルーの頭を軽くたたくと、自分の布切れを持って部屋の隅に戻っていった。
「……ルー、えらい。」
反対にいまいちピンと来ていない様子のルーであったが、少女の言葉に少しだけ嬉しそうにすると、少しだけ移動して、また同じように拭き掃除を始めたのであった。
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一つ目の部屋の掃除を無事終えて、二つ目を始めてしばらくたったころ。一心不乱に床を拭くルーに、アルが声をかける。
「ルーちゃん! こっちおいで!」
ルーが顔をあげると、何やら書類が入った籠を抱えた少女がルーを見下ろしていた。彼女は少しだけ申し訳なさそうな顔をして、自分の背後におかれたもう一つの籠を顎で指し示す。そちらには書類ではなく、少量の服が適当に丸めて入れられていた。
「ごめんね、ちょっと重いかもしれないけど……その籠持って、私についてきてもらえる?」
ルーは少女の言っていることがいまいち理解できなかったのか、こてん、と首をかしげる。見かねたのか、ルーがそういう子であると判断してなのかはわからないが、またも先ほどの女の子がやってきて、例の籠を持ち上げるとルーに受け渡した。ルーは驚きを顔に浮かべながらも、おっかなびっくり籠を抱える。
「こうよ。もって、いくのよ。」
そう言って、女の子は籠から手を離し、少女の方を指し示す。ルーはわずかによろめいたものの、特に重たすぎたりということはなかったようで、こんもり盛り上がった山の横から指がさされた方向に顔をのぞかせた。
「ありがとね、リーエちゃん。」
「いいのよ。ルーちゃんは新しい子だから、まだわからないのよ。」
女の子、リーエのフォローに、少女は苦笑する。そういう問題でもない気がする、といったところだろうか。いずれにせよ、ルーに多少の教育が必要であるという事実に変わりはないのだが。
「それじゃあ、ルーちゃん。いこっか。ついでに『塔』の中、案内してあげる!」
ついでに、とは言うが、これからのルーにとって『塔』は仕事場であり、全てとは言わずとも、ある程度の構造は理解しておいた方が良い。どちらかと言えば、荷物を持ってほしい、という仕事のほうが建前だろう。彼女たちの手伝いにやってきた子供たちの中には、男の子、ルーより体格に優れる子もいるのだから。
ともかく、そんなわけでルーは、リーエと孤児たちに見送られて、アルについて部屋を出て行くことになったのである。
時間帯の問題だろうか、『塔』の廊下に人影は少ない。小さな光の玉を頂点に戴く燭台が等間隔に並べられた廊下は明るく清潔感があり、埋もれるように作られた扉には文字の書かれた板が掛けられている。
アルはそんな廊下を歩きながら、よちよちと後ろを歩くルーに向かって話しかけ続ける。
「あっちが倉庫、こっちは資料室。あれが洗濯室で、あっちの遠くにある扉が……休憩室! ルーちゃんが初めに入った部屋だよ!」
ルーは物珍しそうにあたりを見回すばかりで答えないが、どうやら話を聞いていないわけではないようで、彼女が言及した扉の方にしっかり視線を向けている。
「ルーちゃんはまだ小さいから、お掃除の仕事が基本になると思うけど……たまーに、資料室とか洗濯室とかから、ものを取ってきて、ってお願いされることもあると思うんだ。ああ、そうそう。あとあっちの部屋が先生の部屋だから、診察室にザグさんがいなかったらあそこに行くといいよ。」
ザグさん出不精だからな~、などとのんきな声を出す彼女を尻目に、ルーはまじまじとその扉を見つめる。部屋の主の趣味だろうか、開いて閉じれば問題ないと言わんばかりの板一枚に、木彫りの綺麗な、赤く染められたルームプレートがかかっている。それにはかわいい文字で、『ザグちゃんの部屋』と書かれていた。真っ白な廊下に不釣り合いなそれを、立ち止まったルーがまじまじと見つめていると、少し先行していた少女が彼女のもとに帰ってくる。
「やっぱりこれ、お部屋に合わないよね~。これね、ザグさんが奥さんにもらったものらしいの。私がここで働き始めた時にはすでにかかってたんだけど……うん! やっぱり違和感すごい!」
聞こえてるぞ~、という気の抜けた声に追われるように、二人はちょうど近くにある洗濯室に入った。部屋の中心に置かれた長い机に、ルーが持ってきた籠を置き、自分がもともと持っていた籠をもう一度拾い上げると、アルはルーを見下ろしてこう問うた。
「うちの商会が使ってる部屋はこれで大体紹介したけど……ルーちゃん、自分で元の部屋、戻れる?」
その問いに、ルーはただ首をかしげるばかり。年端もいかない少女にとって、これだけの物事を一度に覚えるというのは相応に難しいことであるのだが、残念ながらルーが首を傾げた理由はこれとは全く別である。
「まあ、そうだよね……ちょっと、この部屋にいてね。すぐ戻ってくるから!」
アルは順当に、ルーは未だ理解が追い付いていないのだ、と解釈したようだ。パタパタと小さな足音を立てながら、小走りで部屋を出て行ったかと思うと、本当にすぐ、息を切らせながら部屋に戻ってきた。彼女の手元には、先まであったはずの籠がなくなっている。
「はあ、はあ……おまたせ! それじゃあルーちゃん、帰ろう!」
そう言って、アルはルーの手を取り歩きだす。ルーは自分よりずっと背の高い彼女の背中をじっと見つめ、追随する。二人の姿は在りし日の、彼といた日のそれにどことなく似ていたが、しかし致命的に違う。ルーは終始、なんだかパッとしない、微妙な表情のままであった。
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『塔』における子供たちの仕事は基本、昼までで終わる。これは、子供たちへの負担が重くなりすぎないための制度、という側面はもちろんあるのだが、それ以上に、スワン商会からしても、子供たちに任せられる仕事はそこまで多くはないこと、そして、子供たちも『塔』でばかり働いているわけにはいかない、という事情によるところが大きい。給与を受け取り孤児院に戻った彼らは、その年齢に応じて、自由時間を迎えるか、あるいは孤児院の運営に必要な仕事の中でも特に簡単なもの、具体的には、掃除、洗濯等が割り当てられる。
孤児院には、ゼロに応対したシスターのほかに、大人がいない。通常であれば明らかに運営が破綻しているであろう、無理のある体制ではあるが、特に問題が起こっていないのは、彼ら小さな労働力の奮闘のたまものなのである。
実態として、唯一の保護者であるシスターには、態々『塔』にまで訪れて、スワン商会のとある医者と歓談する程度の時間的、精神的余裕がある。
先ほどルーが訪れた、武骨な塔のつくりに似つかわしくない看板の掛けられた部屋の中。件のシスターは大切そうに両手で抱えたカップを机に置き、ほっと一息ついて言った。
「そうですか……あの子たちも、変わりませんね。」
そう言ってほほ笑む彼女に、対面に座る医者、ザグはぽりぽりと頭を掻きながらぼやく。
「少しは変わってほしいと思っているんですがね。まあ事情は分かりますけれど。」
「そうですね……あの子たちは、昔から……あのころからずっとそうなんです。」
「そうですね、まあ、あの子……ルーちゃんだったか。どこか危なっかしいところもありますし、あいつらが気に入ってくれたのは良かったと思いますよ。」
ザグの言葉に、シスターさんはくすくすと、奥ゆかしく笑う。
「そうですね。それは私も、よかったと思っています。」
優しい笑顔につられたのか、複雑な顔をしていたはずのザグの顔にも、やんわりと笑顔が浮かんだ。
「では、夕方ごろにまた、ルーを迎えに来ますね。」
「よろしくお願いします。あいつらにも、ちゃんと言い聞かせておきますから。」
「お願いしますね。」
終始穏やかな笑みを浮かべたまま、シスターはザグの部屋を辞していった。特段重要な話をしていたわけでもないのだが、緊張していたのだろうか。彼女の後ろ姿が扉の後ろに隠れると同時に、ザグはほっと息をつく。
「ふう……。おっと、もうこんな時間か……これだけ片づけたら、あいつら誘って、昼飯にするか……。」
手元に持った丸く光る円盤に目を向けそうつぶやくと、机の端に乱雑に積まれた書類の山を手に取り、ため息をつく。
作業としてはさほど難しいものではないらしく、彼が机に向かいだしてから、それこそ数分程度で彼はその紙束を放り投げ、大きく伸びをした。
「終わりだ終わり! 飯に……あ、カップ。またアルにいろいろ言われるな……。」
立ち上がった拍子に、机に置かれた二つのカップの存在に気が付いたのだろう。少しだけ憂鬱な顔をした彼は、気が進まない様子でそれら二つを手に取った。それぞれの手に一つ、両手がふさがった状態で扉を適当に蹴り開けると、彼は二つ先、水音の絶えない部屋に足を踏み入れる。内側に大きく開かれた扉は少しほつれた、膨らんだ袋で抑えられており、部屋の奥では数人の少女が、見事な役割分担のもと大量の食器をたらいまわしに洗い続けている。
そのうちの一人、アルが、彼の気配に気が付いたのか手を止めることなく振り返った。彼女の短めの茶髪がさわりと揺れる。
「あれ、ザグさん。どうしたんですか?」
「おう、アル。すまんが追加だ。まあ小さいしすぐ終わるだろ。」
そう言って彼は手に持ったカップを水路に置いた。さわさわと穏やかに流れる水流に、幾筋もの乱れが生じる。
さて、少女の顔色を窺うように、ちらりと遠慮がちな視線を向けるザグ。しかし、彼の懸念とは裏腹に、アルは何でもないようにザグがおいたカップをつかみ、何でもないように言った。
「あー、シスターさん帰ったんですね? 元気そうでしたか?」
「ん、ああ。それなりに元気そうだったぞ。あーでも、ちょっと隈ができていたような。」
ザグの証言に、アルは声を荒らげた。
「やっぱり! また一人で頑張ってるんだ絶対!」
話題が別の方向に向かったことに安堵した様子のザグは、内心の不安を感じさせないようなしみじみした口調で、やや大げさに言う。
「今はリーエちゃんが一番上で、確か……十二だったか? 一人で子供たち全員の面倒見ないといけないなんて大変だよなぁ。」
「そうですそうです。服も食事もお洗濯もお掃除も、全部あの人が回してるんですから! 子供はよく服汚すし破くし、手伝おうとしても断られるし!」
心なしか、少女……アルの手つきが荒くなる。水路の中で横に押しやられたカップが、隣の少女がおいた皿と触れ、小さな音を立てる。
「それは……あの人本当に寝てるのか?」
ぷりぷり怒る少女の様子にやや驚いた様子を見せながらも、そう尋ねるザグ。
「寝てるんじゃないですか? まあ私見たことないですけど! ねえベル!」
アルの言葉に、ベルもまた、手元を忙しそうに動かしながら答える。
「確かに見たことないわね。夜中に会いに行った時も、服の修繕をしていたもの。」
「夜中?」
ザグの問いに、ベルは少しの間手を止め、虚空に目をやり記憶をたどる様子を見せた。
「ええ。あれは確か……アルが夜中に」
「それはどうでもいいでしょっ!」
少女、ベルの言葉をアルが勢いよく遮った。あまり聞かれたくない話なのだろう。顔を真っ赤に染めながら、全力で話題をそらしにかかる。
「そ、それより、ルーちゃんの話はつけてくれたんですよね!?」
アルにとっては幸いだろう。他二人の胸中にもルーの存在はしっかり刻まれていたようで、会話の内容はすぐさま、あの少し危なっかしい、小さな女の子の話に移ろう。
「おう、夕方に迎えに来るって……てか、ルーちゃんはどこにいるんだ?」
「ルーちゃんならシルと一緒にいるはずよ。ねえアル。」
「うん。一緒にいたよ。」
「ほら、シルもそうやって言って……あれ?」
姦しい少女たちの会話に割り込んでくる、眠たそうな声。彼らにとって聞き覚えのあるその声に、会話を続けながらも止まることのなかった手元がピタリと止まる。
「シ、シル? どうしてここに……。」
困惑する彼らにまっすぐ向き直ったシルは、淡々と、まったく緊急性の低そうな口調で述べた。
「ごめん。ルーちゃんいなくなっちゃった。」