第3話 冷えた心と身体には熱々の。
先ほどから続いていた強烈な雨脚は、次第に弱まりつつあった。
だがその代わりに、平次の心臓の鼓動は激しくなっている。
当然の反応だろう。なにしろ絶世と言っても過言ではない薄幸系のお姫様が、警戒心もなく寄り添ってきているのだから。
母親以外の女性と、ろくに手を繋いだこともない平次である。
診療で女性と接触する機会は多いものの、こういった日常での接触はほとんどない。
そのためお綱が平次の袖を握った際には、口から心臓が飛び出んばかりの衝撃があった。
「あぁ……わたくしにはもう、何が何やら……」
台所にある品々を、お姫様は平次の腕を支えにしながら観察し、感嘆のため息を漏らしている。
だが平次からすれば、現状が、その「何が何やら」というやつだ。
青年の心中を知らぬお綱は、清楚かつ麗らかな口唇から疑問の言葉を発した。
「あの……この長い、棒切れのような草は……何でございましょう」
彼女の目線はまな板の上に注がれている。
平次は赤面している己の状態をよく自覚しながら応えた。
「あっ、あぁ……これですか? ネギ、といいますが……」
「けほっ……ねぎ、ですか。はじめてみました」
空咳に未だ苦しめられてはいるものの、溢れる好奇心を抑えきれない様子のお綱。
江戸では基本の食材なのだが、どうやらご存知ないらしい。
いや、それもそうか――平次はすぐに思い直す。
お姫様の食卓に、未調理のネギが供される筈がないからだ。
「このネギは千住ネギと言って、摂津から持ち込まれた苗を栽培したものです。江戸ではここ50年の間で一気に普及した野菜でもあります。旬は冬ですが、年中需要があるので、こうして夏季にも供給されているんです……やはり、旬と比べれば質は落ちますが」
「はぁ……。そう、なのですね」
いまいち実感がわかない、という面持ちのお綱である。
江戸で普及していると言われても、いままでネギを知らなかったお姫様なのだ。このような反応になってしまうのは当然だろう。
「ですけれど、ほんとうに摩訶不思議なお野菜でございますのね。下は真っ白、上は青緑……どちらを召し上がればよろしいのやら」
「どちらも食用です。もっとも、上方では緑の部分が好んで食べられるようですが」
平次がそう答えると、お綱は平次に視線を移す。
「上方では、といいますと……つまり江戸では違うということですのね」
「そうです。江戸ではむしろ、白い部分が好んで食べられています」
そう応じてから、お綱に腕から手を離して貰うようにお願いした。
彼女は指示に従う意向をみせる。そして今度は背中の方に移動していった。
くっつかれていることに変わりはない。
だが、腕に寄り掛かられているよりはよっぽどマシだった。
平次は庖丁を手に取り、トントントンと小気味よい音を立てながらネギを細切りにしていく。
お綱はその鮮やかな手並みを肩越しに見て、すっかり感心している様子だ。
「わぁ……! けほっ、けほっ……」
驚きの余り声を出し過ぎたのだろう。途端、お綱は咽込んでしまう。
その間、平次は動きを止めていた。彼女の咳は全て平次の肩甲骨辺りに当たり、着物の該当部分がしっとりと熱を持つ。
「もっ、申し訳ございません……御邪魔をしてしまいました」
「いえ、構いませんよ。それよりも、咳は大丈夫ですか。やはりお辛いでしょう?」
「はい、少しは」
お綱は正直に認めた後、続けた。
「ですが、いずれは収まるものですから……」
「あまり咳が過ぎると肺が悪くなります。もっとも、止めようと思って止められるものではありませんが」
「……」
彼女を案じる平次の思いがしっかりと伝わったのだろう。お綱は頷いた。
「どうです、少し嗅いでみますか?」
「え……?」
「ネギの香りを、です」
明らかに動揺している様子である。
おそらく、いままで「自分から物の匂いを積極的に嗅ぎにいく」という無作法を経験したことがないのだ。
平次の問いは、その反応を予期したものでもあった。ダメ押しのように続ける。
「これから火を通すことになります。そうすると、香りも変わってしまいますから。何事も経験といいますが……どうですか?」
すると彼女は躊躇するように身じろぎした後、動いた。
平次は腕を差し出して彼女を支える。
彼女はまな板の上の細切りネギに顔を直接寄せて鼻を鳴らす――などという下品なことはせず、あくまでも上品に、手の平で鼻許へ匂いを扇ぎ送るような動作をみせた。
「随分と、青臭いのですね。若草をすりつぶしたものに、辛みが加わったような……」
「ええ、大凡そのような匂いで相違ないでしょう」
はじめてネギの香りを嗅いだお姫様は、目をぱちくりとさせている。
そして、明らかに興奮した様子で言った。
「わたくし、このように強い香りのお野菜ははじめてです……」
「実は、この食材はお綱様にうってつけの食材でもあるのです」
「わたくしに、ですか?」
きょとんと首を傾げるお姫様。
平次は彼女へ、大雑把にネギの効能を伝えることにした。
細かく話し過ぎてもビタミンなどのカタカナ語での会話になってしまい、適切な日本語に置換できる自信がなかったからだ。
現代社会で語られる知識も、共通の文化的土台がなければ、説明することは大変なのである。
「そうです。ネギには様々な力があり、特に身体の疲労を取り除いてくれます。今日のお綱様のように、身体の調子が不安定な時にこそ召し上がっていただきたい野菜なのです」
「身体の疲労を、取り除く……!?」
お綱が驚愕の声を漏らす。平次は続けて言った。
「ええ、端的に言えば……ネギは風邪の予防や治癒のお手伝いをしてくれます」
「そっ、そのような力が……このお野菜に?」
「はい。もちろん、食べ過ぎは良くありません。ですが、今宵は是非とも召し上がって頂ければと」
「……」
途端、お綱は押し黙った。
――どうして城の者は、そんなお野菜をわたくしに教えも食べさせもしてくれないのでしょうか。
そんな呟きが聞こえたような気もするが、気のせいかも知れない。平次は次なる工程へと移った。
江戸時代の竃である『へっつい』。
そこに据えられている鍋に、ごま油を匙で掛け回すように注ぐ。
途端、ジュワッという音と共に香ばしい薫りが立ち込めた。たちまち、お綱はうっとりと目尻を下げる。
「あぁ……ごまの芳醇な香りが致します……」
恍惚の声が湯気に混じって立ち昇った。
お姫様の悩ましげなため息を聞きながら、平次は切ったばかりのネギの細切りを鍋に投入していく。
熱せられた鉄板。それはごま油にコーティングされたフィールド。その上で、たちまちジューッと小気味好い音と共にネギが弾けて躍り出す。
それは聞いているだけで垂涎ものだが、平次は更に――鍋のなかへ、溜まり醤油を掛け回して注ぎ入れた。
「ふぁあぁ……っ、なんて香ばしい薫りなのでしょう……すてきです……っ」
お綱が官能的とすら言える声を上げ、平次の着物を強く握り締めた。
平次は木べらを使い、ネギをごま油と溜まり醤油で炒りつける。
油と醤油をその身に纏うネギは、きつね色にツヤツヤと輝きを増していく。
そして絶え間なく続く、ジュワッジュワッという油と水分が干渉し弾ける音。それは香ばしい薫りと共に――小腹を空かせた者の、腹の虫を疼かせるだろう。
「これは一旦、鍋から上げます」
平次は皿の上に、綺麗に炒められたネギを移した。
香ばしく食欲を誘う香りに、お綱は唇を緩めきっている。
「とても、美味しそうです……」
「ええ、このまま食べても十分に美味しいと思いますが……今宵は別の使い方をしてみましょう」
平次は『へっつい』に据えてある、もうひとつの鍋の蓋を開けた。
そのなかには加熱され、ふつふつと沸騰間際のお湯と――そのなかで踊る昆布がある。
「こちらも、丁度いい塩梅です。沸騰させすぎると昆布の粘りが溶け出し、出汁としては余り美味しいものではなくなってしまいますから」
「そうなのですね……あぁ、嗅ぎ慣れた優しい匂いが致します」
お綱は両手を胸の前で組んだ。
悩ましげな吐息が、美しく整った口唇から零れ落ちる。
その面前で、平次はお櫃から米をよそい、昆布出汁のなかに投入した。
江戸時代では朝に米を一気に炊き、夜に余りものの冷飯を食べるのが一般的だ。
だがしかし、池に落ちてその細い身体を冷やしてしまっているお綱に――そんな食事を提供するつもりはない。
「これは……昆布出汁の雑炊をお作りになっているのでしょうか」
「ええ、そうです。風邪を防ぐには身体の芯から温め、そして栄養を取らないといけませんから」
「ですが、これはひとり分しか……」
「当然です。お綱様のために作っているのですから」
「あ……っ」
平次の言葉に、何か思うところがあったのだろう。お姫様は胸を押さえ、俯いてしまう。
それ故に、彼女は平次が取り出した食材に――すぐ気付くことができなかった。
そして気付いた時には、もう遅い。
「え……えぇ……っ!? あっ、あのあの……っ!」
「どうしました?」
平次は澄ました顔で、椀の内容物を箸で掻き混ぜている。
だがしかし、お綱からすれば――それは極めて冒涜的な行為だった。
「そっ、それはまさか……鶏の……っ」
「ええ、卵です」
「ひぃ……っ」
思わず身体を引いて、お姫様は板の間にぺたんとお尻を乗せてしまうのだった。