2.
2021/8/1 細かい修正
2023/10/15 いろいろ修正。小説全体のお話の流れに変化はありませんが、贄の微笑み篇の内容はわりと変わりました。
2024/5/12 数字を漢数字に変更、三点リーダの書き方を修正
第三皇子の妻に選ばれたその娘は、イオニア帝国首都の中央通りで繁盛しているパン屋の一人娘である。気立てがよく、愛想もよく、誰からも好かれる理想的な看板娘であるのだと、パン屋の夫妻が自慢している様子がよく目撃されていた。
そして、そんな彼女には小さいころから好意を向けてくる幼馴染の少年がいた。最初は片想いだったその恋も、長い時をかけ、彼らの成長とともに少しずつ変容してゆき、三か月前に、ついに二人の婚約が結ばれたのだ。そんな、いよいよ幸せになろう……と言った時に、身分ある者―今回は第三皇子―に見初められてしまったという、ありふれた不運だった。
しかし、内容そのものがどれだけありふれていようとも、実際そうした横暴を目の当たりにした人物が黙っていられる道理などない。往々にしてパン屋の娘と近しい仲である彼らが第三皇子に抗議するも、彼はそうした声を黙殺。それどころか、まるで自分は既に皇帝である、と言わんばかりに、己と娘の晴れ姿を城から民衆に見せつける、という。まるで、皇帝と皇后による民衆への謁見と同じように。お前たちではどうしようもないのだと、バカにするように。
それだけでなく、第三皇子は怒れる者を馬鹿にするかのように、己の姿を見せつけるその日のことを、大々的に喧伝しているとまでいう。当然そんなことをすれば、男と娘、その知己の怒りはますます燃え上がる。彼の横暴は彼らの怒りを燃料に、城下にどんどん広がってゆく。
そんなわけで、現在イオニアの城下では、第三皇子への悪感情が最高潮に高まっている状態であるのだという。
「な? ひどい話だろ? 無神経で傲慢で、あんな奴があのお優しい皇帝の息子だなんてなぁ……。」
「……妙な話だ。」
「やっぱりお前さんもそう……ん? 妙だって?」
今まで熱く語っていたマスターは、予想外だったゼロの言葉に首をかしげる。
「……第三皇子からすれば、そのような愚かな行動をとる意味はどこにもない。イオニアの第三皇子は優秀だと聞いていたのだがな。」
知に長ける第一皇子と武に長ける第二皇子。その両方を組み合わせたような天才が第三皇子である、というのは、イオニア周辺の国では有名な話だ。
三人の皇子のうち、上の二人はすでに成人―イオニア帝国では十七歳以上で成人とみなされる―しているが、しかし現皇帝は今もなお皇太子を指名していない。その理由の一つが第三皇子の年にあるとまで言われるほど。きっと次代の皇帝は現第三皇子だろう、皇帝陛下はきっと、彼の成人を待っているのだろう、と言うのは、この国の貴族の共通認識だった。事実として、有能で見目もよく、紳士的な皇子は民からの支持率も高かった。
にもかかわらず、ここにきて突然の横暴。第一皇子夫妻が国全体を巻き込んだ大恋愛の末に結ばれ、国を挙げた祝福がされたという経緯があるがゆえにより一層、第三皇子の品性下劣さが浮かび上がってしまうのだ。
「……この大事な時に民からの支持を失おうものなら失脚は必至。このままでは第三皇子は、下馬評を裏切る形になる……奴に入れ込んでいた貴族を敵に回す行為だ。命の保証すらもなくなる。」
「恋は盲目って言うだろ? お前さんにはわからんだろうがな。」
取り付く島もないマスターの隣、薄明りの中、ゼロの瞳が鈍く光る。
酒場の外では、間もなく日が落ちようとしていた。
~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~
明くる日、ゼロは件のパン屋の前に来ていた。そこには先を見通すことすら困難な大規模な人混みが出来ている。
「……傍迷惑な連中だ。」
当然そんなことになって皇都の交通が無事なわけもなく。大動脈ともいえる主たる通りをふさがれたために立ち往生する者も散見される。
とはいえそれも無理はない。結婚式は二日後。娘のことを知る都の人々が次々とパン屋を訪れ、口々に娘への同情と第三皇子への憤りを口にしている。
その人混みの中心部にいるのが、とび色の髪に暗い青の目をした少女だ。配色がやや地味目ではあるが、なるほど確かに目鼻つきは整っている。イオニア帝国の庶民が一般的に身に着ける服装に上からエプロンを重ね、その胸元に金色の薔薇のブローチを着けている。やや影の見える笑みを浮かべるその様子は、とても結婚を喜んでいるようには見えない。
「第三皇子もひどいことをするもんだね! わたしゃもう悔しくて悔しくて……!」
「そんな、私は……仕方のないことですから……。」
「仕方がないって、あんた! いくら皇族でもやっていいことといけないことがあるってのを、あの若造は分かってないよ! 第一皇子殿下を見習ってもらいたいもんだよ、まったく……!」
「……命令ですから。」
「全く、あんたって子は……。いつものパン、一つ多くおくれよ。せめてもの気持ちさ。」
「……ありがとうございます。」
そこまで話が進んだところで、ゼロは小さく鼻を鳴らして踵を返す。その瞳は変わらず冷徹だった。
程なくしてゼロの姿は、皇都の裏通り、小さな廃屋の傍らに移っていた。先のパン屋に人を吸われているのか、いつもなら人の往来が途切れないのであろう広めにとられた道はやや閑散としている。
広場に出店している屋台から軽食を購入し、物陰にて食事をする彼は張り詰めた空気を常に張り巡らせており、普段なら彼に近づくものなどいないはずだった。
しかし、何事にも例外と言うものは存在し、またその例外はいつ起こるか分からないからこそ例外なのだ。
「お前が傭兵ゼロだな。」
ゼロが顔をあげた先には、黒いひげをきれいにそろえた、厳格そうな顔立ちの、真っ黒な服に身を包んだ長身の男が、ゼロによく似た仏頂面で立っていた。彼を守るように、武器を持った男が七人、ピリピリと緊張感を漂わせながら立っている。
「……私の店に仇は取り揃えていないのだがな。」
店なんぞ持っているはずもないゼロが、手に持った食事の残骸を放り投げ彼らに相対する。腰に下がる剣の柄に彼が手を置くと、あたりに痛いほどの静寂が訪れる。腰が抜けたか、男のうち一人がガタっという大きな音とともにその場に崩れ落ちた。
しかし、どうやらそれはゼロの早とちりであったようだ。先ほどの印象はどこへやら、緊張した面持ちで冷や汗を流す長身の男が、声を震わせる。
「ま、まて。お前と敵対するつもりはない。イオニア皇室の、とある高貴なお方より、お前に言伝を預かっているのだ。」
その言葉に、ゼロは拍子抜けしたような表情を見せる。そっと彼が柄から手を離すと同時に、男たちが一斉に安堵の息を吐く。
「それほどの大所帯で来る必要などなかろうに。この界隈では疑わしい者こそ罰せられるのだぞ。」
「す、すまない。こいつらは私の護衛だ。私がここで死ねば、あの方が困る。」
「ほう……。」
ゼロの不躾な視線が長身の男の全身……より正確にいうなら、まとった外套を舐めまわす。そして何かに得心が言ったように頷くと、彼はぞんざいに、後ろの廃屋に背中を預けた。
「……聞こう。」
ゼロの許可に長身の男は息を一つ吐き、そして懐から両手の大きさほどをした封筒を取り出す。彼がゼロにそれを差し出すと、彼は何の気なしにそれを受け取り、手で重さをはかる。
「ありがとう。だが、私からお前に言えることはほとんどないのだ……詳しいことはすべてそこに書いてある。」
男の説明を聞いているのか聞いていないのか、彼は封を乱雑に破り捨て、その中を探り……一枚の紙だけを選び出した。
果たしてそれは、厚めに作られ、縁と裏面に金で装飾がなされた、頑丈そうな紙である。
「……招待状か。」
「ああ……招待状だ。我が主は、お前がこの催しに出席することを強く望んでおられる。」
「……そうか。悪趣味なことだな。」
今までひたすら委縮していた男たちであったが、彼の言い草はさすがに腹に据えかねたのか、小さく地面を二度、三度蹴り、あくまで冷静を装って言葉を紡ぐ。
「もう一つ、我が主から伝えるよう言付かったことがあるが、必要なさそうだな。」
「いらん。内容は読んだ。全く持って悪趣味だ。おおかた貴様の主とやらは、青い宝を身に着ける古臭いイオニア人だろう。尊き身分とやらは変革を拒むものだ。」
しかし早々に反撃を受け、長身の男の目が大きく見開かれる。その反応だけで十分だった。ゼロは小さく鼻を鳴らし、背後に広がる暗い道へとその姿を消してしまう。
その場にいる誰もが、彼を止められなかった。止めようともしなかった。護衛と呼ばれた男の一人が、圧倒されたように、ポツリとつぶやく。
「傭兵ゼロ……恐ろしい男だ。」