8.
2023/3/4 セリフを微修正
2024/4/21 微修正
2024/5/12 数字を漢数字に変更、三点リーダの書き方を変更
交戦の痕跡残るドリア王国王城、その会議室。普段であれば原則国の上層部にのみ立ち入りを許され、国家の行く末を決定する会議のために使われるその部屋に、あの時地下にいた人々が皆集められていた。それは城を破壊すらした傭兵ゼロとて例外ではない。彼らは皆深刻な表情を隠すこともできずに、イライラとその最後の報告を待っていた。
静まり返った部屋に、扉のきしむ音が鳴る。入ってきた伝令の兵士は沈んだ空気に気圧されたかほんの少しだけ立ち止まり、しかしすぐさま居直って、言った。
「都門の責任者によりますと、バータの紋章付き魔導車は通過させていない、とのことです。」
その言葉に、部屋の空気がわずかに軟化する。しかしそれもつかの間。
「……しかし、貴族と思わしい十代の少女を一人、通過させてしまったとのこと。確証はありませんが、時間帯や特徴からして、おそらくルヴァーサ・バータであったろうとの見立てです。責任者によりますと、当面は出入管理をより厳正に行う、とのことでした。」
今度こそ部屋は完全な沈黙に包まれる。たっぷりとした空白の後に、絞り出すような声が彼に退出を促した。あまりの気まずさから、伝令の彼は言われるや否やすぐさま引き返し、会議室から退出していった。
「……逃がした、か。」
董千の言葉に、隣に控えた蓮が悔しそうに俯く。ドリアの人々は皆顔面も蒼白で、唯一ゼロばかりが我関せずとばかりに……しかしその左手は忙しなく刀の柄に踊っている。
董千のちょうど向かいに座った王子が、董千のほうに向きなおり、頭を下げる。
「……竜崎董千よ、申し訳ない。我々の不始末だ。まさかバータ家が……よりにもよって、バータ家が裏切るとは。」
バータ家は代々『誅世の書』の封印を務め、王家に忠誠を誓ってきた由緒ある家だった。王家からの信頼も絶大であったようである。
しかし、彼らについては董千からも伝えねばならぬことがある。
「ああ……その件についてなのだが、私からも一つ謝りたいことがある。私は……秘するべきではなかった事実を知っていた。」
「というと。」
アルフレッドに促されるも、董千は気まずそうに黙るばかりで、なかなか話し出そうとしない。しばらく無言の時間が続く。
蓮が董千に声をかける。声が小さく周囲にその内容は聞こえない。董千は首を横に振り、小さく深呼吸をし、そして改めてアルフレッド、そしてその奥、一段高い椅子に座った国王の方に向き直り、ついに口を開く。
「……バータ家は、百年前の竜崎の巫女によって、『誅世の書』の監視と収容のために送り込まれていた魔族の家系だ。」
ざわり、とドリアの人々がどよめく。一挙に落ち着きを失った室内を董千のまっすぐな視線が見つめる。一人、静かに話を聞いていた国王が右手を挙げると、人々は未だ狼狽した顔で、納得していない表情で黙り込んだ。
「百年前というと、竜崎瞳爛か。ちょうど我らレベティリア家が王族を継承した時期の。」
「ああ。どうやら……その混乱に乗じて人を送り込んでいたらしいんだ。『誅世の書』の監視と封印を目的としてね。」
要するにそれは、当時の竜崎家がドリアの新王家を全く信用していなかったということでもある。過去の者がしたこととはいえ、己の生家が良き隣人を軽んじていたという事実、董千としてもあまり明かしたくはなかったのだろう。彼女にしては珍しく、気まずい表情でひきつった笑いを浮かべている。ドリアの人々が無言で董千を見つめる。
「……これについては申し訳ないと思っている。伝えたところで君たちを不愉快にさせるだけだと、気を使っていたつもりではあったが……結果的に君たちのことを、ますます軽んじることになってしまった。私の生家、そして私自身の非礼を詫びよう。」
そう言って頭を下げる董千。国王が口を開く。
「一国の主が軽々と頭を下げるものではないぞ、董千。我が国と魔族たちとの友誼は、過失の一つで崩れるほど脆いものではないはずだ。」
そう言ってアルフレッドに視線を向けた。彼が言葉を引き継ぐ。
「……その通りだ。それに、今最も大切なのは、一刻も早い『誅世の書』の確保、というより、逃げ出したルヴァーサ・バータの拘束だろう。この件は我が国と魔族との協力が必要不可欠だ。董千が沈んでいると立ちいかなくなるし、何よりこちらの調子も狂ってしまうよ。」
冗談めかした言葉に、董千が顔をあげ、小さな笑顔を浮かべた。
「……感謝するよ。二人とも。」
アルフレッドもまた、彼女に笑顔を返した。
「……ところで董千よ、先の話の続きのようなところもあるが……ルヴァーサ・バータの行先に心当たりはあるか?」
アルフレッドの言葉に、おとがいに手を当てて答える董千。
「何とも言えない。彼女がかの書物と共に何をなすつもりであるのか……そういえば、アルジェ・バータの尋問は君たちが行ったのだったね。」
アルジェ・バータ。バータ家の生き残り、ルヴァーサの母親である。今は城の牢屋に入れられており、彼女の尋問は、都門に使者を送ることと並行して行われていた。
「ああ。強制するまでもなく全部吐いたらしいが……正直意味が分からない。彼女が魔族の一員であるとなれば、その供述内容についてもまた、君に聞いてもらったほうが良いはずだ。」
アルフレッドが机に手を置くと、円卓の中央に円盤が現れる。彼が話すと同時に、どの方向から見ても同じように見えるその不思議な物体に、つらつらと文字が浮かび上がった。
「バータ家が『誅世の書』を求め始めたのは、彼女の祖父の世代から。彼らは、その、『このままでは未来永劫に虚無にとらわれたまま。悲願はなされず、世界は停滞するばかり』。ゆえに彼らは、あー、『魔族たる使命を全うすべく、世界に救済を齎す奇跡を手に取った』……らしい。すり替えが行われたのはやはりあの時、バータ家のみが入室した瞬間。時間的不可能の解決手段、盗み出した方法、かの書物が如何なる権能を持っているのかについては、『救済を齎す』としか言わないため実体は未だわからないままだ。」
静まり返る室内。しかしその気まずさの方向性が少し違っていた。リィンヴァルナが隣のライバートに耳打ちをする。
「……ねえ、アルジェさんってもしかして、その、ちょっとヘンな人……?」
「アルジェ・バータな。悪い人だから。」
育ちが良いのか悪いのか分からない言葉遣いを訂正しながらも、後半部分には一切反論しないライバート。ドリアの人々からしてみれば、こうまでももってまわった言い方をされてもただただ分かりづらいばかりであるようだが……董千にとっては違うようだ。頭を抱える彼女を、蓮がかがんで慰めている。
「我らが神を理由に竜崎呉羽に迎合するなんて、本末転倒じゃないか……!」
「董千様、お気を確かに。己が使命を忘れた間抜けは、私が必ず見つけだし、即刻嬲り殺しますので。」
「……蓮、人前だよ。汚い言葉は控えたまえ。」
「董千よ、何か分かったのか?」
アルフレッドが董千に尋ねる。顔をあげた董千だが、浮かない表情のままだ。
「何か分かったというより……要するに彼らの一族は、ドリア王国で封印の管理ばかりをさせられて、神に直接奉仕することができないことに辟易していた、ということなのだろうな。ゆえに、神……我ら魔族が使える水龍神様の望みに答えるために、『誅世の書』を手に取った、という意味合いだろう。その力を使って、まあ、何をするつもりなのかはわからないが……。」
「神の望み?」
「そう大それたことではないさ。我らが水龍神様は大陸中の安寧、要するに平穏な世を祈っている。ただそれだけだよ。」
いかにも胡散臭い標語ではあるのだが、董千の顔は真剣そのものであった。彼女自身もまた、それを本気で祈り望んでいるかのように。
「平穏な世を祈っているのに、『誅世の書』を奪ったのか。」
「だから言っただろう。本末転倒だ、とね。」
そう言って彼女は小さく肩をすくめた。
「まあ、アルジェ・バータの供述が真であるとするならば……バータ家がそのつもりならば、心当たりがないでもない。」
董千の言葉に室内は色めき立つ。無言を貫いていたゼロさえもが、彼女の方向に目を向ける。
「ミクソリディア共和国だ。あそこは竜崎呉羽にとって相応に縁の深い因縁の地。彼女の意思をつぐと明言している以上、そのことを彼らが知っていても不思議ではない。彼らが竜崎呉羽の意思を直接知らない以上、何かしらの手がかりを求めてかの地を訪れる理由は十分あるはずだ。」
ミクソリディア共和国、竜崎呉羽の因縁の地。彼らもそれが気にかかったのだろう。そわそわと目配せし合い、けん制し合っていたものの、結局誰もその疑問を口に出すことはなかった。
「というわけでゼロ、君の出番だ。竜崎董千の名のもとに、正式に依頼する。ミクソリディアの地を訪れ、ルヴァーサ・バータを見つけ出し、今度こそ『誅世の書』を取り戻してくれ。方法は基本的に問わないが……今回みたいに、派手に城をぶち壊すなんてことはしないでくれよ? 後始末が大変だから。」
楽な口調と態度でそういうが、目は笑っていない。余談ではあるが、今回の件を不始末、董千の監督不行き届きとして、彼女はドリア王国に城の賠償金の支払いと再建のための魔族の貸し出しを約束している。そして、この董千の行動によって、ゼロが城の破壊について咎められることはなかった……要するに、貸し一つである。ゆえに、ゼロに選択肢はないのであった。
「……引き受けよう。」
むしろ、何処に行けばよいのか提示された分楽といったものである。
「私も追い追いミクソリディアに向かうつもりではあるが……直近は少し予定が詰まっていてね。つまり君は別動隊だ。」
董千の言葉に、ゼロは静かに頷いた。
ゼロが蓮から前金を受け取っている様子をちらりと見ながら、アルフレッドが口を開く。
「董千よ。その話についてだが、『緋色の翼』も乗せてもらうことはできるか?」
「乗せる? 別に構わないが……『誅世の書』なんていらないだろう。」
董千の言葉に頷きで返すアルフレッド。
「それはいらないが、ルヴァーサ・バータの身柄は必要だ。」
「……そうか。なるほど、君たちにとってはそうだった。私は別に構わない。むしろ人手が増えることは喜ばしいことだ。」
「それならよかった。報酬金はこちらが六を出そう。」
「こちらが六、といいたいところだったが、それなら半々でどうだろうか? ルヴァーサ・バータの身柄の確保はそのまま私の目的につながるのだから。」
「……分かった。感謝するよ。」
「ちょちょちょ、ちょっとまってくださいよ!」
外野を置き去りに勝手に盛り上がる二人に、つい先ほどまではおとなしくしていたリィンヴァルナが、我慢できないとばかりに割って入る。怪訝な顔で彼女を見つめる董千、そしてアルフレッドに、彼女は大げさな身振り手振りと共に不満を訴えかけた。
「私は嫌ですよ! 傭兵ゼロと一緒に仕事をするなんて! ライバートから聞いたんですよ! その人は今回、城の人が巻き込まれるのも構わずにルヴァーサさ、悪い人を攻撃したんだって! 一緒に仕事なんてしたら、今度は私たちが巻き込まれちゃうかもしれない!」
幼さを感じる見た目、顔つき、表情から、傍から見ると子供のわがままのように感じられてしまう彼女の主張ではあるが、しかし筋は通っている。今回の件は傭兵ゼロの依頼遂行に対する誠実さ―彼とは無縁の言葉ではあるが―を推し量るには足りなかったものの、彼の冷徹さ、残忍さを知るにはあまりにも十分すぎた。もとより彼女がゼロを嫌っているという事実を抜きにしても、そう感じたとて何も不思議なことはない。
アルフレッドも似たように考えているのだろうか、少しの沈黙と目配せをはさみ、彼はリィンヴァルナにこう答えた。
「確かにそうだ。君たちは仕事の条件を吟味する義務と権利を持ち、そして条件を合わせるべきは我々の方だね。」
そして彼は再び董千のほうを向く。彼女は小さな笑みを浮かべ、仕方がない、と言わんばかりの表情をしながらも、視線でもってその意を肯定した。
彼もまた、董千の反応を受け満足そうに頷くと、改めて立ち上がり、信を置く傭兵団の方へと向き直った。彼らはすぐさま席を立ち、王子の前に一斉に首を垂れる。
「『緋色の翼』よ、ドリア王国第二王子アルフレッドが命ずる。忌まわしき厄災の書を奪い去った大罪人、ルヴァーサ・バータの身柄を確保し、私の前に連れてきてくれ。」
「「「「はい。必ずや。」」」」
その言葉は各々わずかにタイミングがずれていたが、普段これほど格式ばった所作を取っていない以上、仕方が無いと言えば仕方がない。むしろそれは、傭兵団と王子との間にある友情、あるいは絆を回りくどく表していた。
董千とアルフレッドの視線を受け、静観に徹していた国王が音もなく立ち上がる。堂々たる様で部屋中を見渡し、そして右手を前に突き出し手を開く。
「では、これにて解散とする。各自己が使命を胸に刻み、必ずや、龍慈手、ドリアの両国に安寧を齎すのだ。我らの友情と繁栄が、久遠に続く未来を願おう。」
「頼んだよ、ドリアの民、『緋色の翼』の友人たち、そしてゼロも。古の悪夢の終結に、私はこの身全てをかける所存だ。君たちも、知った以上はそれに並ぶ覚悟を期待するよ。」
双方の長の言葉を最後に、ドリアの人々と魔族の会議は、ここにようやく終わりを告げた。
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橙色に輝く西空に、細い雲が幾筋も漂うドリアの夕暮れ時。多くの人々が己の務めを終え、帰るべき場所へ歩を向ける。一日の終わりに疲れ果てた人々を狙う、威勢の良い露天商の呼び込み声が、澄んだ空気に遠くまで響く。人々の声は距離を伝わるにつれ徐々に混ざり合い、やがて言葉は喧騒となり、少し離れた場所に立ち並ぶ宿屋にまで伝わってゆく。しかし、それは決してうるさいものではなく、むしろ平和を思わせる心地よい音。どこか非日常的な空間を、程よく現世につなぎとめている。
ドリアに存在する玉石混交の宿屋のうち、ひときわ品の良い建物の廊下を、三人の人間が早足で歩いている。後ろを続く二人のうち、袖の長い衣装を身にまとった高貴そうな女性が、前を淡々と歩く黒装束の男に、困惑したように声をかけた。
「……本当に良いのかい? 君は十分に私の期待に応えてくれたと、私は思っているのだが。」
「……『誅世の書』は貴様の手に渡らなかった。それ以上でもそれ以下でもない。依頼は失敗だ。」
あくまで依頼は果たされた、との立場をとる董千に対し、ゼロはにべもなくそういった。確かに、董千が彼に依頼を出した根本の理由、忌まわしき書の確実な確保については、今回の件では果たされてはいない。依頼の失敗とするには十分な理由ではあるのだが、そうした論調を傭兵側が持ち出し、依頼者が提示する対価を否定するという、おかしな状況に陥っていた。
董千としても納得していないのだろう。女にとってはやや速すぎるであろう、ゼロの早足に涼しい顔でついていきながら不満げな声をあげる。
「私が君に頼んだのはあくまで引き渡しへの同行だ。『誅世の書』の確保は君への依頼の要件として含まれていない。」
ゼロが董千を敵に回したくないのと同じように、董千もゼロを味方に引き入れておきたいと考えているのだろう。彼女の説得はつまるところ、深刻な事態に反する非常な温情であった。これを断るということはすなわち、竜崎の巫女董千を軽んじていることと取られる可能性もある……それは当然ゼロも分かっているのだろう。足を止め半身で振り返り、董千の瞳を無感動に見つめた。
「……いずれにせよ、私は貴様の依頼をもう一つ果たさねばならぬ。一度で済むことを複数に分割し、余計な時間を使うなど私の好みではない。」
ゼロの言葉に董千の瞳がわずかに光った。
「……なるほど? それは確かにその通りだ。今度の依頼は危険だものね? 得体のしれない書物を持った魔族を、身一つで相手にしなければならないのだから。ふふふふふっ、君も随分と図々しい男だねぇ。」
……要するにゼロは、今度の依頼―『誅世の書』の奪還―の報酬とまとめて支払うのであれば、今回の件の報酬も受け取らんでもない、と言ったのだ。それに対する董千の返答が、今度の依頼は危険だから、報酬に色を付けておくよ、である。要するに図々しい者などここにはいなかったわけなのだが、彼がそのことに言及することはなかった。
にこにこと―あるいはにやにやと―笑う董千を無視し続けるゼロ。一心に廊下を歩く彼の眼前で、三つほど先の部屋の扉が突然開いた。部屋の中から焦ったような少女の声が聞こえて来たかと思えば、次の瞬間には女の子が廊下に転がり出る。彼女はきょろきょろとあたりを見回し、ゼロの姿を認めるや否や彼に飛びついた。
「ぜろ! おかえり、おかえり!」
殆ど一日ぶりに再会したルーは顔色もよく、熱もすっかり冷めたのだろう、まさに元気いっぱいといった様子であった。黒い外套を握り締めぶんぶんと振り回し、なんとあのゼロを困惑させることに成功したのである。同行していた蓮も、董千でさえ、驚きに目を見張らざるを得ない光景である。
―そのせいか、どうしてルーはゼロが戻ってくることが分かったのか、という疑問が呈されることはなかった。
「ダメだよルーちゃん、戻ってきて……と、董千様!? お、おかえりなしゃいませっ!」
後から部屋をまろび出た少女、小春も、ルーの奥側に立つ董千の姿を視界に収め、慌てて頭を下げた。
「あ、ああ。ご苦労様だね小春。その……。」
彼女の姿はそれはひどいものであった。董千達を見送った時には綺麗に結われていたはずの髪は、辛うじてまとまっているといった程度にぐちゃぐちゃに乱れており、服もしわだらけ、本人も酷く汗だくである。顔には隠し切れない疲労が浮かんでおり、心なしか足取りもおぼつかない様子だ。
「本当に、ご苦労だったね。小春……。」
「ううっ、子供が楽しい遊びなんてそんなに知りませんよぉ……。」
泣きべそをかく小春を抱きしめ、優しく頭をなでる蓮。彼女にねぎらいの言葉を掛けながら、視線を己の主に向ける。彼女はすぐさま蓮の視線に気が付き、微笑でもって彼女の意を肯定する。蓮は娘を抱いたまま小さく頭を下げ、連れ立って宿の一室へと戻っていった。
親子を見送った董千は、もう一つの再会に視線を向け直す。すっかりいつもの調子を取り戻したゼロが、しつこくまとわりつくルーを適当にあしらっている。邪険にされているのにルーは全くめげることなく、ゼロの外套にしがみついてすりすりと頬をこすりつけはじめた。普段の機敏な行動ができなくなり、僅かに面倒そうな顔をするゼロ。
董千が思わずと言った風情で呟いた。
「仮にも魔力無しが灰豆を食べたのに、この程度で済んだとは。食べる量が少なかった、ということなのだろうが……あの年の子供に自制がきくとも思えない。」
体が小さい分、実際に食べた量が少なくとも体内に取り込む毒の量は相対的に多くなりやすい。豆の皿は騒ぎでひっくり返ってしまったため実際に食べた量はわからないが、ルーが普通に灰豆を食べていたのであれば、これほど早い回復はしないだろう、という董千の推測である。
「……まあ、あまり好きな味ではなかったのだろう。」
結局のところ推測は推測であり、現場の様子が残っていない以上それ以上に発展することはない。結局董千は早々に思考を切り上げてしまった。
そんな彼女のもとに、ようやくルーを抱き上げたゼロが歩み寄ってくる。彼の足は宿の階段へと向かっているようで、彼がいよいよこの宿を去ろうとしていることは誰にでも予測がつくことであった。
「……何の話だ。」
「ん、ああ。ルーちゃんの回復が早いな、って言うだけの話だよ。大したことじゃない。」
董千の何気ない言葉に、ゼロはわずかに深刻そうな顔をした。目を少しだけ細め、僅かに眉を顰め、ルーに一瞬目を向けたのち、囁く。
「……やはり貴様もそう感じたか。」
「も、ってことは。君もそう感じたのかい。」
「……誤差の範囲ではある。しかし……この娘はどうにも底が知れん。」
董千が今度こそ大きく目を見開いた。ゼロの性格からして、彼が他人をほめる―と言っていいのかは微妙なところではあるが―ことなどめったにないと判断していたのだろう。不機嫌そうな顔の裏に隠したルーへの高い評価。世間のことをまるで知らない少女にそれに相応する能力があるというのか。
「……そうだ。あの時も。」
「……いずれにせよ、私には関係のない話だ。」
そう言って、ゼロは再び歩き出した。腰のあたりに少女をまとわりつかせた黒の傭兵が宿の曲がり角に消えてゆくのを、董千は普段の余裕も忘れて、真顔でずっと見つめ続ける。
美しい夕暮れはもう間もなく終わりを告げるころ。夜の闇が、静かに街を包み始める。徐々に暗くなってくる宿の廊下に、立ち尽くす董千のみが燭台に照らされ、浮かび上がっていた。
予告の通り、この次は幕間となります。また、簡単な人物紹介もこの辺に挟もうかと思っています(その場合は第1部分に割り込ませることになると思いますが)。
忙しくなくなったわけではありませんので次の投稿がいつになるかは保証できませんが、更新通知を見て、そういえばこんなの読んでたなぁ、となっていただけると嬉しいです。更新はします。