4.
2024/5/12 数字を漢数字に変更、三点リーダの書き方を変更
2024/6/24 若干表現を修正
小さな窓から差し込む針のような日差しに照らされて、一組の男女が向かい合う。しかしそこに甘い空間は一切形成されず、互いの冷淡な視線があたりに吹雪を巻き起こす。誰も何も言わず、舞い踊る埃が雪のように建物の床に降り積もる。
「……やはりあの女は貴様の差し金か。」
にらみ合いの末、まず口を開いたのはゼロ。店主の妻を自称する怪しい女は、董千が差し向けた魔族であろう、と。
返答は沈黙。しかし董千はこれ以上ない満面の笑みでもって、彼の疑問を肯定する。
「……あの女がいなければ、私がここに来ることはなかった。当然だ……だが、あの店主は、違うな。」
「ふふ。むしろあの反応が演技だったとしたら、きっと彼は今頃舞台で名付きの役を担っているさ。魔族にだって職業選択の自由はある。君とは違ってね。」
人を小ばかにしたような声音。しかしその程度の煽りはゼロには通用しない。
「店主を誘導しなかった。これは嘘だな。」
「私は一言も否定していないよ? ただ彼が勝手に勘違いしただけだ。いわれのない罪をかぶせないでもらいたいね。」
「糾弾するつもりはない。私は、貴様が乗るに足る船かどうかを見極めているにすぎん。」
「その必要があるのかい? 私たちは魔族。水と共に生きる者だよ? 水に沈むだなんて、そんな不覚を取るわけがない。」
回りくどい応酬の間も、二人の目は少しも笑っていない。淡々と、冷静に相手の底を見極めようとしている。
「……そもそも。」
竜崎董千がゆっくりと口を開いた。
「君はどうしてここに来たんだい?」
「依頼は達成されねばならん。それ以上でもそれ以下でもない。」
「でも君は、あの子が店主の妻ではないって、気が付いていただろう?」
ゼロの視線が険しくなる。董千がそのことを見越していたのならば、彼女は、自分の計画の一部が露見してもなお、ゼロが誘いに乗るという確信を持っていたということになる。
「……何故そう思う。」
「そう思わせたからさ。君が気づかないはずがないだろう。魔術の論文なんてもの、切羽詰まった人がとっさに盗むような代物じゃないってね。」
魔術の論文なんぞ盗んでも、生活に困った人にとっては大した金にならない。そんなものを盗むくらいなら、食べ物などのもっと明確に使い道があるもののほうが、はるかに生活の役に立つ。あるいは宝石のような、分かりやすく価値のありそうなものも選ばれるかもしれないが、それにしたって本はない。価値あるものではあるのだが、如何せん地味だ。
「金がある人は買えばいいし、金がない人はそんなもの盗まない。金があっても盗みたい人はそもそも騒ぎを起こさないようにするだろう。つまり君はこう考えたはずだ……この窃盗は、騒ぎを起こすことそのものが目的であった、とね。そしてその直後に現れた、店主の妻を自称する女は、まるで初めから君に依頼する前提でいたかのように、君にぴったりの額を渡してきた。そこまでお膳立てされた状況、疑わざるを得ないはずさ。」
そして彼女は顎をわずかに上げ、尊大に笑った。わずかに上げられた顎が見ていて腹立たしい表情を演出している。
「君はあの子が妻なんかじゃない可能性を考えていただけじゃない。ほかならぬ君が、何者かによって誘い込まれている可能性を、その時点から考えはじめていたんじゃないかな?」
概ね見抜いていたとはいえ、結局したことは誘いに乗ることだけだったゼロと、初めから彼だけに焦点を絞って計画を練った竜崎董千。事前準備の差がそのまま結果につながり、最早董千の独壇場となっている。とはいえ、ゼロも何も考えずに誘いに乗ったわけではないのだが。
「そうなると次はこう考えたはずだ。もし今回の手引きをした誰かが君を狙っていたとして。誘われていることが簡単にわかるような方法をとった以上、その誰かの手招きに応じてやるのもやぶさかではない、とね。状況を鑑みるに君に害意があるとは考えにくいし、もし害意があったとしても、君ほどの人間がそんなお粗末な計画しかたてられない杜撰な相手に、まさか後れを取ることもないだろう?」
いつの間にかゼロの近くに歩み寄って来ていた董千が、低い場所から長身のゼロを不敵に見上げる。
「つまり君からしたら、今回の話は乗って得しかない話だった、というわけだ。」
しばし彼女を見下ろしていたゼロだが、ため息をついて刃物のような警戒心をおさめた。
「……あるいは竜崎との繋がりもできるかもしれん、ということだな……どうやら、貴様のことを甘く見ていたようだ。」
「はは、別に私がすごいわけじゃないよ。君と私はよく似ている。それだけのことさ。」
それは遠回しな敗北宣言、勝利宣言だった。しかしそれすらも、彼らにとっては始まりですらない。この場においては勝利と敗北に意味などない。まだ、何も話は進んでいないのだから。
ゆえに彼らの話し合いは続く。
「ならば聞くが、あの書物は『誅世の書』と呼ばれる危険な代物であったのだろう。」
「いいや? 違うよ。」
ただし、その話し合いは初めからつまずくこととなるのだが。
「……何だと。」
「あれは私が個人的に欲しかっただけのちょっと高そうな本だよ。国一つ滅ぶような代物が、そこら辺の、相応に真っ当な商売している店に置いてあるわけないじゃないか。」
ここにきて衝撃的な曝露。つまり先ほどの董千の話は全て嘘っぱち。
「では、『誅世の書』は。」
「それはある。間違いなくね。ただ少なくともここにはない。」
というわけにもならない。
「……つまり、貴様はあの店主をここから追い出すために、嘘をついたと。」
淡々と述べるゼロに、董千は言い訳をする子供のように。
「嘘も方便というだろう? 優しい嘘というものさ。」
「優しさなど感じられんな。意味こそあれども。」
「どちらでも構わないさ。大差はない。大切なのは、彼に真実を知られないこと。」
秘することを目的とした狂言。そこまでして、回りくどいことをした理由はいったいどこにあるのか。注意深く動向を探るゼロに、董千は新たな情報を提供する。
「『誅世の書』を創ったのはあの悪名高い竜崎 呉羽だ。あれを甘く見るわけにはいかないし、無用な混乱も義憤も必要ない。彼女とその信奉者を警戒するがあまりに、歴代の竜崎は誰一人としてこれに手を出せなかったくらいだ。そんなものは障害にしかならない。」
それは、人々が当たり前に持つ感情を否定する言葉。それと同時に、彼女の本気度合いを示す言葉でもある。その漆黒の瞳は、とてつもなく重大な責任と、固い決意に燃えている。
「彼女がどうして『誅世の書』なんていうものを作ったのかは分からない。ただ……少なくとも、放っておいたら、国が滅ぶ程度じゃすまない。つまりあの書は、この世界に残った最後の毒なのさ。」
不敵に笑う董千と、いよいよ険しい表情を隠さないゼロ。彼らの交渉が、今ようやく始まった。