26 ワンワンと執務室
案内されながら、回廊の外側を見てみた。
思いのほか見晴らしがよく、ここが建物の一階部分ではなく上階であることがわかった。端に寄って見下ろしてみると、下に二階分の回廊と、地上には中庭のような囲われた空間が見える。反対に上を見上げるとわずかな壁しかない。建物は三階まで、いまいるここが最上階のようだった。
「こちらでございます」
回廊の突き当たり、すこし離れた場所にあるドアをマーサに示される。
「ありがとうございます!」
しばらくして個室のひとつから出てきた茅乃は、人心地つきながら手洗い台に向かう。
レオトールとはちがい、水洗仕様だったことにホッとしつつ、上水道と下水道はどうなってるんだろうと首を傾げる。いわゆるインフラというものに興味がわく。
手洗い台は水が汲まれた壷のようなものが置かれていて、そのうえに柄杓が渡されている。壷の横に流し台があるので、柄杓を慎重に扱いながら手を洗う。なるほど、上水道の水道栓はないようだ。蛇口ではない、ということを観察しながらふと天井を見上げる。
「・・・・・」
全体的に石組で造られた建造物かと思ったが、よく見ると砂色のレンガが積まれている。砂漠と同じ色のレンガである。もしかして砂漠の砂が原材料なのもしれない。
あとでマーサさんに訊いてみよう。
誰かに訊けるって素敵なことだなぁ、と思いながら壷の横に置かれてあるタオルで手を拭く。拭き終わったタオルをたたみ、元の形に戻しながら茅乃はふたたび天井を見上げた。
気になる・・・・。
なにかが気になる。
天井を見つめていると、その一角が石組ではないことに気が付いた。別の素材が使われている。石と同じ色の塗装がされているのでなんの素材だかわかりづらい。
「・・・・・」
入り口のドアをそっとうかがって、動く様子がないことを確認する。誰も入ってこないのをいいことに流しの台によじ登ってその上に立ち、天井に向かって手を伸ばしてみる。
そっと押した指先には軽い感触が返ってきた。
木材だ、と茅乃が思ったとき、指先で触れた板がズレた。
メンテナンス用の入り口みたいなものかな、と思ったときと、小さな悲鳴のような声が聞こえたのは同時だった。
「えっ!?」
瞬間的に茅乃の体が硬直する。
小さな声は天井の上、板の向こう側から聞こえた。そしてそれは、男声だった。
・・・・・ここ、トイレなんですけど!
ありえない! と茅乃は体の硬直を解いて天井板を跳ねのける。大きな音を立てて板が床に落ちたけれども、それを置いてスルリと壁を登り天井裏に首を突っ込む。
天井裏の空間は真っ暗、というわけではなかった。どこからか明かりが入るのか、薄暗い。その視界の中で走って逃げていく誰かの後ろ姿が見えた。
「待ちなさいよ! このっ!」
天井の縁に手をかけて茅乃も天井裏に上がる。そして逃げていった誰かの後を追う。
「カーヤ様!?」
下からマーサの声が聞こえてきたが、
「すぐ戻りますから!」
と告げて追跡する。
薄暗い中を、不届きものが逃げていった方向に向かって勘を頼りに進む。閉塞感のある廊下のような空間を走った先にいたのは、どん詰まりの地点で蹲っている黒い布のような塊だった。
じり・・・・、と茅乃が足を動かして近寄ってみると、布の塊から悲鳴が上がった。
「ご、ごめんなさいごめんなさい! 突き出すのだけは勘弁してください!」
ビクッ、と茅乃は震える。様子を見ているのはこちらも同じなのだ。
それよりもずいぶんと若い声のように聞こえた。もしかするとじぶんと同世代くらいの少年かもしれない、と思いながら茅乃も言い返す。
「そんな都合のいいことは聞けないんだけど!」
「わ、わかってます! だけど、ユスフ様にバレると叱られるんですっ!」
「誰よそれ! ていうか、叱られてしまえっ!」
「わあっ! 神子様はもっと優しい人だと思ってたのに!」
「な、・・・・ええ?」
犯罪行為を働いておきながらこちらの良心にすがるなんて、と茅乃は憤ったが、その言葉がおかしいことに気が付いた。
この人物は、ただ単にお手洗いの天井裏に忍び込んだのではないのか。いや、単にといっていい事態ではないが、少なくとも茅乃のことを不特定多数の誰か、とは思っていない。神子である、ということを承知で天井裏にいたことになる。
「ちょっと待ってよ、あなた、どうしてあそこにいたの?」
「ぼ、ボクは、神子様の警護を任されていて・・・・」
「警護!?」
いやいや、おかしいでしょ、と茅乃はうずくまったままの人物を見下ろす。
「警護するはずのひとが覗き行為を?」
「覗き!? ちっ、ちがいます!」
「あそこがお手洗いだってことは理解してるよね?」
「してます! ですけど、要人警護は一日中付いているのが基本なんです!」
警護で、張り付いていたってこと?
茅乃は首を傾げながら訊いてみた。
「じゃあどうして逃げたの?」
これには弱弱しい声が返ってきた。
「お、追いかけてくるから・・・・」
「・・・・・」
茅乃は黙り込んだ。
相手の言い分は聞いた。だが初対面の顔も知らない人間の言うことを真に受けるには状況が良くなかった。まずは確認しないと、と茅乃は口を開く。
「とりあえず、下に降りましょうか」
「ゆ、許してくれるんですか・・・・?」
「誰もそんなことは言ってません」
「ええ・・・・?」
「降りたら、そのユスフさんというひとのところに連れていってください」
マーサを伴い、黒ずくめの少年らしき人物と向かったのは階下の、一階にある大きな扉の前だった。壁と同じレンガ造りの重そうな扉である。
「マーサさん、ここはなんの部屋ですか?」
「ここは陛下の執務室でございます」
「キアヒム君の?」
茅乃は、ユスフというひとのところに連れていってほしいと言ったはずだけど、と傍らに立つ黒づくめの人物を見る。この人物はここに向かうまでの間に三度も逃走しようとした。マーサが用意してくれた上着を茅乃が着ようとしたとき、同じように用意してくれた靴を履こうとしたとき、そして廊下の角を曲がったときである。
もう逃げ出せないように、ということで、現在真っ黒の服の首根っこあたりを茅乃が摑んでいる状態だ。体のほうの首根っこを摑むと骨折するので妥協案である。
「ここにユスフさんってひとがいるんですか? それともまだ逃げようとしてるんですか?」
「してません! 今日は陛下と会議があるって聞いてるんです!」
当の人物は細い、というよりどちらかといえば細すぎる手を見せて、両手で顔を覆っている。その不可解な行動に茅乃の眉が寄る。
「どうして顔を隠してるんですか?」
「ぼ、ボクは、いちおう諜報部に所属してるので、顔を見られるとマズいんです・・・・」
「でもさっき見えましたよ?」
「え!?」
「さっき逃げようとしたときに、顔、見えましたよ」
「・・・・・!」
衝撃を受けたように硬直する人物へ、逃げようとしなければ隠しおおせたかもしれませんね、と追い打ちをかけている間にマーサが扉に声をかける。
「陛下。マーサでございます」
重厚な扉を見るに、おそらくノックでは音が響かないのだろう、と茅乃は思う。ノックした手も痛くなりそうだよね、と考えているところに内側から返答があった。
「なんの用か」
淡々とした声はキアヒムのものではなかった。けれども聞いたことがある。まだ数度しか会話をしたことはないが、アズイルにおいて会話をした人物は限られている。
素っ気ない返答はカシュアのものだったように思う。
会議をしている、とさきほど聞いたところだ。ここにはキアヒムとユスフというひとだけではなく、カシュアもいるということだろうか。
内心で首を傾げていると、マーサがさらに声をかけた。
「至急お伝えしたいことがございます。神子様をお連れしております」
すぐに扉が開かれる。
中は広い空間になっていた。
執務室、と聞いたので、書斎のようなこじんまりとした部屋を想像していたが、どちらかというと会議室のような長机と十近い数のイスが置かれている。大きく開いた窓からは陽光が射し込み、室内はとても明るい。入り口の扉から正面には大きな執務机があり、そこにキアヒムが座っている。見たところ大きな怪我は見当たらず、疲労感も残っていない様子にホッとする。安心して眠れた証明だろう。
執務机の向こう、壁には一面に、なにかを記した布のような紙のようなものが掛けられている。大きく記されたそれはガクガクとした線で囲われたなにかで、地形のように見えた。地図だろうか、後でじっくり見せてもらえるかな、と思いながら室内に目を戻す。
室内にはキアヒムとカシュアを含めて五人の人物がいた。思っていたよりも多く人がいたことに驚く。
男女、年齢バラバラの、キアヒムをのぞいた四人の視線は入り口に立つ茅乃に集中していた。もっと詳しくいえば、茅乃と、首根っこを摑まれた人物に。
「おはようカヤノ。よく眠れたか?」
キアヒムに声をかけられ、茅乃は内心で動揺した。
「おはようございます、よく眠れました。・・・・あの」
「なんだ」
「なんて呼べばいいんです? 陛下? キアヒム様?」
部屋の上座に座り、まさしく臣下を従えているといったふうの様子に内心で怯みが生じたのだ。このひとは、レオトールから逃げてきたひとと同じひとだろうか、と。
不思議そうな表情をしたキアヒムから応えがあった。
「今さらなにを言ってるんだ? 好きに呼べばいいだろ」
「・・・・じゃあ遠慮なく」
「それで?」
「それで? と言いますと?」
「その捕まえているのはなんだ?」
「ああ、ユスフさんというひとを探していたんです」
ここにいるんですか? と茅乃が訊くと、キアヒム以外の人物の目線がひとりの人物に集中する。
部屋の入り口にほど近い、端といっていい場所に座っている二十代後半くらいの男性だ。肌色の濃いひとが多いアズイルの中にあって、その人物はよく灼けた白い肌をしていた。茅乃と目が合ったその男性はすこし首を傾ける。陽光を受けた髪は透けるように薄い茶の色をしている。首に角度がついたときにサラリとその髪が流れた。眼の色も同じ、垂れ目がちの目元には泣き黒子があって、ゆるりと上がった口角と相まって茅乃が思わず逃げ出したくなるほどの気配を放っている。
なんだか危険なおにいさんだ・・・・。
といってもここで逃げ出すわけにはいかないので、かわりに摑んだ服をもっと強く握りしめておく。
「そこに座っているのがユスフだが・・・・。ちょうどいい、ほかのものも紹介しておこう」
お願いします、と茅乃はペコリと頭を下げる。
「最初に、そこに座っているのがラムジだ。アズイルの宰相を任せている」
示されたのは執務机にほど近いところに座っている大柄な男性だった。歳は五十を超えているだろうか。宰相、と言われなければ完全に軍のひとだと思ったかもしれない。その立派な体格を窮屈そうにイスに収めていたが、茅乃と目が合うとイスを軋ませながら立ち上がった。
「お初にお目にかかります。ラムジと申します」
茅乃の目の前にまでやって来て、片膝を着き、片手を胸の前に置いて頭を垂れるような姿勢を取る。それでようやく茅乃と目線が近くなる。その姿勢でラムジが挨拶の口上を述べた。カシュアも同じようにしていた、ということを思い出して、これがアズイルの作法だろうか、と茅乃は思う。
「はじめまして、茅乃と申します」
こちらも挨拶を返す。上げたラムジの目線と頭を上げた茅乃の目線が合う。正面にあるラムジのその瞳を、思わず見つめてしまう。
左右で色がちがうのだ。
珍しい。そしてきれいな色だと思った。じぶんのような黒髪黒目はあまり見ない。カラフルだなぁという感想を覚えていると、ラムジがさらに深く頭を下げるようにした。
「神子様には国難を救っていただきました。すべての国民に代わって御礼申し上げます」
「・・・・こくなん、ですか?」
「陛下を救っていただきました」
「あっ、それはちがいます。わたしはただ後ろにくっついてただけで・・・・。ご飯の用意も戦うのもぜんぶキアヒム君がやってくれたので・・・・。助けてもらったのはわたしのほうです」
むしろなにもできなかったということを正直に言うと、ラムジが驚いたようにキアヒムを振り返った。
「なんと、陛下がお食事の用意を。・・・・それはちゃんとしたものでしたか?」
「なにを聞いている。そもそもレオトールから奪った携帯食だ、ちゃんともなにもないだろう」
「お腹は膨れたのでありがたかったです」
味は薄かったように思うが、あの道行で食べるものがあっただけでも良いほうではないだろうか、と茅乃は思う。奪うのも用意するのもすべてやってもらっていたのだ、ぜいたくを言える身分ではない。
「なにはともあれ、おふたりとも無事でなによりでございました」
「あ、はい。ありがとうございます」
「カシュアは前に会っているな。アズイルの将軍職に就いている」
扉付近に立っているカシュアを見上げる。ここに立っている、ということは扉を開けてくれたのだろうか。ほかにひとも見当たらないので、執務室の警護を担当しているのかもしれない。
「おはようございます、カシュアさん」
「はい、おはようございます。うちの陛下が護衛として神子様をお守りできたようで、私としてはうれしく思います」
「護衛・・・・」
穏やかな笑顔から吐き出された軽すぎる軽口に茅乃が絶句していると、キアヒムが苦り切った顔でつぶやいた。
「吐いてもやめなかったお前の扱きに感謝する日が来るとはな」
「なにごとも経験ですねえ」
やり取りから察すると、キアヒムが言っていた訓練というものを担当していたのは将軍であるカシュアのようだ、と茅乃は知る。
スパルタァ・・・・、とさらに茅乃が絶句していると、もうひとりのひとを紹介された。
「こちらがアビダ、神殿で副神官長を任せている」
執務室にはじめからいたひとの中で、唯一の女性だった。
歳は三十くらいだろうか、黄色の髪と茶色の眼をしている。はっきりとした切れ長の目元と、キリリとした眉、そして細い鼻筋と引き結ばれた唇。とても落ち着き払った大人の女性に見えた。
「あの、はじめまして。茅乃と申します。よろしくお願いします」
神殿、ということはレオトールでいうところの教会のような機関だろうか、と茅乃は予想する。もしかしたら神子と関わりのある場所かもしれない。いろいろ訊いてみたい、と考えている茅乃に、アビダは見た目と同様に落ち着いた声で返してきた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。本来であれば神官長がご挨拶を申し上げるべきところなのですが、本人が不在ですのでわたくしが代わりに参りました。ご無礼をお許しください」
「いえ、どうかお構いなく」
副神官長という立場だって十分にすごいんじゃないだろうか、と茅乃はアビダを見返す。洗いざらしの布で作られた丈の長い服は、上下が繋がっているので足首までのロングワンピースのように見える。腰の箇所には青色のベルトが巻かれていて、一見質素に見える服に色彩を添えている。
「あの、アビダさん」
「はい、なんですか」
「神殿というところにとても興味があります。こんど、見学に行ってみてもいいですか?」
過去の神子の記録とかないだろうか、と気軽に考えておうかがいを立ててみたのだが、アビダは渋い表情を見せた。
やっぱりお仕事の場所に見学というのは良くなかったかな、と茅乃は考え直して口を開く。
「無理なようだったら、いいです・・・・」
「ああ、いえ、無理なことはないのですが・・・・」
どこか言い淀むようにする。
「神殿に所属する身として、神子様のご滞在およびご来訪は大歓迎なのです。ですが、いまの神殿は魔窟となっております。どうか、くれぐれも訪いの際はおひとりで来られませんよう」
「・・・・・はい?」
魔窟、と聞いて茅乃は、社会的な組織を表現するブラックジョークのひとつだろうか、と受け止めたのだが、この場の誰もが笑いもしないことに気が付いた。
・・・・本気の?
ジョークにすらならない状態だということだろうか。まさかね、といまいち理解できない茅乃を見透かしたように、アビダが念を押してくる。
「重ねて申し上げますが、どうか訪れる際は陛下にご報告の上、そうですね、十名ほどの護衛をお連れください。・・・・・それでも足りるかしら」
最後に付け足されたひとりごとが心底怖い。
「わ、わかりました」
とりあえず拒まれることはなかったので、機会をみることにしよう、と茅乃は考える。
「それから、顔はもう合わせているが、そこにいるのが侍女頭のマーサだ。わからないことがあればいろいろ訊くといい」
侍女は侍女でもまとめるほうのひとだった、と茅乃は廊下寄りに立っているマーサを振り返る。
「カーヤ様付きとなりました、マーサでございます。わからないことがあればお聞きください。足りないものがあればご用意いたします。なんでもお任せください」
力強い言葉と朗らかな笑顔に感激を覚える。
「よ、よろしくお願いします!」
改めて挨拶を交わしていると、キアヒムが最後に残った人物を示す。
「それから、そこに座っているのがユスフだ」
茅乃が探していた、目的の人物である。
「はじめまして、ユスフさん。茅乃と申します」
「どうも」
トロリとした笑顔を浮かべた人物から、素っ気ない返事が返ってくる。入り口付近に座っているので比較的表情が見えやすい、と思った人物をまじまじと見つめる。
緩く上がった口角。
やんわりと模られた目元。
笑みが乗っている、だけのように見えた。感情も思考も読み取れない。
「ユスフさんも、諜報機関というところに所属しているひとなんですか?」
その読み取りにくさから質問してみた。ただの学生であった茅乃にとって、諜報機関という場所はどういう働きをしているのかよくわからない場所だ。単純に、諜報機関イコールスパイと結び付けて訊いてみたのだが、ユスフの表情にはなにも変化がなかった。
「そんなことを、誰が?」
あれ、ちがったのかな、と茅乃は傍らの黒づくめの人物を見上げた。相変わらず、両手で顔を覆っているままだ。
「このひとが・・・・、そういえば、このひとのお名前はなんですか?」
「そいつはワンワンですよ」
と、ユスフが教えてくれる。名前を知っている以上まったくの他人というわけではなさそうだけど、と茅乃はユスフを見返す。
「それは、本名なんですか?」
「まさか。俺が付けました」
「名付け親的な・・・・」
「とんでもない。十五年近く前に鳴きながら後をついて来たのでワンワンと呼んでいるだけです」
「・・・・・」
「呼びにくければ犬とでも呼んでやってください」
呼べるわけがない。
「ええっと、とりあえず、このワンワン君がですね。諜報機関に所属していると」
「ほお」
「それで、突き出されるとユスフさんに叱られるって言ってたので、上司のひとかな、と思って探していたんですが」
「・・・・・・」
それまで素っ気ない口調ながらも返事を返してきたユスフが、無言になった。長く、長い沈黙の末に、ひとつ溜め息のように長い息を吐く。
たったそれだけの行動に、黒づくめのワンワンがビクリと震える。いまだに顔を覆ったままであるというのに、いったいなにを察知しているのだろう、と茅乃は首を傾げる。
「あの、ワンワン君。どうしてまだ顔を隠してるんですか? 意味あります?」
茅乃はすでに見た後だ。それともこの執務室にいるひとたちにも素顔を見せたくない、という意思なのだろうか。
不可解な、と思った茅乃に、ユスフから声がかかる。
「もしかして神子様は、そいつの顔を見ましたか?」
「あ、はい」
「試しに、どういう顔であったか聞いても?」
どういう・・・・、と茅乃は眉を寄せた。
天井の上から降り、廊下にいる最中に逃走を図ろうとしたワンワンの顔を思い出す。
「どう、というほど特徴のない顔・・・・・」
美形だ、とか普通だ、とかいう感想ではない。それ以前に、これといった印象が残らない顔だったように思う、と茅乃は正直に答えた。顔は見た、はずなのに、目を離した次の瞬間から印象にまったくといっていいほど残らない。不思議な顔だといえた。しいて覚えている点を挙げるなら、頭髪が全て真っ白、ということくらいだ。キアヒムのように一見白色に見える銀髪、というわけではなく、完全に色の抜けた白髪である。
そう言うと、ユスフは低い声で吐き捨てた。
「・・・・・失態を」
さらにワンワンの体が震える。
「あの?」
どうやらユスフはワンワンに対し怒っているようだが、なぜ怒っているのか茅乃にはよくわからない。先ほどの質問の意図もわからず、どういうことだろう、とさらに首を傾げる。
「・・・・・陛下」
ユスフが言葉も短くキアヒムを振り返る。
なにがしかの意図を汲み取ったキアヒムが、ひとつ、どこか仕方なさそうに頷いた。
「陛下の許可が得られましたので、ご説明いたしますが」
「あ、はい」
「事実、俺もそいつもこの国の諜報機関に所属しております。が・・・・」
ジロリ、とユスフはワンワンを睨む。ビクリとワンワンが震える。
「秘匿されるべき情報なのですよ」
そのひとことで、諜報機関という組織の本質の、端を垣間見たような気がした。
目に見えない情報というものをやり取りする組織である、ということだ。
どうしよう、と茅乃は傍らのワンワンを見る。
このひと、いろいろ暴露しちゃってたけど・・・・。
だいじょうぶかな、と考えていると、ユスフがさらに低い声を出した。
「警護していることに気付かれただけでなく、身元を口外し挙句俺の名前まで出したのか。ワンワン、後で懲罰房にぶち込んでやる」
だいじょうぶじゃなかった。
だいぶお怒りの様子である。
「あのー、ワンワン君はどうして顔を隠しているんですか?」
その点が腑に落ちず、茅乃はこれも秘されるのかな、と思いながら訊いてみた。だが、予想外にもその質問に答えが返ってきた。
「諜報部に所属するものにもいろいろありますが。俺は表に出ることもあるので顔を見られようがどうなろうが問題はありません。むしろこの顔で情報を得ることもありますので、制限はかけていないのですが」
「・・・・・」
それはユスフに対する第一印象の、危険な気配駄々洩れのことと関係あるのだろうか、と茅乃は考える。
「そのワンワンは完全に裏方の所属ですので、顔を知られてはやりにくい事態が生じるのです。ですから、顔を見られたことは失態に繋がるのですよ」
「あっ・・・・・」
さすがに、馴染みのない機関の説明を受けてすぐになるほど、と頷けるほどすべてを理解したわけではない。だが、ユスフの言う諜報部の中に、正体を知られてはいけないひとがいる、ということは察することができた。
「わたしは、なにもきいてないしみませんでした」
棒読みで茅乃がそう言うと、
「理解が速くて助かります」
よくできました、と言わんばかりにユスフがトロリと笑う。
部屋のいちばん奥、執務机の前に座っているキアヒムが正真正銘のため息を吐いた。
「これを説明する気はなかったんだがな。ユスフは機関の副長官にあたる。長官はその組織の性質上紹介することは本来できないんだが、カヤノ、会ってみたいか?」
「えっ、きあひむくん、なんのことをいってるの?」
「・・・・わかった。この話はここまでにしよう」
そうして! と茅乃は心の中で叫ぶ。せっかく丸く収まりそうなものを掘り返すのはよくない、と茅乃は強く思う。知ってしまったものは仕方ないが、秘密など知っている数は少ないほうがいいに決まっている。
「それで、カヤノはどうしてワンワンを捕まえているんだ?」
話が振り出しに戻った。と同時に、そうだった! と茅乃は本来の目的を思い出す。こればかりは丸く収めるわけにはいかない。
「ワンワン君が、トイレにいたんです!」
「といれ、とはなんだ?」
「あっ、お手洗いのことです!」
お手洗いの天井裏に!
覗き行為を!
と茅乃がワァワァと騒ぐと、ラムジとアビダ、そしてカシュアが冷ややかな白い目をワンワンに向けた。ユスフは射殺さんばかりの視線を向けている。ワンワンは震えている。
そのなかでキアヒムが首を傾げた。
「ワンワンはカヤノの部屋の警護に当たっているんじゃなかったか」
「そう言ってましたね」
「警護の間は離れることができないから、仕方ないんじゃないか」
それはほんとうに仕方ない、というよりは、どうでもいいというふうに、なにも気にしていない態度のキアヒムを見て茅乃は瞠目する。
「それは、困るんです!」
「なにが困るんだ?」
「な、なにがって! わたしの、個人的な権利が!」
「個人的な権利?」
「そもそも、お手洗いとお風呂はひとりで入るものでしょ!」
「そうか?」
キアヒムとの会話が、平行線をたどる。茅乃の主張にキアヒムは首を傾げ、その反応に茅乃が反発する。埒が明かない応酬をしていると、アビダが控えめに片手を上げた。
「あの、陛下。発言を行ってもよろしいですか?」
茅乃とのやり取りをいったん止め、キアヒムが頷く。
「許可は取らなくていい。執務室での発言は自由だ」
「ありがとうございます。神子様と同じ女性として申し上げますが、神子様の反応はごく一般的なものです」
思いもよらないところから援護が入った、と茅乃は感激しながらアビダを見つめる。
「さらに言えば神子様は多感なお年頃のようにお見受けします。そちらの」
チラ、とアビダがユスフとワンワンに目線をやる。
「やり方に口を出すつもりはございませんが、神子様のおっしゃるとおり、異性の人間がお手洗いにまで入って来ては覗き行為だと思われても仕方のないことかと」
「弱点として突かれるのはそういう場所だが」
笑みもなくユスフが言う。
「では、せめて同性の警護にするべきです」
アビダも退かない。茅乃もアビダに頼ってばかりではいけない、と口を開く。
「あの、警護のお仕事がある、というのはわかりました。だけど、アビダさんが言ってくれたように個人的な場所にひとが入ってくるのは慣れていないんです。せめて、どうしようもないというのなら距離を取ってもらえませんか?」
ここには諜報部という部署があり、所属しているひとが警護という仕事を行っていることは理解できた。だがその内容を全面的に仕方ない、と言って流せるくらいなら最初からワンワンを捕まえたりはしない。
意見の主張はするが、ユスフとワンワンが仕事にあたっている以上、あちらが退くべきだとは考えない。その上で、ここが中間地点だろうか、という意見を併せて言ってみる。
「ユスフ。同性で付けることはできるか?」
キアヒムの問いかけに、ユスフが短く答える。
「いまは適当なものがおりません」
「そうか。ではカヤノの案を取ろう。警護の際は状況を見て距離を取れ」
「かしこまりました」
キアヒムがそう決定し、ユスフが返答したことで方針が定まった。もう捕まえておく必要もないのでワンワンの首根っこから手を放すと、とたんにワンワンの姿が消える。
「えっ」
カタン、と部屋の隅、天井のほうから音が聞こえた。
「あいつは警護に戻りました」
「・・・・天井裏が、定位置ですか」
「そうですね」
ユスフからの返答を聞いて、あんな薄暗いところにずっといるのか、と思っていると、キアヒムが真面目な表情を茅乃に向けてきた。
「カヤノ」
「はい」
「相手がどういう人間かわからないうちは、追いかけて捕まえようとするな」
「そう言われても・・・・」
みすみす見逃せということだろうか、と茅乃が眉根を寄せたとき、キアヒムがさらに言った。
「危ない場合がある。警護が付いている以上、追跡は慣れているものが行う。だからひとりで追いかけようとするな」
そう説明されてしまっては、寄っていた眉も下がる。
「・・・・わかりました」
茅乃が理解したのを見て取ると、キアヒムは話は終わりだと軽く頷いた。その後、室内を見渡すようにする。
「朝食の用意をさせる。ここで食べていくものは?」
執務室の中の、キアヒムと茅乃以外のものが迷わず挙手した。王城の中において王が食べるものは最上のものである、ということは周知の事実である。
だろうな、とキアヒムがつぶやく。
「カヤノは?」
「・・・・・」
訊かれて、そういえば、ずっとまともな食事をしていなかった、ということを思い出した。
そしてそこからしばらく寝ていた状態の後だ。
「・・・・お腹空いてます」
いただきます、と茅乃が答えると、マーサが
「手伝いに向かいます」
そう言って廊下へと出ていった。
今回も活動報告を書いております。よろしかったらご覧ください。




