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青の塔  作者: あきお
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1   神域






 悲鳴も出なかった。

 落ちていく中でただただ青空を見つめることしかできず、ポツンと青空に浮かんだ雲を見つめる。不思議なことに、激しく落下しているという感覚がなかった。空を切る音さえ聞こえない。

 これは現実逃避だろうか、と考えたところで茅乃の体は地表に触れた。


 そう優しくもない衝撃とともに、深く沈みこむ感覚が茅乃の全身を襲う。とっさに開いた口の中になにかが入り込んで、呼吸さえ自由にできない。視界はぐにゃりと歪んでまるで撓んだ鏡を見ているかのようだった。


 ガボッ、と口の中のなにかを飲み込んで、それで茅乃は気が付いた。


 ―――ここは、水の中だ。

 やみくもに手足を動かして水を掻き、足に触れたなにかへと力を込める。すると茅乃の顔はあっさりと水から出た。


 そう深くもない場所だった。

 水位は茅乃の胸元くらい、立った茅乃の上から今も水が落ちてきている。それも弱まることのない勢いなので地味に立ちづらい。

 淵というのか、茅乃は自分が立っている水場の端に行って這い上がろうとした。が、そのとき自分がなにかを摑んでいることに気が付いた。


 細い、木の枝。

 それはあの建物にあった釣竿だった。


 ・・・・・持ってきちゃった。


 ポイ、と頓着なく手放したそれは、少しの間水面に浮かんでいたがやがて先端の重りに耐えかねてゆっくりと沈んでいった。


 空いた両手を使って今度こそ水場から上がり、その場でへたり込む。


 地面に着いた自分の手が小さく震えているのを見て、ようやく茅乃の思考は回り始めた。


「・・・・・・死ぬかと思った死ぬかと思った死ぬかと思った!」


 ほとんど半泣きの状態で、茅乃はギュッと目を閉じる。


 ていうかここどこ!?

 あの建物なに!

 どっから水来てんの!?

 ていうかホントに死ぬかと思った!


 心の中で思いっきり叫んで、もしかしたら実際に口から洩れていたかもしれないが、どうせここには誰もいないからどうでもいいだろうと考えて、はたと気付く。


「そもそも、ホントにここどこなの・・・・・」


 顔を上げて、袖口で拭い、周りを見てみる。

 滝つぼ、というのだろうか、目の前には石材で囲われた水場がある。その石はあの建物で使われていたものと同じ素材のようだ。見上げると、今も上のあの建物から、ドウドウと音を立てて水が落ちてきている。上で見た素材と同じく白い石でできた大きな柱のような上にあの東屋はあって、垂直どころか反り返っている石壁を登れない以上戻ることはできないだろうと思えた。

滝つぼを覗き込めば白く透けるような色が見えた。底にまで石材を使っているようだ。その滝つぼから三方向に水路のようなものが伸びていて、この水路にもまた石材が使われている。


 ここには誰かいないだろうかと見回してみたが、やはり茅乃以外に誰も見当たらなかった。

 ここがどこなのか、訊こうにも相手がいない。


 とりあえず、誰か探さないとなぁ。


 そう思い立って、水路のひとつに沿って歩いてみることにする。


 ・・・・といっても、上から見たときは一面の平野だったような。


 上の建物から見下ろした時は、地表に広がるのは薄く草の生えた草原だったと思う。

 だが水路があるのなら利用している人がいるはずだ、と半ば強引に結論付けて進んでいくと、滝つぼの周囲に敷き詰められていた石畳が途切れていた。そこから向こうは剥き出しの地面と、まばらに草が生えているだけだ。


 滝つぼの周囲はここで終わりってことかな。


 あの東屋と、その下の滝つぼの周囲だけ人の手が入っているなんて不思議な場所だな、と茅乃は思う。見渡す限り平原しか広がっていないような辺鄙な場所に、よく石を運んで水場を整えようと思ったものだ、と半ば感心する。

 そんなことを考えながら茅乃は石畳から土の上へと足を踏み出す。その瞬間、


「んっ?」


 なにかをくぐったような気がした。見えないなにかが皮膚の上を通り過ぎていくような。


 なんだったの、と口を開こうとして、それができなかった。


 草原が続くだけと思っていた地表に、人影が倒れていたからだ。

「えっ」

 思わず一歩、石畳の方へと戻る。

 と、見えるのはなにもない平原だけで、そこには誰もいない。

 どういうこと、とまた一歩出すと人が倒れている。


 見えているものがちがう・・・・?


 わけがわからなかったが、この滝つぼの周囲の敷地ではなにか隔てられているのだろうか。

 とにかくあの倒れている人に訊けたら、と茅乃は近くまで行ってみることにした。

 倒れているのは二人、どうやらその身長と体格から成人男性だろうか、とあたりをつける。ゆったりしたズボンと丈の長いベスト、その下に薄手のシャツを着ている。袖口やベストの襟のあたりなどは豪華な刺繍が施されている。

 民族衣装・・・・。

 二人ともが似たような恰好だ。そしてそれは茅乃が見たこともないファッションだったのでついそう思った。そして二人ともに白色に近かっただろうシャツは今、濃い色で汚れていた。


 赤く、黒い。


 嘘でしょ、と思わず止まってしまった足をふたたび動かして、傍まで駆け寄る。

「あの・・・・!?」

倒れているひとりを覗き込む。長く、赤い髪が顔にかかったまま動く気配はない。肩に手をかけるとその拍子で仰向けに倒れるが、その際に薄く開いた口にさえ反応が見られない。

「やだやだ、なにこれ・・・・!」

 見たこともない大怪我を負っている人物に茅乃は怖くなる。

 厚みがあるように見えるベストの生地には穴が開き、大きく裂けている。その下のシャツと、おそらくその下の皮膚までも。


 なんで、こんな。


 半ば呆然と考えたとき、低く呻く声が聞こえた。

 とっさにもうひとりの方を見る。

 その人物は緩慢な動きで、地面に腕を着き身を起こそうとしているようだった。

「だ、大丈夫ですか!?」

 短い髪は白色のように見えたが、動くと陽光を弾いて煌めく。見事な銀髪の持ち主だった。

 この人もベストの背中部分が大きく裂けている。背中が痛そうに見えて思わず貸そうとした茅乃の手を、銀髪の持ち主の手が摑む。

 茅乃よりも濃く、よく灼けた肌色をしていた。手首に痛いくらいの力を受けて、茅乃は息をのむ。

 顔を上げた目の前の男の瞳は、髪と同じ銀色の虹彩をしていた。

 およそありえない色をした目は鋭く、しかしすぐに戸惑ったように揺れ、和らいだ。

「まさか、ミコか・・・・?」

「え?」

 誰かとまちがえてるんだろうか、と茅乃は訊き返す。

 いや・・・・と言葉を濁した男の目はしかし、近くに倒れているままの赤髪の男を認めた途端、ふたたび鋭いものへと変化した。

「カシュア」

 それがあの人の名前だろうか、と首を傾げる茅乃の前で銀髪の男はもう一度同じ言葉を発する。

「カシュア!」

 先ほどよりも強めに発された声にも、やはり反応は返ってこない。銀髪の男はそれを見てなんとかして立ちあがろうとしている、ようだった。けれどもその地面に着いた腕が目に見えて震えているし、動かそうとしている足は土を掻くばかりで力が入っていない。

「待って、無理しないで」

 この人もきっと限界なんだ、と茅乃はふたたび怖くなった。これ以上無理に動いたら、もしかしたらこの人も・・・・。

「なにをすればいい?」

 怪我人が二人、片方は意識がないほどだ。どちらもどう見ても重傷だ。動けるのは自分だけなので、なんでもするつもりでいた。けれども茅乃は普通の女子高生で、怪我の手当てなどやったことがない。教えてもらうつもりでかけた質問はしかし、意外な言葉でもって返された。

「水は・・・・」

「水?」

「水は、流れているか」

「う、うん、さっきから流れてるよ」

「それを、汲んできてもらえないか」

「わかった!」

 傷口を洗うのかな、と考えながら水路まで戻った茅乃はしかしそこで困ってしまった。

 水を汲むものがないのだ。

 身ひとつしかない。なにも持っていない。どうしよう、とまごついた茅乃は思わず背後を振り返る。銀髪の男は力尽きたようで地面に突っ伏している。急がなきゃ、と茅乃は水が運べたらなんでもいい、と考えて着ていた制服のブレザーを脱いだ。

 もともとさっき落ちたときに水を吸ってはいたが、乾きかけていたそれを水路に沈める。たっぷりと水を吸わせて、急いで戻る。

「これで傷を洗うの?」

 しかし、訊いても返答がない。

「やだ、待って、もうちょっと頑張って!」

 伏したままの男の肩を揺する。怪我人にひどいことをしている、という自覚はあるが、ここで放置されても茅乃にできることがないのだ。

 丸めたブレザーをそっと自分の傍らに置いて、茅乃は両手で二度ほど銀髪の男の肩を揺すってみる。

「う・・・・」

「ごめんね! でももうちょっと、水をどうしたらいいのか教えて!」

 水で洗うの? それとも飲ませるの?

 立て続けに重ねた質問に、呻くような声で返事が返ってきた。

「かける・・・・」

「かける!? 傷に?」

「そうだ・・・。神域の水は、回復に使える」

 後半はなにを言っているのかよく理解できなかったが、やることはわかった。

 茅乃は地面の上に置いたブレザーをそっと持ち上げる。さっきから少しも動かない赤髪の男の傷の上で布地を押さえ、水を落とす。ベストとシャツが水を吸い、地面の上には流れた血だまりが広がる。半信半疑だった茅乃は少し失礼してシャツの生地をめくってみる。服の下で、大きな傷の端がゆっくりと、それはもうコマ送りのようにゆっくりと、だが皮膚と皮膚がくっついていくのが見えた。


 ・・・・なにこれ!?


 回復に使えるって、そういうこと?

 どうなってるの、と驚きはしたが、これで茅乃は水の役割を理解した。

「待っててね!」

 ひとりつぶやき、ブレザーをさらに絞る。赤髪の男の傷口にたっぷりとかけて、もう一度水路へと向かう。ザブン、と水に漬けてしっかり吸わせ、今度は銀髪の男へとかける。

「頑張って!」

 声をかけて、水をかけることしかできない。けれどもこの水が回復を促すものならなにもしないよりずっとマシだ。

 ギュッ、と絞ったブレザーを持ってもう一度水路へ向かう。浸してから戻ってくるとき、茅乃はそれに気が付いた。


 向こうの方から、人がやって来る。

 思わず立ち止まって、目を凝らす。

 五人ほどだろうか、小柄な人物を先頭にしてこちらに向かう人影があった。さらにその集団の向こう側には立派な馬車がある。


 さっきからあんな大きな馬車があっただろうか、とふと思う。

 そして単純に、茅乃は人がいてよかった、と考えた。

 いろいろわからないことが訊けるかもしれないし、なによりあんな立派な馬車があるのだから怪我人だって運んで治療することができるかもしれない。

「あの、すみませーん」

 手伝ってもらえませんか、と続くはずだった言葉は喉の奥に消えた。

 集団が近づいてくるにつれその姿がはっきりと見えるようになってきた。先頭の小柄な人物はどうやら子供のようだ。

 見事に光り輝く金髪をしている。その身には鎧、といっても鉄よりは革に近い素材の防御装備を付けている。背後に続くのは大人の、それもかなり体格のいい男たちで、子供と同じように革でできた鎧で全身を覆っている。

 それだけならばよかった。けれども茅乃が見たのはその背後の男たちの、手にある武器だった。

 いや、武器というより、陽射しを受けてきらめくその刃は半端に汚れていて・・・・・。


 まだ汚れたままの、抜き身の凶器だった。


 茅乃の足が後ずさる。

 ぼんやりしていた、と思った。

 大きく裂けた衣服と、意識を奪うほどの大怪我をした人がいて。つまりそれはその服を裂いたものがあり、それを為した人がいたということだ。


「お前がミコだな!」

 居丈高にそう言い放ったのは先頭の子供だった。

 倒れた二人を横目に、およそ五メートルくらいの前方に立ったその子供はまっすぐに茅乃を見て言う。

「ミコ?」

 この子供も誰かとまちがえている。

 男たちの手の先を見ながら、茅乃は反射的に答える。

「ちがうと言うのか?」

 首を傾げる気配がして、茅乃はチラリと子供を見る。

 小学生高学年くらいだろうか。そのくらいの年ごろに見える。そんな小さな子供がひとり話し、背後の大人たちは口をはさむ様子はない。

 見事な金髪で、そしてよく見れば見事な碧眼の持ち主だった。肌は抜けるように白く、だが高揚しているのか頬がうっすらと紅い。その顔の造作はとても整っていて、どこか王子様然としている。茅乃がこれまで見たこともないほどの美少年だと言えた。

 頭のどこかで冷静に観察しながらも茅乃は答えた。

「私の名前はミコではないですけど」

「誰がお前の名など聞いている!」

 ぴしゃりと強い口調で返されて、茅乃は眉を顰める。

「ミコとはただの呼び名だ! お前はそこから現れたのだろう!」

 そこ、と子供は茅乃の背後を指す。背後には建物から水が落ちている、あの水場がある場所だ。

「確かにここから来ましたけど・・・・」

「ほら見ろ! だったらお前はミコだろう!」

 話が噛み合わない、とさらに茅乃は眉を顰める。

 説明も知識もない場所で、呼び名など知るわけもない。

 口を閉じた茅乃を気にする様子もなく、その子供は続けた。

「いいか、その神域から現れる者はミコと決まっている! その身を我がレオトール国のために捧げ、尽くすことを許してやる!」

 まくしたてられる言葉に、なに言ってんの、と茅乃は思わずポカンとしてしまった。

 誰が、なにに、なにを許すって?

 立ち尽くした茅乃の少し離れたところで、絞り出すような声が上がった。

「ミコ、逃げろ!」

「えっ」

 振り返ると、銀髪の男が立ち上がろうとしていた。

「神域まで逃げろ! そこに人は入れな―――」

 言葉が途中で途切れたのは、子供の後ろに立っていた男のひとりが容赦なく切りつけたからだ。

「ぃやっ!」

 なんの躊躇もなかった行動を見て、喉の奥で声が絡まる。悲鳴にさえならなかったそれを聞きつけて、男たちが茅乃の方を見る。その手には、抜き身の。

 身を翻そうとした、が、男たちに背を見せる恐怖で踵がわずかに土をにじっただけだった。

 腰が引けて背後に身がよろめく。逃げようとする体はうまく力が入らなかった。

 ふたたび背中から切られた男は倒れたまま動かない。治るかもしれなかったのに、と混乱した頭に怒りに似た感情が生まれる。後ずさっていた茅乃の横にはいつの間にか革の鎧を身に着けた男がふたり立っていて、それぞれが茅乃の腕を摑んだ。

「やだ! やめてよ!」

 首を振ろうが否の声を上げようが、男たちにとってはどうでもいいことのようだった。

 茅乃がどれだけ拒絶を示しても男たちは茅乃の腕を摑んで引きずっていく。

「痛い! 放してよ!」

 立つにしては低く、寝かせるには高い。微妙に歩きづらい高さで男たちは茅乃を引きずっていく。地面で擦られた膝がとても痛い。こんなわけのわからない扱いなんてありえない、と茅乃は思うがそういえば人を背後から切ってもなにも感じない人種なのだ。

 馬車へと引きずられる茅乃の前で、喜色を隠さずに子供が言う。

「ミコを確保できてなによりだ。やはり神意は我が国に向いているということだな」

 なんのことを言っているの、と考える茅乃の視線の先で、お付きのような男のひとりが追従するように頷くのが見えた。

「これでレオトールもますます繁栄しましょう。いやはや、殿下あってのレオトールでございますな」


 殿下? こんな子供が!?


 驚く茅乃を視界に入れることもなく、殿下と呼ばれた子供は鷹揚に頷いている。

「当然のことだろう。・・・・・おい、あれは捕虜として連れていけ」

 倒れたままの銀髪の男を顎で指す。革の鎧を着けた別の男が指示を受け、捕縛し担ぐ。その様を眺めながら追従する男が続けた。

「蛮国アズイルの将軍を仕留めることができたのは重畳でございましたな」

「ああ、あれか」

 倒れたままの、赤い髪の男を見る子供は、いまいちお付きの男の言葉はピンとこない表情をしていた。

「あれがそんなに強いのか」

「ええ。戦をするには少々面倒な奴でして」

「まあいい。もう死んだ奴だ。相見えることもないだろう」

「そうですな」

 そう言葉を交わして子供と男のひとりはあの大きな馬車へと進んでいく。

 茅乃は引きずられたままその大きな馬車の陰にあった小さな馬車へと連れていかれる。さんざんやめてとか放してとか言ってみたが男たちはひとつも耳を傾けないどころか、こちらを見たり表情を動かすことすらない。徹底した無視で茅乃を馬車の上に放り投げ、茅乃が身を起こすよりも先にその手足を縛って馬車の一部へと括り付けてしまった。

 捕虜となった銀髪の男に対する扱いはもっとひどかった。

 別の屋根もない荷台のような馬車に放り、さらには荷台ごと縛りつけてその馬車は動き出した。当然治療など施された様子はない。

 茅乃の乗せられた馬車も動き出し、そして最後に大きな馬車も出発する。


 レオトール国へと向けて。





 そして誰もがいなくなり、よく晴れていた青空が赤く染まり、やがて夜の闇とそこを照らす月が昇った頃。

 動くものの気配さえ絶えたかと思われるほどの時間が経った頃、地面の上で動く影があった。

「うぅ・・・・ゲホッ」

 正常な喉が違和感を覚えて異物を吐き出そうとする動きだった。

 口から出た塊を見て男は小さくつぶやく。

「なんだ、血か」

 のっそり、とその影は起き上がる。

 強くもない、繊細な月の光を反射するのは長く赤い髪。ばらばらに広がる髪を雑に手でまとめて紐で縛る。そうして男はんん? と首を傾げた。

「私、絶命してましたよねぇ」

 幾度か切られ、そして止めとばかりに腹を刺された、というのは記憶している。その後は記憶がない、という生易しいものではなかった。あれは確実に死だった。

 思わず自分の腹を探る。だが、そこにはなんの跡もなかった。

「そんなはずは・・・・・」

 さらに首を傾げたとき、男の耳がささやかな音を捉えた。

 チャプ、と流れる水の小さな音だ。

 惹かれるように立ち上がり、その音へと向かう。

 水路を覗き込んで、思わず息をのんだ。

「水が・・・・・? まさか、神子が降臨したとでも?」

 信じられない、といった体で男はつぶやく。そして、思い出したように辺りを見回す。

 そこには誰もいない。すでに去ったか、連れ去られた後だ。

「私だけですか・・・・。これは大事ですねえ」

 たいしてそう思ってなさそうな飄々とした声でつぶやいて、男は足元になにかが落ちていることに気が付いた。

 黒っぽい色の、丸まったなにか。

「これは?」

 思わず拾い上げる。

 月明かりに照らすようにして広げてみる。布のようだった。形はあるようだが上下がよくわからない。なんどか手の中で動かして、ようやく袖と、身頃、襟があることに気が付いた。

 服のようだが、見たことがない形だ。それに、手触りも馴染みがない。小ぶりなつくりだが子供用というよりは女性用のものに見える。誰のものだろう、と考えて、すぐに思い当たる対象があった。


「・・・・・!」


 男の目が大きく見開かれる。すでに水が流れて、自身の死に至る怪我が完治しているというのなら。

「―――これが、神子のご加護」

 得心したように、男は低くつぶやく。

 半ば無意識のまま、自らの右手のひらを心臓の上へ置き、頭を垂れる。

 それが自国での、神への意を示す礼だった。

 神に示す意は常にひとつだけ。命として生み出され、生かされていることへの感謝。それを示すために物心つく前から教えられる動きを、まさか心の底から示すときが来るなど、思ってもみなかった。

 男はしばし無言だったが、やがて丁寧にその布を折りたたみ、空いた手で水路の水を掬う。

 それを口に運んで飲み下す。神域の水はどの薬よりも効くという。怪我は治っているが、ここから自国へと戻らねばならない。神域は徒歩でしか立ち入れないので繋いだ馬まで戻り、そこからは早駆けで戻ることになる。強行軍の間体がもつように補給が必要だった。

 大切そうに布の塊を抱え、男は口を開いた。

「神子にはお礼を申し上げませんと」

 そのためにはまず自国に戻り、態勢を整え、情報を精査しなければならない。

「ああ、忙しくなりそうですねぇ」

 どこか好戦的な眼差しで男は歩を進める。

 その足は茅乃たちが連れ去られたのとは反対の方角、アズイル国へと向かって行った。




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