第5話 お姫様の正体は。
日本橋界隈の名医と、その手伝いをしている母親の間に生まれた平次。
江戸時代は相互扶助が当然であり、その輪から一度でも外れれば、まっとうな生き方ができなくなる社会である。
それ故に己の願望をひた隠しにしてきた平次だったが――やはり母親には、全てお見通しだったらしい。
彼女は寸分の狂いもなく、平次の心をお綱へ伝えている。
「姫様、平次さんは医師の息子でございます。ただ、お武家様とは違い、医師の息子が医師にならなければならないという決まりはございません。ですから、平次さんは好きに生きることができるのです……本来でしたら」
「本来だったら……?」
「ええ、そうです。平次さんの父親は江戸の名医でございますから……周囲の者たちはその息子に、医師としての跡を継ぐことを切望します。先の大火もありましたから、尚更でしょう」
「……」
お満の話を聞いた途端、何か思い当たることがあるのか、あるいは共感することがあるのか――お姫様は痛ましげな表情を浮かべた。
「母としての色眼鏡もあると思いますが……平次さんは、人の想いを大切にする方です。あるいは、義理人情を重んじると言ってもいいかもしれません。そして、料理人になるということは、これまで相手にしてきた患者たちとの付き合いを、診療の上で止めるということにもなります」
そのしがらみが、平次さんを苦しめているのでしょう――お満はそう語る。
母親の言葉を、平次は否定できなかった。
己が絡み取られているしがらみには、そういった感情的な要素も包括されているからだ。
「御母上様は、平次様のそのような思いに……いつからお気づきになられていたのですか?」
「それはもう、かなり昔からです。小さい頃から平次さんを見ていますので、料理というものに強い情熱を抱いていることぐらいはわかります。それに、往診の際の指導にも、平次さんの想いが強く反映されておりますからし」
「往診の際の指導……?」
よく分かっていなさそうなお綱にお満は言った。
「平次さんは、人の身体を蝕む病は食によって、ある程度まで改善できるとお考えになっています。江戸の病は八割方、食を改めることで治せるとまでも。先ほどお綱様が召し上がった雑炊のように、患者への処方として適切な料理を作り、その上で作り方や食材の効能を教えるのです」
「病は……食を改めることで、治せる……」
「はい。我が家では平次さんの仰ることを参考に食事をこさえていますけれども、現にこうして年増の私も健康的に生活できております。我が夫も60手前になりましたが、足腰も強く、引退はまだまだ先だと張り切っている次第ですし――」
何やら考え込みはじめたお姫様に、平次の母親は、ほのかな自慢の色を込めながら告げる。
「――そのような塩梅ですから、平次さんはこの界隈で『膳医』と呼ばれているのです。最近では『本舩町、善意の塊、膳医がひとり』というような歌もできまして」
「善意の塊……」
「ええ」
お満は苦笑した。
「平次さん、患者に料理を作る時は……基本的に食材は総て持ち出しなのです。これがもし零細な医師の家でしたら、大赤字もいいところでしょうね」
「なるほど……よく分かりました、平次様の為人は」
何やら得心したらしいお綱は、敬慕に溢れる瞳を平次に向ける。
「平次様、お聞きしたいことがございます。貴方様はいまでも、料理人になりたいとお望みになられていますか?」
「……はい」
もはや、否定することはできそうになかった。
母親がこちらの事情をすっかり透かしていることが分かった以上、己の心に抗うことは文字通りの無意味だ。
観念して応じた平次の瞳をしっかり見据えながら、お綱は口を開く。
「よろしければ、教えてくださいませんか? 平次様の御口から、本当の願いを」
「……」
平次は拳をぎゅっと握り締めながら、お姫様の目を見つめ返しながら応じた。
「江戸の庶民が手軽に訪れることができるような、安くて滋養があり、かつ美味しい料理を振る舞う――そのような食堂を開くことができればと思っています」
「庶民が、手軽に……ですか」
お綱が驚きの声を漏らしたその瞬間だった。診療所の戸が大きく拳で打ち鳴らされた後、開かれたのは。
気付けばもう、雨は上がっていた。
診療所の外には、大勢の男たちがいる。
彼らは提灯を掲げ、ぐるりと周囲を取り囲んでいる様子だった。
やがて、身なりの良い武士が入ってくる。
その男が、北町奉行所の長官であるお奉行様その人だと気付いた瞬間――彼は土間で平伏し、額を土に付けながら言上した。
「長らくお探し致しておりました……ッ! どうか、どうかお戻りになられますよう……!」
「……わかりました。そのように致します」
呆気に取られている平次とその母親に会釈し、お綱は固い顔で立ち上がる。
土間で平伏したままの北町奉行をそっと見つめた後、どこか憂いのある瞳を平次に向けた。
「平次様、そして、その御母上様。非常に、お世話になりました……この御恩、一生忘れません」
そう言い残すと、お綱は室内の明かりに背を向けて――夜の帳がすっかり落ちた診療所の外へと進む。
既に、美麗な駕籠が用意されているのが分かった。
警備の数を鑑みれば、加賀藩や仙台藩のような大身どころのお姫様なのだろう。
でなければ、幕府の直臣である北町奉行が土間で平伏するような事態にはならないはずだ。
「失礼した」
そして北町奉行も立ち上がり、一礼して、診療所の外へと出ていく。
普通であれば、この後に事情についての聴取などがあって然るべきだろう。
だが、何もないあたり――彼がこの件をなかったことにしようとしていることは明白だった。
本来であるなら、北町奉行の意図を察して何も行動しないのが正解に違いない。
だが青年には、伝え忘れていたことがある。他でもない、あの天女のようなお姫様に対して。
「お綱様!」
駕籠に乗ろうとしていた姫君に、平次は診療所の外に飛び出して声を掛けた。
途端、ぎょっとした表情を浮かべる北町奉行。そして警備の同心らが平次を取り押さえようとする。
だが、そんな奉行所の官吏たちの動きを制したのはお綱本人だった。
「お待ちなさい」と鋭い一声を飛ばし、駕籠から離れて平次の許へと歩み寄ってくる。
「どうか、されましたか?」
お姫様は穏やかな声で問う。
しかしその姿勢は、先程までのものとは異なり凛然としていた。
大勢の他者の目がある以上、先程までの密室で許された親密なやり取りは、彼女の立場が許してはくれないのだろう。
だが、平次は町人だった。
打ち首覚悟であれば、割と好き勝手なことを喚き散らすことが許される。
それに、伝えるべきことを伝えなければ――彼女を助けた意味がない、とすら思っていた。
「言い忘れていたことがあります」
「言い忘れていたこと?」
「そうです。今宵はしっかりとご入浴をされて、身体を温めて下さい。そして厚着をした上でご就寝されますよう」
「あの、それだけ……でございますか?」
お綱はきょとんとした様子だ。だが、平次は大真面目に告げる。
「それだけ、と仰いますが……大切なことです。お綱様が風邪を召されるようなことがあれば、俺は悔やんでも悔やみきれませんから。今宵はお身体を第一にお過ごしください」
はっきりとした声で言い切れば、お姫様はふふっと微笑を零す。
「そう、でございましょうね……。風邪を引くようなことがあれば、折角振る舞って頂いた雑炊も無駄になってしまいますものね。お心遣い、深く感謝致します」
お綱は意図的に頭を下げず、平次に背を向けて駕籠に乗った。
乗り物が動き出し、本舩町から去って行く。
北町奉行は何やら物言いたげな様子だったが、ここで口を開けば、お綱の身元を明かすことにもつながりかねないのだろう。
結果、平次は何のお咎めも受けることなく、北町奉行所の物々しい警護団を見送ることになる。
父親はその後に帰って来たのだが、どうやらお姫様の素性については教えてもらえなかったらしい。
彼が『身元は分からないものの明らかに高貴な女人が……』と言った瞬間に、疲弊しきった容貌をしていた北町奉行が血色を変え、警護団を診療所へ派遣したのだとか。
どうやら北町奉行所は、南町奉行所と総力を挙げてお綱を探していたらしい。
平次がその騒々しさに気付かなかったのは剣道場に籠っていたことと、桜ヶ池という辺鄙で未開発の場所にしか行っていなかったからなのだ。
(それにしても、奉行所総出か……どこの大名家のお姫様だったんだろう)
もしかすると、往診の際に大名屋敷の垣根越しに再会できるかもしれないな――とそんなことを思った時点で、妄想が過ぎると平次は自嘲する。
(一期一会という故事もあるしな。文字通り、彼女と俺とでは住む世界が違うんだ。もう出会うことはないだろう……)
そんなことを思いながら過ごすこと半月。
昼の往診の帰り――突如として北町奉行所の同心たちに拉致された平次は、訳も分からぬまま駕籠に押し込められることになる。
東北地方の諸家によって、寛永6年(1629年)に作られた一ツ橋門。
そこから江戸城の三ノ丸に入り、天神橋を渡って二ノ丸庭園へ――あれよあれよという間に平次の身柄は運ばれていった。
そして庭園の水泉に面して建てられている東屋で、平次はお綱と再会することになる。
あろうことか、徳川将軍の大政参与にして会津中将・保科 正之――江戸幕府初期における最大の賢人たる彼を伴って、である。
要するに、お綱という女性は――江戸幕府の第四代征夷将軍・徳川家綱公に他ならなかったのだ。