天性の聖人にゃ敵わない
一時期、「自然や動物こそ正義で、人類は悪だ!」みたいな思想に染まっていた。環境や人外をテーマとした作品にありがちな概念で、私はこれが大好物だった。
「そうそう、人間こそ悪だ! ひどいやつらめ! 万物の霊長などと調子に乗ってんじゃないよ!」
って感じでその思考に乗っかるとスッキリするのだ。免罪符を得たみたいで。
そしてある日私はいつものように、人間が諸悪の根源であるという証拠を見つけ、怒りに打ち震えていた。動物虐待に関する情報をインターネット上で目にしたのだ。
既にコメント欄は
「動物を虐待する奴なんて、同じ目に遭って○ね!」
「こいつのような人間を○してやりたい」
といったコメントで溢れていた。
私が「いいぞ、もっと言え!」と思いながら読んでいると、その中にちらほら
「いくら動物を虐待する人が悪くても、それをひどい言葉で罵っていいというものではない。悪口を言うのも悪いことだ」という意見があった。
私は正直
「何言ってんの? 悪いことした奴は非難されて当然じゃん?」と思った。
自身がいじめられていたこともあり、その記憶を動物虐待の話に重ね合わせていたので、なんだかいじめっ子を目の前でかばわれたみたいでムカッとした。でもそのような意見はやけに心に引っ掛かった。
そんなことはいじめの話でもあった。ネット上でいじめをしていたことを告白した人が叩かれていて、当然の報いだと思いながら見ていたところ、他の人が元いじめっ子をかばったのだ。
その時も、スカッとするはずだったのにストレス発散を止められたようでモヤモヤした。
人間悪論者の自分からすると人間というのは実に勝手なもので、自分の中にない欠点が他人にあると、いとも簡単に蔑み批判し、逆に自分にある欠点はなんとか正当化しようとするのだ。しかしその大嫌いな「人間」像に当てはまるものは、まぎれもなく自分だった。
それを思い知ったのは、ベジタリアンの人について少し調べた時だった。
ベジタリアンという言葉は知っていたものの、実際に植物性のものだけを口にして生きている人がいるという事実に衝撃を受けた。自分は今まで、「生きていく上で動物の命をいただくのは仕方のないことだ。けどだからこそ、不必要な殺生はするべきではないし、そんなことをする人間は最低なのだ」と思い込んでいたのだが、自分も必要のない殺生をしている身であり同類だったのだ。
だが同類であるということなど認めたくない。まず私はベジタリアンになろうとした。植物性のものだけを食べようと心がけてみた。しかし肉類の美味しさには敵わず断念し、二回試みたがどちらも数日も続かなかった。
次に私は、社会や他人のせいにした。そもそも日本はおかしい。学校ではすべての栄養を取れ、肉を食べなくてはいけないと習い、好き嫌いは許されない。そして店で売られている食品には色々なものが含まれていて、意図して植物性のものだけを選ぶなんて困難だ。肉食が定着したのは明らかに社会のせいだ、と。
しかしそれでも自らの意思でベジタリアンになっている日本人はいる。ということは、自分の意思の弱さと敗北を認めざるを得ない。
他のことでも同じだ。あれが悪い、これが悪いと言うのは簡単だが、結局自分はどうなのか。批判に批判を重ね、気がつけば立派な性悪人間ではないか。そのへんの大人気ない連中と一緒だ。
ここにきて初めて自分は、ごく一般の人間の偉大さを知った。
ごく一般の人間とは、普通の善悪観と常識を身に付け、むやみに暗闇に飛び込んだり持論を展開したりせず、日々を楽しく生きようとしている人種だ。
私は今までこの人たちのことを、「物事を深く考えないタイプだ」とばかり思ってきた。社会の闇に目を向けず数多くの被害者から目をそらし、自分の身の周りの安全さえ保たれていればいいのだろうと軽蔑すらしていた。しかし実際は全く違った。
何も考えずに生きている人間などいない。身を守ることに必死になる人や人の為に尽くそうとする人など千差万別で、一人一人の世界は奥深く、知り尽くすことなど決してできないのだ。
私は「人間」を一まとめにして考えていた。いい人もいれば悪い人もいると一応知っていたが、総合的にしか考えていなかった。実は個々の価値観や世界観に圧倒的なパワーがあるのだ。「みんな」などという名の生き物はいない。
「これは悪だ」という空気の中、多数派に立ち向かうあの人たちこそ勇者だった。一つの意見に傾いた時に歯止めをかけてくれる存在は世界に必要だし、ありがたいものだ。
私はただ多数派の勝手な正義感と迫力に目が眩んだだけの日和見主義者だ。よく考えたら自分は立ち向かうフリをして安全な所で陰口を叩き続けるだけの汚い人種だった。日々命をいただきエネルギーを得ておきながらこんなことでエネルギーを撒き散らすなんて最低だ。
宗教紛争と同じだ。何のための主義だか、もはや見失っている。平和を体現できない者に平和を語る資格などない。多様な価値観がある中で自分は何を表現するか、それこそが重要だったのだ。
立ち向かうことだけが偉大でもない。というか立ち向かわない存在こそ強く賢明なのだと再認識するようになった。
「自分は今まで社会になじめなかった。好きなことをしていればそれはおかしいと言われ、こうしなさいと従わされ、友達もできなかった。それでも今までは優しくあろうと努めてきたが、もう限界だ。復讐してやる」という下剋上幻想に取り憑かれていたが、その世界観も根本から揺らいだ。
思えばいつでも自分はのろまで不器用で性格も悪く、フォローのしようもないような人間だった。なのに思い返せばちらほらと、やけに優しくしてくれる人とか話しかけてくれる人とか、気を向けてくれる存在があったのだ。
今となってはなぜだったのか分からない。特に気にも留めていなかったし、そもそも人の気持ちなど分からないタイプだったから、そういう人もいるんだなと思う程度で別にどうでも良かった。
でも、もっとそういう存在を大切にすれば良かった。恥ずかしくても言葉が思い浮かばなくても、ありがとうと伝えれば良かった。
優しい人は、意味もなく優しい訳ではない。それぞれの経験と、それに基づく信念があるのだ。もっとそうしてくれる理由に関心を持てば良かった。
今後は人の中に輝くものを見出だしていきたい。
そんな風に思っていると、全部の見え方が変わってきた。昼間は見えなかった星が、日没と共に輝き始めるみたいに。
気分が沈んで誰かに愚痴を聞いてもらいたかった時にネット上で吐き出したら、急に見ず知らずの人が来て、優しく相槌を打ちながら話を聞いてくれたことがあった。外出先で花や鳥を眺めていたら、知らない人から優しく言葉をかけられたこともあった。落とし物を拾って渡してくれる人がいたり、ちょっとしたトラブルに巻き込まれた時に助けてくれる人がいたり。
もう二度と会うこともないだろうし、会ったとしても気付かないけれど、今まで数々の優しさに囲まれて生きてきて、恩人がたくさんいるんだった。……恐ろしいほど完全に、忘れていた。
そう気づき始めると、「世界を救う」レベルの強い光ではなく、ささやかな光に魅せられるようになってきた。そもそも世界が常にささやかな光で満たされていれば、誰かが強い光を放たねばならないほどにこじれることもなかったのだろう。
人が人に優しくする姿、そして人の良いところばかりを語る人を見ると、癒される。
つい嫌なことにばかり目がいってしまうが、きっと嫌な人にだって、そうなってしまうようなことがあったのだろう。長年闇に浸り光が見出だせなかったのかも知れない。そう思うと、その人の幸せを祈ろうという気持ちにもなれる。全員が幸せになれるんだったら、足の引っ張りあいよりそっちの方が良いに決まっている。幸せを祈れば自分も優しい気持ちになれる。
けどやっぱり自分はすぐにカッとなるし卑怯だし、そもそも土台が悪い。時々「理屈じゃなく、この人はすごい。天使かも」と思うような純真な人をちらっと見かけるが、まだまだ、ああはなれないなと感じる。自己主張ばかりしたがるのがいけないんだろう。せめて、天使を讃えておこう。
直接の関わりはなかったとしても、歌とか本とか何気なく目にしたものとかテレビや映画の一場面とか、どこだって温かさで溢れている。雲や星にも、野草にも、道端ですれ違う人にもそれぞれの世界があり、一瞬の出会いにも数々の奇跡を感じて安らぐことができる。
悪口に心を掻き回されることもあるが、後になるにつれ重量を増し響いてくるのは、温かい言葉の方だ。言われた時は
「そんなの綺麗事だ。それが何さ」と思ったりするが、本当に大切な言葉は心に引っ掛かり根を張り、影響を与え続ける。そしていつか助けになる。
心に残る人々に感謝したい。時間を共有してくれて嬉しかった。
人々を惹き付ける魅力を持っていて人気者だったり、深い世界観を見せてくれたり、良くない思い込みを払ってくれたり、とにかく可愛らしくて一緒にいると癒されたり。
人間性、性格、人格。夢と可能性が広がっていて、人間を眺めるのは楽しい。心は面白い。
到底追い付けそうにない世界が、どこまでも広がっていることが嬉しい。
今は対人恐怖症気味なのであまり目も合わせられないけれど、いつかは沢山人と交流して、人の持ち味や魅力を見つけられるような人間になりたい。




