6 尖塔
白壁には近寄らなければどうということはない。
庭園には木立もあるので、夜陰に紛れることはそう難しくなかった。そもそもここは茅乃が過ごしていた街よりもさらに明かりが少なく、暗さの方が勝つのだ。あとは黒色のワンピースが良い仕事をした。
後宮を仕切る白壁の端に行きつく。ここだけはどうしても白色の壁の前に黒のワンピースをさらすことになる。慎重に誰もいないかを確認してから、壁に指をかける。ロッククライミングをやってみたことはないが、垂直の壁にもかかわらず茅乃の体はスイスイと上へ登っていくことができた。この世界は不思議ばかりだな、と茅乃は思う。
好都合だけど、と城壁の上に立つ。
みつからないように、すぐにしゃがみ込みながら周囲を見回す。
壁を登る前に観察したところ、どうやら定期的に城壁の上を兵士が巡回している。秒を数えてみるとだいたい五分ごとに巡回がやって来る。先ほど回ってきてから城壁を登っているので、次が来る前に目的の場所に着かなければならない。
城壁の上を慎重に走りながら、茅乃はその目的の場所を見上げた。
離宮から見えた、尖塔を。
幾人かの巡回の兵士をやり過ごしながら、茅乃は尖塔の下に着いた。
「・・・・・・」
ここが気になったのは、あまりにもほかとは警備がちがうような気がしたからだ。
離宮の周辺、後宮という場所であっても、茅乃はやろうと思えば散策することができた。まさかロザンナたちが、神子がそういう行動に出るとは考えていなかった、という裏をかいたものだったのだとしても、事実警備が緩いような気がしたのだ。
それなのに、ここだけは巡回の兵士が見回っている。おまけに五分ごとなんて、なかなか厳重な気がしたのだ。それに、塔について訊いたときのロザンナの反応も気になっている点だった。
ダメだと言われると、見たくなるらしいよね、人間って。
そんなことを考えながら塔の様子をつぶさに観察する。
城壁から続く壁の部分には木戸が付いている。小さなドアノブをそっと回すとガチンと固い反応が返ってきた。錠が掛けられているらしい。当然か、と小さく息を吐く。おそらく塔の内部は螺旋階段でもあるのだろう。
中に入るのは無理だろうと、ドアノブから手を離して上部を見上げる。
塔の最上部にはガラスもなにも入っていない小さな枠だけの窓があって、そこからは頼りない明かりが漏れている。ときおり揺れているところを見ると、光源は蝋燭が使われているのだろうか。
ここは最大限の慎重さで行かないと、と城壁の上から辺りを見回し、ふたたび茅乃は壁に指をかけた。
ここでもたいして自分の体重を感じることもなく、スルスルと登っていくことができる。どうなってるんだろうな、また今度機会があったらレンさんに訊いてみよう、と考えているうちに窓枠に手が届いた。
「・・・・・」
石造りの出っ張りに指を掛けながら、内部からなにか物音がしないか様子を窺う。もちろん窓枠にぶら下がったままなので、あまり見つからないうちにどうにかしたい。
しばらくなんの音もしないのを確認して、よいしょ、と窓枠の中に手をかける。
形だけは窓の様相を呈しているその角から目だけをのぞかせて、チラリと中を見る。
中は石造りの、尖塔の上部だけあって狭い室内になっているようだった。
灯された蝋燭が壁際に置かれていて、その明かりのみなのですこし薄暗い。塔の内部から続く扉が空間を挟んで目の前にあって、右手には天井から床までの、嵌め殺しの鉄柵がある。
牢屋・・・・?
思ってもみなかった場所だった。そしてさらには鉄柵の向こうに人がいた。
思いっきり目が合って、反射的に茅乃は身を引く。
バレた!
汗が噴き出るほど動揺したが、しばらく待ってみても中の人が騒ぐ様子がない。
「・・・・・?」
静かなままの内部を訝しく思う。しばらく緊張状態のまま動けなかったが、その静かな空間に低い声が響いた。
「神子か・・・・?」
どこかで聞いたことがあるような気がした。
おそるおそる窓枠をつかんでもういちど中を見てみる。
「あ、あなたは・・・・・!」
鉄柵の向こうからこちらを見ているのは、あの神域で倒れていた銀髪の男だった。
とっさに窓枠に足をかけて越え、鉄柵の前にまで駆け寄る。
「あの、怪我は大丈夫ですか? あなたは・・・・・」
そこまで言って、茅乃は目の前にいる人の名前を知らないことに気が付いた。
「あの・・・・」
知らない人に名前を訊くのは自分が名乗ってからだ。そう教えられた茅乃は自己紹介をしようとして、舌がもつれた。
「わたしは・・・・」
声が震えた。
日本にいた頃の、学生の生活のままであればできていたことだろう。自己紹介をして相手に名前を訊く、たったそれだけのことが今は難しかった。ここに来てからの日々が茅乃の心を萎ませていた。だけど、と茅乃は顔を上げる。
けれども、そんな日々のことはこの人にはけっして関係ないことだ。
指先さえ震える全身に力を入れなおして、茅乃は鉄柵越しの、こちらを見てくる銀色の瞳を見つめた。
「わたしは茅乃といいます。神子ではなく茅乃と呼んでください。それから、あなたのお名前を教えてもらえませんか」
杓子定規な文言であった。遊びも余裕もなく、それだけ言うのが今の茅乃の精いっぱいだった。
目の前の銀色の持ち主は二度ほど瞬きをした後、頷いた。
「わかった、カヤノ。オレの名前はキアヒムだ。神域では逃げろと言ったはずだが、どうしてカヤノはこんなところにいる?」
打てば響くような応えだった。なんの気負いもない様子で名を呼ばれ、返された。それを理解したときが茅乃の限界だった。
一気に視界が滲む。堪えようもなかったものが頬を滑り石床の上を音を立てて落ちる。
「な・・・・っ」
低くも上擦ったような声が聞こえた。狼狽に満ちたその声音に、ああ、迷惑をかけてしまったと思ったが茅乃自身止めようもなかった。
目を閉じても袖で拭っても止まらない涙に、自分がどれだけ飢えていたのかを思い知る。
ただの女子高生でしかないのだ。
いきなり知らない場所にいたのはどうしてだとか、考えてもわからないことはどうしようもない。けれどもその場所に誰か人がいて、そのうえで捕まり怪我を負わせられ、見向きもされず、成立しない会話と、いてもいなくても同じような人たちに囲まれ、なにひとつ知ることも教えられる事柄もないままで。
あまりにも茅乃が知る普通とかけ離れていた。
レンという人にいくつか教えられ、川のほとりでグズグズと泣いたところでなんの解消もならない。知らない場所、知らない国で常識がちがうのかもしれないといって過ごす日々はただの苦痛でしかなかった。
そんな中で、これほどまでに普通に返ってくるものがあるとは茅乃自身思ってもなかったのだ。
ギュウと目をつぶって溜まった水分を散らす。大きく深呼吸をして、冴えた視界で目の前のキアヒムを見る。
どこか狼狽したままの表情と、そしてその瞳はこちらを気遣うように細かく揺れている。
「ごめんなさい」
発した声は小さく、震えていた。
人と話すときの声じゃない、茅乃はもう一度深呼吸をして口を開いた。
「あのとき、逃げろって言ってくれたけど、うまく逃げられなくて捕まりました。そのままこのレオトール国に連れてこられて、後宮に軟禁されています」
今度はちゃんと話すことができた。自律を取り戻した茅乃の様子を見たからか、キアヒムの表情から狼狽えていた気配が消える。
「後宮に、軟禁?」
「はい。今は抜けだしてここにいます」
「抜け出して・・・・・?」
「後宮の警備、けっこう緩いみたいで」
「・・・・そんな馬鹿な」
「あ、ここだけは厳重でした。だから登ってみたんです」
「登った?」
続く茅乃の言葉が予想外だったのか、キアヒムは言葉をつぐんでしまう。ということはつまり、本来の警備というものはもうすこししっかりしたものだという認識がこの世界にもあるんだな、と茅乃は思う。まあその警備が緩かったおかげで、後宮散策もはかどりこの塔にまで来られたのだから、茅乃としては言うこともない。
落ち着いた思考になってから改めて鉄柵の向こうを見てみる。
キアヒム本人は破れたシャツとズボンといった格好で、ところどころ裂けて黒ずんだ服はあの神域で着ていたものと同じもののように思う。柵の向こうにはイスどころか寝台すらなく、石造りの床の上には薄っぺらな布がくしゃくしゃになって丸まっている。さらには床の端の方には小さいとも大きいとも言えない中途半端なサイズ感の、壷のような陶器に蓋がされてある。もしかしてあれはトイレ替わりなのだろうか、と戦慄を覚える。
あまり良くない環境だ、ということは認識できた。
考え込むようにキアヒムが黙り込んでいるので、その隙に茅乃は気になっていたことを訊いてみることにした。
「あの、キアヒム君」
「・・・・・くん?」
「ええっと、わたしの国の、呼称のひとつなんですが」
「へえ」
「同年代の男子を呼ぶときに使うんだけど、・・・・あれ、キアヒム君は何歳ですか?」
「十七だが」
えっ、と茅乃はつぶやいてキアヒムを見返した。落ち着いて見えたので年上かと思っていたが、キアヒムの歳は茅乃と同じだった。
「あ、じゃあ、やっぱりキアヒム君で合ってる! 同じ年ですね」
クラスメイトの男子にも使うのだ、やはり呼称の使い方は合っている、と茅乃が言うとキアヒムは馴染まないのか微妙な顔をしていた。それを気にせずに茅乃は続ける。
「キアヒム君、さっきも聞こうと思ったんですけど、怪我は大丈夫だった・・・・って、今こうして話ができてるってことは治ったってことで合ってます?」
かなりな大怪我だったと思う。さらにはその上から切りつけられたのを見ている。意識のないまま運ばれていった様子から比べてみればだいぶ回復をしているようには思うが、怪我や治療といったことに関しては知識がない。聞くのがいちばん確実だろうと茅乃は思った。
茅乃の質問にキアヒムは軽く頷いた。
「ひと月近くも経てばな。それに、神域のときは助かった。こういう場所でなければ褒美を取らせよう、と言うところなんだが」
褒美を取らせるなんて、重々しい冗談だなぁ、と思いながらキアヒムを見る。当の本人は言うことは言ったとばかりに茅乃の反応を気にするでもない。その態度に、茅乃はえっ、と声を上げる。
「もしかして、今のは冗談じゃなく本気で言って、ます・・・・?」
「そうだが?」
それが? と言わんばかりにすこし首を傾けるキアヒムに、茅乃はまじまじと視点を定めてつぶやいた。
「キアヒム君、友達いますか」
「・・・・はぁっ?」
「わたしが神域で役に立ったんならそれで良かったし、怪我が治ったんならもうそれで十分です」
茅乃の感想としてはそれまでの話で、治ったのならそれで終わりになることだ。けれども終わりにするにはあまりにも聞き慣れない言葉だと思ったのだ。
「でも、そこで返ってくるのが褒美を取らせるっていうのは、同じ年同士の会話にしては重いと思うなぁ」
「お、重い・・・・?」
「まあ、いいか。それよりキアヒム君、わたしいろいろ教えてほしいことがあって」
この世界のことはまだまだわからないことだらけなのだ。この人に教えてもらおう、と思ったのだが、そのときキアヒムの目が途端に鋭く眇められた。そのまま唯一の木戸へと向けられる。
「見張りが上がってくる」
「え」
「食事の時間か」
木戸の向こうにはやはり階段があるのか、硬い音が反響しているのが茅乃の耳にも聞こえた。
看守が来る、と理解して茅乃は腰を浮かせる。
逃げないと。
こんなところで見つかるわけにはいかない。
サッと窓枠から外の様子を見る。巡回する兵士の姿は見当たらない。大丈夫そうだ、と枠をまたぐ。
「キアヒム君、また来ますね」
「いや、来るな。ここは危ない」
「いえ、来ます」
それだけ言って茅乃は窓枠を越え、壁に張り付くようにして降りた。
来た道を戻る。静かに進むが、そのどこにおいても人が多かったり、騒いでいる様子はない。
自分が抜け出したことは気付かれていないようだ、ということに安堵し、それでも焦らないように気を付けながら離宮へと戻る。
そっと離宮の窓を開け、靴の汚れを落とし中へと入る。戸締りをし、ベッドに潜り込む。
「・・・・・・」
静かなままの、離宮だった。いつもとなんら変わりない空気。あまりにも変わりなくて少し自分の記憶は大丈夫かなと思ってしまうが、確かに自分は少し前までここから抜け出し、人と会話をすることができていた。
ふと、思い出してベッドの下を覗き込む。シーツに包まれたままの卵を取り出し、ベッドの上に置く。
被せたシーツを剥いで卵の様子を見てみる。相変わらずなんの変化もない。罅も入っていない。その殻の表面に、初めて茅乃はそっと手のひらで触れた。
温かかった。
「生きてるの」
さんざん放置していた卵が生き物であると、自覚した瞬間だった。
卵を抱えたまま、ベッドの上に倒れる。
そういえば、今夜はちゃんと息ができているな、と、夢と現実の狭間をさまよいながらそんなことを考えた。




