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青の塔  作者: あきお
24/55

23   合流






 丘陵線上に立つ赤髪の人物は、弓を下ろして反対側の手で剣を抜いた。


 中天を指すように、真っ直ぐ頭上に掲げる。その動作の間に、稜線の上に別の人馬の姿が現れた。

 パラパラと丘の向こうから現れたその数は、間を置かずに丘の上を埋め尽くしていく。後続に押されるようにじりじりと砂の上を流れるように先陣が丘の上から少しずつ降りてくる。

 レオトールの追手の集団に匹敵するほどの数が丘の上に姿を現し、飽和するのではないかと茅乃が考えたとき、その静かな空間につよい声が響いた。


「突撃」


 号令だ、と気付いたのは、空気を震わす鬨の声がそれに続いたからだ。

 せき止められたものが流れ出していくかのように、太く、力強い声とともに、西の丘の上からキアヒムの言う援軍が疾走する。レオトールの追手が上げていた威嚇するような声とはまったくちがう、有無を言わせぬ迫力とともに押し迫ってくる。

 丘の上を駆け下りたアズイルの援軍は、砂の上の茅乃とキアヒムを避けながら疾走していく。その馬を見て、茅乃はキアヒムがレオトールの馬を放した理由がわかった気がした。

 茶色、というよりは黒味が強いその馬体は足が細く、駆ける動きのたびに胴体の筋肉が皮膚の上からでも捉えることができる。放した馬と同じ馬であるのに、体のつくりがまるでちがって見えた。躍動感あふれる疾走はしかし、砂に沈むことなく奔流のような勢いで号令のままにレオトールの追手へと突撃していく。

「・・・・・」

 茅乃とキアヒムの周囲を避けて走っていくその集団を、茅乃は声もなく見ていることしかできなかった。ちゃんと避けてくれている、とは思うものの、人馬の集団が迫ってくる光景には恐怖が勝る。じぶんの目線が砂の上に座ったまま、その馬の足と変わらない位置にあればなおさらだ。

 息を詰めるように援軍が駆けていくのを見守り、レオトールの追手と戦闘状態になったのを見つめていると、ほど近くで砂の音がした。

 軽い音とともに砂の上に降りたのは、弓をつがえていた赤髪の人物である。意外と細身であるように見えた。手に持っている弓は近くで見ても大きい。よくこんな弓を引けるなと思いながら見ていると、その人物と目が合った。茅乃を見てニコリと微笑んだ顔に、優しそうなお兄さんだなぁという印象を受ける。

 その赤髪の男は数歩離れたところで膝を着いた。

「キアヒム様、どういった状況でしょうか?」


 ・・・・・キアヒム、様?


 首を傾げた茅乃の前で、ふたりのやり取りが進んでいく。

「レオトールの、毒にやられている」

「中和は?」

「いまやってる」

 ふむ、と赤髪の男は頷くと、背後を振り返った。

 そこには戦闘に加わっていない人たちが数人いて、その中のふたりほどが指示を受けて水路へと向かった。それぞれ器と布を手にしている。ひとりはキアヒムの傍らに膝を着き、丁寧に器を傾けて口に含ませている。もうひとりは水分の方が多いような布で傷口を拭っている。

「・・・・・」

 その様は繊細な紙でも扱うような丁寧さで、しかも誰もが口を開かない静かな中で行われている。まるで、粛々と、といったほうが正しいような雰囲気の中、茅乃はただポカンとしながらその手当ての様を眺めていた。

「もういい」

 器の傾きが半分ほどになったころ、キアヒムがその腕を上げた。力の入った声と、もう震えていない腕をまじまじと茅乃は見つめる。

 上体を起こし、器を受け取って残りの水を飲み干すキアヒムの姿は、先ほどと比べるとはるかに回復している。それでも息を詰めるようにキアヒムを見つめる茅乃に、ゆっくりと言い聞かせるように声がかかった。

「カヤノ、もう大丈夫だ」

「・・・・・・」

 ふつうに座って、震えることもないキアヒムの体と、背後で続いている戦闘を振り返って見る。戦況はまだ決着が着いていないが、多勢に無勢の状況はすでにひっくり返った。見ている先でも、アズイルの軍勢がレオトールの追手を押しているように感じる。丘の下で開戦した戦線は向こうの丘の中腹あたりにまで動いていた。そして、目の前に座っているキアヒムへと視線を戻すと、なんの懸念も抱いていないような、いつもどおりの銀色の眼と眼が合った。

 ああ、と茅乃は腹の底から息が出ていくのを感じた。

「もう、安心ですか」

「そうだ」

 大きく頷く姿を見て、茅乃もようやく安堵の実感を得た。この眼は茅乃とちがうものを見ている。先を見、状況を見ている。戦況など不安定なものであるとは思うが、それ以前にキアヒムはこの援軍を信頼しているのだ、ということが理解できた。

 これでちゃんと眠れるのかな、と考えた茅乃の横で、キアヒムが立ち上がった。それに倣うように赤髪の男も立ち上がる。

「カヤノ」

「は、はい」

「こっちが、カシュアだ」

 赤髪の男を示されて、簡単に説明される。その名前を聞いて、茅乃は慌てて立ち上がった。

「は・・・・」

 はじめまして、とじぶんも自己紹介しかけて、ふと瞼の裏によみがえった光景に言葉が詰まる。


 篝火に照らされていた、あの光景。


 処刑されてしまう、頭の中で考えていたつもりだったが、現実の声に否定された。

「カヤノ、ここはレオトールではない」

 いつの間にかもれていた言葉を拾われて、茅乃はキアヒムを見上げる。

「話しただけで処刑されるような国ではない。それに従うならオレが真っ先に処刑されることになるだろ」

「・・・・・ふつうに、話しても、だいじょうぶですか」

「アズイルはレオトールとはちがう。話しても大丈夫だ」

 そうだった、と茅乃は認識する。

 ここは砂漠で、レオトールの後宮でもなければ国内ですらない。レオトールの決まりごとはもう効力を持たない。キアヒムが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう、と納得して、赤髪の男の前に立つ。

 向かい合うと、背の高い人だと思った。手にしている弓は間近で見ても大きく、その身長と同じくらいの長さがある。いちど抜いていた剣はいまは鞘にしまわれており、その剣と鞘も体格に合わせて作られているのか、大きなものだと思えた。


「はじめまして、カシュアさん。わたしは茅乃と申します。神域での怪我が治っているようで、なによりです」


 言えた、と茅乃は思った。

 いつか、こうやって、なんのためらいもなく恐れもなく、挨拶をしてみたいと思っていた。身分があるとか、神子であるということとか関係なく、他人に対して挨拶することがふつうであると、実感したかった。そして、キアヒムが大丈夫と言うのなら、ここがその場なのだろうと茅乃は思えたのだ。

 穏やかそうな表情を浮かべていた目の前の人物が、茅乃の言葉を聞いたとたん破顔した。年上の人の、満面の笑みに茅乃は驚いたものの、内心だけに留めておいてカシュアと紹介された男を見上げる。

 カシュアは丁寧な動きで肩から垂れる外套を払った。一瞬で空気が硬質なものへと変化する。笑みをおさめ、静かにその場に片膝を着くと、右手を左胸の上へ置くような形を取り、頭を垂れた。

「神子様には御礼申し上げます。ご加護を賜り命を永らえることができました」

「・・・・えっ?」

 ちょっとなにを言っているのか理解できなかった。

 いきなりの丁寧な口調だったこともあるし、膝を着かれたどころか頭を下げられて内心動転したのもある。そしてその放たれた言葉自体が理解できなかった。

「すみません、ちょっと、頭を上げてもらっていいですか」

 頭どころか姿勢を戻してもらいたい、と茅乃は焦る。

 見たところカシュアは二十代後半くらいのように思えた。目上の人だ、と思っている初対面の人物に頭を下げられる理由などない。

 立たせよう、と手を伸ばして、そうだった、触ることができないんだった、と思い出す。

「加護とかって言われてもよくわからないんですが」

「傷を治していただきました」

 それはじぶんの働きによるものではない、と茅乃は思った。なにをすればいいのかすらわからずに、言われるままに水を運んだんだけだ。

「あの、わたしは特になにもできなかったです。キアヒム君に言われるまま水を運んだだけで」

 立ってください、と促すと、カシュアはようやくその姿勢を戻した。パチリと瞬きをし、口の中で繰り返すようにつぶやく。

「ふむ。なるほど、いいですね、『キアヒム君』」

「黙れ、カシュア」

 とたんに横から叱責のような鋭い声が飛んだ。

「お前にその呼び方は許していないぞ」

「やっぱり駄目ですか」

 いい響きなんですがねぇ、とたいして堪えていなさそうにカシュアが言う。そのやり取りを見て茅乃は軽く混乱した。


 えっ、この呼び方、許可がいるの?

 というかキアヒム君、年上の人に向かって、その言い方はいいの?


 唖然と口を開けてしまった茅乃の視線の先で、キアヒムが西の方向に歩いていく。その先にはさきほど手当てをしていた人たちと、ほかにもなにやら手に持っている人たちがいた。そしてその端には豪華に装飾された一頭の馬を引いている人が立っている。その馬は飾りを省いても見るからに立派な馬であるように思えた。たぶん上等な馬なんだろうな、と考えている茅乃の視線の先で、キアヒムが傍らに控えるように立っている人から服を受け取り、歩きながら上衣の着替えを済ませ、これまた煌びやかに装飾の施された剣を受け取って装備し、真っ白に見えた光沢を放つ布を肩から纏う。

 歩きながら他人の手も使い一連の動作を終えたキアヒムは、最後に馬の前で止まった。

「第三部隊まで出てきたか。大所帯だな」

 手に持つものがなくなった人たちは、全員大人であるにもかかわらず、誰もが静かに膝を着いていた。その中でキアヒムの後を歩いていたカシュアが飄々とした口調で答える。

「我慢の利かないものたちばかりで手を焼いております」

「まるでじぶんは我慢ができるみたいな言い方だな?」

 そう返されたカシュアの口角がゆるりと上がる。

「まずは寿ぎを。無事のお戻りは我らの悲願でありました」

「心配をかけた」

「いいえ、もう過ぎたことです。あとは王城に帰還するだけです、陛下」

「そうだな」


 なんとなく、カシュアの後ろをついて歩いていた茅乃の、足が止まった。


「・・・・えっ?」


 いま、なんて言った?


 ・・・・へーか。

 ・・・・へいか。

 ・・・・陛下?


「お、王族っ」


 逃げよう、と踵を返した。

 東、はいま戦闘中だ、だめだ、と茅乃は逡巡する。西は現にキアヒムがいる方向だ。逃げる先にならない。南は遠く、そうだ、北だ、と茅乃は閃いた。砂に足を取られて転びかけ、二歩目を踏み出そうとした茅乃の腕が背後からガッチリと摑まれた。

「ヒッ!」

「どこに行くんだ?」

 すぐ後ろにキアヒムが立っていた。あっという間に距離を詰められ、片腕を拘束されている。これを無理に振りほどこうとすれば大惨事になる。身動きが取れないまま茅乃は馬鹿正直に答えた。

「き、北にっ! 霧の中にっ!」

「迷うと言っただろ」

「なんとかなる!」

「そういう子供じみた答えはやめろ」

「・・・・いやいやいやいや、ちょっと手を離してくれない? 行ってみないとわからないよね!?」

「カヤノ」

「やだやだ! もう王族とかと関わりたくない!」

 振り払うこともできず、思うように逃げ出すこともできず、けれどもどうしても王族とはもう関わりたくないと思っている茅乃の目はもう涙目だった。キアヒムとともにここまできたけれど、またあんな扱いを受けるくらいなら北へ逃げたほうがマシだ、と本気で考えている茅乃に、静かな声が降る。

「カヤノ」

 なんとかその手が緩まないかな、と見つめていた視線を、すこしだけキアヒムに向ける。

「王族の、なにがそんなに嫌なんだ?」

「れ、レオトール、の王族は・・・・・」


 なにが嫌なのか。考えて、それは全部だと思った。


 このひと月以上の、神域からのすべてがあり得ない、と。いっさい茅乃の言うことや内心が慮れることもなく、軟禁下におかれ、ほとんどしゃべることさえできなかった。けれども、いちばんあり得ないのは、どれだけ茅乃があり得ないと思っていても、それらがまかり通ってしまうことだ。

 王族か、王宮の決定によって方針が決められ、否を唱えることも逆らうこともできず、たとえそれをやったとしても処刑という最後が待ち受けている。そして、独断専行にも思える処刑を行ったところで、誰もそれを止めることさえない。

 王族が嫌、ということではない、と気付いた。ただ、


「こわい・・・・・」


 王族という国家中枢に位置する人物の、権力というものを痛感したのだ。どれだけ茅乃の価値観とちがうことが行われようと、それを止めるものはいない。強行されてしまう。なぜなら、最高権力を持っているから。

 ただの一個人として、平凡に高校生をやっていた茅乃には理解できなかった。受け入れられることでもなかった。だから逃げ出したのに、ここでもまた王族が絡んでくる。もういい、関わりたくない、と思ってしまうのも無理からぬことだった。

 じりじりと身をよじって腕から逃げ出せないかな、と考えていたが、いっこうにキアヒムの腕が緩む気配はない。

「カヤノ。カヤノはレオトールの王族が怖いのか? それともオレが怖いのか?」

「・・・・・」

 静かに問いかけられたその内容を、茅乃もまた静かに考えた。答えはすぐに出た。

「キアヒム君は、こわくない・・・・」

 茅乃が恐れるのはレオトールだ。レオトール国の中にいるレオトールの王族、特にあの王子とその周囲にいるのであろう人たち、そしてそれに従うひとたちだ。

「・・・・あれっ、キアヒム君は、こわくない・・・・?」

「さっきも言っただろう。アズイルとレオトールはちがう国だ。レオトールの中ではひどい扱いを受けたのかもしれないが、アズイルでは同じことにならない」

「ほ、ほんとうに・・・・?」

「その眼で見てみればいい。アズイルがレオトールとはどうちがうのかを」

「・・・・・」

 思い返せば、キアヒムが高圧的に出たことも力ずくで来たことも、いちどとしてなかった。あの王子と比べてみても類似するような点はどこにもなく、それどころか常に冷静であったし、さらには夜中に押しかけていた茅乃の話さえよく聞いてくれていたように思う。


 コク、と茅乃は力が抜けたように頷いた。


 この瞬間、ときは真昼、空は青く太陽はあれど、西の上空にみっつめの守護星が移動したことを茅乃は知らない。ましてやそれがアズイルにとっては誉れであり、レオトールにとっては不名誉である、ということも。


 どうしてもだめなら北に逃げよう、という思考も頭の片隅に置いておいて、茅乃はキアヒムを見上げた。

「わ、わかりました。あの、お世話になります」

 キアヒムの手が離れる。そして大きく息を吐いて、こう言った。

「アズイルは当代神子を歓迎しよう。ようこそ、アズイルへ」

 その言葉を聞き、そしてレオトールに連行されたときとはちがう、縄もなにもかかっていない解放された腕を見た。連れていかれるのではない。怪我を負わされることもない。


 この身は自由だと思った。

 そして、選択肢さえあった。


 これが、アズイルなのか、というのがアズイル国への第一印象だといえた。

 じわり、と胸の内に説明のできないなにかが広がる。それがどういったものであるかはわからないまま、胸元に手をやって首を傾げる茅乃に、キアヒムの声がかかる。

「カヤノ、荷物はどうした」

「・・・・あっ」

 そう言われれば、釣竿と靴を放り出したままだった。

 あぶないあぶない、と振り返って見れば、薄い茶色をした砂の上、黒い革靴はすぐに見つけることができた。釣竿の色はほとんど砂と似たような色ではあったが、散乱した靴のほど近くに転がっているのを発見する。よかった、と靴を拾って履き、釣竿を取ろうとしたとき、大きく弾けるような音がした。


 バチン、と鼓膜を震わせた振動に、茅乃は痺れたような指先をおさえることもできないまま体が傾いていくのを感じた。


 静電気、みたいな・・・・・。


 ここまでの逃走を耐えた茅乃の意識は、まるで刈り取られるようにブツリと途切れた。砂にその顔が着く前に瞼が落ちる。



「カヤノ?」

 聞いたことのない音がしてキアヒムが顔を上げると、空中で光の破片が散るところだった。真っ白の光に触れたカヤノの体が一瞬硬直し、傾いでいく。

「どうした」

 かろうじて地面に落ちる寸前で受け止めた体に力はいっさい入っておらず、その顔を見れば落ちた瞼が動く様子はない。意識がない、ということを見て取って、キアヒムは眉をひそめた。


 なんの力が働いている?


 過酷な逃走に耐えていた意識がいま飛んだ、と考えるには唐突すぎた。事実、空中で光が散る現象など、キアヒムは今まで見たことがない。

 おそらく人の力を越えたものだ。

 キアヒムは真っ白の外套を外し、それでカヤノの体を包んで抱え上げた。暑い暑いとつぶやいていたカヤノの肌は赤く変化しており、太陽に負けはじめている。このままでは皮膚が爛れる、と外套を日除けに使うことにした。もともとアズイルではそのために用いている。砂の上の釣竿も拾い上げ、まとめて包む。

「陛下、神子様はどうされました?」

「さあ、オレもよくわからんな」

 怪訝そうにのぞき込んできたカシュアに、キアヒムもまた首をひねることしかできなかった。

 ともかく、意識をうしなったものを放っておくこともできない。この目立つ外套を身に着け、旗頭として加勢するつもりでいたが、予定を変更することにした。それに、戦況を見る限り兵士たちの士気がいつもより高いように感じた。

「訓練が捗ったのか?」

 キアヒムの視線を追ってカシュアもまた丘の中腹あたりを見やる。

「ええ、まあ、そうですね」

 じんわりと言葉を濁したカシュアを、キアヒムは冷めた目で見る。

「本当のところは?」

「ただの憂さ晴らしですよ」

「だろうな。報告はまた帰りながらでも聞こうか」

「は」

 短く返答したカシュアの、薄い青色の眼がある人物を捉えた。それはレオトールの軍勢のなかにあり、すでに後退している。全身を革の甲冑で覆い、武器を持つこともできない両腕の手当てを受けているのは王子の側近のひとりである。

「おやおや」

 見たことのあるものがいますねえ、とその口角が吊り上がる。無造作に背中の矢筒から矢を抜き取り、なんの貯めの動作もない動きでつがえ、放つ。ギリギリとしなるどころか撓むような音を立てた弓から放たれた矢は、戦闘中の集団の頭上を飛び、東の丘の側近に命中した。

 かすかな断末魔が聞こえてきたが、表情を変えるような人間はここにはいない。ただキアヒムがひとこと、カシュアに言う。

「お前、オレが両腕で済ませた意味がないだろうが」

「なにをおっしゃいます。ひとの腹に穴を開けておいて、手ぶらで帰らせてやれますか」

 神子が顕現したあの神域で、武器を手に迫ってきたのは誰なのか、カシュアは忘れてはいない。

「それに、我が国の王族に剣を向けることは極刑に値します」

 戦意があるかどうかは関係ない。もう武器を持てる身ではない、ということも関係ない。ここはレオトールの地ではなく、神域の上でもない。アズイルの地なのだ。アズイルにはアズイルの決まりがある。踏み込んできた以上、その報いは受けるべきだ。

「自らの身に加護がなかったことを、死後の世界で悔やむがいい」

 本性を剥き出しにしたカシュアに触発されるように、控えていたほかのものたちもそわそわと浮足立つ。第一から第三までの隊長と副隊長たちの抑えの利かないその態度に、キアヒムは軽く肩をすくめた。

「お前たち、もう自由時間だ。好きにしていいぞ」

 実質解放を意味する言葉を聞いて、隊長以下はなんのためらいもなく破顔した。

「では、お言葉に甘えて!」

 そう言って手に手に剣を抜き、それぞれの馬に飛び乗って駆け出していく。嬉々として戦闘に加わろうと疾走していくその後ろ姿を、やれやれとキアヒムは見送る。

 国が興って千年の歴史を持つアズイルは、昔から戦闘民族として成り立っているのだ。それをたった五百年かそこらの新興国が、ましてやなんの突出した特徴もないレオトールが、いったいなんの算段を立てて侵攻してきたのかは知らないが、おめおめと潰されてやるわけにはいかないのだ。


 まあ、危ないところではあったけれども、とキアヒムは内心で正直に吐露する。


 捕虜、ひいては人質になってしまう可能性は考えたこともなかった。ましてや脱走し、水路という国境を越えたうえでさらに追手がかかるということも想定したことはなかった。

 アズイルに現在存在している王族は、キアヒムひとりだけだ。王族、というより、たったひとりなので王家の血を継ぐ王位を持つもの、という存在となる。王妃はおらず、後宮も解体して久しい。側妃もおらず、どこかに子がいる、ということもない。事実、王位に在りその血を持つものはキアヒムしかいない状態だ。

 そして、その血を持つものが絶えた場合、どうなるのか、ということを先ほどキアヒムは真剣に考えた。

 国が亡ぶ。

 それだけは避けなければならなかった。

 レオトールの手にかかること、ひいてはアズイルの王族の血が絶えることは二の次だ。ほんとうに回避しなければならないのはこの身、この命にかかわることではない。

 キアヒムが王として守らなければならないのは、アズイルの地で暮らすすべての民の生活を守ることだ。そのためにはアズイルという国を存続させなければならない。

 ここに神子がいたのは奇跡だと思った。おそらくカヤノ本人は知ってもいないし理解もしていないだろうが、神子はいずれの国のどの玉座にも座ることができる。仮の措置ではあるが、過去に前例があるとして記録にも残っている。神子と王族が同等である、という真の意味は、そこにあるのだ。

 神子さえなんとか逃がし、おそらく王都から出立しているはずの援軍にその身を守らせればアズイルの国という体は保たれる。なんとかなる、とカヤノに告げた真意がそれだ。


 と、思っていたが。


 王族として生まれ、王として死ぬのだろうと考えていたキアヒムは、考えたこともなかった。この身の内に、キアヒムというひとりの人間の、欲とも願望ともつかないものがあるのだということを。

 逃げろ、と口では促しながら、その神子の足を鈍らせたのはまちがいなく砂の上を掻いた跡だ、ということをキアヒムはあのとき理解していた。ただの、個としての願望ともつかない跡を見られることは恥だとさえ思っていた。けれども、ことが起こってしまえばもはや、そうは思えなくなっていた。隠しきることさえできなかったキアヒムの願望を、カヤノはただしく受け止めたのだ。


 雲ひとつない、底抜けに晴れた青空を、キアヒムは見上げる。


 教育を受け、王位に就き、過不足なく治めることができていると考えていたキアヒムは、はじめてじぶんの浅はかさを知った。神子を利用できるだろうか、とそれとなく機会をうかがっていたわけだけれども。


 これは、そういった範疇に納まる代物ではない。


 砂の上に倒れたまま見上げた、一瞬で出現した砂の壁を思い出す。

 どうして、こんな存在を利用できると考えたのだろうか。


 外套に包まれたまま、動く様子のないカヤノの顔を見下ろす。

 ここには意識のないカヤノと、じぶんとカシュアしかいない。傍らに立つカシュアに訊ねた。

「あの砂の壁を見たものは、どれくらいいる?」

「おそらく、私だけかと」

 それなら緘口令を敷く必要もないな、と考えるキアヒムの横で、カシュアが少年のようにわくわくした口調で言った。

「いやあ、いいものが見れました」

「・・・・・」

 よくあんなものを見てそんな感想が出てくるな、と呆れ半分感心半分でカシュアを見る。その視線を受けたカシュアがなんの臆面もなく白状する。

「お会いしてみたかったんですよ、神子様に」

「へえ。なぜ?」

「恩人ですから!」

 当代神子様の加護を受けたのは、私が最初ですよ、と晴れ晴れというカシュアに、たしかに、とキアヒムは納得してしまった。

「それじゃあ、その恩人である神子をいまのうちに王都まで連れていくとするか」

 言質も取れたことだし、そう嫌われているようでもなさそうだ、とキアヒムは考える。

 王族を嫌悪しているようだが、限定されてもいる。そもそも、ほんとうに嫌だというのなら、相手の手が千切れようがどうなろうが逃げるべきなのだ。だが当の本人は腕を摑まれるたびに硬直し、無理に動かないようにと自身の行動に制限さえかけている。気遣われているくらいなら嫌われてはいないのだろう、とキアヒムは判断する。

 そのためには、とキアヒムとカシュアのふたりの眼が東へと向いた。


 思いのほか戦闘が長引いている。

 分は明らかだというのに、レオトールが粘っているのだ。怪我人を多く出し、隊列などもはや意味をなさないほどに追い詰められているのに、撤退しようとしない。

 上官が無能だと末端が憐れだな、と東の丘の上を見上げる。先ほどその存在を確認したレオトールの王子が、こちらを見ていた。


 たしか、カヤノが持つ釣竿が欲しいとわめいていなかったか。


 子供が玩具を欲しがるわけでもあるまいに、と冷ややかな眼で見返していると、東の丘の向こうから一騎駆け上がってきたのが見えた。その馬が、小さな旗を掲げている。

「急使ですね」

「なにかあったか」

 静観していると、間もなくレオトールの軍勢がようやく撤退する兆しを見せ始めた。

 じりじりと、こちらを警戒するように撤退していく様を、こちらも警戒をもって見守る。退いた、と思って背を向けたとたんに襲いかかられてはたまったものではない。そしてそれくらいのことをレオトールならやりかねない、とキアヒムもカシュアも想定している。

 やがて丘の下にも上にもいたレオトールの軍勢が退き、あたりが静かになり、それでも状況を見守っていたアズイルの軍勢の上に一羽の鳥の鳴き声が響く。


 ピィッ、と高く笛の音のような声を聞いて、キアヒムは顔を上げる。

「カヤノの鳥か」

「ああ、見張っていてもらったんですよ。賢い鳥ですね」

 どうやらほんとうに撤退したようですよ、と下降してくる鳥に、留まれるようにと腕を掲げたカシュアの言葉を聞いて、それはほんとうに鳥ができることなのか、と疑問を抱く。

 当の鳥は下降して、止まり木替わりに差し出されたカシュアの腕を無視してカヤノの体の上に着地した。

「やはり、飼い主の方がいいのですかねえ」

 ピヨッ、と鳴いた鳥は卵でも温めるような格好でカヤノの上で丸くなる。

「カシュア、紐か縄でも持っているか?」

「ありますが・・・・。まさか神子様を縛るので?」

「落ちるよりいいだろ」

 そうしてこちらもまた撤退してきた自軍に向かって、キアヒムは号令をかけた。


「ご苦労だった。これより帰還する」

 おお!と返ってきた声を聞いて、キアヒムはようやく戻ってこれたのだと実感した。




今回、はじめて活動報告を書いております。ほぼ作者の反省で構成された文となりますが、それでもいいよ、と思ってくださる方は、どうぞ読んでやってください。

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