16 国境
夜明け前の薄暗がりの中を走って走って、息が切れた茅乃に合わせた徒歩でもって移動を続ける。
追手が来るかもしれない、という感情がそうさせるのか、なんども後ろを振り返ってしまう。
王宮の周囲の林を抜け、王都から離れ、街影も遠くなる。尖塔がいくつも見える王宮の影だけが見え、それからも離れやがて焚かれていた篝火しか捉えることができなくなったころ、その火が薄く見えるようになった。
暗がりの中にあって目立っていた火よりも、強い光が射す。
夜明けがきた。
振り返っていた背後から太陽が昇るのが見えた。視界を焼くような白い光に思わず目を閉じて、顔を前方へと戻す。
下草が生えているだけの広大な草原に光が広がっていくのを見て、茅乃はすこし考えた。
王宮がある方の後ろばかりを気にしていたけれど、前方そして左右には地平線が伸びている。今や陽光に照らされ、見通しもよい。その中で視界いっぱいに、湾曲もしていない地平線がある。
「・・・・・・」
もしかしてこの大地は、球体じゃない?
地球の、惑星という概念のまま地平線を見つめたが、茅乃が見たことのある地平線はもうすこし線の端がゆるく曲がっていたような気がする。ここは建物など邪魔するものがない広々とした景観であるにもかかわらず、目の前の地平線はまっすぐと、ほんとうにまっすぐと横に伸びているのだ。
・・・・・ほんとうに、地球じゃないんだ。
いまさらな実感をしみじみと持つ。
重力がないのならそれは物理も変わってくるだろう。
どこから常識がちがうのかさっぱりわからない。さすがに放置されたひと月が重く思えてくる。できることは、もっとあったのだろうか。
すくなくとも、ここには答えてくれるひとがいるので、疑問に思うことを訊いてみることにする。
「キアヒム君」
「どうした」
先を歩く後ろ姿は太陽が昇っても迷うことなく進んでいる。振り返ったその顔にはさすがに疲労感が垣間見えた。ということはじぶんはもっとひどい顔をしているのだろう、と思いながら質問する。
「朝になって、星が消えても方角がわかるのはどうしてですか?」
「・・・・あれが見えるか」
その言葉とともに右寄りの前方が指し示される。その方向の先には、逃げてきた王宮と同じくらい小さくポツンと見える白とも薄青ともつかない色の、建物らしきものが見えた。
「あれは・・・・?」
「神域だ」
「!」
あそこが、と茅乃は驚きながら見つめる。
目を凝らしてみると、白の色はあの水が溢れ出した東屋のものだ。崖のような高い位置にあって、壁もない空間から水が流れ落ちていたのを思い出す。東屋の下側には青の色しかなく、ということはあれは水の色だろうか。なまじ白色の石の上を流れる青色はよく色が映えて見えやすい。
高い場所から落ちる青色を、茅乃はまじまじと見つめる。
もういちど見ることになるとは思っていなかった。
遠い場所からではあるが、かえって全景を見ることができる。そういえばあのいちばん上から落ちたんだった、ということを思い出しながら見返してみると、予想以上の高さだ。ほんとうによく無事でいられたものだ、と思う。
「もしかして、日中はあれが方角の目印になるんですか?」
「そうだ。神域は世界の中央にある。オレたちは今、神域の南側にいて、東から西に移動している。神域を右手に見ながら進んでいることになるな」
「へええ・・・・」
返事を返しながら、やはり世界のことを知っているのと知らないのでは全然ちがう、と思わざるを得ない。夜だろうが日中だろうが方角がわからないでは逃げようもない。
まるでじぶんがなにもできない小さな子供になったような気分だ。迷子も同然、キアヒムの後ろをついて行くのが今の精いっぱい。
同じ年のはずなんだけどな、と地面の下草を見ながら歩いていると、ふと声をかけられた。
「神域の水路を覚えているか?」
「水路・・・・・・? あっ」
言われて、そんなものがあったな、と思い出す。滝つぼのような場所から三方向に、白い石で造られた水路が伸びていたような気がする。
「そういえば、ありました」
「あれが国境線だ。東に伸びた水路はレオトールに、西に伸びた水路はアズイルに繋がっている。南はローゼンタルに繋がっているな」
「南の国・・・・」
「国交がないから、どういう国かはわからないが」
南の国はローゼンタル、と茅乃は頭に入れる。
「北に国はないんですか?」
「ない、と言われている」
漠然とした回答に首を傾げる。
「神域より北は霧が濃くてな。旅立った冒険者がいたらしいが、戻ってきたものはいない。迷うんだろうな」
「・・・・・」
でしょうねえ、と茅乃は思うしかない。
「水路が国境線・・・・ということは、そこまで逃げたら、もう大丈夫と思ってもいいんですか」
チラリと、背後に見える王宮を振り返る。
離れても離れても、その世界の構造上、どうしても王宮が見えてしまうのだ。地球の景色と同じように、距離が離れた分見えなくなる、という現象が起きない。頭がおかしくなりそう、と思いながらどうしても振り返ってしまう。あとどれだけ王宮が見えてしまうのかは単純に視力の問題なのだろう。
「そうだな、今は神域からレオトールに伸びている水路を目指している」
言われて、茅乃は視界の遠いところにある神域を捉える。さらにその周囲には、まばらに立ち生える樹木と、その向こうに白石でできたラインがちらちらと見える。あれがキアヒムの目的とする水路だろう。
「それを辿って神域を経てアズイルに入ることができれば逃げ切ったことになるな」
「わかりました」
「南北に伸びる水路を目指す、ということも考えたが、東西に走る水路の方が目立つし、近い。目印にするにはちょうどいいだろう」
つまり、地図上に大きなT字路があるようなものだろうか、と茅乃はイメージする。横に伸びる線を標にして真ん中の神域を経て、アズイルを目指す。じぶんたちはまだ横線の右端を歩き始めたところなのだろう。
よし、と茅乃は心の中で頷く。
ひとまずこのキアヒムの言葉を目標にしよう。水路、つまり国境を越えること。そうしたらキアヒムを逃がすことができた、とみなしてもいいだろう。
そんなことを考えこんでいると声をかけられた。
「息が整ったようだな。走るぞ」
「はい」
さらに走って、走って、オエッと茅乃がえずき出したころに休憩が挟まれる。休憩といっても立ち止まることはない。呼吸を整えるための徒歩で、キアヒムの様子を見ると息が切れてはいるが茅乃ほどではない。体力がちがうのだろう。
よくわからない怪力が付与されるくらいなら、体力も付けてくれたらよかったのに。
当てのないグチを心の中でつぶやく。体の方は限界寸前だ。荒い呼吸が喉を焼くように痛い。なんとか歩を進める足は震えている。それでも立ち止まれない。夜明けから時間が過ぎた。離宮の寝室に誰かがやってくれば、茅乃がいないことが発覚する。
・・・・二度と戻りたくない。
じぶんの意思を再確認して、茅乃は歩きながら空を見上げた。
雲がプカリプカリと浮くくらいのきれいな青空の中、すこし陽が昇っている。上から、というよりは斜め横から射し込むような陽光は足元に濃い影を作っている。次いで背後を振り返って見た。茅乃の視力ではもう王宮の形を捉えることはできないが、追いかけてくるかもしれない、と考えるとなんども背後を確認してしまう。
そもそもがだだっ広い草原の中で、身を隠せる建物も樹もない。距離を取ることによって茅乃の眼が王宮を捉えることができなくなったのと同じように、王宮側からも見つけることができませんように、と考えるしかない。
ゼィゼィと落ち着かない呼吸で歩いている茅乃を振り返って、キアヒムが言う。
「もう少しで水路に着く。そこで水分補給ができるだろう」
みず・・・・、と酷使した体と乾いた喉が水分を欲するのを感じて、茅乃は顔を上げる。
「水路の水は、飲めるんですか」
どうしても日本人の性で綺麗な水を求めてしまう。けれども、もしかしたら走り続けていれば綺麗でない水でも飲んでしまうのだろうか。そんなことを考えながらキアヒムを見上げると、視線の先で頷くのが見えた。
「飲める。神域と、水路の水は世界で最も清い水だ」
「へええ・・・」
水路には蓋もなく露天のままさらされていたような気がする。だというのに清い水とは、どういう仕組みだろうか、とは思うものの、飲めるならどうでもいいか、と考えてしまう。ヘトヘトの体に鞭打つようにして水路を目指す。
遠くに見えていた水路がはっきりと視覚できるようになってきたのは、太陽がゆるりと昇ったあとだった。
中天、というほどではなく、朝、という陽射しでもない。正午前、といったところかな、と見当をつけながら、白く眩く陽射しを反射する水路のほうへと歩いていく。
「水・・・、水だ・・・・」
虚ろにつぶやき、震える足を動かす。右前方に見えていた神域はその位置を前方へと変えている。あとはこの水路に沿って進んでいけば、と考えた茅乃の耳が、高い音を捉えた。
「・・・・・んっ?」
意識が薄くなっていたので、最初は気のせいかと思った。耳鳴りか、空耳だったのかな、と気にせず歩こうとしたところで、横を歩くキアヒムの足が止まっていることに気が付いた。
「キアヒム君?」
「なにか、聞こえなかったか?」
気のせいじゃなかった、と思ったときに、もういちどおなじ音が聞こえた。高く、笛のような音。なんとなく覚えがあるような気がする、と振り返った茅乃が見たのは、晴天の中にポツンと黒く見える鳥の影だった。
「・・・・・あっ」
「なんだ? レオトールの偵察か?」
「いや、たぶん、ちがうと思います」
ちょうど、思い当たる節はある。
最初、ピィッと笛のような音で鳴いていたそれは、姿かたちが見えるくらいの距離にまで飛んでくるとビィーッと警告音のような音を発するようになった。強く、けたたましい鳴き声に茅乃は眉根を寄せる。
「見つかったらどうすんのよ・・・・」
こっちは逃げてる最中なのよ、という茅乃側の事情など考慮されるはずもなく、やがて上空を旋回して肩へと舞い降りてくる。
ズシリと肩に加わった重みと、首を動かせば超至近距離にある金に黒の虹彩がこちらを覗き込むようにして見ている。いちど手を突かれた身としてはそのまま目も突かれそうな恐怖を感じるのであまり目を合わせたくはない。それ以前に、どうして当たり前のように茅乃の肩にとまるのだろうか。
「カヤノの鳥か?」
「ちがいます」
ビ、と威嚇のような音を鳥が発する。ついでに全身の羽がブワリと膨らむ。もしかしてこれはほんとうに威嚇の一種なのだろうか、鳥の生態にはまったく詳しくない茅乃にはこの鳥の行動は理解できない。
肩にとまった鳥の周囲を回り、眺めながら、キアヒムが感心したように言う。
「とても良い鳥だな」
「鳥に良いとか悪いとかあるんですか?」
「翼が大きいだろう。よく飛ぶ鳥だ。それに羽の艶もいい。狩りがうまくできている証拠だな」
褒めちぎられたから、というわけではないだろうに、全身を膨らませてまん丸になっていた鳥はとたんに羽を落ち着かせ、スッと背筋を伸ばし、背筋というものがあるのかどうかは知らないが、よりスマートに見えるようにその形を変える。
鳥はどうしたところで鳥にしか見えないんだけど。
暗褐色の色をした羽の塊をいくぶん冷ややかに見つめながら茅乃はそう思う。キアヒムはキアヒムで、近くに寄っても動揺せず警戒もしない鳥を興味深そうに観察している。
「ずいぶんと懐いているように見えるが、ほんとうにカヤノの鳥じゃないのか」
「懐く? 懐いている鳥はこんなことしません」
そう言って包帯が巻かれたままになっている手の甲を見せつけるようにかざすと、キアヒムがしばらく無言になった。鳥は小さくピ、と鳴く。
「・・・・その怪我は、この鳥が原因なのか」
「突かれました」
そう言って、フンッと鳥から視線を外す。すると鳥は小さく鳴く。それを無視して茅乃は鳥を見つめているキアヒムに言う。
「気に入ったんなら飼えばいいと思いますけど?」
「いや、アズイルへの伝令に使えるかと思ったんだが・・・・・」
「伝令」
伝書バトみたいなものだろうか。
昔郵便の代わりに伝書バトを飛ばしてたんだよね、と思うが、その時代や伝書バトについて詳しくは知らない。ただ単にハトに手紙を持たせていた、というくらいの知識なので、キアヒムが言い淀んだ理由がわからない。
「不都合が?」
「不都合というより、無理だろうなと。伝令用の鳥は帰巣本能で戻るだけだから、アズイルを知らない限りは向かわせることもできないだろう」
「そう、ですね・・・・、できたらとても助かったんでしょうけど」
この鳥は茅乃が釣り上げた卵から孵化した鳥で、その場所はレオトールの後宮の中だった。知っている場所はレオトールだけだろう、と考えると帰巣本能に頼るのはたしかに無理な話だ。そう茅乃が考えているときに、肩の鳥がチョンチョンと跳ねた。シャツの布地に穴が開く。爪が肩に食い込んでいてほんとうに痛い。肩にとまらせておくくらいなら飛んでくれた方がマシ、と鳥を見ると爛々とした丸い目で茅乃を直視していた。
目を、合わせたくないんだけど。
若干引き気味の茅乃をものともせず、逸らすこともなく瞬きもなく茅乃を見てくる。
「なに、なんなの」
バサバサ、と不意に羽を広げる。ほとんどゼロ距離にいる茅乃の顔は思いっきり羽に撫でられていく。艶々の羽は肌触りがいい、などという感想を抱いている状況ではない。飛ぶような仕草をして、茅乃をふたたび見てくる。
「なに、飛べるっていいたいの?」
ピヨッ、と、その図体に似合わぬかわいい声で鳴く。茅乃は進行方向を指して、
「アズイルはあっちの方向だけど、飛べるの?」
ピヨピヨ、と続けて鳴く。
なんなの、と茅乃は心の中で呆然とした。
わたし、今、鳥と会話してるの?
ありえないでしょ、と思うものの、そもそもカーペットの下から釣り上げたあげく、孵化したとたん飛び去って行ったような鳥なのだ。そういえば最初っからおかしかったんだった、ということを思い出して、キアヒムに向き直る。
「なんだか、できるみたいですよ」
「そうか。神子が従えている鳥はやっぱり普通じゃないんだな」
「・・・・」
もしかして、セットにされた?
わたしの鳥じゃないって言ってるでしょ、と半目でキアヒムを見ている間に、キアヒムはレオトールの兵士から奪い取った剣を抜いている。
「なにをするんです?」
剣の使いみちがわからない茅乃は訝しく思いながらその様子を見つめた。その先でキアヒムは剣をズボンの裾に引っ掛け、すこしの動作で布地を切る。
「?」
ブツン、という音のあと、ポトリと鮮やかな布地が落ちた。それを、剣をしまったキアヒムの手が拾う。
「それは?」
「身分証、みたいなものかな」
それはキラキラと陽光を受けて輝く、白色の布地だった。シルクにもっと滑らかな光を加えたような、見るものの目を奪うような光沢を放っている。
「わあ・・・・、キアヒム君の色と同じですねぇ」
パッと見た感じでは白色だと思うのだが、よく見ると光を弾いてとてもきれいだ。その色はキアヒムの髪と目の色に類似している。
「よくこんなものを隠し持っていられましたね」
捕虜として捕まり、牢へと入れられるときに身体検査などは行われなかったのだろうか。いち学生の茅乃でさえそう考えるのだが、レオトールは実際にこれを見逃している。あの警備といい、ゆるい国だな、と考える茅乃の横で、キアヒムはその布地を手のひらに広げて反対の指先を噛みちぎり、血でなにかを記している。
血文字かぁ。
たしかに筆記具のひとつも持っていないので、書く手段は限られてくる。だが日常生活では見ることのなかった方法に茅乃の足が引ける。
「見つからないためにあえて布で作っている。さすがに布の下に指輪や装飾品の類を隠せば露見するだろう」
ズボンの裾に、例えばキアヒムが言ったように指輪を隠したとする。身体検査を行うとして上から触ったとたん気付かれてしまうことは容易に想像できる。
「・・・・もし、着ているもの全部取られたときはどうするんですか?」
「潔く諦めるしかないな」
布地になにごとかを記して、キアヒムは鳥を見る。
「頼んだぞ」
ピ、と小さく鳴いて、鳥はスッと片足を差し出す。その足に布を括りつけているキアヒムと、鳥を見比べて茅乃は小さくうなる。
もしかして、ここも会話が成立してる?
慄きながら見ていたが、茅乃はふと水路を目にやって、訊いてみた。
「伝令として飛ぶなら、アズイルまではどれくらいかかると思いますか?」
「馬や徒歩なら換算もできるが、鳥だからな。・・・・・おそらくどの移動よりも速いと思うが、三日はかかるんじゃないか」
ということは、現在徒歩であるじぶんたちはもっとかかるということだろう。そして鳥であっても三日飛び続けるのはかなり体力を消耗するのではないだろうか。
「水を飲んでから飛んでったら?」
いまだ肩に乗ったままの鳥に向かって言ってみる。おそらくこの鳥はレオトールの後宮からここまで飛んで、ここからさらにアズイルまで飛んでいくことになる。
じぶんが今とても喉が渇いている、ということを含めてみても、水場を前にして補給がないのではさすがに憐みを感じる。それと同時に、鳥に向かって言ったのは試みのひとつでもあった。
さあ、この言葉も通じるわけ?
挑むように肩に乗っている鳥を見やると、鳥は全身を震わせたあと、ピッタリと茅乃の顔に寄り添うようにくっついてきた。
「ちょっと、やめてよ」
通じたのかどうかもわからない。どうしてそんな反応になるの、と思いながらも水路へと向かう。片方の肩に重みのある生物が乗っているせいでバランスが取りにくい。ただでさえ萎えた足だというのに、負荷がかかっている。
じぶんで飛んでくれないかしら、と思うものの、鳥が羽ばたく気配はない。結局鳥を乗せたままヨロヨロと水路に着く。
白石を摑んで水路の中を覗き込む。
サラサラと流れる水は透明で、茅乃の目は石の色しか捉えることができない。ときおり水面が陽光を反射してきらめく。それでようやくここには水が流れていることを視覚として確認することができる。
水路の幅は五十センチもないように思える。その傍らに膝を着いて、水路の中に手を差し込んだ。
ザブンと水を潜った掌に感じる温度は冷たく、思わず喉が鳴る。両手を使って掬い上げた水を鳥の前に運んでやる。すると鳥は鋭く細いくちばしで器用に水を飲んだ。
「アズイルまでがんばるのよ」
そう言うと、ピッと鳴いてふわりと羽を動かす。
鳥は好きではないけれど、この鳥の飛び立つ動きは軽やかに見えて、嫌いではない。
幾度か羽ばたいて上空へと上がった鳥は、流れに乗るように速度を付けてまっすぐ飛んでいく。西、アズイルの方へと。
あっという間に黒い点のようになった鳥を見送ってから、茅乃も水を飲む。思ったとおり、ヒンヤリと冷たく喉を流れていく感覚に生き返ったような心地になる。
無味無臭の、なんのクセもない水を満足するまで飲んで、ようやく人心地つくことができた。同じように水分を補給していたキアヒムと目が合う。
「キアヒム君、問題があると思うんですよ」
「なんだ?」
会話を始めながら、水路に沿ってふたたび歩きだす。
「きっとアズイルまでは何日もかかると思うんですけど、ご飯がないですよね」
「・・・・食糧問題か」
「神域からレオトールに連れていかれたとき、馬車で二日くらいかかってたような気がするんです」
「神域からアズイルまでも同じくらいだな」
「だとすると、徒歩だともっとかかりますよね」
「そうだな。まあ、その点は楽観的に考えているが」
「そうなんですか?」
楽観的、とキアヒムが言ったので、茅乃はどこかに食料を確保できる拠点でもあるのかな、と考えた。が、すぐにここはまだレオトールの範囲内で、キアヒムがアズイルの人間である以上その線はないかな、とじぶんでその考えを打ち消す。
なにか持ち出せたらよかったのかな、と一瞬考えるが、そんな余裕はどこにもなかったことを思い出す。それに、またキアヒムに毒入りのパンを渡すわけにはいかない。
神域から連行されたときは食料はおろか水さえ与えられなかった。二日くらいはもつ、ということは実証済みなわけだが、今回は馬車ではなく徒歩での移動だ。日数がかかるし、体力も必要になる。
楽観的になれる要素があるだろうか、と考えた茅乃の耳が、低く強く、響くような音を聞いた。
「え」
不規則に響く音は背後からだ。思わず振り返った茅乃の目が、遠くにある影を捉えた。
数はよっつ、乾いた砂埃を上げながら駆けてくるなにか。目を凝らした先で、それが馬に乗った人影があることがわかった。
追手だ。
馬蹄の立てる音に慄き、逃げ出そうとした茅乃の横でキアヒムがつぶやいた。
「思ったより遅かったな」
「・・・・・えっ?」
背後を振り返り、横を見、目線が忙しく移動する茅乃の目が捉えたのは、完全に背後へと向き直り、剣の柄に手をかけたキアヒムの姿だった。
茅乃が逃げようとした方向とは反対の方向に足を踏み出したキアヒムが、目線だけで茅乃を捕捉する。
「カヤノ、戦闘経験は?」
「な、ないですっ」
「そうか。では離れてろ」
そう言ってキアヒムは鞘から剣を抜いた。




