EPILOGUE
最近はほとんど野外を出歩くことができずにいた。
なにしろ『平次様の傷がちゃんと癒えるまでは外出してはなりません』とお綱が強硬に主張したからだ。
それもあって、ずっと大奥で療養生活という名の軟禁を食らっていたのである。
ようやく外出を許されたのは、亀丸屋の事件から3ヶ月後のことだった。
「まさかこんなかたちになるとは思わなかった」
快気祝いがてら、顔を出してくれていた保科正之が大真面目な表情で言った。
平次はこれからお綱に同行し、江戸市中の巡察に向かおうとしている。
城下町の復興を督励して回るというのが名目だったが、実態としては平次のリハビリを兼ねた野外デートだった。
「お骨折りいただきまして、ありがとうございました」
「まったくもってその通りよ」
正之はうめくように言った。
「予想外のことばかりが続いた」
会津宰相は苦虫をかみつぶしたような顔になる。
だが、決しておそろしさを感じるような雰囲気では無い。
彼の表情が、意図的に作られたものだと察しているからだった。
あの事件の後、しばらくの間、お綱は無気力状態だった。
情人である平次が鉄砲で撃たれたのだから無理もないだろう。
だが、彼女は立ち直ると人が変わったように政務をとりはじめた。
将軍の退位と譲位を先送りにし、自ら江戸の再建に参画しはじめたのだ。
お綱の関心は江戸の復興のなかでも治安維持の方に注がれており、奉行所の再建を含めた総合的な行政改革を企画して幕閣の老人たちと協議しているらしい。
正之はそんなお綱の申し出に面食らい、しばし言葉が出なかったのだとか。
「儂は亀丸屋の件が終わった後、上様とおぬしが城を辞するのだろうと思っていた。そのための手はずもすべて整えておった」
お綱ももちろんそのつもりだったはずだ。
しかし一発の銃弾がすべてを変えてしまったのだ。
「誰もが上様を都合の良い飾り人形として用いたがった。だが、もはやそうはいかぬ。この国の中枢に巣くう者どもが、思い通りに操れる存在ではなくなってしまった。それがなぜだか分かるか?」
「……上様が、ただ目前のことだけを考えるのをやめたからでしょうか」
「そうじゃ」
正之は眉間を指先で掻いた。
「そしておぬしの立場も安泰となった。江戸城で殺人を犯した黒幕を討つため果敢に亀丸屋を攻め、結果として銃撃を受けたのだ。上様の懐刀としての立場に甘んじず、命を省みず奮戦した……これを忠臣と言わずに何という」
つまりは政治的形式としては完璧、ということだった。
戦乱が遠ざかって久しい以上、賊の退治しか実戦がないなかで、平次は意図せぬうちにこれ以上無いほどの政治的パフォーマンスをしてしまったのだ。
「そして臣の評価は主の評価に直結する。民は城内の殺人事件を知らぬ。しかし亀丸屋が悪事を働いていたということは、上様御親臨のもとで立ち入りが行われたという事実で明らかになっただろう」
正之は続ける。
「そこで勇壮な振る舞いをしたおぬしは、もう民どもの熱狂的な支持を得ておる。衆民出身と言うこともあろうが、そうなってしまったのだ。となれば、上様の評価もまた然り」
「俺を見出した上様が賢才だと言うことになるわけですか」
「そうじゃ。民の支持が篤くなった以上、もはや幕閣も、上様をおなごだからと軽んじるわけにはいかぬだろう」
会津中将は深く息を吐き出した。
「ゆえに、上様の退位は随分と先のことになろう。おぬしが勤めておる臨時職・御膳医の期間もまた伸びることになる。もっとも、職を辞するか否かを決めるのはおぬしだが」
「はい」
平次はうなずいた。
「引き留めて悪かったな。さ、上様をお待たせさせてはならぬ」
正之はそう言って本丸の『表』へと向かう。
平次は彼を見送った後、桜田屋敷へと向かった。
そこが待ち合わせの場所だった。共に寝起きをしている以上、一緒に向かえば良いのに嫌がったのだ。
◆
「平次様、あまりご無理をなさいませんように」
お綱と共に江戸の町並みを駕籠に乗り見て回っていると、姫将軍がそっと耳元でささやきかけてくる。
「傷がふさがったとはいえ、まだまだ体力的に全快したわけではないのですから」
「とはいえ、身体はもうどこも悪くはありませんよ」
「いいえ、念には念を入れねばなりません。かの関ヶ原の戦いの後、徳川四天王と謳われた井伊直政は撃たれた傷が元で亡くなったのですから」
平次は思わず苦笑する。
「随分と心配性なことで」
「心配もします!」
お綱はぷくーっと頬を膨らませながら言った。
「わたくしにとっては、あなたがすべてなのですから」
至極当然、といった口調だ。
そこにはよどみも躊躇もない。
この姫将軍は、心からそう思っているのだろう。
心身共に大成長を遂げた彼女だが、平次を想う心はまるで変わっていないのだった。
「それにしても、まさかお綱さんに身体のことを心配されることになるとは」
「あら、ご迷惑ですか?」
「いえ、そういうわけでは……」
平次は会話を続けようとして、次いで紡ごうとした言葉が適切なのかどうか分からなくなる。
しかしお綱は目で『続けて下さい』と言っていた。
機嫌を損なわなければいいが、と思いながら平次は続ける。
「その、まるで俺の母親みたいな感じで……」
実に不適切な物言いだろう、と平次は思った。
恋人――というか情人だが、その相手に母親とはずいぶん失礼な話だ。
気分を害されても言い訳できない。
そう思って平次はそっとお綱の顔色をうかがったのだが、彼女は顔を真っ赤にしてくねくねと身もだえていた。
「そっ、そんな……母親だなどと」
お綱は頬をだらしなく崩し、平次の脇腹をつんつんと突きはじめる。
「ま、まだ気が早いのではありませんか……? わたくしはまだあなたの女で……その、母になるのはまだまだ先の話だと思うのですけれど……」
「えっ、その……まぁ、それは……」
「嫌です、そんな恥ずかしいことをおっしゃっては……もうっ、もうっ」
お綱が身体を投げ出し、ぽすんと胸に顔を埋めてきた。
駕籠がぐらりと揺れたが、彼女の機嫌を損ねるよりはよっぽどいいだろう。
「でも、うれしいです」
お綱は長く幸福な吐息をもらしながら言った。
「わたくしが一生を添い遂げたいと思うのは、今も昔も平次様だけなのですから」
その言葉を聞いて、平次は大久保内膳の顛末を思う。
お綱に対し、よこしまな情欲を募らせてこじらせていたあの男のことを。
(もし俺がお綱さんと出会うことなく、江戸城に勤めることもなかったら、一体どんなことになっていたんだろう)
それは実に恐ろしい想像だった。
なにしろ保科正之の慧眼を持ってすら、あの肥満漢が麻薬中毒者であるという事実を見抜けていなかったのだから。
亀丸屋と結託して不正を行っているなど、思いもしていなかっただろう。
もしかすると大久保が、その邪悪な想いを成就していた可能性が高かったのではないだろうか。
「運命、だったのかもしれませんね。俺たちが出会ったのは」
「……はいっ」
お綱が幸せそうに返事をしてくる。
それを聞いて、平次も幸福な感情に浸っていた。
やがてそうしているうちに駕籠が下ろされる。
そこは平次とお綱が出会った場所。桜ヶ池に続く土道だった。
時刻は正午に近づいている。
「平次様、歩けますか?」
「もちろん」
風呂敷に包まれた何かを手に提げたお綱。
ついにこの人もそんなことを言えるようになったんだなと感動を覚えながら、平次はうなずいた。
「足元に気をつけて下さいね」
「大丈夫ですって」
「大丈夫ではありません! ああっ、足元に石が落ちていますっ! 危ないです、危険です、いけませんだめですっ!」
そして姫将軍は平次の手を取り、引っ張るように歩きはじめる。
もしかすると、俗に言う『肝っ玉母ちゃん』の気質があるのではないだろうかと平次は思った。
「……なつかしいですね。ここでわたくしたちは出会ったのです」
姫将軍は風呂敷を置くと、大きく両腕を広げた。
そしてくるりと一回転し、微笑みながら平次を見る。
「平次様、実は最初にお聞きしたいことがございます」
「なんでしょう」
「どうされますか? 御膳医のお仕事、続けられますか?」
さらりと、彼女は言った。
「本当は、とっくに平次様が大衆食堂を構えられていておかしくない頃合いです。それがあのようなことになって、ずるずると時間だけが過ぎてしまいました」
お綱は穏やかな声で続ける。
「あなたが望むのであれば、すぐに職を免じます。幕府のことも、わたくしのこともお気になさらず……その夢の実現のためにお進み下さい」
わたくしは今しばらく、務めを果たそうと思います。
はっきりと自分の意見を明らかにして、お綱は言った。
「ですが、もし……もしわたくしに今しばらくお時間をいただけるなら……どうか引き続き、お力をお貸し願えませんでしょうか」
姫将軍はそう言って、深々と頭を下げた。
対し、平次はたずねる。
「とはいえ、お綱さんは今や日中も政務に携わっています。俺が力をお貸しするといっても、これまでのようにずっと一緒にいられるわけではありません」
「……はい」
「朝の食事と診療を終えた後、俺は夜までずっと城で待ちぼうけになるわけです」
「そう、ですよね……」
お綱はうつむいた。
それは要するに、かつて彼女が覚えていたような空虚な時間となりかねない。
そのことが分からない姫将軍ではなかった。
「だから、こうしませんか?」
平次は寂しげな表情を浮かべると、お綱に言った。
「お綱さんはお綱さんの仕事をして、俺はその仕事を支えながら自分の夢を実現する……というのは」
「えっ?」
きょとんとした姫将軍に、「つまりはこういうことです」と平次は告げる。
「お綱さんが仕事をされている間、俺は自分の大衆食堂を運営するというわけです。そうしたら、お綱さんがやるべきことを終えて、退位しようと思ったとき……すぐにお迎えできるじゃないですか」
「平次様……! それでは……!!」
「ええ」
平次はうなずき、微笑した。
「以前、言ったではありませんか。俺の側にはあなたがいて欲しいと」
「平次様……! あぁっ、平次様!!」
「ちょっ、お綱さ――」
視界が宙を舞い、背中に柔らかな土と草の感覚を得る。
そして大空を背景に、お綱の美貌が映った。
「――んっ」
唇に走るぷにっとした感じ。
それがお綱の唇であることは言わずもがな。
着物が汚れるのもいとわず、姫将軍は熱烈に唇を求めてくる。
(そういえば、この場所で、はじめてお綱さんと唇を交わしたんだよなぁ……)
そんなことを、平次はぼうっと考えた。
思えば遠くまできたものだ、と思う。
現代から江戸時代に転生して、かと思ったら将軍様が女性で、恋仲になって今に至る。
やらなければならないことも多い。
大衆食堂の建設もそうだが、楓から面倒を任されている彼女の弟のこともある。
いまは実家で面倒を見てもらっているが、ゆくゆくは手元で療養にあたらせないと筋が通らないだろう。
楓がいまどこで何をしているのかは分からない。
しかし彼女との約束を果たさなければ、また命を狙われかねない。
前回はほぼ奇跡的に生きながらえたとはいえ、次回もそう幸運が訪れるとは限らないのだ。
「はぁ……平次様、なんだかどきどきしますね」
唇をようやく離し、恥ずかしそうにささやきながらお綱が身を起こす。
「あの、そのう……実は、内藤に手伝ってもらいながらおべんとうを作ってきたのですけれど、いかがでしょう」
姫将軍はそんなことを言った。
なるほど。離れて行動したがったのはそのせいか、と平次は納得した。
なかなかもって、お綱は乙女な気質持ちなのだ。
「ええ、いただきます」
「よかったぁ……」
心底安堵したといった態で、お綱が置きっ放しにしていた風呂敷を解く。
中からはお重が姿を現す。少女は風呂敷を土の上に敷き、その上に置いた。
「平次様。ささっ、こちらへどうぞ」
お綱は風呂敷の上に腰を下ろし、隣をぽんぽんと手で叩く。
平次は苦笑しながら彼女の側に寄る。
そして不意に、上空を見上げた。西山のことを思い出したのだ。
(墓参り、行かないとな……)
平次にとって唯一無二の親友であり盟友であった男。
彼の仇を討っただけで満足してはいけないだろう。
友としてできることは、彼が生きていたと言うことを忘れず、記憶し続けることだった。
(でも今は……)
感傷に浸る前に、お綱が作ってくれたという料理に舌鼓を打たせてもらうことにしよう。
それくらいは西山も許してくれるはずだ。
平次はそう確信している。
お重のふたがお綱の手でゆっくりと開かれたとき、ざざぁ、とさわやかな風が吹いてふたりの髪を揺らした。
平次の感嘆の声が、その風に乗って大空へと運ばれていく。




