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2024/5/12 数字を漢数字に変更、三点リーダの書き方を変更
昼なお暗いイアラの路地裏を、真っ黒に染まったはためく塊が、旋風のように駆け抜ける。商売に失敗した者、辛うじて逃げ延びてきた者……路地裏で隠れ住むことを余儀なくされた人々を、まるきり無視しながら。
先に、本屋の店主の妻から依頼を受けたゼロであったが、話をしているうちに彼も万引き犯もとうにどこかに消えてしまっている。単純に追うことは最早不可能な状態だ。かといって、魔術使用の痕跡を察知する、などと言う、都合の良い術はこの世界には存在しない。ゼロの優位点は一つ、追いかけっこをしている二人より、彼の本気の移動速度のほうが速いことだけである。
ではどうするのか。答えは簡単かつ単純だ。目撃者に聞けばよいのである。魔術で物理法則を半ば無視して動き回る逃亡者と、力だけで追いかける追跡者。これほど目立つ二人組もそうそういない。案の定、彼らを見た、と証言するイアラの民は数多くいた。
始めに彼らが逃げた方向に走り、大通りに出て、小道に入りなおし、一つ、二つ、三つの通りを横切って。屋根を飛び回り、道の中央を爆走し、街の北、居住区に駆け込んで。人々の安らぎの場所となっている小さな広場で最後の聞き込みをしたゼロは、逃げた彼らの現在地に大体のあたりをつけ、入り組んだ通りを縦横無尽に走り回っているのである。
彼が進むごとに、小奇麗だった街並みにはほころびが目立ってくる。今にも崩れそうな建物の裏からは孤児たちが顔をのぞかせ、招かれざる客に警戒の眼差しを向けている。家屋だった場所の上では、生きているのか死んでいるのかもわからない、尋常でない風に血走った目の男が、仰向けに寝転がり空を見上げている。
そして、荒れ果てた地区の奥の奥、埃と塵をかぶった小さな教会らしきものの前。そこにゼロの探し人は立っていた。固く閉じられた建物の扉の前で、イライラと右へ左へうろついている。時折扉に手をかけているところを見るに、扉が開かないのだろうか。ゼロが彼に近づく。
「……ようやく見つけたぞ。」
「……ああ? あんた、傭兵ゼロか。」
彼はゼロのことを知っているようで、しかし特に嫌悪を浮かべることもなくそういった。
「……依頼を受けてここに来た。貴様の保護が目的ではあるが……。」
「必要ねえよ。あのコソ泥、こんなところまで逃げやがって。しかも立てこもりやがった。」
「……開かんのか。」
「ああ、開かないね。多分魔術だ。とびきり強力な。」
「……諦めて帰ればよかろうに。たかが本一冊。」
ゼロのやや不用意な言葉に、店主は目をむいて怒った……りはしなかった。ただ、むしろゼロに真剣な目を向けてくる。
「俺だって、そもそもこんな場所まで追ってくるつもりはなかったんだよ。たかが本一冊だ。追いかけてる間にほかの奴に別のを売りつけたほうが何倍も金になる。こうしているうちは店番もできねえしな。」
そこまで言って、彼は今なお開かない扉に目を向ける。
「だがな……おかしいんだ。あいつ、俺が追い付けるか追いつけないかのぎりぎりの速度で逃げ続けてた。まるでついてきてほしいみたいにな。仮にも元軍人だ、身体能力には自信があったんだが、全く翻弄されて、それでいて相手からは害意を感じない。……あんたなら、何か分かるんじゃねえか? 歴戦の傭兵。」
「……。」
そう言ってゼロを見つめる男に、頭一つ分高い場所から無感情な視線を向けるゼロ。ここまでの激しい運動でよれてしまった男の服に目を向けて、彼はおもむろに口を開く。
「……貴様に妻はいるか。」
それは、核心を突く一言。今回の不自然を大体解決する言葉。その質問に、店主の男は吐き捨てるようにこう言った。
「いる……いや、いたよ。あいつならもういねえ。三年前に店の金持って出て行った挙句強盗にやられて殺された。クソみてえな女だったが、死に際だけは気の毒だったと思うよ。」
その言葉と同時に、空間が揺れる。身構える両者の前で、今までびくともしなかった建物の扉が、埃を振り落としながらゆっくりと開いてゆく。
煙たい視界の奥に、人影が一つ。教会の建物の中から、ゆっくりと、一歩、一歩と、貫禄と共に歩み出てくる誰か。その者の髪は……つややかで豊かな、黒い髪だった。
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「やあやあ、君たちの事情は大体知っているよ。こんなところにまでよく来たね?」
全霊で警戒しながらもゆっくり建物に踏み込んだ二人を出迎えたのは、袖の長い、着物のような服を着て、中性的な顔と中性的な声で中性的な話し方をする人影。僅かな胸の主張ばかりが、その者が女である、と語っていた。開口一番胡散臭いことを言い出したその女。その髪色は深く美しい黒。たたずまいはこの上なく上品。
普通の人と形容するにはあまりにも異質な雰囲気を醸し出す彼女。店主の口から、言葉が自然に滑り出す。
「テメェ……『竜崎の巫女』か?」
「ご名答。そういう君は……ああ、あそこの店の。いやはや、うちの部下が失礼をしたね。こちらのほうも立て込んでてね、強引な手段をとらざるを得なかったんだ。」
全く悪びれずにいけしゃあしゃあと宣う『竜崎の巫女』。やや大ぶりな手振りで、形ばかりの謝罪がなされる。
「部下、ってことは……やっぱりあのコソ泥は魔族だったってことか。テメェ何のつもりだ? 何の変哲もない本盗みやがって。金欠か?」
「コソ泥だなんて。いや、やってることはその通りなのかもしれないけれどね? 仕方ないじゃないか。君の所にあるってことを知ったのが、本当にぎりぎりだったんだ。」
「ぎりぎり……?」
女の意味深な言葉に、店主の剣幕が止まる。彼と、沈黙を保っているゼロに少しずつ視線を向けた彼女は、小さく息を吐いて居住まいを整えた。
「落ち着いてくれたようで何よりだよ。では改めて……。」
そう言って彼女は自分の胸に右手を当てる。わずかに顎を引き、にこやかな、少し胡散臭い笑みを浮かべる。
「私の名前は竜崎 董千。第二百七十一代竜崎の巫女だ。因縁と宿命の導きに従い、『誅世の書』を探しに東の大地を訪れた。君たちと出会えたことを、嬉しく思うよ。」
穏やかな名乗りに白けた視線を向ける男二人。竜崎董千はわずかに肩をすくめ、白々しく話を続ける。
「おや、お好みでなかったかな? 一晩かけて考えた名乗りだったんだけどね?」
「……貴様を知らん人間などそうおるまいよ。」
「その通りだ。それよりも、ぎりぎりってなんだよ。あと『誅世の書』ってなんだ。テメェの事情で話されたってこちとら理解できねえよ、そんなことも分からねえのか。」
「おお、こわいこわい。」
そう言いながらも、人相の悪い店主の詰問にも全く怯えた様子を見せない董千。店主の額に青筋が走る。董千は子供をなだめるように語り掛けてきた。
「そんなに怒らないでくれたまえよ。これは君たちのためでもあるんだよ? 私が介入しなかったら、もしかしたらイアラは消えていたかもしれないんだからね。」
「……どういうことだよ。」
「言葉通りの意味さ。今回回収したこの……。」
そう言って、彼女は虚空に手をかざす。その手のひらから美しい幾何学模様が浮かび上がり、弱い閃光と共に一冊の本が現れる。董千はそれを片手で受け取り、二人に見せつけるようにひらひらと動かした。
「『誅世の書』。千年前の竜崎が、世界を呪って創り上げたとされる災厄の書。持っているだけで周囲の魔力を際限なく吸収し、臨界に達したとたんに国一つが吹っ飛ぶような爆発を起こすっていう恐ろしい代物だ。」
「ば、爆発だと……!?」
その言葉は流石に響いたようで。ゼロと店主は二人そろって、董千が掲げる書物に警戒の視線を向ける。それと同時に、そんな危険物を平気な顔をして扱う彼女に、店主は驚愕の、ゼロは非難の視線を向けた。
「ははは、安心したまえ。今は私が内部術式を制御しているからね、私が持っている限り、爆発することはないよ。ただまあ、無駄に君たちを疲弊させる理由もないかな。」
そう言って、董千は再びの閃光と共に書物を消した。ゼロと店主の構えが解ける。
深く長く、安堵のため息を吐いた店主が、疲れた声で言う。
「つまり……あれか。あんたの目的はその本を回収することだったと。」
「そうだよ? それだけさ。イアラもドーラも、どうにかするつもりはない。安心したまえ。」
「じゃあ、あいつが俺を振り切らなかったのは何だったんだ。」
「そんなこと言われてもね。態々ついてきた君が悪いんだろう? 遠くに来すぎたところで、おとなしく店に帰ればよかったんだ。」
「じゃあどうして、なんかありそうな逃げ方をしたんだ、あいつは?」
どうにもかみ合わない会話に、董千は首をかしげる。
「何を言っているんだい? 何もなかったじゃないか。あ、いや……そうだね。そうか。都合はよいかもしれない。」
主語の抜けたその発言に、店主が再度警戒の視線を董千に向ける。ゼロは半歩店主から離れ、静観の姿勢だ。滑るように歩んできた董千は、彼らの視線に若干居心地悪そうにしながらも、店主に巾着袋を差し出した。
「ほら。今回のお代だよ。」
「……? 何のだ。」
「決まってるじゃないか。君の売り物の代金だ。こんなところまで来させてしまったからね、迷惑料も入ってる。本当は後で部下にこっそり置きに行かせる予定だったんだけど、態々二度手間をとる必要もないだろう?」
店主の表情は、今度こそ完全に拍子抜けしていた。二人の会話は完全にかみ合っておらず、店主が感じた違和感も気のせいだった、と言われたに等しいのだから当然である。微妙に気の抜けた雰囲気の中で、店主が巾着袋を開けて中を覗き込む。
「……こんなにか? 迷惑料多くねえか。」
「爆発するかもしれなかった、だなんて言いふらされたら無用な混乱を招くだろう? だから、口止め料も入ってるよ。」
私は優しい魔族だからね、とおちゃらけた彼女に、完全に毒気を抜かれた店主は袋を懐にしまい、肩を落とした。
「……終わりか?」
「終わりだ。残念なことにね。」
「……はあ。じゃあ、俺は帰る。」
「ああ。迷惑かけてすまなかったね。くれぐれも、言いふらさないでおくれよ?」
釘をさす董千に生返事を返し、開いたまま放置されていた扉をくぐって店主は建物を去って行った。何冊盗まれただろうか、荒らされてたら容赦しない、などと、ぶつぶつと言いながら。しばしの静寂の後に聞こえた地鳴りから推察するに、おそらく彼は走って店へ戻ったのだろう。
「……。」
目標であった男が無事一人で帰っていった以上、ゼロにとって最早ここにいる理由はない。あまりにもくだらない真相にあきれ果てたのか、ゼロは佇む董千に目もくれず、教会の出口に向けて歩いて行った。
「まちたまえ、傭兵ゼロ。君との話は……まだ終わっていない。」
その言葉と共に、建物の扉が突然閉じ、その表面に水の色をした幻想的な結界が浮かび上がる。突風と共に埃が舞い、窓から差し込むわずかな日差しのほか、部屋を照らすものはなくなった。
「むしろここからが本番だ。私が本当に会いたかったのは、傭兵ゼロ。君なんだからね。」
半身振り返ったゼロの視線と、彼にゆっくり歩み寄る董千の視線が交差する。ゼロの姿が映りこんだ綺麗な漆黒の瞳は、今までの親しみやすさが嘘のように、澄み切り、怜悧なものに変わっていた。