第4話 お姫様と禁忌の食材。
その綺麗に整った容貌には、怖れと非難が彩られている。
「そっ、そのような禁忌を――お医者様とあろうお方が……っ!? 鶏は朝を告げる聖獣でございます! その聖獣が産んだものを掻き回すなど……罰が当たってしまいますっ!」
「ああ、なるほど」
平次は鶏卵を溶き続けながら、腰を抜かして目を白黒させているお綱に言った。
「ご安心ください。これは冒涜的な行為ではありません。南蛮人たちは皆、毎日のように鶏卵を食べておりますから。罰が当たるとなったら、彼らは今頃、その総てが絶滅していることでしょう」
「そっ、それはそうなのですが……! けほっ、けほっ」
「江戸幕府の先の御公儀であられた家光公は、好んで鶏卵を食べたと聞いております。そして、帝の膳にも上らせたとも」
「……ですが、恐ろしいものは恐ろしいのです」
お綱は身体を震わせながら応じる。
ちなみに日本においては、中世以来、卵を食べることは食文化上の禁忌とされてきた。
その禁忌を真正面から崩したのが、戦国の覇王・織田信長である。
南蛮文化を積極的に取り入れた彼は、鶏卵を食べるという文化をも是認。織田領国を中心として食卵の芽が日本に埋め込まれることになる。
しかしながら、それでも、17世紀中頃までは――生命の誕生のシンボルたる卵を、お綱のように禁忌の食材と見做す信仰心が篤い者も多かった。
そういった鬩ぎ合いのなかで、日本の食文化は興亡を繰り広げ、現代社会へと引き継がれているのである。
「お綱様、鶏卵はとても上質な食材です。栄養に優れ、人が生きるために必要なものが全て詰まっていると言っても過言ではありません。ネギと共に、身体が弱っている時には是非とも召し上がって頂きたいのです」
「そんな、そのような……こと……っ」
「……お綱様」
平次は調理の手を止めた。そして、板の間で尻餅をついているお姫様に近付いた。
カタカタと震えている彼女の肩を優しく撫でる。
診察の際にも怯える女性は多い。平次はそんな彼女たちに、職業倫理という厚い壁の下に羞恥心を仕舞い込むことで対応してきた。
怯えて揺れるブラウンの瞳。
それを覗き込みながら、平次は優しく微笑みかける。
「どうかご安心ください。そして俺を信用して下さい。全てはお綱様、貴女様のお身体のためなのです」
「う……うぅうぅ……」
やがて、お綱の顔を支配していた怯えは消え失せていく。
代わって現れたのは、羞恥心だった。
耳や首筋も朱に染まり、とても可愛らしい。
おそらくは、こうして男に迫られた経験など皆無なのだろう。
さもありなん、彼女は未婚のお姫様なのだから。
「それとも、俺は……お綱様の御信用を賜ることはできませんか?」
「あ、あ……あぁ……」
しょんぼりした声を平次が上げてみせると、彼女は口をぱくぱくとさせながら、小刻みに首を左右に振った。
己の信仰心と、目前の現実との狭間で揺れている心が、手に取るように分かる。
だが、平次からすれば、卵は是非とも摂取してもらいたかった食材である。
現代社会では完全食とまで謳われるほど、栄養価において突出しているからだ。
そして卵には鉄分も含まれている。貧血をカバーするという意味でも、重要な意味があった。
平次はお綱を陥落させるため、必死で食い下がる。
さながらビーチで女性を口説き落とそうとするチャラ男が如き執着っぷりだが、本人はそれに気付いていない。
そしてお姫様も、男が自分のために一生懸命になってくれているという状況に満更でもないようで、徐々に絆されていく。
「これも、総てはお綱様がためなのです。それに、もし気に喰わねば……のちほど国許にでも告げて、俺を打ち首にして頂いて構いません。ですが、俺は、お綱様が御病気を召されないようにと、ただそれだけを考えております」
「わっ、わたくしの……わたくしのため、だけ……?」
「ええ、貴女様のためだけに」
女性の間近で瞳を覗き込みながら語り掛ける――それはまさしく、ホストの如き所業である。
だが、背に腹は代えられなかった。母親がにやついていようがいまいが、関係ない。
江戸時代において、平次は医師である。
しかしいまの彼は、身体の不調が露わになっている女性を――いかに健康的な身体へ引き戻せるかについて考える料理人だった。
その熱意が伝わったのだろう。
顔を真っ赤にしていたお綱は、内心の戦いに決着をつけたようだ。
彼女は縋るような瞳を平次に向け、囁くように訊いた。
「わたくしのため……なのですよね」
「その通りです」
平次が頷くと、お綱はそっと目を伏せる。そして、こくりと頷くのだった。
男の情熱が、女性の信仰心に打ち勝った瞬間である。
「ありがとうございます、お綱様」
「きょ、今日だけ……今日だけ、ですから……。こんなこと、いけないこと……だと思いますし」
「いえ、できれば毎日最低でも一個は召し上がるようにしてください」
「えっ、えぇ……っ!? まっ、毎日ですか……!?」
驚くお綱に、平次は畳みかけていく。
一度でも穿ち貫いた岩盤を拡張する作業は、貫く作業よりも用意なことだった。
「もし、お綱様が毎日卵を召し上がっていただければ……きっと、貧血もいまよりも良くなるはずですから」
「ほ、ほんとう……なの、でしょうか……」
「ええ、俺は表裏のない男を目指していますから」
「……あ、あぅ」
茹であがった蛸のように真っ赤なお姫様。
彼女にくるりと背を向けて、平次はぐつぐつと煮たちはじめた雑炊のなかに、先程の味付けネギを入れた。
そして、ゆっくりと溶き卵を注いでいく。
昆布出汁とお米、味付けネギが躍るなかでふわりと浮かぶ黄金色。
その鮮やかさに目を細めながら、日本酒を少しだけ注いでから一煮立ち。最後に、塩をパラパラと振った。
「できました。さて、お綱様……どうぞお座敷にお戻りください」
平次がお姫様を顧みると、彼女は身体をぎゅっと縮ませていた。
身体を抱くように、両腕を胸元で交錯させている。そしてその瞳は切なげだった。
やはり、覚悟がいるのだろう。
改めてお綱を促し、上座に座らせる。
既に、お満が高足膳を据えていた。
平次は膳の上に、匙と出来立ての卵雑炊を置く。
具材はきつね色に炒められた、味付けネギのみというシンプルなものだ。
だがしかし、余計なものが入っていないからこそ、その香りは極上である。
「では、お綱様……どうぞご賞味下さいますよう。先ほども申し上げましたが、身体の疲労回復を早め、栄養を付けることで風邪を予防する卵雑炊でございます」
「……頂きます」
お姫様にとっては、はじめてのネギだ。卵も食べるのは初めてかもしれない。
お綱は緊張の面持ちで、しかし上品に匙を取ると、ふわりと湯気の立つ雑炊を口へ運んでいく。
「熱っ……」
最初の一口目。目をきゅっと閉じながら、お綱は可愛らしい声を上げた。
だがしかし、そこからは黙々と――夢中になって卵雑炊を平らげていく。
彼女の口腔内では、匙を進めるたびに旨味が炸裂していた。
昆布出汁を基調とした上品な風味。そこに焼きネギから沁み出した、溜まり醤油の香ばしさにごま油の薫りと脂分が加わる。
具材であるネギの細切りを噛み締めれば、地味豊かな野菜本来の甘みもブワッと口いっぱいに広がるのだ。食欲が増進されない筈がない。
「熱い、こんな熱いお料理……生まれてはじめて……。ですけれど、あぁ……なんて美味しいのでしょう。わたくしのためだけに作って頂いた、この雑炊……。いままで食べた何よりも……いちばん、おいしい……っ」
そして、お姫様は泣いていた。何かが心の琴線を揺さぶったのだろう。
平次には理由が分からない。ぽろぽろと涙を零しながら、雑炊を食べ続けている――そんなお綱がいるという事実だけがあった。
やがて米粒も汁も残さずに平らげた彼女は、椀と匙を高足膳にそっと戻した後、深々と頭を下げる。
「ここまで身体と心に染みこんだお料理は、生まれてこの方はじめてのことです……。心の底から感謝しております、平次様」
「いえいえ、そんな……」
お姫様に頭を下げられ、平次は両手と首を振りながら恐縮するばかりだ。
貴人が平民に頭を下げるなど、そうあることではない。
平次は慌てながら謙遜の言葉を紡ぐ。
「それに、お綱様は俺とは住む世界の違う姫君にございましょう。ともすれば、優れた料理人が優れた食材で作る優れた料理を毎日のように召し上がって――」
「違います」
だが、お綱はいともたやすく平次の謙遜を打ち払った。彼女は言う。
「確かに、食材に関しては上質な者を使っているのかもしれません。多くの品々が食卓を彩っていたかもしれません」
ですが――とお姫様は目元を押さえながら、絞り出すように続けた。
「わたくしは……っ、それでも、それでも……平次様が真心を込めてお作り下さった、この雑炊以上のお料理を頂いた気がしないのです……っ」
「お綱様……」
「どうか、どうかお聞かせ願えませんか……平次様」
姿勢を正し、真面目な顔付きで青年に相対するお姫様。
「何故、お医者様であられる貴方様が……こんなにもお料理に長けているのですか……? 先ほどの庖丁捌きも、わたくしは調理の現場自体はじめて見ましたが――それでも、並のものとは思えぬ鮮やかさでした」
「それは……」
平次はすぐに応答することができない。隠しごとはするが、しかし嘘は絶対に言えない男である。
料理に掛ける情熱を赤裸々に語れば、それはいまの己の職責たる医業よりも、遙かに心中に占めるウェイトが大きいことを告白することになりかねない。
それは、両親の仕事を軽んじることのように思えてしまうのだ。
「……平次様?」
すっかり固まってしまった男の名を、お綱が呼ぶ。
お姫様への返答を渋るのは、あまり褒められた行為ではない。
だがしかし、己の願望を赤裸々に示すことは、これからの一生を大きく変えてしまうような気がしていた。
そんな苦悩に苛まされていた平次だったが――
「それは、とても簡単なことです。心の奥底で、きっと、平次さんは医師ではなく――料理人になりたいと願っているのでしょうから」
――お綱に応答したのは、あろうことか平次ではなく、彼が気兼ねしていた母親そのひとだったのだった。