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更新2/3
混雑した夕食時の店内は、個室でなくても隣の声など気にならない。
心地よい騒がしさは波の音のように漂って、何杯目か分からなくなった目の前のグラスワインと同様に私を酔わす。
大げさでない長さのステアを回して、カーブの内側に張る薄赤い膜を眺めた。
「……ボトルにすればよかったかな」
「白も赤もスパークリングも飲んでおいてよく言うよ、東子ってばぁ」
向かいの席の友人は、呆れを浮かべた瞳を細めて楽しそうに微笑んだ。
私は彼女の手の中の、気泡の入ったぽってりと厚い吹き硝子のグラスを指摘する。
「美優だって吟醸酒に焼酎に、にごり酒までいってるじゃない」
半分ほど残った白いとろりとした液体が、短く揃えた爪の手の中でたゆんと揺れる。人のことをザルだと言うが、目の前の本人程ではないはずだ。
「美味しいものは好きなんですー。日本のお酒が好きなんですぅ」
酔っても記憶をなくしたりはしないが、語尾が伸びて歌うようになる癖のある美優は、高校からの友人。
彼女「小森美優」と私「境野東子」
名簿順で前後になったのがきっかけの付き合いは、妙に気が合って細く長く続き、一番の親友ポジションでもうずっと固定されている。
美優は大学卒業後、地元の銀行にUターン就職して、去年まで県内の他支店にいた。
この春、実家のあるここに転勤で戻ってきて、美優のご家族と一緒にお帰りなさいパーティーをしたのも記憶に新しい。
既婚者となる同級生が増えるなか、気楽な独り者同士。
アルコールの好みこそ違えど食事についての意見は一致する私達は、よくこうして夕食など一緒に楽しんでいる。
童顔ではない可愛い系の美優は昔からよくモテる。彼氏を切らしたこともないのに、結婚はしないのが我が友人ながら不思議。
世話好きの性格で料理上手なのだけど実は掃除が苦手、という愛嬌のある一面もある。
ちなみに私は料理が駄目だ。
いや、普通程度にはできるが、実に普通。びっくりするほど普通。
亡くなった母が上手すぎて、父も兄も私の手料理で満足するような人じゃなかったから、家にいるときは大して手伝いもしなかった。
そうして今は、諦めてもらっている。
「ああ、でもお酒はこれで終わりにしないと。東子と違って私は明日もお仕事だしぃー」
「境野生花店は、水曜定休でーす。ごめんねえ」
「ずるーい。私も週の真ん中に休みたーいっ」
「毎週末連休なのに、贅沢」
くすくす笑いながら週休二日の美優を揶揄えば、それとこれとは別だとグラスをくい、とカラにする。おお、いい飲みっぷり。
私も自分の手元にあった濃い赤を一息に呷り、空いたグラスを掲げて笑い合う。
ふと視線を感じると、大学生らしきアルバイト店員君が、丸くした目を慌てて逸らしたところだった……もしや、私も美優も結婚が遠いのは酒のせいか。
「そんなわけで、東子さん。今週末のご都合いかがでしょう? ちょっとした出会いの場がご用意できますが」
「なにが『そんなわけ』なんでしょうか、美優さん。もしかしてまた幹事?」
「顔が広いのも困りものだねえ。あ、でも今度のは、なかなかいい人揃ってそうだったよぉ」
転勤に伴い別れた、と美優があっさり言ったのはこの春先のこと。
出会いは作るものだとの持論で、彼女のフットワークは何事においても軽い。
「いや実はね、花屋の綺麗なお姉さんって人気ありますのよ。誘ってほしいってリクエスト多いんですけどー」
「花はね、遠くから愛でるからこそ美しいの。手に入れるとお世話が大変よ」
「パスっすね、分かりましたぁ。あーあ、また残念がられるう」
大げさに嘆いてみせるけれど、私が頷かないことはいつものこと。
美優もそれは分かっていて、楽しそうに文句を言いながら、私の頼んだオリーブにひょいと手を伸ばした。
にごり酒にオリーブって合うのかなあ。
その、気安い雰囲気にいい感じのほろ酔いも手伝って――上手に避けていたはずの話題を出したのは、私のほうだった。
「……美優はさ、訊かないね」
それだけで、何のことか伝わった。
酔いは残っていても美優の纏う雰囲気がす、と変わる。
「んん? 興味はあるよ。でも、無理に話してほしいとは思わないだけ」
東子もそうしてくれるでしょう、そう言って少し視線を外して美優は微笑んだ。
軽い恋バナならいつでも話すのに、私も美優も本気の恋はどうしてか言い出せない。だから、今まで話したことはなかった。
そして美優にもそういう相手が過去にいた。
話さないで、尋ねないで、一人で抱えて終わってから少しだけこぼす。そんな相手が。
オリーブを摘まむ手は止まらないまま、刺していたピックで美優は自分の指をちょんちょんとつつく。
左手の、薬指。
「外してるってことは、もう、そういうことでしょ」
私のそこにあったはずのものは、今はない。
「それ以上でもそれ以下でもないわ」
「何と潔い……どうしよう、美優に惚れそう」
「どっちかが男だったらよかったのにねえ」
その通りだと笑いながら、なにもない薬指の根元に指先で触れる。
つい触ってしまうのは、指輪を外してからついた癖。回数は減ったけど、今でも時折確かめてしまう――それだけ長く、着けていたから。
お互い仕事で他県に住んでいても、時々はこんなふうに会っていた。初めて指輪を目にした時も、美優は何も言わずにただ微笑んでくれた。
そんな美優だから、話したいと思った。
「エンゲージリング……みたいなものだと思っていたんだけどね、違ったの」
「東子」
「今でも、どうすればよかったのか分からない」
プラチナにダイヤのハーフエタニティ。
物に罪はないとはいえ、とても着けていられない。
捨てることも、まして返すこともできなくてチェストの一番奥に押し込んだまま。
ゆっくりと私の指に銀の輪を嵌めたあの人は、
「別な人にも、同じようなのを贈っていたってわけ」
震えそうになる唇を、わざと持ち上げて笑みの形を作る。
もう一年以上も前だというのに、今もまだ息が詰まる。
「ねぇ……刺してきていい?」
「パパがいなくなると赤ちゃんが可哀そうだから、やめてあげて」
「――っは、なんてヤツ。もげて禿げてしまえっ」
ぱちん、と自分の額に手を当てて下を向く美優の口から出た怨嗟の言葉に、思わず本当の笑いが零れてしまった。
自分のことでもないのにこうして憤ってくれる、それが本心からと分かるから、言葉にできない。
だから、もう少しだけ甘えたくなってしまう。
「おかしいな、って思う時はあったんだ。でもさ、信じたかったんだよね。前の時は、信じきれなくてダメになったから」
「だって東子、結構長くなかった?」
「私と二年半」
「でしょう」
「彼女とは四年」
「はあっ!? な、にそれはっ」
テーブルにパンと手をついて立ち上がりそうになった美優に向かって、しぃっと人差し指を唇に当てる。
ここ、レストランの店内ですので。
先輩にあたるその人とは社内で顔を合わせるだけでなく、多くの週末も一緒に過ごして、旅行にだって行った。
部署は違えど多少の噂は耳に入る。それなのに気付かなかった。
――社内の誰も、別れたはずの同期の彼女と続いていたと知っている人はいなかった。
「仕事もできるし、かっこいい人だったから。付き合い始めるまで知らなかったんだけど、どうやら経営陣とも縁続きだったみたいで……私はいい弾除けだったと思うよ」
社内恋愛は禁止されていたわけじゃなかった。
大っぴらに公表はしないけれど、特に隠しもしなかった結果、入れ代わり立ち代わり私の前に現れる「自称恋のライバル」達。
物理的、心理的にもたらされる助言という名の嫌がらせ。
キャットファイトなんて得意じゃなくてやり返すこともできなかったけれど、彼がいたから折れそうになりながらもなんとかやってこられた。
いつも優しくしてくれて、気遣ってくれて。
でも、彼がそうして守っていたのは私じゃなかった。
「その彼女は、知っていたの?」
「私のこと? 最初から知っていたみたい。そう言われたから」
呼び出された会議室。待っていた彼と彼女。
――ご苦労様、もういいわよ。
鈴を転がすような声が耳を滑ったあの日。
「……開いた口が塞がらない」
テーブルの上に出したまま、美優がぎゅっと握りしめた手が小さく震えている。大きな瞳に涙が盛り上がるのが見えた。
「そんな時にちょうど、こっちに戻って来いってお父さんから連絡もらってね。これ幸いと一抜けしてきたの」
ぽろぽろと、美優の瞳から雫が落ちる。
自分のことでは絶対に人前で泣かないくせに。さんざん泣いて、もう涙の一滴も出ない私の代わりに泣いてくれる。
落ちる涙と一緒に、私の心にしこった固いかけらも一つ崩れた気がした。
「聞いてくれてありがと、美優。この話は終わり」
「とーこぉ……」
おしぼりを差し出すと、何事もなかったように店の人を呼ぶ。
――あのことは、言えない。
「追加でデザートプレート二つ。飲み物何にする?」
「ううぅ、アイスティー」
顔を半分覆ったおしぼりの向こうから、涙声で返事をされた。
来てくれた店員さんは、なんだかぽうっと耳を染めて見入って……うん、可愛いお姉さんの泣き顔ってグッとくるよね。それに美優の泣き顔って綺麗だし。
私なんか目は真っ赤になるし鼻水は出るしで、見られたものじゃないんだけど。
オーダーが済んだとき、席のすぐ後ろにある店の扉が開いた。
カラン、というドアベルの音と同時に聞こえたのは、毎日嫌になるくらい耳にしている声。
「ラストオーダー、間に合った? なんでもいいからなんか食わせてっ」
「……その注文の仕方はどうかと思うよ、お兄ちゃん」
「わ、東子いたのか。おお、美優ちゃんも。そこ、隣空いてる?」
言いながら勝手に私達の隣のテーブルに陣取る兄。慌てて目元をぬぐった美優は、いつもの顔でどうぞ、と笑った。
その美優の視線が私の背後の高いところで止まる。
つられて振り向くと見上げた先には「兄の親友」――守沢医院の若先生の姿があった。
「遼平、なに飲む、ビール?」
「なんでもいい。相変わらず勝手知ったる常連客だな、裕一」
感じは悪くないが、あまり感情の乗らない話し方は昔と同じ。
久しぶりに聞いた声に、兄の部屋に遊びに来ていた頃の制服姿が脳内に蘇る。
兄と彼が頻繁にお互いの家を行き来したのは中学までで、高校になると外で遊ぶのに忙しいようだった。だから今もこの二人が揃うと、浮かぶのは学生服の印象。
兄達が席に着くと間もなく店員さんが来て「ビールと適当に食べ物」のふざけた注文を慣れた様子で受けていく。
アルコールも出すが、飲み屋ではなくレストランのこの店の営業は夜十時まで。もうすぐ九時半になろうとする今、食事の注文にぎりぎり間に合った算段だ。
疑問符を顔に浮かべたままの美優に、そういえばこの二人は接点が無かったかも、と思い至る。
「もしかして初対面だった? 美優、こちら、お兄ちゃんの友達の守沢遼平さん。家がご近所で小中と一緒だったんだ。先月、都内からこっちに戻って来て」
「あ、小森美優です。東子とは高校で一緒になって」
「守沢です」
お互いに勤め先を口にして、狭い町のことだからすぐにああ、あそこの、となった。
そんなことをしているうちに私達のデザートプレートも運ばれる。二種類のドルチェにナッツの入ったバニラアイス。最高。
冷たい紅茶で酔いの熱を冷ましながら舌鼓を打っていると、手持ち無沙汰の兄がビールを片手に人の皿を覗き込んできた。
「甘そうなの食ってるな」
「あげないよーだ」
「いいよ。東子、お前もう少し食べないと。暑くなってくると体持たないぞ」
「食べてるし。この豪勢なデザートが見えないの?」
「アイスじゃなくて肉を食えっての。いっつもちんまりとしか食べてないだろ」
「お兄ちゃんやお父さんと比べてそんなこと言われても」
花屋の仕事が体力勝負なのはよく分かっている。
そりゃあ、丼でご飯を食べる兄から見たら少ないかもしれないが、必要なくらいは摂っている。
「大丈夫ですよー、食い道楽の私が真夏も連れ回しますから」
「頼むな、美優ちゃん。痩せたいのなら食事減らすより運動しろって話だよ」
「ダイエットじゃないって言ってるのに。朝から『天ぷら食べたい』とか言うお兄ちゃんを基準にされても困るんだけど」
「朝から天ぷら……裕一、お前いつまで高校生だ」
揚げている匂いだけでお腹いっぱいになるんだから。世のお母さん達は偉いよ、本当。
朝からカツ丼もいけるぞ俺は、なんて言って美優にも守沢さんにも軽く引かれていた。イレギュラーなのは自分だと気付いてほしい。
まあ、筋肉質でわりとスタイルはいい兄なので、反論しづらい面もある。
私達が食べ終わるころには、兄達のお任せごはんもテーブルにずらりと並んだ。
山盛りのから揚げにポークソテー。肉がガッツリあるところ、さすが常連客を分かっている。
「じゃあ、うちらは先に帰るね」
「おお。あっ、美優ちゃんは誰か迎えに来るんだろ?」
「まだバスもありますから」
「え、そうなんだ? 失敗した、俺ビール飲む前だったら車で送れたのに」
「もともとその予定でしたし、お気持ちだけ。次はお願いします」
手を振って店を出ると、くふふ、と笑いながら美優が肩をくっつけてきた。
「久しぶりに会ったけど、面白いね、お兄さん」
「クラスに一人はいる、いい奴止まりのタイプね」
「え、彼女いないの?」
「んー、今はいないんじゃないかなぁ」
店のこと、家族のことを優先してしまう兄は、大抵それが原因で別れてしまう。
母の病気が分かってからはいろいろと慌ただしくて、当時付き合っていた彼女とも気付けば疎遠になっていたそうだ。
それを、そんなもんだろうな、とあっさり受け入れている兄も兄だとは思うが、人のことは言えない。
アラサー兄妹揃って相手がいないという、少々残念な境野家だ。
そんな話をしながらレストラン近くのバス停でベンチに座る。
最終便の一つ前のバスが、十五分後に来るところだった。
「美優もこっちに戻って来たから、ウチの兄ともまた顔合わせるだろうけど、適当によろしくしてやって」
「うん。仕事と家族を大事にする人は大好きだよ、私」
仕事と家族を大事にしない人に心当たりがあるような言い方だ。
まだ少しだけ濡れたままのまつ毛の瞳を覗き込めば、ふふんと笑ったその目が光る。
「それより、東子。さっきの守沢さんって、東子が初めて付き合った人でしょう?」
体に残ったアルコールが急に復活したように心臓が動いた。
そんな古い、しかも一瞬だけの話をまさか覚えているとは。
しかも、名前は言わなかったはずなのに気付くとは、美優には一体どんなセンサーが搭載されているのか。
「……いつの話」
「うちらが高一の終わり、向こうが卒業の頃。でしょう、東子?」
さっきまでの告白に比べたら、今更隠すようなことでもない。素直に頷いた。
「はぁ……美優ってば、よく覚えていたね。だけど、付き合ったなんて言えるほどじゃないよ。知ってるでしょ、二か月しないで『ごめんなさい』しちゃったし。しかもその二か月だって遠距離で」
「県外の医大いっちゃったもんねえ」
「ねぇ。そもそもさ、仲良くなる前に遠距離って、最初から無理じゃない?」
「まあねえ」
地元の大学に進む兄とは違って、守沢さん――遼平君は、ここを離れることが決まっていた。
いつものように遊びに来て、兄のいないところでそっと告げられて。
……頷いたのは、嫌いじゃなかったから。
兄みたいなふざけたノリで羽目を外すことはない大人びた雰囲気に、なんとなく軽い憧れみたいなのを感じていた。
でも、それだけ。
ちょっといいなと思っていた人に告白されて、嬉しくなってしまっただけ。
そんな淡すぎる気持ちは、とても恋だったとは言えない。
毎日のように顔を合わせていても、直接交わした言葉は実はそんなに多くない。
それまで「お兄ちゃんの友達」だった人が「自分の恋人」になったけれど、どうしたらいいかなんて分からなかった。
二人きりで出かけたのは春休みにたった一度。
上京準備の合間を縫って慌ただしく済ませたデートでは、手も握らなかった。
私と遼平君の間には、会えない時間を乗り越えるよすがになるような思い出も、特にあるわけではなかった。
どうして自分が告白されたのか、よく分からない。
向こうからの連絡だって毎日あるわけじゃない。
大学では忙しくも楽しく過ごしている様子だし、きっとすぐに私よりずっとお似合いの、綺麗で素敵な人が現れる。
……そう思ったらもう駄目だった。
五月の連休に帰省した彼に、髪を乱す潮風の中でごめんなさいと言ったのは私。
見たことのないような顔で、そうか、とだけ言った彼。
遼平君が嫌いになったわけでも、誰か他に好きな人ができたわけでもない。
ただ、不安だった。
関係を失くすことでしか日常を取り戻せないと思い込むほどに、私は幼くて――始まる前に終わっただけなのに、その二か月は私を恋に憶病にさせるには十分だった。
大学の間も、何人かの人とそういう関係になりそうになった。けれどいつも、その時のことが頭をよぎる。
また上手くいかないんじゃないか。
すぐに駄目だと思ってしまうんじゃないか。
誰かをちょっといいなと思うことはあっても、そんな思いが邪魔をして、それ以上には進めない。
結局、自分は恋愛に向いていないのだろうという結論に落ち着いた。
軽く付き合うだけの相手はいても、恋人と呼べる人はいないまま長いようで短い四年間が過ぎ、社会人になった。
あの人に出会ったのは、そんな私が業務を覚え、ようやく一人で回せる仕事も増えてきた二年目。
きっかけはほんの些細なこと。
上司のお使いで普段は行かない営業課に書類を持って行ったら、ちょうど事務の人も席を外していて、ただ一人フロアにいたのが彼――羽山さんだったのだ。
法務関係の仕事をする自分とは接点は全くなかったのだが、「カッコいい先輩社員」の話は、疎い自分の耳にも届く。
そんな噂を知ってか知らずか、常に言動に隙がないと言われる彼は、カウンターの上の観葉植物の鉢に自分のマグカップから水をあげていた。
あれ、と思う私と目が合って、しまったというように少しバツが悪そうに笑う。
後から聞いたら、誰も世話をしないのでこっそり自分がしていたが、見られるとは思っていなくて何か気恥ずかしかったのだそうだ。
それまでの動作を誤魔化すように、軽く話しかけられる。
「俺、よく知らないんだけど、こういうのって花が咲いたりしないの? ずっと水あげてるのに、ちっとも変わらないんだよね」
「えっと、あの、観葉植物も花は咲きますが……」
まさか業務以外のことを話されるとは、と少し驚く。
書類を渡しながら言っていいものかどうか少し迷って、先を促す柔らかい視線に背中を押された。
「それは、本物じゃないので。お水をあげても咲かないです」
「え、」
よくできたフェイクグリーンだった。
全然気が付かなかった、と本当にぽかんと驚く。じわじわと耳を染めていく姿が年上っぽくなくて、つい小さく吹き出してしまった。
羽山さんは、そんな私に気を悪くするどころか、一緒に笑って、それ以来社内で見かけると声をかけてくれるようになった。
仕事で困ったり、人間関係に悩んだりした時に限って、どうしてかタイミングよく帰り道で会って夕食に誘われたり。
そんなことが何回も続けば、いやでも意識するようになる。
自分でも不思議なくらい彼には警戒心が湧かなくて、逆に、少しずつ近くなる距離が私の中の臆病なわだかまりをほぐしていくようだった。
容姿も成績も目立つ人だったから、噂には事欠かない。
すれ違いを理由に一年前に彼女と別れてからはフリーだと、それが社内で共通の認識。
真剣な顔で付き合ってほしいと言われて、断るなんて選択肢はなかった。
大事にしてもらっている、と自他ともに認められる扱いをされて、不満なんてなかった。
いつも朗らかな彼が、時折難しい顔をしてじっと見ているメールがあることも、どうしても逸らす話題があることも……大丈夫、何でもないと言う彼を信じていれば、今度はうまくいくんじゃないかと、その言葉にしがみついていた。
――結果、母子手帳を見せられる羽目になったのだけど。
「そういうことなの」
そう言って鮮やかに笑った彼女の隣で、彼はどんな顔をしていたか思い出せない。
ただ一言、ごめん、と呟いた声だけが今も耳に残っている。
就業時間を過ぎた会議室に、やけに明るく響く彼女の声。言われた内容は何一つ分からない、でも、もう一緒にはいられないことだけは確かだった。
立ち上がった私に、彼の指先が引き留めるように動いたと思うのは、そうあってほしいと願った心が見せた幻だったのだろう。
大事だとか、ずっと一緒にいたいとか。本気としか取れない声と顔でそう告げて指輪を贈る一方で、「好きだ」とは、一度も彼から言われたことがなかったのだから。
母の入院を知ったのは、その帰り道だった。
美優の乗ったバスの扉がエアーの音を出しながら閉じる。
歩道側の車窓でひらひらと揺れる手に笑顔で振り返し、去っていく車体を見送った。
終日止むことのない海からの風に酔いの熱もすっかり冷め、羽織っていた薄手のカーディガンのボタンを一つ留める。
はためくサーキュラースカートを押さえながら、さて自分も帰るかと振り向くと、意外な人がこちらに向かって歩いてきたのが見えた。
変わらない歩き方にまた重なる、学生服の姿。
「友達は帰った?」
「今、バスが出たところ……お兄ちゃんと食べてたんじゃ?」
なんで遼平君が。
「俺は夕飯済んでるんだ、裕一に付き合って少し飲もうかって話だったから。帰るんだろ、送るよ」
「え、すぐそこだし大丈夫」
「すぐそこだから、送ってまた店に戻る」
ほら、と促されて歩きだす。あまり固辞するのもおかしいが、一体どうなっているのか。
ああ、でも、守沢のおばさんは日が暮れてからの女の子の一人歩きを良しとしない人だった。
小学生の頃から、夕方に公園帰りの私を見つけると必ず、自分か、遼平君を伴うようにとしてくれた。
お互いの家をよく行き来していた兄にも同様の指導が行われている。
さっきの美優の時といい、この二人にはきっとそのエスコート癖が染みついているのだろう。ここから家まで五分もないというのに。
特に交わす言葉もなく、コツコツとレースアップサンダルの踵が鳴る。
歩調の緩い私にごく自然に合わせて、少しゆっくり歩いてくれる。ちょっと高いヒールなのに、横を歩く人と目を合わせるにはまだ少し見上げなければならなくて……いつまでたっても並べない。
そんなことをぼんやり思った。
信号待ちで止まった時、不意に手首を掴まれる。
「え?」
「いつから?」
街灯の下、陰影が濃く落ちる表情はどこまでも真剣だった。
返事に詰まっていると、反対の手が伸びて頬に触れ、親指が目の下をなぞる。
「ちゃんと眠れていないだろう。食事も」
頬から首、そして肩。
まるで触診のような手はそのまま腕を下がり、両手を繋ぎ合う格好で止まった。
「裕一が心配するはずだ……東子ちゃん、痩せすぎだ」
「大げさだよ。最近ちょっと忙しくて、でも、さっきまで美優とかなり食べたし」
青信号に変わったことで、歩き出そうとする私に軽く息を吐く。
しぶしぶといった感じで遼平君も動くものの、片方の手は掴んだ手首からスライドして指を絡め繋いだまま――驚いて顔を上げても、困った子を宥めるように見下ろされるだけだった。
「今日はすぐに寝ること」
「……お風呂入りたい」
「朝にして、まずは睡眠。明日は休みだろ、ちゃんと休んだかどうか確かめに午後行くから」
なにを言っているの、遼平君。
「え、っていうか、病院は?」
「水曜は午後休診」
なんで? こんなに強気な人だった?
頭の中は疑問符でいっぱい、でも少し残ったアルコールのせいか、どこか感覚が遠くリアリティがない。
いつのまにか家に着いていて、促され玄関に鍵を差し込む私の背後から重さのあるドアを開けてくれる。
その背中に触れる体温に距離の近さを感じて、急に現実に引き戻された足が止まった。
「……布団に入るまで見届ける?」
「っわ、分かった、寝る。すぐに寝るから」
約束したからね、そう言ってトン、と押された背中で扉が閉まる……なんだか、もう。
「帰ったのか東子。父さん、もう寝るから」
「あ、うん。ただいま。分かった、お休み」
ちょうど寝室に向かおうとしたところだったのだろう、階段の上からかけられる父の声に応えながら、上がり框に腰を下ろす。
サンダルの革紐をほどく手の動きが酷く緩慢で、口の空いたバッグの中にちらりとスマホが見えた。
『今日はすぐに寝ること』
――言われたところで眠れっこない。
今夜もきっと。