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【井の中の井守】徳川料理人の事件簿  作者: 井の中の井守【N-Star】
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第64話 反逆のくのいち




 亀丸屋によってよって暗殺対象に指定された御膳医。

 だが、あろうことかその彼に敗北。

 そのうえ情けを掛けられて、挙げ句の果てには弟の面倒まで見てもらう始末。


 加え、平次が江戸の民の栄養事情を改善するために働いていたことを楓は知っていた。

 もはや御膳医のことを、くのいちは敵として――殺すべき相手だと思えなくなってしまっている。


(あの男を殺めれば、私たち貧民の生活が良くなる可能性がなくなるのよね)


 楓はそう確信している。

 夜の町を駆け抜けながら、背後から徳川の忍びが迫ってきていることを感じていた。


(でも、襲ってくる気配はない……か)


 彼らは馬鹿ではない。

 楓が奉行所を飛び出した意図を、明白に察しているはずだった。


(だからこそ、追撃の手を抜いているんでしょうね……)


 駿河町にたどり着く。楓は背後を振り向くことなく、亀丸屋へ飛び込んだ。

 そして裏店屋敷へ続く通路へと向かう。

 道中には数多くの旧豊臣方の浪人たちがたむろしていた。


 彼らの好色な視線を浴びながら通路を進み、裏店屋敷の門前に到着する。

 前回とは違い、金衛門は現れなかった。

 いるのはやはり、門前を警護する浪人たちだけだ。


「ぐへへへへへ」


 そして彼らは、楓の胸や太ももに視線を送って下卑た笑みを浮かべている。

 いつもならまるで気にならないが、今日に限ってはどうしようもないほどに不快感を覚えてしまう。

 それはきっと、平次という実直な男のことを知ってしまったからなのかもしれない。


「道をあけなさい」


 通せん坊をするように立ちふさがる男たちに、楓は顔をしかめながら言った。


「金衛門様にお伝えしなければならないことがあるの」

「まぁ、そんなことよりも大切なことがあるだろう、姉ちゃん」

「そうそう、大切なことがな」


 黄色く変色した歯をむき出しにして浪人たちは続ける。

 歯にはねばついた唾液がまとわりついて、口の端からしたたり落ちていた。


「そのでっかいおっぱいと、尻をもませてくれよ」

「そうだな、口吸いでもいいぜ」

「恋人みてぇにたっぷり舌を絡め合ってな」

「そん時にゃ、尻を滅茶苦茶に揉みしだきてぇぜ」


 聞くに堪えない妄言を口走る男たちに対し、嫌悪感をあらわに楓は応じる。


「ふざけたことを言ってないで、さっさと通しなさい。どかないならその貧相な魔羅を切り落とすわよ」


 その言葉を聞いて、浪人ふたりはしぶしぶ道をあける。


「しっかし、良いケツをしてるぜ」


 通りすがり、男が尻に手を伸ばしてくる。

 が、楓はその手をひねりあげて手首の関節を極めた。


「あでっ、いでででででで!」


 たちまち悲鳴が巻き起こるが、楓は振り返ることなく屋敷の戸を引き開ける。

 片手には、浪人が腰に帯びていた脇差が握られていた。

 どさくさまぎれに引き抜いたのだ。


(やっぱり、つがるの影響なのかしら)


 この亀丸屋の者たちは、どうにも本能に流され気味なところがある。

 日常的に魔薬を吸引していることで、人間性が著しく劣化しているのかもしれない。


(それにしても、この甘ったるい煙……嫌になるわね)


 阿片の煙が充満している裏店屋敷だ。

 長居しすぎれば、楓自身も薬物中毒者になりかねない。

 雲にすら思える濃密な煙を見ながら、そんなことを思う。


「雌犬め! この雌犬どもめ!!」


 相変わらず、屋敷からは大久保の盛った声が聞こえてくる。

 あるいは、頭を狂わされた女たちの嬌声も。


 哀れな犠牲者たち。

 だが、楓には何もすることができない。


 連れ出すことはまず不可能。

 金衛門が利用価値を見出さなくなるまでは、裏店屋敷を出ることはまず叶わないだろう。

 そして彼女たちは、薬を抜いたところでどうにもならないほど――肉体的にも精神的にも壊されてしまっていた。


 手の打ちようは存在しない。

 江戸幕府の役人が保護したとしても、薬抜きでは長く生きられないはずだ。

 間違いなく、薬物中毒の苦悩で自害を選ぶだろうから。


「楓、戻ったのか」


 そして、濃密な阿片の煙の中からヌッとすべての元凶が姿を現した。

 骸骨のような容貌から、地獄の底から響いていると錯覚しそうになる声が放たれる。

 

 楓はその声を聞くと、どうしても恐怖を抱いてしまう。

 自分よりも優れた殺人者を前に、絶対に敵わないと思ってしまうからだ。


「御膳医をしっかり仕留めたのであろうな? まさか、逃げ帰ってきたわけではあるまい?」


 細身でありながら、強大な雰囲気をかもし出す男。

 楓は膝がガクガクと震えだしたのを自覚する。

 自分が抵抗すらできずに捕縛され、女としての尊厳を徹底的に辱められた後で『廃棄』されてしまうという予感があるからだった。


「おぬしほどの手練れが、そうそうしくじることなどあるまい。そうだな?」


 金衛門の奥まったところにある瞳が不気味さを増していく。

 まさしく、喉元に刃を突きつけられているのと同じ恐怖だった。


「どうなったのだ、報告せよ」


 恐怖で息が詰まり、涙がにじんだ。

 先ほど奪った脇差を、すがるように握りしめる。


 だが、決めたのだ。決めてしまったのだ。

 御膳医を殺せないということは、すなわち金衛門を裏切ることと同義である。


 となれば、決定的な対立が生じざるを得ない。

 命の取り合いになることを覚悟しなければならなかった。


「御膳医と、会いました」

「それで?」

「殺せなく、なりました」


 楓は震える声で、しかしはっきりと言う。

 金衛門の瞳が妖しさを増し、明白な害意を宿したのを理解した。


 それでも、楓はありったけの勇気を奮い立たせて老人をにらんだ。

 今にも崩れ落ちそうな身体を必死に押さえつけ、自分の心はまだ死んでいないのだと表明するために。


 だが、金衛門という怪物はそんなことでひるみなどしない。

 彼は地鳴りのするような声で言った。


「つまり、情が移ったということか。これだからおなごは使えんのだ」

「う、移りもします」


 楓は歯を食いしばりながら、うめくように応じる。

 そうでもしないと歯がガチガチと震え、まともに話せそうになかったからだ。


「あの方は無償で、善意でもって弟の身体を見てくれました。食事だって振る舞って下さったのです……彼を殺そうとした私に対してさえも」

「それは懐柔策であろう」


 金衛門はあざけるように言った。


「おぬしを利用しようとしたに違いあるまい」

「いいえ。あの方は他の町民に対しても、同じような姿勢で接していると聞いています」

「下らぬ」


 骸骨老人は吐き捨てるように言った。


「おぬしは黙って儂の言うことだけを聞いておれば良いのだ」


 金衛門の発するまがまがしい雰囲気に気圧される。

 だが、楓ははらわたが煮えくりかえるような憤りを覚えていた。

 お前など使い捨ての駒でしかない――そう言われたも同然だからだ。


「私は、私だって……」

「儂の言うことが聞けぬのか?」


 金衛門が圧倒的な恐怖を放ってくる。

 だが後には引けなかった。ここで逃げるわけにはいかない。

 立ち向かわなければならなかった。たとえ、かなわないと知っていても。


「ならば、別の形で役立たせて(・・・・・)もらおう」


 そう言うやいなや、金衛門は阿片の濃密な煙を巻き上げながら楓に迫る。

 突き出された大きくシワだらけの手。

 それに捕まれたが最後、強烈な力で引き倒されてしまうだろう。


 とてつもない恐怖だった。

 喉を締め上げられ、失神させられるようなことがあれば、その間に何をされるか分かったものではない。


 楓は恐怖を振り払うように抜刀。

 金衛門の腕を断ち切ろうとするかのように繰り出された白刃。

 しかし、骸骨老人は凄まじい身体能力で回避してしまう。


「手練れのくのいちといえど、この程度か」


 刹那、頭の奥で意識がくらむほどの衝撃が走った。

 目の奥でバチンと火花が散る。

 一閃をかいくぐった金衛門が、楓の腹部に強烈な裏拳を叩き込んできたのだ。


「あぐ……っ」


 少女の身体が吹き飛び、土壁に激突する。

 背中に激痛が走り、それを認識すると同時に――とてつもない害意が襲いかかってくるのを知覚した。

 反射的に刀を前に突き出す。

 すると熱い血飛沫が楓の顔を濡らした。


「おぬし」

「ふふっ、ざまぁみなさい」


 金衛門が楓を捕らえようとした魔手。

 その右の手のひらを、楓の突き出した刃が偶然にも貫いていたのだった。


「ただでは済まさんぞ」


 されど金衛門は顔色をまるで変えず、串刺しとなった手のひらを無理矢理引き抜いた。

 楓は追撃に移り、刀を更に突き出していく。

 流石の金衛門といえども、胴を貫かれればただでは済まないだろうから。


「え……」


 だが、地獄の底からやってきたような骸骨男は刺突を容易にかわしてしまう。

 横に回避したのではない。真上に飛び上がったのだ。


「ぐぁ……」


 楓の視界に映ったのは、阿片の煙を巻き上げながら迫る老人の左足。

 そして顔面への強烈な衝撃によって、くのいちは意識を手放してしまうのだった。





「何の騒ぎかと思えば、綺麗なおなごではないか」


 甲高い男の声が聞こえ、楓は目を覚ました。


「それにしても金衛門よ、手は大丈夫なのか?」

「なに、この程度……たいしたことありませんなぁ」


 楓は己の状況を把握する。

 どうやら自分は、両手首に縄を巻かれ、万歳するように縛り上げられていた。

 天井からつるされた縄に結び目が繋がれているようで、身動きをまともに取ることができない。


「くそ……げほっ、けほっ」


 濃密な阿片の煙にむせこみ、楓は激しくせきをする。


 うっすらと開けた瞳。


 そこには大勢の女性にまとわりつかれている肥満漢・大久保内膳の姿があった。

 彼は素っ裸で、みにくくたるんだ身体を揺すりながら、楓にギラギラとした視線を注いでくる。

 その傍らに、金衛門が立っていた。


「き、金衛門がそう言うのであればそうなのだろうなっ! さて……」


 大久保が立ち上がり、楓の頬を撫でる。

 ぞわりと背筋が粟立ち怖気が走る。


「触るなっ! 汚らわしい!!」

「むっ、むほほっ! なかなか滑らかでモチのようにむっちりとした美肌ではないか」


 激しく抵抗するも、すべてが徒労に終わる。

 くるぶしから太ももをツーッと舌で舐めあげられ、あまりの屈辱に、楓は舌を噛みちぎって死にたくなった。


(でも、いま死ぬわけには……)


 自分はまだしなければならないことがある。

 そう自分を奮い立たせながら、楓はおぞましい感覚に耐えた。

 大久保は立ち上がるとまたくのいちの頬を撫で、首に指を這わせて鎖骨へと下ろしていく。


「ず、ずいぶんと大きいではないか。こっ、これでは忍び働きで苦労することも多いであろう。この内膳が凝りを和らげてやろうではないかっ!」


 肥満漢は楓の胸を鷲づかみにしながら、いやらしい笑みを浮かべた。

 楓はありったけの憎しみを込めて言う。


「あんた、旗本よね? 武士としての誇りはないのかしら」

「いっ、いかにも。この内膳は武士としての模範であるぞ」

「馬鹿みたい」


 楓は大久保につばを吐き掛けた。


「何が武士としての模範よ。よっぽどあの御膳医様の方が立派だわ」

「ごっ、御膳医だと……!?」


 途端、肥満漢の顔色が変わる。

 ギリギリと激しく歯ぎしりをして、バシンと楓の頬を張った。


「訂正! 訂正しろっ!! この内膳が、あのウジムシに劣るだとっ!?」


 どうやらこの旗本にとって、触れて欲しくない部分だったらしい。


「この! 内膳がっ! あのような素性の知れぬ輩にっ! 劣るはずが! ないであろうっ!!」

「ぐっ、うぅ……」

「あっ、あの麗しき上様の側に控えるべきはこの内膳ッ! この内膳こそがふさわしいのだッ!!」


 まるでサンドバッグのように殴られ続けながら、楓は理解する。

 やはりこの旗本は、将軍が女だという事実を知っていた。

 つまり、金衛門も知っているとみていい。

 にもかかわらず、亀丸屋は楓たちにその情報を与えていなかったとなれば――


(この気色悪い男に将軍を下げ渡すために、殺して欲しくなかったのかしら)


 ――ということになるだろうか。


(でも、もしかするとこの男も……金衛門にとっては使い捨ての駒でしかないのかもしれない)


 途端、楓は大久保に憐れみの念を抱いた。


「……どうだか」


 ぺっと血の混じった唾を吐き捨てながら楓は言う。


「あの将軍、御膳医に抱かれてよがり泣いていたわよ。真っ昼間から幸せそうな顔をして、全身でしがみついてね」

「な、ななななな、なに……っ!?」


 大久保の顔が蒼白になる。

 それが面白くて仕方がなかった。

 ささやかな反撃が成功したと確信する。


「要するに、あんたの出る幕なんてないってことよ。あの将軍の世界にあんたの存在なんてない、毛ほどもね」


 せいぜい、マスかいて負け犬らしくうなっていればいいのよ。

 楓が毒気たっぷりに言うと、大久保は激高した。


「お前! お前、お前、お前お前お前お前お前ぇッ!!」


 大久保の拳が勢いを増して降りかかる。

 楓はそれを甘受しながら、逆転の時をうかがった。

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