3 夢
川のほとりに座っていた。
水際にまで芝が広がっていて、芝の奥には木立が見える。その樹には青々とした葉が茂っており、今がちょうど気候のよいころなんだろうなと茅乃は思った。
実際そよりと吹いた風は冷たくもぬるくもなく、それはどこかあの神域だという場所で感じた風にも似ているような気がした。
膝を折って、ポツンと川辺に座り流れる水面を見ている。
なんだか、またよく知らない場所にいるなぁ・・・・・。
目の前の川の深さはさほどなく、しかも底が見えるほどに透明な水なので、足をつけたら気持ちよさそうだなあとどこかぼんやりした頭で考える。目の前の川面から下流へと目をやると、少し離れたところに釣り糸を垂らしている人がいることに気が付いた。
さらさらと流れる水の勢いのまま、テグスのような糸がユラユラと揺れて陽光を反射している。それをきれいだなあと思いながら釣り糸から釣竿へと目線で辿ると、その持ち主がいた。
人がいたんだ・・・・。
よくよく考えなくても、そりゃそうだよな、と思い直しながらその人物を見てみる。
対岸ではなく、こちら側の川辺に座っているので、横から見る形になる。
見たことのない服を着ていた。
レオトール国で見かけたシャツとズボンよりかは重ねる衣服が多く、どこか豪華な感じもする。
腰には宝飾のついた太めのベルトを巻いていて、さらに体の左右に二本の剣を佩いていた。
剣・・・・・。
レオトール国の人の蛮行を思い出し、なんとなく目を背ける。
胡坐をかくように座っていて、膝の上に肘を置く体勢で釣竿を構えている。まくり上げた袖口からのぞく腕はがっしりと太く、筋肉の線がはっきりと浮き出ている。
ガタイのいい人だなあ。
そんなことを考えていると、視線を感じたのかその人物が茅乃の方を見た。
目が合う、と思ったその瞬間、茅乃は瞠目した。
顔が見えなかった。
顔の輪郭はある。頭髪も認識できる。意外にも茅乃と同じ髪色の黒、癖があるのか、あちこちに跳ねたその毛先は短い。首も見ることができる。体格に見合って太く、逞しい顎のラインも認識できる。
けれども、その顔そのものを見ることができなかった。
鉛筆を握りしめて円を描いたように、顔の真ん中が黒く塗りつぶされている。
どうして?
考えて、ゾッとした。
もちろん物理的に顔そのものに黒の塗料を塗っているわけではない。それなのに茅乃の目がその人物の顔を認識できないのだ。ということはつまり、茅乃の視界、もしくは脳の伝達のどこかの段階で阻害されている、ということだ。
得体の知れないものを見ている。
思わず視線を外し、再び川面を見つめると心音が落ち着いたものに戻っていく。
びっくりした、と思っているとその人物から声をかけられた。
「お前は、釣りはしないのか?」
大きくもない低い声を聞いてビクリと肩が震える。
つい振り向いた視界にはやはり見えない顔があって、うっかり怖いものを見てしまった自分に後悔する。それでも話しかけられた以上返答しなければ、と茅乃は口を開いた。
「釣り、ですか?」
まるで茅乃が一緒に釣りをすることが当然かのような言いぶりだ。この人の中でわたしはどういう認識なんだろう、と茅乃は首を傾げる。
けれども当の人物は茅乃の思考を読んだように頷いた。
「ミコである以上、釣竿を持っているだろう」
「・・・・・?」
どういうこと、と茅乃はますます混乱した。
ただでさえよくわからない場所にいてよくわからない扱いを受けている最中に、またしても気が付いたらよくわからない川辺でよくわからない存在と対峙しているのだ。考えて考えて考えた茅乃の頭の中で小さくなにかが弾ける音がした。
「あの」
「なんだ?」
「隣に行ってもいいですか?」
「構わないが?」
許可を得られたので、足音も荒くその男の横に行って座る。
「あのですね、わたしは夏草茅乃といいます」
「そうか。俺はレンだ」
「レンさんですね、わかりました。ところでわたしにはあなたの顔が見えないのですが、これはどうしてですか?」
怖いと思ったはずの顔を、据わった眼で見て質問する。なんのことはない、知らない場所にいることからくるストレスと立て続けに起こる理解不可能な出来事に、茅乃の理性が耐え切れなかったのだ。恐怖という本能を凌駕するほどに。
訊かれた男の方は、表情が見えないながらに怪訝そうな雰囲気を発しながら茅乃の方に顔を向けてきた。
「おそらく・・・・、調和が取れていないのだろう」
「調和? なんの?」
今度は茅乃の方が怪訝な表情になってしまう。
質問の答えをくれたのはありがたいが、その答えがさっぱり理解できない。
「世界との調和だ。きちんと見えた方がいいなら調整することもできるが?」
「できるんですか? ぜひお願いします」
理解できないながらも間髪入れずに茅乃が言うと、レンは腕を伸ばして軽く茅乃の額を小突くようにした。
たったそれだけなのに、一気に茅乃の視界が晴れた。目に映る色彩が鮮やかに変化していく。
今まで普通に見えていた川や木立や川面といったものが、光の粒子を含んだように眩く映る。
「これは・・・・」
そして目の前に座っているレンを見る。
・・・・これは、すんごいイケメン。
髪と同じ色の目は若干鋭いが、キツさは感じられない。通った鼻梁と軽く引き結ばれた唇。まるで彫刻のように造形が深く、均整の取れた貌をしている。見たところ年齢が茅乃よりも少し上のようだ。その立派な体格と無造作な髪形とで野性味のある風貌に見える。
眼福、と満悦感に浸りながら、茅乃は目の前の質問に答えてくれる貴重な人物を逃してなるものかと考えていた。
「あの、聞きたいことがあるんです」
「言ってみろ」
口調はぞんざいだが、声そのものは冷たくない。それに力付けられるように茅乃はずっと解消されないままの疑問を口にした。
「ミコとはなんですか?」
「・・・・・・」
無言で見返された。
「・・・・そうか。調和が全く取れていないようだな。そこからか」
「そこってどこですか?」
「初めからということだ」
初めから? 相変わらず理解できない返答に茅乃はさっきから首を傾げっぱなしである。
レンは釣竿を片肘と膝の間で押さえるような体勢を取り、反対の腕で頬杖をついて茅乃を眺めるようにした。
「ミコとは神に配された子だ。世界の調整を取るために世に降りる。人間たちはどう解釈したのか繁栄の象徴として認識することもあるようだが」
「神・・・・・、神様がいるんですか?」
神子を配した、と言う以上は心のよりどころとしての偶像、という意味ではないようだ。
「そうだ。神がこの世界を創り、世紀を始めた。だが治めるつもりは毛頭ない。だから面倒を見させるために神子を創って世界に置いた」
「・・・・・」
なんだか後半投げやりな説明になっていたような気がするが、茅乃の気のせいだろうか。
「ええっと・・・・、神子は世界の調整を取ると言いましたけど、具体的にはどうやって?」
なんだか漠然とした規模の大きな話で、茅乃にはよくわからなかった。そもそも調整を取ろうとして取れるものなのだろうか。
するとレンは適当に押さえていた釣竿を持ち直して、その竿先を指で示した。
「釣りをする」
釣りをしているというのは見ればわかりますが、と言いかけた茅乃の視界の中で、レンの釣竿がなにかに当たった。
大きく竿がしなる。折れるんじゃないか、というような角度だが柔軟性が高いのかよくしなる。グイグイと釣竿があげられ、そのまま魚影が見えるかなと思ったところで、川の水が一気に濁った。
透き通っていた水が、ヘドロをかき混ぜたようにドス黒くなる。川底も水中もあっという間に見えなくなるくらいの汚れをまとって釣り上げたのはしかし、魚ではなかった。
釣り針に掛かっていたのはひと振りの剣だった。
また剣なの、とうんざりしかけた茅乃は、その剣の先がポトリと川面に落ちるのを見た。
「えっ?」
ヘドロに塗れた剣は、普通の剣ではなかった。持ち手である柄や刀身、そういったものは一見すると剣のように見えたが、よく見ればそれを形成しているのは小さな小さな人型のなにかだった。
「なに、あれ」
刀身を汚す真っ黒のヘドロの下からもがくように人型が現れては、形を保てなくなったのか剥がれるようにポトポトと川に落ちていく。水面に当たった人型は脆いのか、まるでラムネ菓子のように溶けて消えていく。
「これはもう駄目だな」
低くつぶやく声があって茅乃はハッとレンを見る。
「あれは?」
「戦いを好む世界のひとつだ。殺しすぎて均衡が崩れ始めた。よほどの英雄が現れない限り崩壊は止まらんだろう」
「・・・・崩壊すると、どうなるんですか?」
「世界が更地に戻る。神の気が向けばまた新たな世紀の仕組みが組まれるだろう」
ぞんざいで、淡々とした口調だった。まるで物語を遠くから見ているかのような。
けれども、と茅乃は思う。
「その世界に、人がいるんですよね?」
「そうだな」
素っ気なく答えたレンは、そのままチラリと茅乃に視線を向けた。
「気になるなら自分の世界でも気にかけていろ。釣りをすればまだ汚物は除ける」
「それがつまり、調整ということですか?」
「そうだ」
はっきりと告げられて、茅乃は肩を落とした。
「釣竿は・・・・、置いて来ちゃったみたいなんです」
「置いて来た? どこに?」
淡々とした様子が続いていたレンの目がわずかに見開かれる。ありえない、と言わんばかりの態度にどこか抉られる気持ちになる。
「あの、神域というところに・・・・。誰かのものだと思って放ってきたんですけど、もしかしてあれ、わたしのだったりしますか・・・・」
「神域か」
舌打ちでもしそうな口調だった。
釣り上げた剣はいつの間にかすべて崩れ落ちていて、跡形もなくなっていた。流れる水の力でヘドロのような汚れも消えている。その川にレンは竿をひと振りしならせて釣り針を投げ込んだ。
川底を探るように動かした後、先ほどよりは軽い動作でなにかを釣り上げる。
針に掛かっていたのは、あの、神域の建物で見たショボい釣竿だった。
「場所がまだ良かったが、もう手放すなよ。俺が探るにはこの世界は不向きだ」
ほら、と釣竿を差し出されて、茅乃はまじまじとその釣竿を見つめる。
「えっ? 今のどうやったんですか? 手品ですか?」
「いいからさっさと受け取れ」
「あっ、ありがとうございます」
どういう仕組みかわからないが、ずっと遠いところに置いて来たはずの釣竿を目の前に差し出されて茅乃は心底驚きながら両手で受け取る。川から釣り上げられたにもかかわらずいっさい濡れていないのも不思議だ。
「それで、今のどうやったんですか? この釣竿にはそんな手品みたいな不思議機能が付いているんですか?」
思わず膝でにじり寄る茅乃を迷惑そうな顔で見て、レンは三度釣り糸を垂らした。
「使い方のひとつというだけだ。調整以外に、調整に必要なものを探ることができる」
「へえー」
よくわからないなりに頷いてみる。そして唐突に眠る前のことを思い出した。
「あ、でも、わたし今、自由がないっぽくて、この釣竿とか取り上げられたらどうしよう・・・・」
部屋に隠していても、しょせん隠す場所は目に見えるところでしかない。メイドに見つかるのではないかと危惧した茅乃に、レンはそれこそありえない、といった表情をした。
「自由がない?」
「なんか、捕まって馬車に繋がれて連れてこられたっていうか・・・・」
「神子を、馬車に? お前、わかっているのか?」
「なにをです?」
「馬車に繋ぐのは馬か荷台だけだろうが」
「・・・・・」
しばらくその言葉を受け止めることができず、やや長めの時間が過ぎる。その間両者は無言だったが、ようやく言葉を咀嚼した茅乃はたまらず地面に泣き伏せた。
「ひどいっ! 改めて考えても扱いがひどすぎるっ! もうこんなとこやだっ!」
「うっとおしい。泣くひまがあったら調整でもしてろ」
「あたりがひどい! 誰もかれも優しくないよぉ!」
それでも泣きながら渡された釣竿を持ち直し、レンがやっていたように見よう見まねで竿を振り、重りを飛ばす。
「あれっ、でもわたしの釣竿、針が付いてなかったような」
グスッ、と鼻を鳴らしながらつぶやく。針がなかったらなにも釣り上げられないのではないだろうか。
しかし、そこは使い方を知っている先達の言葉があった。
「使われていない釣竿はそういうものらしい。投げれば針が出現する。そこからは消えないから、取り扱いには気をつけろよ」
「わかりました」
「それから、本来なら許されないことだが、もし本当に釣竿を取り上げられてもたいして問題はないから気にするな」
「ええ?」
「釣竿は神子のものと決められている。その釣竿はお前のために作られ、お前にしか使えない仕様になっている。もしお前の意思に反して取り上げられたのなら手元に戻ってくるから気にするな」
「戻って、くる?」
それも不思議機能なんだろうか、とまじまじと手の中の釣竿を見つめる。
ショボい、と思ったがとんでもない機能が付いているようだ。それに自分のための釣竿で自分仕様にカスタマイズされているのだと聞くと、なんだか愛着のようなものがわく。
「そうかぁ、これはわたしの釣竿かぁ。よろしくね」
「だがお前の意思でどこかに放り出せば戻ってこないからな。手放すなよ」
「わ、わかりました」
ちゃんと覚えておこう、今度は手放さないようにしなくちゃ、と思ったとき、釣竿になにか手応えがあった。
「あっ、なにか掛かった!」
人生初めての釣りである。なにかにヒットしたらしく、竿が引っ張られるような感覚がある。想像よりも強い力がかかって茅乃は狼狽える。
「お、重い・・・・!」
これ、力負けしたら釣竿が川に引き込まれちゃうよね、と考えると決して手を離すことはできない。けれども釣竿を摑むことで精いっぱいで、それを引き上げる余裕がない。
なんとか上げようと釣竿を持つ手に力を入れるが、重くて重くて引き上げられない。石にでも挟まったんじゃないか、というくらいにビクともしなかった。
座ったままでは心もとなくて立ち上がって踏ん張るものの、その踵でさえじりじりと川の方に引っ張られている。
これは、そろそろ落ちちゃうかも、と考え始めたとき、視界がぼんやりと霞みはじめた。
「えっ、なに?」
あんなにはっきりと鮮やかに見えていたはずの風景が急速に見えにくくなっていく。釣竿も手が離せないし、けれども視界にも異常が起きている。いろいろと忙しい中の茅乃に、釣り糸を垂らしたままのレンが声をかけてくる。
「体の方が目覚めるころだろう。いいか、調整を怠るなよ」
「わ、わかりました!」
「それと、お前がお前の世界でどうにもならなくなったら呼べ。調整の合間に見に行くくらいはしてやる」
相変わらず口調はぶっきらぼうだが、言っていることはだいぶ優しい方なのではないだろうか。心に響くものを感じながら茅乃は答える。
「ありがとうございます!」
いよいよ視界がなにも映さなくなって、それでも茅乃はこれだけはと釣竿をしっかりと握りしめた。




