53 休日 1
朝がきた。
待望の、湯を張った浴槽に使って風呂を堪能したので、とてもよく眠れたと茅乃は思う。
昨日は早起きをしたから眠気が訪れるのが早かった、という点もあるだろうが、スッキリとして気持ちのいい目覚めである。
寝台の中で横になったまま大きく伸びをし、肌触りのいいシーツに頬ずりをしていたい気持ちを抑えて起きることにする。
・・・・いまは、何時くらいかな。
と、ついつい確認しようとしてしまうが、アズイルに滞在してみてわかったことのひとつとして、時刻に関してはみんなそれほど気にしていない、ということがある。
というよりも、時計の普及が広まっていない。各家庭の、さらに各部屋に置かれている、という代物ではないらしい。なので目安として鐘が鳴り、だれもがその音を聞いて生活しているのだ。
ただ、寝入っているといつの鐘が鳴ったあとなのかわからない場合があるので、参考までにと茅乃は窓を開けて外を眺めた。
大きく開けた窓から入る風は涼しいよりもどこか冷やりとして、見上げてみればまだ太陽の位置は低い。朝のうちだ、と判断しつつ次は視線を下に向ける。
視界に入るのは王城の一階部分、外に面した回廊の景色だが、そこを歩くひとの数はまばらで少ない。
・・・・就業の鐘が鳴る前だな。
鐘が鳴ったあとは人出が増える。出勤ラッシュのような現象はどこにでもあるんだな、と茅乃は認識している。
空気の入れ替えを、と茅乃は窓を開けたままにし、サイドテーブルの上の花瓶を陽のあたる位置にずらしておく。よくよく見れば緑色の萼のはしには白い色が見えている。すこしずつ綻んでいる様子を捉えて、咲いたときの期待が膨らむ。
きれいに咲きますように、と願掛けをし、立てかけておいた釣竿を手に取った。
朝の習慣にしよう、と決めている調整を行うことにする。
寝台の横で正座をし、つまんだ針を落とす。今日も今日とて針はなににも当たらず、上げて見てもなにかが掛かっているわけでもないが、
「よし」
いい朝です、と独り言をつぶやいて釣竿をしまう。
次いで、部屋に新たに造った浴室の扉を開ける。
昨夜入ったまま、放置状態になっている浴槽を見つめた。栓を抜くことさえ忘れて寝てしまった、茅乃がひとりだけ入った風呂水は一見、きれいなように見える。入浴剤など使用していない透明なままなので、なおさらそう思えた。
もったいないんだよねぇ。
残り湯の再利用として、なにが最適だろうか。
しばらく考えて、ふと茅乃は思いつき、浴室の窓も開けて外に向かって声をかけてみる。
「ヤキトリー」
鳥は水浴びをするのだろうか。
大きくも小さくもない声はさすがに響き渡る、というほどではないので、窓の外の様子に変化は起きなかった。
「ヤキトリー」
先ほどよりかは大きめの声で繰り返してみたが、やはり景色に変化はない。
まあ、いつもどこにいるかわからない鳥だしね。
近場にいなければ聞こえないだろうし、そもそも茅乃の呼び声に反応するかどうかもわからないのだ。
無理な話だったよね、と思いつつ窓を閉めようとしたとき、遠くのほうから最大肺活量で吹き鳴らしたホイッスルのような音が聞こえた。
ヒイィー、ヒィー、とやたらけたたましく聞こえるほうに目を向けてみれば、屋根よりも高い上空のほうから滑空してきている黒い点があった。見たことのある光景に茅乃はポカンと口を開けてしまう。
・・・・ホントに来るなんて。
ものは試しでやってみた行動に反応があるとは思わなかったのだ。
見ているあいだにその点はあっという間に茅乃の部屋に到達した。
上空から降り立った鳥、ヤキトリは大きく広げていた羽をサッとたたみ、チョンチョンと窓枠を横跳びに移動しながら茅乃を見上げてくる。その、呼んだ? 呼んだ? と言わんばかりの仕草に茅乃は無意識で若干のけ反りながら浴槽を指さす。
「ヤキトリは、水浴びするの?」
すると、ヤキトリは丸い眼で茅乃を見上げてきた。直視したまま動かない。
「ええ・・・・? なんなの、使わないの? だったら水抜くけど」
と言いながら浴槽の栓を抜こうと動くと、ヤキトリも同時に動いた。
浴槽の縁に手をかけた茅乃を横切って、バシャンと勢いよく飛び込む。近い場所にいた茅乃は頭からその弊害を受けた。
「ちょっと・・・・」
髪先から滴る水滴を見ながら、昨夜サウナ風呂から拝借したタオルを探す。
体の半分にかかった水を見付けたタオルで拭きながら浴槽を見れば、大きな水溜まりで水浴びをする鳥の姿がそこにあった。
「もうちょっと静かに入ってくれない?」
文句を言いながら見下ろせば、先ほどまで透明だった水は若干濁り、底のほうには点々と砂粒が沈んでいる。思ったよりもこの鳥には汚れが付いていたようだ。
あとで掃除しなきゃ。道具は、マーサさんに言ったら貸してもらえるかな。
スポンジのようなものがあればそれと、バケツを借りたい。そこまで考えて、茅乃は銭湯の設備にも掃除道具がいることに気が付いた。
銭湯のほうも、プレオープンのときにマーサさんに相談してみよう。
そう考えて、水浴びを堪能しているヤキトリを眺めた。バシャバシャと豪快に水を使っている。まあそのうち満足したらまたどこかに行くでしょ、と浴室から出てサウナ部屋にタオルを返却しに行くことにする。
サウナ部屋の扉をノックし、返事がないことを確認して扉を開ける。だれもいない。キアヒムが使用中ではないことを見て取って、布製のカゴに使ったタオルを返しておく。
・・・・よくよく考えなくても、とてもありがたい話である。ここには常に清潔なタオル類が用意され、使ったものはカゴに入れておけばまた洗濯されている。
茅乃が借りている部屋の、チェストの中身も着替えが常に用意されている。いつもの食事であっても、茅乃自身が買い物に行かなくても料理をしなくても出来上がって、食べ終わった食器は下げてもらえる。
マーサとの会話で、王城内の仕事と役割の分担がある、ということは理解した。以前はじぶんの生活をじぶんの手で行っていた茅乃であったが、ここでは王城という施設の、世話をしてくれるひとがいる環境に組み込まれたのだ。
世話をしてくれるひとがいる、ということは時間を作ってもらっている、ということだ。
レンは滞在費の代わりに国に貢献する、という言葉を使っていた。
部屋に戻り、立て掛けた釣竿を見る。これは調整に使うだけのものではない。あの細い釣竿一本で事実、内装を造り変え、銭湯を造り、この部屋の中に浴室が造ることができた、けれど。
・・・・たぶん、ほかにもできることがある。
風呂造りだけがこの釣竿の機能ではないだろう。夢の中のような東屋での会話を思い出す。あの絶世の美女はいろいろ使ってみろ、というようなことを言っていた。そして現にレンはステンドグラスを修復してみせた。茅乃のこれまでの使いみちが風呂造りに特化したというだけであって、ほかをやっていなかった、というだけではないだろうか。
・・・・検証してみなくちゃ。
実験だ、と思うとどこか心が浮ついた。
頭の中の、こうではないだろうかと考えた可能性の有無を、釣竿を使って検証してみる。そう考えてみると、これは休日の予定としてはとても楽しいのではないかと思えた。
でも、勝手に造り変えるといけない場合もあるかもしれないから、許可だけはもらっておこう。
そう考えたとき、開け放していた扉からマーサが入ってきた。
「あら、カーヤ様、おはようございます。今日もお早いですね」
「おはようございます、マーサさん」
朝の食事を運んできてくれたマーサを前に、茅乃は机の上の本をまとめて端に移動させる。そういえばこの本も返却をしなければ、と茅乃は食事の用意をしているマーサに訊いてみる。
「マーサさん、図書館は休日も開いてるんですか?」
手際よく動いているマーサから頷きが返ってくる。
「はい、開いておりますよ。休日に行くものも多いですから、あそこは常に開いております」
「そうですか、ありがとうございます」
図書館から借りた本は返して、また新しい本を借りてもいいかもしれない。
マーサに促されて食事を開始し、その傍らで食後の茶の用意が進む。茶葉を量っているマーサが喜色を含んだ声を発した。
「そういえば、昨夜は厨房で新しいお料理を作られたと聞いたのですが」
その口調は落ち着いているものの、かわりに表情は期待に満ち満ちている。新しい噂話のネタに対する期待である。
茅乃も満面の笑顔で頷く。
「マリクさんが知らないというお料理でしたので、いっしょに作ってみました!」
といっても実際調理をしたのはマリクであるが。
「それは、どのようなお料理なのでしょう? それとも厨房内だけの秘密のお料理だったりします?」
「いえ、誰でも作れる簡単なお料理です。秘密でもありませんし・・・・」
ということで、昨日厨房で行った手順をマーサに説明する。ザックリとした流れを聞いたマーサはとても楽しそうに相好を崩す。
「わたくしでも作れそうですわ。献立に悩むことが多かったので、さっそく作ってみますね」
「はい!」
その後、食事を終えると茶とともにサロンマーサの女主人の手によって今日もきれいに髪をまとめてもらう。
サイドを手の込んだ編み込み状態にし、小ぶりで繊細な作りの髪飾りが着けられた。
「マーサさん、今日もきれいにしてもらってありがとうございます!」
「おやすい御用でございます」
ふふふ、と微笑むマーサに見送られ、釣竿と本を手に部屋を出る、直前で茅乃はお願いごとを思い出した。
「あっ、マーサさん、用意してもらいたいものがあるんですが」
「はい、なんでございましょう?」
「サウナ風呂を掃除するときに使うような道具と、水を溜める・・・・小さな桶のようなものを借りることはできますか?」
「ええ、予備がございますので、お持ちすることはできますけれど・・・・・。どこかお掃除をなさるのですか?」
「はあ、まあ・・・・、しばらくは内緒です」
浴室はいまマーサに見せることができないので、どうしても曖昧な返事になってしまう。それでもマーサは、
「かしこまりました。お戻りまでにご用意しておきますね」
深く訊いてくることはなく、対応してくれるという。
「お願いします」
と言って今度こそ部屋を出る。
そろそろ二度目の鐘が鳴るだろうか、カシュアが迎えにくるころかもしれない、と考えながら回廊を歩き出したところで、ちょうど鐘が鳴った。
じぶんの体感的な時刻と実際の時刻が合致していた、ということを面白く感じていると、回廊の奥、階段を上がってくるカシュアの姿が見えた。
階段の両端で警備をしている隊員から敬礼を受け、表情のない顔のまま無言で答礼をしていたカシュアは、茅乃を見るとその顔つきを変えた。
「おや、カーヤ様」
お迎えが遅かったですかね、と言うカシュアの表情はやわらぎ、口角は上がっている。その面の中の薄青の眼はしっかりと茅乃に注がれていて、単純に見る、というよりはその挙動を収める、という様子だ。
・・・・珍獣扱いされてるんだろうなぁ。
なんとなく茅乃もわかってきた部分がある。だからといって気になる部分でもないが。
「おはようございます、カシュアさん」
「はい、おはようございます」
「あの、キアヒム君はもうお仕事行ってます?」
「ええ、陛下は先ほど執務室におられましたよ」
「・・・・そうですか」
検証に関しての許可をもらおうと、まだ部屋にいるのならそちらに行こうかと思ったのだが、もうとっくに階下にいるらしい。
「じゃあそっちから行ってみます」
「今日のご予定はお決まりのようですね」
「はあ、ざっくりと・・・・」
と会話をしながら階段のほうに進んでいくと、そこで警備をしているのはラージ―ともうひとり、いつかの夜に貴賓館の警備に立っていた熊のような隊員のひとりであることに気が付いた。
「おはようございます」
そう声をかけると、ラージ―はほんわりとした笑顔で
「おはようございます、神子様」
胸に手を当てた姿勢でそう返してくれる。もうひとりの人物も同じ姿勢だが、口を開く気配がないので茅乃は訊いてみた。
「あの、以前いっしょに家具を運んでくれたかたですよね? スライさんですか? イマーンさんですか?」
朝の明るい中で改めて見ると、二十代後半くらいに思える。黒茶の短髪と同色の瞳の持ち主だ。夜だろうが朝だろうが、服がはちきれんばかりの肉体であることには変わりないが。
その熊のような人物は目線を上げて答えた。
「スライと申します。神子様はぼくの名をご存知なのですか」
軽やかな声と、ゆっくりとした丁寧な口調がイメージと合わず、茅乃は一瞬驚いたが内心だけに留めて頷く。
「はい。ラージ―さんとイフラスさんに教えてもらいました。あのときはありがとうございました」
名を知ったのは成り行きであったが、茅乃がそう答えると、スライはチラリとラージ―を見たあと、
「イフラス隊長・・・・」
と小さくつぶやいた。そして、茅乃の頭のてっぺんからつま先までを見下ろす。
「な、なにか?」
「神子様はイフラス隊長の忠誠を受けたとうかがいましたが」
「・・・・はっ?」
過去形? と茅乃は声を上げる。
「なにかのまちがいでは? その件はキアヒム君預かりになってると思いますけど」
永遠の預かり案件である。
茅乃が反論すると、スライは意外そうにすこし目を見開いた。
「イフラス隊長本人がそう言ってましたが」
「・・・・・・!?」
どういうこと、と思わず茅乃は背後のカシュアを振り返る。そんな茅乃の視線を受けずとも、軍部の責任者であるカシュアは薄く笑った。
「聞き捨てなりませんねえ」
調査をしておきます、とカシュアが請け負ってくれたので、お願いしますと託すことにする。
「・・・・家具の運び出しをしたときにも思ったのですが」
スライの視線はいまだ茅乃から外されておらず、不思議そうな面持ちでしみじみとこう言った。
「神子様のお体のどこにあのような力があるのでしょう」
「・・・・・」
特性みたいです、と渋々返答する前に、カシュアの声がした。
「・・・・それについては口外禁止の通達を出したはずだが」
「ですが、この場の誰もが知っている内容です」
「お前はどこに耳目があるか判別できるというのか。決まりは遵守しろ」
底冷えのするような声音に、スライがどこか怯むような仕草を見せた。位置的にスライとカシュアのあいだに立っている茅乃としてはいたたまれない気持ちになる。
「・・・・申し訳ございませんでした」
じぶんの言動が間違っていたとスライが認めたことで、カシュアは茅乃を促した。
「それでは行きましょうか」
「は、はい」
ペコリとラージ―とスライに会釈をして茅乃はそこから逃げるように去ることにする。
・・・・声をかけないほうが良かったかな。
階段を降りながら、茅乃の視線が足元に向く。
挨拶くらいは、と思ったのだが、それがきっかけでスライが怒られることになったのでは、と思えてならなかった。黙々と足を動かす茅乃の、いまは横に並んでいるカシュアがなんということもない声音で言う。
「なにか考えておりますか?」
「はあ・・・・、スライさんに、よけいな声かけをしちゃったのかな、と・・・・」
「よけいな、とは?」
「わたしがよけいな発言をしなければ、スライさんは怒られなかったですよね・・・・」
と口に出してから、これは怒った側であるカシュアを前にして言うことではなかった、と気付いてしまった。
まちがえた・・・・!
失言だ、と気が付いたところで言葉は戻せない。相手の記憶が取り消せるわけでもない。
すみません、と茅乃が小さくつぶやくと、カシュアはため息を吐いたような軽い声を発した。
「ふむ・・・・、カーヤ様」
「はいっ」
「先ほどのあれは怒った怒られたというものではないですよ」
「え・・・・、ちがうんですか」
「ちがいますねえ。それほど感情的な問題ではありません。しいて言うなら指摘ですね」
「指摘・・・・」
「まちがいをまちがっていると言っただけのことですね。事実、カーヤ様のアレについては陛下が口外禁止と定めたわけですが」
「はい」
「決まりとなった経緯がどうであれ、陛下が取り消さない限りそれは効力を持ったままです。それを理解することもなく、だれの耳に入るかもわからない屋外で口にするということは、決まりが守られていないのです。規則を破った以上はなんらかの罰があるわけですが、それが執行される前に口頭により指摘を受ける段階があります」
いわゆる訓告処分である。
「あとは指摘を受けた本人が気付くかどうかですが、あの様子だとまあじぶんで立て直すでしょう。それだけのことですから、あれは怒ったとかいうものではなく、業務上での不可欠な指導であったと私は捉えていますよ」
「はあ・・・・」
「スライが勘ちがいを起こしたまま、ほかで発言する前で良かったと思いましょう」
「そう、ですね・・・・」
先ほどのふたりのやり取りにヒヤッとする空気があったような気がしたが、それが指導上のことだとカシュア本人が言うのならそうなのかと茅乃は思うしかない。学校などで教師に怒られる、という事態が苦手だった茅乃としてはそのような場面には遭遇したくない、と思っている類だが、軍部内ではどうやら当人同士が必要以上に気にすることはないようだ。
「ですが、スライの発言も含めて不手際があったのはたしかですね。申し訳ございません」
サラリと言われた謝罪の言葉に茅乃はハッと思考から戻ってくる。
「いえっ、あの、気にしませんので」
「イフラスにも指導しておきます」
「ああ・・・」
その点だけよろしくお願いします、と言っているあいだに一階に着いた。
回廊を行きかうひとたちに紛れてキアヒムの執務室へ向かう。
茅乃の部屋がある三階は要人の階だという階層だけあってほとんど人影は見当たらないのだが、一階はさすがにひとが多い。
よく考えれば休日であるはずなのだが、それでも出勤しているひとがいる。交代制なのかな、と考えつつ、そういえば二階にはどういった部屋があるのか知らないな、と茅乃は思う。
そんなことを考えていると、執務室の扉の前に立ったカシュアが戸外から声をかけた。
「陛下、入ってよろしいでしょうか」
「入れ」
中から聞こえた応えにカシュアは遠慮なく両開きの扉を押す。全開になった部屋の中には、キアヒムとラムジのふたりがいた。
上がったキアヒムの視線はカシュアを素通りして茅乃を見とめた。
「カヤノか。おはよう、どうした?」
その声でこちらに背を向ける形で立っていたラムジが振り返る。
「おはようございます、カーヤ様」
そう言ってラムジは片手を胸に当てる。
「おはようございます・・・・」
入り口にほど近い場所にある会議机の上には地図が広がっていた。部屋の奥に掲げられている大きな地図ではなく、持ち運びが可能となっているサイズの、茅乃にも渡された地図とおなじもののように見える。ふたりともが立ったままその地図を見ていた、状況のようだ。
「すみません、お仕事中に・・・・」
出直したほうがいいだろうか、と思うと同時に、そもそも突然来ることじたいが良くなかったのかもしれない、と茅乃は思い至った。
「あの、キアヒム君」
「なんだ?」
「キアヒム君に用があるとき、面会希望、とか出しておいたほうが良いですよね?」
キアヒムはひとことで返してきた。
「手間だろ」
というか今さらだろ、と重ねて言われ、ウッと茅乃は言葉に詰まる。
「だいたい自室かここにいる。居場所がわかるときは来たらいい。言付けを頼むとそのぶん時間もかかるしな」
ひじょうに合理的な返答である。
「はあ。わかりました」
「で? 今日はなんの用なんだ?」
「あの、お仕事中では・・・・」
チラリと茅乃が地図とラムジを見ると、ラムジは微笑んで地図を端に避けた。
「急用ではございませんよ」
どうぞ、とラムジに促されて、茅乃は思い付いた今日の予定を告げることにした。
「厨房の中を見せてもらって、思ったことなんですけど」
「ああ、昨日の視察か」
訊き返したキアヒムがイスのひとつを引き、茅乃に座るように勧めてくる。茅乃がそれに着席するまえにキアヒム自身は斜向かいのイスに座った。その様子を見たラムジが部屋に設置されている給茶セットに手を伸ばし、茶の用意を始め、手伝いましょうかと手を伸ばしたカシュアの手ははたかれた。ひどいですねえと自身の手の甲を擦っている人物がこれごときで痛みを覚える人間性の持ち主ではないことをラムジは知っているので、フンと鼻であしらって用意を続けることにする。
イスに座った茅乃は背後でそのようなやり取りが行われていることを見ることもなく、用件を続けた。
「厨房の中に、流し台はあっても水道がありませんでした」
流しの付近には水を溜めた瓶が置かれてあって、そこから汲んで使っている様子があった。そもそもハウラは外に汲みに行っていたのだ。そして蛇口というものも見当たらなかった。
茅乃がそう言うと、キアヒムが怪訝そうにした。
「すいどう?」
「ええっと」
そういえば三階の手洗い場にだって瓶があって、水は汲み置きだったということを思い出す。個室のほうは紐を引っ張って水を落とすという原始的なシステム。キアヒムの私室がある階であってもそのようなシステムである、ということは、ここには水道という設備が普及していないのだ、と茅乃は考えた。
「水とかお湯が、簡単に出てくる設備、といいますか・・・・」
もしくはそのラインである。
みずのみち、と書いて水道なんですけど、と茅乃が説明すると、ふうんとキアヒムがつぶやく。そのタイミングでラムジから茶の入ったカップが差し出された。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
コクリ、と口を付けると、その茶はマーサにいつも淹れてもらっているものよりも格段に味が濃かった。
「苦い」
おなじように茶を飲んだキアヒムがにべもなく言う。
「だからお手伝いしますと言いましたのにねえ」
「お前は黙っておれ。・・・・陛下、カーヤ様。薄めますか」
「このままでいい」
「あの、美味しいですよ?」
別に耐えられない苦さというわけでもない。それに、緑茶に似て苦さのあとに独特の甘みが来る、ような気がしなくもない。
ひとまず茶の扱いはそのままにしておいて、茅乃は厨房の設備について続けた。
「外に、水場があるんだろうとは思うんですけど。その水場を厨房内に移せば、作業が便利になるんじゃないかと思うんです」
水を汲みに行く時間は短縮されるだろうし、なにより水というものは量を求めれば重いのである。
銭湯を造り、部屋の中では浴室を整えた。この行動によって、釣竿で水を引くことができる、というのが茅乃の発見した釣り竿の使いみちのひとつ目である。
王城内のインフラを整えよう、というよりそれができるかを検証してみよう、というのがいまの茅乃の考えだ。
「厨房に水道を造ってみたいんです。それから、厨房だけでなくて、ほかに水場を必要としているところがあれば、そこにも」
いつの間にか前のめりになって力説していた茅乃を、いまだ怪訝そうにキアヒムが見ている。
「水道というものを造ると言うが、どうやってやるんだ?」
工具と工員が必要か? と問うてくるキアヒムに、茅乃はすこし上体をひねって背中側に差してある釣竿を見せた。
「これで!」
「・・・・そうだったな」
「それで、王城内部のことに関わってくることなので、許可をもらえたらって思って来たんですけど」
「それに関してはかまわないが・・・・」
「が?」
「いまひとつ水道というものが理解できなくてな」
「はあ」
キアヒムにとっては、というよりこの世界にとっては未知の設備なので、それは仕方ないと茅乃は頷く。
「造るというのなら見せてもらおう」
厨房に行くか、とキアヒムが腰を上げたので、二日続いての厨房視察に赴くことが決定した。
「ちょ、ちょっと待ってください」
慌てて、茅乃はカップに残っていた茶を飲み切る。
次いで、机の上に置いた返却用の本を手に持つと、キアヒムが剥き出しの本に気が付いた。
「カヤノ、鞄は?」
「は? 持ってませんけど?」
先立つものがないので購入することもできない。茅乃がそう答えると、キアヒムは執務机のほうに移動してその引き出しを開けた。
「これを使うか?」
と言って出されたのは、年季は入ってそうだがしっかりとした作りの鞄のようだった。
「いいんですか」
受け取って見てみると、それは丈夫な布地で作ったトートバッグのような形をしていた。大きめに裁たれた布が鞄の身を覆い、簡易的な蓋の役割をしている。その蓋を開けて中を確認すると、大きな仕切りが付いていた。ポケットはないがマチはしっかりとあり、本を入れるには充分な気がする。試しに肩に掛けてみればなかなかにちょうどいい。
「・・・・ピッタリです」
「良かったな」
「これはほんとうに借りてもいいんですか?」
と茅乃がそうキアヒムに確認したのは、鞄の角に同色の糸で施された繊細な花模様の刺繍を見付けたからだ。
・・・・女性用だよね。
だがキアヒムの返事はあっさりとしていた。
「暦とおなじだ。返さなくていい」
「でも、これは」
「どのみち使い道のないものだったしな」
「・・・・・」
じゃあどうしてそんなものが引き出しに、とは思ったが、それを訊くには踏み込み過ぎているような気がした。ひとの机の引き出しの中身について、言及するべきではないだろう、と茅乃は思ったし、鞄があると便利であるのは事実なのだ。
「ありがとうございます。遠慮なく使わせてもらいます」
「ああ」
新たな私物、鞄を手に入れて、茅乃は厨房へ向かうことにした。




