第65話 江戸の長い夜
夜の帳が下りた江戸の街路。
そこに『御用』と墨で書かれた提げ提灯の明かりがボゥと浮かんでいる。
いわずもがな、奉行所の役人たちだった。
そこに、非正規雇用の岡っ引きたちが多数含まれている。
彼らは縦二列で街路を爆走。
亀丸屋のある駿河町へ向かっていた。
「御用だ!」
「御用だ御用だ!」
役人たちの大声が、眠りに落ちていた江戸の町並みに響いた。
その爆音具合に「亀丸屋にバレやしないか」と不安に思ったものの、おそらく問題ないのだろう。
彼らは大捕物のプロなのだから。
「しかし、やはり信じがたいことでござるな」
行列の後方、お綱の駕籠をはさんで走る内藤が言った。
彼は江戸城の同心らを率いて姫将軍の警護に回ることになっている。
そのおかげで、奉行所は震災後の数少ない人材すべてを亀丸屋に投入できるのだ。
「旗本が魔薬に犯され、いいように操られているとは」
「ぞっとする話です」
走りながら会話をするのはなかなか大変だ。
だが、応答せざるを得なかった。
あの不健康な肥満は薬物摂取のせいだったのか、と今更ながらに気付く。
(いや、気付く方がおかしい)
幕府の信任篤い実務派官僚が薬物中毒者だなんて、誰が思うだろうか。
「いずれにせよ、することはひとつです」
平次は言った。
「俺は、西山の仇を取ります」
その声は爆走する行列の足音の中に混ざり込んでいく。
行列の最後尾、殿を務めるのは奉行。
本来であれば、彼は駕籠に乗るべき地位の人物と言える。
しかしお綱がいる以上、乗り物を使うわけにはいかないのだろう。
皆と同じように歩行で江戸を駆けていた。
「総員! 手はず通り亀丸屋を包囲せよ!」
奉行の指揮の声が飛んだ。
駿河町に到着した役人や岡っ引きたちが、ぐるりと亀丸屋を包囲する。
その物々しさに家の外に飛び出してくる町人も多い。
「なんだなんだ」
「いったい何事だ」
一気に騒然としはじめる駿河町。
その気配に亀丸屋が気付かないはずがない。
物見の男がひょっこりと顔を出し、役人たちが大声を上げた。
「御用だッ! 金衛門と大久保内膳を出せッ!!」
「抵抗しなければ命までは取らぬ! これは征夷大将軍、徳川家綱公が御意志であらせられるぞ!」
野次馬根性を見せている町人たちは、奉行所の役人たちが発した声に驚きを隠さない。
江戸時代において、征夷大将軍が発する命令は抗いがたい絶対的なものだった。
亀丸屋の男は表情を凍り付かせ、役人たちをぐるりと見回すと引っ込んでしまった。
「揃えェッ! 抜けェッ!!」
奉行の檄が飛んだ。
亀丸屋を包囲している者たちが抜刀し、白刃が闇夜にきらめいた。
「これより亀丸屋への立ち入りを強行する!」
奉行が大声を張り上げる。
「相当な抵抗が予想される! しかし各々方、絶対に金衛門と大久保内膳を捕縛するのだ! 抵抗された場合は殺しても良い! これは上意であるッ!!」
男たちが「応ォッ!!」と吠えた。
その喚声が上がったタイミングで、お綱が内藤の補助を受けながら駕籠から下りる。
麗しの姫将軍は役人たちを見、平次に視線を移し、それから全体を視界に入れて口を開いた。
「武運を祈ります」
それは短くも力のある言葉だった。
男たちが礼の姿勢を取り、彼らの履いている草履がザリッと音を立てて土を踏みしめる。
「ははっ!」
その力強い応答の後、一瞬だけ駿河町に静寂が戻った。
しかしすぐに、奉行の発した突撃指令が闇夜を突き抜ける。
「皆の者、進めェっ!!」
「応ッ!!」
◆
どのような理由があったとしても許されない趣旨の暴力が、裏店屋敷で行われている。
最初は抵抗していた楓だったが、その苛烈さに、今やすっかり抗意を砕かれてしまったらしい。
ぐったりと力なく吊されている状態の彼女に、大久保はなおも悪逆の限りを尽くしていた。
「浅ましいものじゃ」
その光景を眺めている金衛門は薄ら笑いを浮かべている。
自分に逆らった者がいたぶられている様を見るのは、やはり痛快だった。
充足感を覚えていた。至上の時間ですらあった。
「金衛門様!」
だが、その時間を阻害する風が流れ込んでくる。
名を呼ばれた金衛門は不機嫌そうに振り返った。
「どうした」
「奉行所の者たちが!」
叫ぶように伝えてきたのは、ふだん、店番を任せている男だった。
つまり、金衛門がそれなりに利用価値を認めている相手である。
彼の言葉を聞き、理解し、金衛門は己を包んでいた快楽を消し飛ばす勢いで頭脳を回転させた。
地獄の使いのような凶相はまがまがしく、落ちくぼんだ目はギラギラと邪悪なものを宿している。
「ほう、なんと言っているのだ?」
「金衛門様と大久保様の身柄を引き渡せと! 上意だと言っています!!」
「なるほど」
金衛門は低く、しかし力のある声で言った。
「つまり、楓が洗いざらい幕府に此度のことをばらしたのであろう」
「……いかがなされますか」
「いかがも何もあったものではない」
金衛門は続ける。
「儂らは今日この時より『逆臣』となった。投降したところで首をはねられるだけであろう」
「……では」
「抗うほかにあるまい。飼っている浪人どもに言っておけ、下ったところで殺されるだけだとな。それに、幕府が『つがる』を供与するはずはあるまいと」
金衛門はそのように指示を出すと、大久保に近寄った。
もとより、戦ったところで長くはもたないことを承知している。
そして用心深いこの老人は、このような事態に備えて策を施していた。
「大久保様、大事にございますぞ」
理性を失い、なおも楓に執着している醜悪な肉塊。
その腰とも尻ともつかぬ部分を、金衛門は蹴り飛ばした。
「なっ、なにごとだ!!」
目をぎょろぎょろとうごめかせながら、大久保はうめいた。
その脂肪漢を見ながら、『やはりこの男は連れて行けぬな』と金衛門は思う。
この男はいささか阿片を吸い過ぎたらしい。
戦力として使えないことは明白で、思考能力も鈍っている。
となれば、討ち入ってきた幕府の役人たちの関心を反らすエサとしてしか使い道はなさそうだった。
◆
亀丸屋の表店。その戸を蹴破った役人たちは、迅速に作戦行動を展開した。
それに対抗するかたちで、すぐさま亀丸屋の用心棒たちも応戦する。
「御用だ御用だ!」
「何が御用だ! てめぇらみんな叩き切ってやる!」
用心棒たちに動揺の色は見られなかった。
むしろ戦闘を当然のこととして考えている節があった。
結束力も高い彼らは喚声を巻き起こしながら白刃をきらめかせる。
かくして、亀丸屋の内部では両陣営の血飛沫が容赦なく噴き上がることになった。
「殺せ、殺せッ!!」
徳川政権に迎合できない豊臣家の残党。
投降したところで将来の見えない社会。
そして魔薬に冒された身体は、亀丸屋なくして生きていくことができない。
そういった諸々の要素が、彼らを幕府への抗戦に駆り立てているのだ。
「死ねやぁあァッ!!」
平次が殺気混じりの怒声を浴びせられたのは、表店と裏店屋敷をつなぐ通路の手前だった。
周囲には味方がいない。背後では凄まじい声が響き渡り、血で血を洗う乱戦が繰り広げられている。
有り体に言えば、平次が生き残っただけなのだ。
周囲にいた者たちは斬り殺され、残っているのは後続の者たちだけだった。
「ぎゃっ!」
斬りかかってきた浪人に平次は腕を突き出す。
その刃先は彼の首を穿つ。
即座に刀の柄を引き、音もなく背後から斬りかかってきた男の胴を薙ぐ。
「ぐえっ」
悲鳴と血飛沫が平次に降りかかる。
しかし平次は構わず進んだ。やるべきことがあまりに多すぎるのだ。
――西山の仇である金衛門と大久保を討つこと。
――おそらく屋敷の中にいるであろう楓を探すこと。
――そして、お綱のもとへ帰るために生き延びること。
そのためには、まず、目の前の障害を片付ければならない。
死ぬようなことがあれば、為すべきことも、これまで為してきたものも、すべてが水泡に帰してしまう。
「しかし、何なんだここは。まるで砦みたいじゃないか」
裏店屋敷まで続く道を、平次は身を低くして駆けた。
やがて背後から足音が聞こえてくる。
顧みれば、幕府の役人たちが突入してきていた。
後備を投入するなど物量にものを言わせ、表店の部分を制圧したらしい。
「こっ、これ以上は先に行かせねぇ!」
裏店屋敷の玄関前広場には、18名の武装した浪人たちがいた。
1対18ではどうあがいても勝ち目はない。
「御膳医様! お助け致します!!」
「貴様らァ! 大人しくお縄につけィ!!」
だが、状況は平次の味方だった。
背後から続々と幕府の役人たちが駆けつけ、遂に対峙している男たちの2倍にふくれあがる。
「そこを通せ、抵抗はよしたほうがいい」
平次は浪人たちに勧告した。
「抗っても死ぬだけだ。大人しく投降するか、逃げた方がいいぞ」
「ふざけるなッ」
目をぎょろりと剥きながら、手首を痛めているらしい浪人がうめく。
「女と酒と飯と『つがる』のある楽園は、ここ以外にねぇんだ!」
「では、どうあっても退いてはくれないということだな」
楽園か、と平次は顔をしかめる。
その楽園ではいま、敵味方入り乱れる大量の死体が積み上がっていた。
おそらくは、歴史の教科書に載るレベルの大事件に違いない。
「余計な死体は見たくないし、これ以上作りたくもないんだが」
「黙れッ! 徳川の犬の分際で!」
亀丸屋の男たちが抜刀し、じりっと踏み出してくる。
平次は嘆息し、刀を構え直した。
「言っておくが、犬は強いぞ。特に群れた犬は、人間が勝てるような相手ではないと覚えておいた方が良い」
そう言うや否や、平次は一気に踏み込んだ。
凄まじい勢いの刺突が繰り出され、噴水のような血液が噴き上がる。
瞬殺劇の事実を受け容れられない様子の手近な浪人の首元を、平次の横滑りの斬撃が見舞った。
あっさりとのど首を切り裂かれた男は、血をまき散らしながらドウと地に倒れ伏す。
実に満足のいく一撃だった。
平次は目前に迫っていた浪人の腹に、血塗れの刀を突き刺していく。
刃先は皮膚を破り、筋肉の壁を易々と通過して内臓を穿つ。
「ぐげっ」
あふれ出した血がしたたり落ちる。
柄を握った手には、男の生命が失われていく感覚が生々しく伝わってきていた。
だが、その官能じみた感覚に酔いしれるだけの余裕はない。
平次は男を蹴り飛ばし、その反動を利用して――思いのほか深く刺さっていた刀を引き抜いた。
一方、役人たちも浪人たちを圧倒している。
やはり数に物を言わせた制圧力は、圧倒的というほかにない。
「お見事でした、御膳医様」
「人殺しなど、あまり褒められた技術じゃない」
血ぬれの平次は口を歪めて言った。
本心からの言葉だった。殺人という行為は、やはり慣れることがない。
「できれば今日限りで最後になってほしいものだが」
そして平次は裏店屋敷の戸に手を掛け、引き開ける。
「覚悟ォッ!!」
「むっ!」
甘ったるい濃密な煙と共に、戸の向こう側から浪人たちが押し出してきた。
が、それを間一髪で回避。すれ違いざまに刀の峰で背中を打ち据える。
「生きて帰れると思うなよォッ!!」
左右から浪人たちが斬りかかってくるが、平次は即座に対応した。
右手からきた男は胸を裂かれ、左手の男は肘から先を切り落とされる。
「ぐあっ」
前のめりに倒れた浪人たちの背中に、役人たちが群がって刀を突き刺していく。
徳川家に仇なす者を相手にしているとはいえ、まるで容赦がない。
人間の恐ろしさを目の当たりにしている気分だ。
「それにしても、なんて煙だ……」
平次は身を低くし、口を押さえてうめく。
あまりにも煙がひどくて目に染みるレベル。
だがそれは、粘膜で魔薬に触れているということを意味した。
要するに、非常に危険な環境なのだ。
長居すれば、自分も薬物中毒者になってしまうだろう。
「御膳医様、ここから先は我らが」
「いや、いい」
平次は甘ったるい阿片の香りを極力意識しないようにしながら、決意と共に言った。
「俺が決着をつけなければいけない問題でもあるんだ、これは」
そして役人たちを引き連れて、平次は座敷へと上がった。
そこには全裸の大久保、そしてこれまた生まれたままの姿の女たちがいる。
至るところで響く喚声や怒声のせいでまるで気がつかなかったが、座敷には女たちの嬌声や媚び売る声が満ちていた。
「大久保内膳……! それに、お前が……!!」
「これはこれは、お初お目にかかりますな御膳医様。亀丸屋の店主、金衛門にございます」
大久保の背後。
杖を持ったその男は、骸骨を思わせる凶相に笑みを浮かべながら言った。
大久保は事態についていけないのか、目を白黒させている。
「ここまでいらっしゃったということは、すべてをご承知の上……ということでしょうな」
「ああ。もっとも、ここまで阿片を焚いて、それを隠す気配すらないのには驚いたが」
「ふふん」
金衛門は不敵な笑い声をもらす。
「こうなっては、もはや致し方ないでしょうしなぁ。今更、取りつくろえるものでもありますまい」
「殊勝だな。ならば大人しく投降しろ、話が早い」
「それはお断りですな。獄に繋がれることがあれば、二度と日の目は見れないでしょうしなぁ」
「ならば、なぜ逃げずにこの場に踏みとどまっているのだ!」
平次の怒声を前に、骸骨老人は余裕な態度を崩さない。
亀丸屋の店主は足元の女たちを蹴り飛ばしながら、ニタリと口をゆがめた。
「さらって薬漬けにしてきたこやつらの処理を任せようと思いましてな。いささか持てあまし気味ゆえ、持ち帰って頂ければと思いましたので」
「なんという外道……!」
「なに、食費も薬代もただではありませんのでな。ああ、こやつらは薬が切れれば……喉を掻きむしって自害しかねませんゆえご注意いただければ」
あまりのゲスさに怖気が走る。
役人たちも憤っているようだ。流石に限度というものがあった。
人として許されるラインを、この男は簡単に踏み越えてしまっている。
「ああ、そこのくのいちも持って行ってくれてかまいませんゆえ」
金衛門はそういって、大久保の近くでボロ布のようになっている楓を指し示す。
「儂らには、もう必要ないですからな」
「何故だ。お前にとって、いや、豊臣の残党にとって都合の悪い情報を持っているはずだろう」
「儂にとって、豊臣などどうでも良いですからなぁ」
金衛門は低い声で笑った。
「一生遊んで暮らせるだけのカネは手に入りましたからな。他ならぬ大久保内膳様のご助力で、幕府の金庫から」
骸骨老人は愉快そうに続ける。
「そのカネは、ここではなく他所に隠してありますゆえ、この店がなくなったところで問題はありませんしなぁ。後はお好きなように振る舞われるがよろしい」
そして彼は、ぼーっとした顔を宙に向けている大久保に告げた。
「大久保様、上様をたぶらかす大悪党・御膳医がやってきましたぞ」
「なっ、なにっ!?」
明らかにドラッグの過吸引でおかしくなっている全裸の肥満漢は、甲高い声をあげて刀を手に取った。
「あのウジムシが来たのかっ!?」
彼は奇声を発しながら刀を振り回す。
その白刃が天井から楓を吊していた紐に当たり、切れる。
金衛門が瞬間的に険しい表情を浮かべるが、楓はぴくりとも動かなかった。
「こ、この内膳がいる限り!清らかな上様は絶対に怪我させぬ……! 上様の乙女はこの内膳のものぞ……!」
かと思うといきなりクールダウンし、肥満漢はぶつぶつとうわごとのように言った。
「この内膳が、上様のはじめての男となるのだ……この内膳が……」
「ずいぶんと大それた、気色の悪いことを言う」
平次は刀を霞構えに構え治し、嗤った。
「なるほど。初対面の時から俺を毛嫌いしていたのは私怨だったんだな。俺が上様のお側にいることが気にくわなかったわけだ」
「うっ、うるさい!! 黙れっ!!」
感情のコントロールができないのだろう。
一気に激高した大久保は、怒りの形相を浮かべて刀を振り上げた。
「上様はこの内膳のものだッ!!」
「上様の人生は彼女自身のものだろうッ!!」
大久保がドスドスと駆け寄り、斬りかかってくる。
平次は手首を返し、刀を下から跳ね上げた。
「ぐおぅッ」
どうやらまともに刀を握っていなかったらしい。
ガキィンと金属音が鳴り響き、大久保の刀は彼の手を離れて飛んでいってしまう。
しかし幕府の賄頭はめげず、奇声を発しながら突撃をかけてきた。
「くそっ」
流石に反撃せざるを得なかった。
平次は刀の刃を返し、峰で肥満漢の首裏をブッ叩く。
ぶよりとした脂肪の感覚。
そしてその奥にある硬い骨。
それが粉みじんに砕けた感覚が、柄から伝わってきた。
「ぐぎゃっ!」
大久保は踏みつけられたネズミのような声をあげてのたうち回る。
刀で斬られるよりもはるかにつらく、はるかに長い時間を苦しむことになる殺し方。
肥満漢の悲鳴を聞きながら、平次は金衛門をにらみつけた。
大久保はもう何もできない、ただ苦しんで死ぬだけだ。
しかし問題はこの男に他ならない。なにしろすべての元凶なのだから。
「楓からすべて聞いたぞ。覚悟しろ、お前だけは生かしておけない!」
そう叫び、平次は金衛門へ霞構えで刺突を繰り出した。
しかし骸骨老人は不敵な笑みを浮かべたまま、杖で勢いよく床を突いた。
途端、裏店屋敷の座敷奥の薄壁が凄まじい音と共に突き破られる。
なんということだろう。そこは隠し通路になっており、12名の武装浪人たちが飛び出してきた。
「何っ!?」
予想外の出来事に虚を突かれ、平次は襲い来る強靱を慌ててかわす。
幕府の役人たちも初撃で斬り殺された者が出、一気に乱戦となる。
平次も金衛門ばかりに注意を払っていられなくなってしまった。
「仕舞いじゃな、御膳医」
金衛門は男たちが出てきた隠し通路に向かって悠然と歩きながら、また杖で勢いよく床を叩く。
すると天井板が外され、落下する。
そして即座に、ズダダダーンと凄まじい銃声が轟いた。
「ぐっ、ぐぁあぁ……ッ!?」
「御膳医様!?」
腕が吹き飛ばされたのではないか、と錯覚したほどの凄まじい衝撃。
腕から全身へ突き抜けた激痛に、平次は思わず刀を取り落としてしまっていた。
ぼたぼたとしたたる鮮血。
それを知覚しながら、平次は愕然としていた。
反射的に、視線は天井へ向けられている。
「なんてことだ……!」
そこには、江戸には存在してはならない兵器・鉄砲の銃口があった。
銃撃に巻き込まれたのは平次や役人だけではなく、浪人たちも含まれている。
「こんなものまで持ち込んでやがったのか……!」
「ふん、この金衛門が何の手立てもなくお前たちをここまで迎え入れたと思うてか」
骸骨老人は嘲笑するように言った。
「いつどのようなことが起こっても、対処できるようにするのが長というもの」
金衛門は地獄の底から響くような笑い声を上げた。
「また会えると良いのぉ。お前たちが生きていれば、じゃがな」
彼はそう言って、堂々とした歩調で隠し通路から去って行こうとした――が、その刹那のこと。
金衛門めがけて、一筋の閃光がきらめいた。
それはまさしく、先ほど平次が跳ね上げた大久保の刀だった。
「ぐおぅ……ッ!?」
吸い込まれるように、金衛門の背中に深々と突き刺さる刀。
老人は必死に背中から引き抜こうとするも、しかし彼の望みは果たされなかった。
まるでいもむしのように、亀丸屋の悪逆店主は身をくねらせる。
「きっ、金衛門さ――ぐぎゃっ!」
そして天井裏から鉄砲を構えていた男たちもまた、飛来した刀にその身を貫かれて事切れる。
平次が痛みに耐えながら視線を転じれば、そこには肩で息をしながら立ち上がっていた楓の姿があった。
おそらく、銃撃音で覚醒したのだろう。
近くにあった大久保の刀で、手足を縛っていた縄を断ち切ったらしい。
「……終わりね、これで全部」
「こっ、このアバズレが……ッ!」
金衛門は憎しみを込めながらわめき、楓を罵倒する。
背中を深々と刺し貫かれたままだというのに、凄まじい生命力だった。
逃走を図ろうとする骸骨老人だったが、楓はすぐに追撃に映る。
「おのれ……! 貴様のような牝に情けを掛けて、飼ってやったのを忘れたか……!」
「そうね、ええ、そうかもしれないわね」
楓は金衛門に突き刺さった刀の柄をつかみ、ねじる。
途端、すさまじい悲鳴が立ちのぼった。
それを聞き、くのいちはゆっくりと刀を引き抜いた。
「だけど、あんたは大事なことを忘れてる。私だって人間なの、良くされた方に付くのは当然でしょう?」
そして楓は、抜いた刀を振り下ろす。
後頭部から口腔まで一気に突き抜けた刀身は、生命力の高い骸骨老人の生命を問答無用で奪い去った。
それに飽き足らず、あるいは用心深いのか、楓は金衛門だったものの頭部を執拗に刀身でなぶった。
彼女の行動に呆然としていた役人たちは、ようやく声をあげる。
武器を捨ててこちらに来い、と。
「聞けない相談ね」
楓は悪人たちの要求をにべもなく拒絶した。
「それに、私なんかよりも御膳医様を気にした方がいいんじゃない? 弾丸は貫通してるみたいだけど、楽観視はできないでしょうし」
くのいちはそう言って、隠し通路に足を掛ける。
そして振り返り、平次を見ながら言った。
「御膳医様、信者ダメよ。あなたには弟の面倒を見てもらわなきゃいけないんだから」
「……どこにいくつもりなんだ?」
肩を撃ち抜かれた激痛にあえぎながら、平次は苦悶の吐息混じりにたずねる。
すると、答えはすぐに返ってきた。
「もちろん、江戸の外に決まっているでしょう? 良い死に場所を探さないといけないわ」
「弟を連れて行くつもりはないのか」
「……はぁ」
楓はため息をついた。
そして続ける。どうして自明のことを聞くのか、といった調子だ。
「この日ノ本には、まだまだ豊臣の残党がいっぱいいるわ。でも、私が話した情報のせいで、きっと色んな者たちが処罰されるでしょうね」
彼らはすぐに気付くわ、金衛門が死んだと。そして私が裏切ったと。
楓は晴れ晴れとした表情で言う。
「そうなったとき、まともに戦えない弟がいたら大変だわ。殺されてしまうもの。なら、あなたに預けていた方が良い。あいつらも、幕府に保護された人間には手を出そうとはしないだろうし」
私はもちろんダメね。幕府に保護されても、奴らは意地でも私を殺しに来る。
ほとんど関係のない弟とは事情が違うのよ――楓はそう言った。
「ずいぶんと、勝手な言い分じゃないか……俺があの子を預からないと言ったら、どうするつもりだ」
「そんなこと、あるはずない。あなたがそんなことを言うはずがない」
楓ははっきりと断じた。
「私はあなたのことを信頼しているわ。自分以外で、きっと唯一」
「……」
平次は薄い笑みを浮かべた。
命を取り合った相手を信頼しているとは、なんと愉快な言葉だろうか。
そして彼女の言葉は真実だった。
平次は自分の関わった間者を見捨てることができないのだから。
「それじゃあね、御膳医様。もう二度と会うことはないだろうけれど」
その言葉と共に、楓の姿は穴の中へと消えた。
「待てっ!」
生き残っている役人のいくらかが、彼女の後を追った。
それを呆然と眺めていると、平次は自分の身体が左右から支えられたのを理解する。
「大丈夫でありますか、御膳医様! 亀丸屋の店主である金衛門と内通者である大久保内膳は果てました! 幕府に仇なすものは滅されたのです!」
ずいぶんと芝居がかった発言だな、と平次は想った。
だがどうしてそんな発言がなされたのかについて考えてみれば、さもありなんという感じだ。
要するに、今の平次は『銃撃を受けて重傷を負った将軍の側近』という立場なのだ。
役人たちが平次を生かすため、勇気づけようとするのは道理というものだろう。
「そうか、それはよかった……」
平次は喉の奥から乾いた笑い声を発する。
出てきたのは思った以上に力のない声だった。
どうやら血を流しすぎたらしい。
薄れゆく意識の中、平次はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「いずれにせよ、これで、西山の仇は討てたわけだ……」
その事実は平次の心に強い安寧をもたらした。
だがすぐに、深い懸念材料が浮上してくる。
言うまでもない。
あの麗しの姫将軍が、どんな反応を見せるかが気がかりだったのだ。
いくら毅然とした態度を見せることができるようになったとしても、本質的な部分では決して変わりきれないのが人間という生き物なのだから。
「取り乱されなければいいが……」
その呟きを最後に、平次の精神は落ちていく。
深く深く、どこまでも。




