21 越境
「―――ふぅ・・・・」
息を吐くと同時に目が覚めた。
いく度か瞬きをして頭上の光景を見る。すぐには焦点が合わず、濁ったような視界からやがてクリアなものへと変わっていく。その視界の中で捉えたのは、明滅する星と、濃い闇を抱えた夜空。
うん、明け方ではなさそう。
眠る前に決めたとおりのまま、起きられたことにひとり頷く。
痛んだままの体をゆっくりと起こし、全身の様子を見ながら少しずつ立ち上がる。よいしょ、と完全に立ち上がって、水路へ向かい、顔を洗う。喉も乾いていたのですこし水を飲み、就寝していたと思われる場所に戻ると、すこし離れたところにキアヒムが座っているのが見えた。どこかぼんやりと、薄く開いた目が茅乃に向けられたのがわかる。
その眼を見返したとき、髪同様、銀という色素は光を集めやすいのだ、ということを発見した。馬からほど近いところに座っているキアヒムの髪はごく弱く光を反射しており、眠っているのかと思っていた眼でさえも頼りないはずの星明りを集めている。
日本じゃ見ない色だなぁ。
完全に真っ黒の髪と目を持つ茅乃にとっては、その色は珍しいものでしかない。陽光の下で見れば白に近い色なのはすでに知っていたが、夜空の下であっても光を纏うとは思わなかった。鑑賞でもしている気分でその色を眺める。
「キアヒム君、交代できますよ。すこし寝ておきますか?」
近くに行き、そう声をかけると、
「・・・・・いや」
返答さえもどこかぼんやりしている。
ちゃんと休息を取っているのだろうか、と茅乃の眉が下がる。
どう考えても、茅乃よりかは睡眠時間は少ないはずだ。ただでさえ環境のよくない牢に入れられ、そこからの逃走である。さらには雑務も戦闘も任せっぱなしだ。
体力が尽きるのではないか、と考える茅乃の前を、立ち上がったキアヒムが横切って水路へと向かう。先ほど茅乃がしたように、顔を洗って戻ってくる。
「目が覚めた。移動する」
そう言って杭を抜き、手綱を取り鞄を持つ。簡単な作業を終えたキアヒムを見上げていると、怪訝そうな声がした。
「なんだ?」
「あの、ちゃんと眠れてます?」
差し出がましいかも、とは思うものの、言わずにはいられなかった。
訓練を受けている、と言っていた。その口ぶりからもそれこそ軍属の経験があるのだろう。その中で逃走の手段と経路を導き出している、ということは茅乃でもわかった。逃走の途中だ、多少の無理を押してでも行かなければならない。だが体力や道程の配分はしているのだろうとは思うものの、ひとつまちがうとすべてが瓦解する。漠然と感じるギリギリの均衡は、不安の源でもあった。
「・・・・・」
茅乃の身支度といえば釣竿を持つだけ、両手でそれを握りしめる茅乃をキアヒムがしばらく無言で見下ろしてくる。
「・・・・ちゃんと、とは言い難いが」
「あの、やっぱり」
「いや、出発する」
「・・・・・」
そう言うのであれば、茅乃がこれ以上言えることなどあるわけもなかった。
暗くてなにも見えない足元に目を向けながら口をつぐむ。キアヒムが行くというのなら従う、それ以外に茅乃は選択肢を持たない。
「わかりました」
「・・・・カヤノ」
「はい」
呼ばれて顔を上げると、先ほどよりはっきりと覚めている眼と眼が合った。
「おそらく、今日中には神域に着く」
「・・・・? はい」
なんの話だろう、とは思ったものの、今日の予定でも教えてくれるのだろうか、と黙って聞くことにする。
「神域の範囲は狭い。これまでの行程よりも早く抜けることができるだろう」
「はい」
「神域から南に伸びている水路を越えれば、実質レオトールから脱出したことになる。あと一日にも満たない時間でアズイルに入ることができるだろう。ひと月以上牢にいたことを思えば取るに足らない時間だ。そしてアズイルに戻れば、オレは安心することができる」
ハッ、と茅乃は目を見開いた。
キアヒムにはこの逃走の終わりが見えているのだ。もしかしたらひと月の捕虜生活はキアヒムにとって終わりのないものだったのではないか。いつまで続くともわからない状況は、それこそきちんと休める状況ではなかったのかもしれない。けれども、脱出し、レオトールの決まりが効力を持たないアズイルに入れば、逃げ、追われるという状況が解消される。そうでないと、キアヒムはきちんと眠ることができないのだ。
きっと、それまでの辛抱なのだ。
状況に限りがあるのなら、耐えることができる。だとしたら、いまなにがなんでも休むことを勧めるべきではない。
「わかりました」
もういちどつぶやいて、茅乃は釣竿を握りしめる。神域が近い、つまりアズイルに近いところにいる、ということは、茅乃にとっても力強く思えることだった。
歩き出したキアヒムに続いて、茅乃も足を踏み出す。数歩歩いて、茅乃はふと顔を上げた。
「あれ、馬には乗らないんですか?」
「暗いうちは乗らない。馬がなにか踏めばもろとも転びかねない」
「そうなんですね」
それなら、夜明けまでは歩くことで筋肉痛の全身を休ませることができるかもしれない、と茅乃は考える。歩きながら休ませる、とは我ながら矛盾しているとは思うが、乗馬で使っている筋肉は酷使しないで済む。明るくなるまではメンテナンスだな、あとどれくらいかな、と夜空を見上げる。
夜闇が濃い。背後の東を振り返ってもその地平線に夜明けの色が見えることもない。起きたときとそう変わらない空はおそらく真夜中だろうと見当をつける。そうして空を見上げていた茅乃に、馬を引いているキアヒムが話しかけてくる。
「明るくなれば馬に乗るが」
「あ、はい」
いつもは黙々と歩くのに、さっきからやたらと話しかけてくるなぁ、と思いながら茅乃は返事をする。
「オレはじぶんの体調を把握できる。だがカヤノの体調まではわからない。無理があるようだったら言ってくれるか」
「はい」
反射のように答えて、ひと呼吸、ふた呼吸置いてから茅乃はようやく気が付いた。
「・・・・もしかして、気を遣ってくれてるんですか」
「もしかしてってなんだ? さすがに強行軍に巻き込んでいる自覚はあるぞ」
「いやー、わたしは思ったより頑丈みたいなんで、大丈夫です。ありがとうございます」
相変わらず体が痛むが、それこそ終わりの見えたものだ。耐えればいいだけのことだし、と茅乃は楽観的に答える。今だって、体は痛んでも動けてはいるのだ。ほんとうに限界を超えていたら動くことさえできないだろう。動く間は進めばいい。
応えた茅乃をどう捉えたのかはわからないが、その後キアヒムが必要以上に口を開くことはなかった。いつも通りふたりで黙々と西を目指す。
ちょうど夜明けごろ、遠くから足の裏に響いてくる怒涛のような音を聞いた。
薄く冴える夜明け前の空を、払拭するように白い光が射す。かろうじて西の空に残る青色を目にしながら、茅乃は口を開いた。
「なんの音です?」
「神域の水音だろう」
ああ、たしか東屋から落ちていた大量の水があった、と茅乃は思い出した。言われてみればあの水がみっつの国へと流れていることになる。しかも絶えることなく流れているのなら大量にもなるだろう、と考える。
夜中から歩いた距離はじゅうぶんに稼げていたようだ、明るい視界の中で思ったよりもずっと近い場所にあの建物が見える。
反り返った崖の上に乗せられたような東屋、その四方から落ちる青を湛えた瀑布。今よりもずっと距離があったときにも見たけれど、より近くで見ると感慨を覚える。崖のふもとには生い茂るような樹々が見えた。たしかあそこが滝つぼのようになっていたな、と茅乃は記憶をたどる。
「あそこに倒れていた人は、大丈夫だったんでしょうか」
たしか、キアヒムとは別のひとがひとり、倒れていた。意識もなく返答もなく、かなり重傷だったのを覚えている。
チラ、と神域へと目をやったキアヒムがあっさりと答えた。
「カシュアか。死体も残骸もないようだから、大丈夫だろ」
「・・・・・・」
あまりの言いように絶句する。言い方ってものが、と言おうとした茅乃の前で、キアヒムが馬の口から手綱を外した。
結局、夜明けと同時に神域に着いたので、馬に乗ることはなかったな、と思いながらキアヒムに訊ねる。
「外してしまうんですか?」
「ああ。こいつはもう放すから、必要ない」
放す。野にかえすということだろうか。
「連れていかないんですか」
「この馬ではアズイルの中を走れない」
「・・・・・?」
どういうことだろう、と首を傾げた茅乃に、キアヒムが前方を指した。
「見えるか?」
なにが? と思いながら捉えたのは、神域からまっすぐ南に伸びる水路だ。進路の正面、茅乃たちの行く手に対して右から左方向へと続いている。これが国境線なのか、と思いながらさらに首を傾げる。
「水路が、どうかしたんですか?」
「その向こうだ。神域の周囲を越えて西側に入ると、草原がなくなる」
向こう、と目を凝らした茅乃が視認できたのは、薄い茶色のような肌色のような色彩の、稜線だった。
「・・・・山? にしては樹がないなぁ」
「砂丘だ」
「さきゅう」
「アズイルのほとんどは砂漠だ。こんな貧弱な馬では走れない」
そう言って、キアヒムは軽く馬の背を手の甲でたたく。促された馬はあっという間に走っていってしまった。手にしていた手綱を地に落とし、腰に巻いていたベルトと剣も無造作に投げ捨てている。その姿を見て、思わず茅乃は確認するように言ってしまう。
「それも、いいんですか?」
「神域は基本武器の持ち込みは許されていない。そもそもレオトールの剣をアズイルに持ち込むつもりはないがな」
「・・・・・でも、レオトールのひとたちは剣を持ってましたよね?」
「掟破りだ。本来ならありえない」
短く、端的な物言いに、あの行為は禁を犯したものだったのだと理解する。
「いろいろな決まりごとがあるんですね」
知らないことのほうがまだまだ多いのだろう。
「その掟を破ると、なにか罰則があったりするんですか?」
「前例がないからなんともいえないが。レオトールの様子を見ている限り、特になにもないようだったな」
ということは、武器を持ち込んではいけない、という決まりは、心のもちよう、的な意味だろうか。そう考えるが、逆に武器の持ち込みが許されていない、という表現がなされたことに首を傾げる。
許されていない、と。
許す、許さないという視点は、いったい誰のものなのだろう。
「・・・・・・」
視線が落ちて、茅乃はその先にあるじぶんの手にあるものを見つめた。
どう見ても細く、立派にも丈夫にも見えないショボい釣竿だ。けれどもこれが茅乃のものだという。茅乃のためにつくられたものだと。
なんとなくそれで納得していたけれど、不思議な道具だとしか思っていなかったけれど、後から考えてみるとおかしくはないだろうか。
茅乃のためにつくった。
それは、誰が?
もしかして許す許さないという視点の持ち主と、この釣竿をつくったひとは、つながるのではないだろうか。
・・・・・そんなバカな。
あまりにも突拍子のない空想に、茅乃の足はいつの間にか止まっていた。虚脱したように空を仰ぐ茅乃を、振り返ったキアヒムが気付く。
「カヤノ、なにを見てるんだ?」
同じように空を見たキアヒムが、怪訝そうに見下ろしてくる。思考を取り戻した茅乃はハッと口を閉じた。軽く首を振って空想を散らす。
「いえ、なんでもないです」
いまは可能性の思考に時間をかけている場合ではない、と茅乃は思いなおす。最優先はレオトールからの脱出、そしてアズイルに入ること。足を止めている状況ではなかった、とふたたび足を動かす。
水路に沿って前へ前へと進むと、ほどなくして神域がちょうど右手にあたる位置にまできた。脳内の地図を展開すると、T字路に伸びる水路の、ちょうど三叉路地点に立っていることになる。右側を見れば水路を隔てたところに神域の木々があり、前方には南に伸びる水路、そこを隔てた向こうに広がるのがアズイル、ということになる。
水路はそもそもそんなに高い場所に設置されているわけではない。ちょうど茅乃の膝上くらいの高さに水が流れており、二十センチにも満たないような深度の下側は白い石で埋められている。
「・・・・・」
背後の東から前方へと続く西へ、まっすぐ。そして南にも伸びる水路。辺鄙なところに水場があるなあと最初に思ったのを思い出す。けれども、この水路もまた、誰かがつくったものではないのか。
やめよう、と茅乃は顔を上げて目の前の景色だけを意識に入れようと心がける。
その景色の、いちばん手前にある水路を見下ろす。
「これを越えれば、アズイルですね」
「ようやくだ」
よいしょ、と心の中でつぶやきながら、ふたりともに水路を越える。
とてもよく歩いてきた、という感慨が胸を占める。馬に乗せられていた時間もあるが、レオトールの後宮を出てからずっと移動してきた。日中歩き、夜中からも歩く。常にない経験を経て、徒歩でもなんとかなるのだ、という実感がわく。
歩いてきてよかった。
じわじわと胸の内に染みこむような感情をかみしめながら、隣を行くキアヒムを見上げる。
「なんとかここまで来れましたね」
もうだいじょうぶ、と思うと自然と頬が上がる。目が合ったキアヒムは二度ほど瞬きをして同意を示した。
「そうだな。あとはこの水路をたどって行けばアズイルの中心部に着く」
「砂漠だって言ってましたけど、水路があるなら水は確保できますね」
「食糧も確保できているしな」
なんとも不安要素の少ない、幸先のいい言葉に笑みがこぼれる。
下草を踏み、水路を目印にして進んでいると、キアヒムが言ったように足元の緑が減り、土とも砂ともつかない地面が見えるようになってきた。顔を上げればまばらに生える植物と、はるか視界の向こうには生き物さえいなさそうな薄い茶色の稜線。砂でできた山の輪郭が見えるだけだ。
「アズイルはほとんどが砂漠だって言ってましたけど、植物が少ないってことですか?」
「ないこともない。天然の水場がいくつかあるから、その周囲には自生している」
「へえぇ」
オアシス、というものだろうか。聞いたことはあるが、日本で生活をしていた茅乃は訪れたことがない。と考えたけれど、これから歩いて行けばそのオアシスというものを実際に見ることができる。
どんなところなんだろう、と考えているうちに、土の地面は消え、砂だけの足場へと変わる。同時に頭上から照り付ける陽射しが強くなったように感じた。
「あ、暑い・・・・」
「気温がちがうからな。慣れないうちは無理をするなよ」
「はい・・・・」
答えながら、水路がすぐ横にあってよかった、と思う。砂漠の中にあって水分の補給ができなければ死活問題だということは、いくら茅乃でもわかる。要である水の心配をしなくて済む、というのはとても助かることだ。
陽射しは強いが、体感的には日本の夏よりマシな気がした。なぜだろう、と考えて、さほど不快感を覚えていないことに気が付く。
湿度が低いのである。
空気自体はカラリと乾いている。おそらく、陽射しをしのぐことができれば、そう不快なものではないのでは、と予想する。
気温は高く、陽射しも強いものだが、それよりも茅乃を悩ませたものがあった。
足元の砂である。
一歩一歩歩くたびに、足が軽く砂に埋まる。ザス、ザス、と音を立てて足首くらいまで砂に沈み、なおかつ革靴の中に砂が入りこんでくる。
明らかにペースが落ちた茅乃を、キアヒムが振り返って待っている。土の上も砂の上も変わらないペースで歩けるのは、やはり慣れの問題だろうか。
「大丈夫か」
「す、すみません・・・・、早く歩けなくて」
「もう急いでいない。気にするな」
その返答に、茅乃は思わず顔を上げた。
そっか、と受け止める。
もう急がなくても良くなったのだ。足元に気を取られて下を向いてばかりいたからか、国境を越えていたというのに、まだ逃げている最中のような気がしていた。
そっか、ともういちど心の中でつぶやいて、茅乃は片足で立って、反対の足の踵に手を伸ばした。さきほどから靴の中の砂が気になって仕方ない。
脱いじゃえ。
こうすれば靴の中の不快感は消える。
両足ともに脱ぐと、意外にも靴下だけの方が砂の上にしっかりと立つことができた。足裏に砂の温度を感じはするが、耐えられないこともない温度だ。
なくさないように、と釣竿のテグスをいったん解き、靴を挟んで巻きなおす。それを背中側に差し込むと、歩くときの快適さが格段に変わった。
これで行こう。
心なしか歩くペースも上がったような気がする。あとはキアヒムが言うように無理をしなければだいじょうぶ、と進むことにする。
ペースが上がった、といってもそれは茅乃の感覚でしかなく、実際にはやはりキアヒムのペースの方が速い。ときおり砂に足を取られて転ぶ茅乃を、キアヒムが足を止めて待っている。なんどかキアヒムの手が差し出されかかったのを見た。無意識なのだろう、手を貸そうとしてそれができないことに気が付き、引っ込めるという動きだ。茅乃自身もその手を摑むことはできないと覚えているので、借りることもできない。
それでも、急ぐ理由はないのだからと歩みを進めていた。夜明けから時は過ぎ、正午前だろうかという頃合いに、振り返って足を止めていたキアヒムの顔つきが変わった。
「カヤノ、走れるか」
「・・・・・はい?」
走る? と怪訝に思った茅乃は、目線を上げ、硬質な表情に変化したキアヒムの顔を見た。腰元を探り、その手が空を切ってなにもないことを思い出したキアヒムが舌打ちをする。
「しまったな、捨ててきたんだったか」
なにが、と振り返った茅乃は、背後の、東から駆けてくる馬の姿を見た。そしてその馬に騎乗する、人の姿を。
―――多い。
今までのように十にも満たないという追手の数ではない。逆に少ない数では太刀打ちできないことを理解したのだろう。五十は軽く超えているのではないか。砂は土とちがい音を吸収する。響くことのない流動する大地が災いした。馬の蹄が立てる音にも気付けないまま、いつの間にか追手は背後に迫っていた。




